DNDメディア局の出口です。いざという時、自分の事はさておいて見ず知らずの人でも困っていれば、ひとまず声をかけてあげる。その心の底流に尊い慈しみが見てとれます。その表情やかすかな口の動きを見逃さない。心の痛みを手のひらで、そっとすくいあげるように、滅失した悲しみをやさしく包み込んでいるように思えた。
震災後の最初のメルマガで「東北人の憂いの中の優しさ」って、それが本当の人間の強さと思う、と書いた。実際、飾らないし気取りもなかった。知らないところでたくさん、泣くことだってあるはずだ。が、人前で涙をこらえていたかもしれない。ほんの少し、その辺の事情が見えた。なんともそこのところが抱きしめたいくらい切ない。その先々で知り合った人々とのふれあいを思い浮かべると、あらあら、不覚にも熱いものが込み上げてとまりません。
東北の三陸海岸を歩いた4泊5日の被災現場からの報告、その余話です。私の旅はまだ終わらない。夢の続きをお読みください。
□ □ □
とっぷり日が落ちてやっと釜石市両石町女遊部(おなすっぺ)という集落の佐々木雪雄さん(62)宅に着いたのは夜7時半を回っていた。東京から新幹線で盛岡駅へ。すぐその足で宮古道路を東に、宮古湾の被災現場などを取材しながら、順々に三陸海岸沿いを南下してきた。盛岡から車で走ることざっと9時間余り経っていた。下閉伊郡山田町、大槌町など被災現場の凄惨な光景がまぶたに焼き付いたままでした。気持ちが揺らぐ。その辺の様子は、DNDサイト※で紹介した。
希望のシンボルとなれ、ポプラ。負けませんでした。八風に侵されず、見てください、この堂々たる勇姿。バレリーナ
のようなシルエットが美しい。しばし見惚れていたら、熱いものがこみ上げてファインダーが曇った…。=三陸町で。
宮古から南下し、最初の訪問が下閉伊郡山田町、
津波に大火が襲い町は焦土と化した=駅前の欅は無残。
佐々木さんの家は、道路沿いのこれといった風景のない集落の外れにひっそり1軒だけ電気が灯っていた。佐々木さん夫妻とは、初めてお会いした。ここで2泊3日、何からなにまでお世話になります。これからどんなストーリーが待っているのか、そんなことを考える間もなくスーッと佐々木家にうちとけていきました。
私ときたら無造作なシャツにジーンズ姿、首に黄色いマフラーをまいて長靴をはいていた。どうも都会ずれしている。それで少し安心されたかもしれない。雪雄さんとさか子さんは連れ添って、玄関先の路上に出て立って待っていてくれた。今か今かと心配させたかもしれないさ。夕方6時すぎの予定をかなりオーバーしたのだから。
部屋の窓から漏れる明かりが、見事に咲き誇った庭の芝桜を鮮やかに浮き上がらせていた。芝桜は佐々木さん夫妻に似合う、と思った。
「いやあ、どうもどうも、すぐわかったかい?」
「たいへんだったでしょう、まあ、まあ〜」。
「上がってけれ、お風呂ありますよ」。
「連れの人もよかったら、どうですか、上がってくださいな」。
「運転手さんも泊まっていきませんか」。
「さあ、どうぞ、荷物持ちますか」。
「まあ、まあ、遠いところようこそ、お出でくださいました」
「たいへんだったでしょう、疲れていませんか」
「いや、いや、こんなところですけれど…」。
可憐で小柄な奥様と、おおらかで太っ腹な印象の旦那、どうみてもその外見は、失礼ながら美女と野獣の趣なのだが、その愛すべき野獣がこの回の主人公です。お二人は人がうらやむほど仲睦まじいことを知るのにそんなに時間はかかりませんでした。
雪雄さん自慢の畑で採れた行者ニンニク,
この苗を自宅に持ち帰って植えた。刻んでしょう油漬け。
その夜、佐々木さん宅のコタツのある茶の間で、運転の労をとってくれたEM岩手の外山一則さん(35)も途中から加わってごちそうになりました。大変なもてなしでした。珍しいもみじ傘、別名シドケ、芯が柔らかい山菜です。畑で育てたエシャロット、みそとマヨネーズ、それにしょう油を少々、エシャロットの茎をもってしょう油を混ぜながら味を調えるのだ、と雪雄さんが解説します。山菜が豊富だ。極めつけは、行者にんにくの葉を刻んだしょうゆ漬け、これがなんとも酒飲みにはたまらない。お刺身に焼肉まで用意されていた。驚いたのは〜。
