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続マルタ:駆逐艦「榊」の真実

DND事務局の出口です。春一番。気温はぐんぐんあがり、ベランダから臨め ば、神田川から反射する光が目に飛び込んできます。強い風を受けながらまぶし いほどのその水面を見ていると、思いが巡り、時を遡って遠く地中海、その破天 の海で覚悟の任務に就いていた日本海軍、その誇りと勇気‥読者からのメールか ら、マルタについてもう一度、忘れ去られ、封印されたままの歴史の一端をご紹 介します。


迷いに迷いながら筆をとる決意をしたのは、最近のマネー本位の風潮へのアン チであり、刻々と変化する今、この瞬間にも海外の危険地帯で体を張っている日 本人がいるという事実を見失ってはいけないと自戒したからかもしれません。そ して、迷ったのは、なかなかこの辺のストーリーは、戦争賛美との誤解をも受け やすいからです。しかし、事実なら、これは聞き捨てならない多くの教訓を突き つけているように思います。


「マルタの風」のメルマガ配信の翌日、神奈川県在住で民間企業の部長職にあ るTさんから以下のような意見が寄せられました。マルタ島・カルカーラの英国 軍墓地にある日本海軍の慰霊碑の建立の背景についての異論でした。


「貴メルマガを興味深く読ませていただきました。ありがとうございます」と 前置きして、メルマガの本文中の、「第1次世界大戦では、イギリスと同盟関係 にあったことから1917年に駆逐艦『榊(さかき)』が潜水艦の攻撃を受けて大 破し59人が戦死していました」との記述に対して、それは、「いささか不正確 です」と指摘し、 次のような解説をしていただきました。


「日本には、当初地上軍の派兵が要請されましたが、国内に反対が強く、機雷 の掃海と民間船の護衛のみを行うことでヨーロッパ戦線に参戦いたしました。駆 逐艦榊は、英国の民間客船護衛中にドイツ海軍の潜水艦から発射された魚雷を見 つけましたが、魚雷がすでにその民間客船に近すぎて連絡しても魚雷を避けるこ とが不可能と判断、自らの船体を魚雷の進行経路に進め、その魚雷を防ぎ、その 客船を守りました。榊が潜水艦の攻撃を受けたのではありません」という内容で した。


「自らの船体を魚雷の進行経路に進め、魚雷を防ぎ‥」というから、「榊」の船 長以下59人の兵士は、英国の客船の安全を守るため、自らを犠牲にし、盾にした 覚悟の死であったという事になります。「潜水艦の攻撃で大破して戦死した」と いう記述では到底おさまりがつきません。その結果は同じでもその意味するとこ ろは、別格です。こういう史実が、なぜ、後世に伝わらないのでしょうか?


Tさんは、魚雷を発見してから沈没するまで、彼らの心に去来したのは、家族、 故郷‥だったに違いないと思いを馳せ、敵軍の潜水艦の将兵たちも日本軍のその 行動に、畏敬の思いで礼をとっていたのではないか、と推察していました。日本 兵の誉れ高き任務、その滅私の精神は、やがてマルタの島民の心を打ったという こともありますが、平素から日本軍兵士たちが謙虚で礼儀正しい態度で島民に接 していたため、マルタ人から大変敬愛され、彼らの墓にはマルタ人からの献花が 絶えないと聞きました‐と、続けていました。


地中海の守り神‐第一次世界大戦中(1914年から1918年)における地中海への日 本艦隊の派遣は、日英同盟(1902年)に加え、欧米で吹き荒れた「黄色人種排斥」 への政治的判断が働いていたようですが、その活躍は、約1年半の間に実働348回、 英国を中心とした連合国(26ケ国)船舶788隻の護衛、延べ護送人員は75万人に 及び、ドイツ潜水艦との戦闘は30数回、敵軍数隻を撃沈した‐という。出色は、 駆逐艦の「榊」と「松」の2隻が、大正6年5月3日、英商船「トランシルバニア 号」が攻撃を受けた際に、敵の潜水艦の目前で乗員3000人余り(一説には1800人) を救助し、後に英国王ジョージ5世から勲章を授与されるほどで、「地中海の守 り神」と称されていたのは、良く知られているところです。