「いやあ、ね、娘がネットで出口さんという人物がどんな人か調べたら、カニ、トウモロコシが好きとあったというから、トウモロコシはまだないのでカニをね、毛ガニが偶然、手に入ったのでよかった」。
雪雄さんは、誇らし気だ。
「いやあ、うれしいなあ、カニなんて滅多にありつけないのにいいんですか、申し訳ないですねぇ」と恐縮すると、「ヘェヘェ〜いやねぇ、娘が出口さんの好物を見つけたもんでぇ〜」としきりに埼玉・八潮市にいる次女、奈々さんのことを話題にしながら、雪雄さんは笑みを浮かべていました。埼玉の兄に聞いたら酒は焼酎、それもイモ焼酎じゃないといけない、というので用意してありますよ、と、これまたうれしそうなのだ。人に何か喜んでもらうことを生きがいにしているように思えた。かたじけない。
縁があってそれこそ、40年の長きおつきあいの
岡田正さん、奈美子さん夫妻= 日光東照宮の社務所前で
雪雄さんがいみじくも口にした越谷の兄とは、私が貧しい学生のころからの40年もの付き合いがある、埼玉・越谷市で材木業を営む岡田正さん(61)をさします。岡田さんの奥さま、奈美子さんが、佐々木さんの奥様、さか子さん(59)の実姉というつながりでした。東北に縁が薄い私にとって、頼りとなるほんのかすかな一本の糸、それをなんとか手繰り寄せていま、こうしてその恩恵にあずかっている。東北の被災地を回りたい、とプランを練ったがそのネックが宿の問題でした。岡田さんに電話で相談すると、聞いてあげる。いつも出口さんの話をしているから、大丈夫、と戸惑いを見せませんでした。
岡田さんからの電話で、大学の先生が泊まる、と聞いて今度は佐々木さんが慌てた。背広着なくてはなんねぇでないか、と。
飲むほどに打ち解けて、人なつっこい性格の私はすぐに雪雄さんを兄さんと、奥様を姉さんと呼んでなれなれしい。その姉さんが外山さんの食事の世話を終え、お土産を持たして見送ったら、今度は一所懸命毛ガニをさばいて私の皿に次から次へと盛ってくれる。手を休めない人だ。
「いやあ、姉さん、もう十分ですよ。ずいぶん頂いたから。これ以上食べるとねぇ、夜中にまっすぐ歩けなくなります〜」
「カニで酔うのですか?」
「いやいや、横歩きになってしまうかもしれないのよ」
「あっはっは、カニだけにね」
冗談がはじけて笑った、笑った。飲んだ、飲んだ。若いころ二枚目だった雪雄さんは、"石浜"浩二とか、"石浜"裕次郎とか、呼ばれた。浜は、浜ちゃんの浜、釣りバカ日誌の浜ちゃんに、にていなくはない。釣りは趣味で、釣竿が玄関に50本ほど立てかけてあった。いまはどちらかという二・五枚目、それにしても楽しい。そして話題に震災当日の様子を語らないわけにはいかない。しばらくして沈黙が流れた…。
「ねぇ、悲しいもんで、ヘロヘロと腰曲げでさあ、瓦礫の中で家族を探し歩く姿があった。戦争ってこんな状態かもしれない。遺体をそばでみながら…酷いもんだ。恐怖で涙もでねぇさ。家も失い、身内がどこにいったかわからない。ともかく一生懸命探すのさ〜」
こんな状況で、どこを探すのさ?
「いやあ、あてがあるわけじゃない。海に流されているかもしれない。瓦礫に埋まっているかもしれない。避難所へいっているかもしれない。みつかんない、と。助かっているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。わからねぇと、電話もない、と」、
じっとしていられないということですか?
「そう、そうよ。あてなんか、ないさ。何がなんでも探さねばなんねぇと思うべさや、居ても立ってもいられね。そんな心境なのさ。そこを夢遊病者のようにただ身内を探し回ってんのさ。子供もいたさあ」。
子供って、子供が親を探すのかい?