その翌月の6月11日、クレタ島付近で「榊」の乗員は、その壮絶な死を遂げてい たわけです。艦長は、上原太一中佐(海兵31期)でした。ドイツの魚雷、あるいは オーストリアの魚雷との記述もあり、判然としません。


しかし、駆逐艦といっても700トン足らずで、魔の海と化していた地中海域は、 見えない敵に神経をすり減らし、荒波の甲板は装備品の流出、海水の浸入など過 酷を極めていたようです。母方の祖父は、同時期の海軍兵曹長でした。本家のあ る北海道小樽の叔父に尋ねると、「ずっと横須賀勤務だったようだよ」との返事 でした。「榊」の子孫の人たちは、どのような矜持を引き継いでいらっしゃるの だろうか、と感じてしまいました。


冬のマルタ。正確には雨季にあたった今回のマルタ研修では、フェリーで20分、 マルタ島の西端、チェルケアの港からマルタ島からゴゾ島へ渡る予定が組まれて いました。海は荒れ狂い、強風が吹きつけて、大型のフェリーは早々に欠航して いました。出された案は2つ、ボートをチャーターして行く、ゴゾ島行を断念し 新たにホテルをチャージする‐結論は、ボートをチャーターしての強行策でした。


夕刻18時。待つこと1時間、街灯のない漆黒の港には、私たち23人の他に、い つの間にか100人近い乗船希望のマルタ人、旅行者らが入り乱れて押し寄せてい ました。このボートを逃すと、もう同夜中のゴゾ島行きは絶たれてしまう。ボー トの定員は40人と聞かされていました。遠くから船の明かりが見えました。途端 に、岸壁にどどっと人の波が動き、われ先を競うような緊迫感が漂っていました。 ボートが迂回して右の腹側を接岸しようとするのですが、船が前に後ろに動き、 岸に上下しながら近づいてはまた離れていく‐を繰り返し、不安定で、危険な状 態にあるなかでの、押し合いへし合いの混乱でした。一人や二人が海に投げ出さ れても不思議ではなかったかもしれません。日本人の中には、80歳近い高齢者が 数人含まれていました。


が、私たち一行が一人ずつ、大勢の見守る中で、ボートから手を引かれ岸の方 から知らぬ人らに支えられながら、全員が前後して乗り込むことができたのは、 余りに夢中でしたから、「奇跡」と信じていたら、あの混乱の最中に、船長がマ ルタ語で「このボートは、23人の日本人を優先して乗せるから、彼らが乗り終 わるまで、乗らないように!」と必死に繰り返し叫んでくれたためで、数日後、 ガイドの柳井純子さんが、当時そこに居合わせたマルタ人のバスの運転手から聞 いたそうです。


マルタの多くの人たちに息づいている日本人への確かなシンパシーは、地中海 に眠る日本海軍兵士らにその淵源を見たような気がします。


Tさんに、その史実の出典をお聞きしたら、「どの本で読んだか覚えておりま せん。数年前、マルタを訪れた知人に現地で事実かどうかの確認を依頼しました ら、確かに事実でした‐との返事をいただいた」という。「榊」の真実は、のち のちの課題としますが、Tさんから、是非、映画「榊」を実現し、そしてベネティ ア映画祭に出品すれば、大きな感動につながる、あるいは、マルタ映画祭を両国 の親善のために行うのも意義がある‐と提案されていました。


「榊」の真実については、「榊」とは駆逐艦の名前はないものの、それらしい記述 が「新しい歴史教科書」に書かれているようです。が、それに対して、「まさに美 談ではあるが、残念ながら真実ではない。榊という駆逐艦はあるが、盾にもなっ ていなければ、撃沈されてもいない」との真正面から反論する声もあります。し かし、だからといって地中海域での当時の奮闘がすべて否定される訳でもありま せん。


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