幸いうちは被害がなくこの女遊部町内会の会長だし、民生委員だから3月12日から炊き出しに追われててんてこ舞いでした。
あれはそんな日の午後でした。
玄関先にいたら、見知らぬお兄ちゃんが妹と2人でふらふらしながら近づいてきて、お兄ちゃんが「すみません、お水ください」っていう。道路沿いなので、みんな来るのよ。でも子供は初めてでした。さか子さんが思い出しながら語ってくれた。
ジーパンにスニーカー姿で、目は真っ赤で相当疲れているようだった。
「どうぞ、入って」と台所に案内したら、コップでそれぞれ水を一杯飲んだ。ゴクゴクと喉を鳴らした。よほど喉が渇いていたようだ。町の水道が断水し、水は手に入りにくかった。佐々木さん宅だって貴重な水だった。町内の簡易水道でそれもタンクが底をついたら、もう水はない。そんな状況だが、せめてと思って妹が手にしていた小さなペットボトルに水を入れて持たせてあげた。そして、玄関先で。
「お腹すいているんじゃないですか?」
「いえ、いいですよ」
「でも持って行って〜」
姉さんは、そう言って自分たち夫婦の分と、たまたま被災当日から行き場がなく泊り込んでいる気仙沼の女性(26)の分として手元においてあった中からおにぎりを持たせた。兄と妹は、静かにおにぎりを受け取った。押し黙ったままだが、目が、少し輝いた。
「どこまでいくの?」
「釜石の方、お父さん探しに…」
「お母さんは?」
「大槌の方…」
「たいへん、ねぇ、なにか、あてがあるのかい?」
「……」
お兄ちゃんは釜石高校の生徒、妹は地元の中学生だという。父親は釜石市内に、母親は大槌町にそれぞれ働きに出ていた。震災で危うく難を逃れた高校生は、家に妹と二人残された。両親の安否がわからない。道は遮断、電気は消え、水も止まった。寒い中、暖房もない。ともかく親を探す。その思いだけだ。父を探しに釜石市内を歩いた。今度は、母親を探しに下閉伊郡の大槌町に行くという。妹の手を取って声をかけながら釜石市内を回った。もしかして、と避難所にも行った。会社の近くへも行ったが、瓦礫の山で道がふさがっていた。あてはない。外は寒い。しかし、じっとしていられないらしい。陽が落ちかけると、心細い。東北の人とて、悲しい時に泣いてもいい。子供なら大声でお母さんって叫びたいに違いない。
その次の日、13日の午前中にも姿を見せた。お兄ちゃんが、今度は一人でトボトボ歩いてきた。また「お水ください」と言った。同じようにコップで水を飲まし、ペットボトルに水を入れてあげた。今度は、母親を探すために、火災で街の大半を失った大槌町まで歩いて行くという。歩くたって半日はかかる。その被害状況の全容はまだ伝えられていない。そのやりとりをみかねた雪雄さんが、避難所の作業の手を止めて、
津波で河口が海となり、それまで砂の浜辺が消えて
岩が突如、姿を現した=片岸付近
「道が、どこまで通れるかわかんないけど、どこまでいげれるか、わかんねぇけどが、まず乗れ!」
雪雄さんが、その高校生を乗せてクルマを走らせた。両石町から大槌町まで北に直線で10キロはある。しかし、釜石市両石町の海岸付近はやはり津波にやられていた。道路も旧国道45号は通行止め、かろうじて3月上旬に開通した三陸縦貫道の釜石両石付近から途中の片岸まで道が通じていた。しかし、そこまでしか走れない。やはり津波で地形が変わるほど壊滅的な影響を受けた鵜住居地区だ。流された家や流木、ぺしゃんこの車などの瓦礫で前に進めない。高校生のお兄ちゃんをそこで降ろすしか手がない。
雪雄さんは急いでとんぼ返りして近くの公民館での炊き出しやら、釜石市の対策本部に足を運んで窮状を訴えた。県の振興局から毛布、米、カップラーメンなどの支援物資の要請に動いていた。避難所代わりになった近くの公民館には、被災した近隣住民が日増しに膨れ上がった。ピーク時には300人ほど世話をした。
自宅から、空気を抜いてビニール袋に畳んだ布団や毛布など20組を公民館に持ち込んで提供した。だるまストーブにマキを燃やしてご飯を炊いた。さか子さんは、何回も何回も炊いた。ご飯の炊き出し、塩をぬったおにぎりを手がしびれるくらい握り続けた。親類の越谷の岡田さんから震災前に届いた米60キロがあっという間に底をついた。自分たちの食べるコメもなくなった。
やや酒の勢いも借りて、雪雄さんは、声を荒げる場面が、たった一度あった。どうしたらいいのか、それは私自身の疑問と重なった。
「どうせ、明日、案内しますが、この先の両石町の入り江の湾、鵜住居地区、それに大槌町と接する根浜地区に行ったら、びっくりしますよ。驚かないでくださいね。いやあ、あの日は、後ろから波が追ってきた。波がどんどんきて、走れ走れって、逃げ切った人がいた。45号線は高いから、上にあがった。車がぷかぷか船みたいに浮かんで流れていた」
「ふだん、よくわけもわからないくせに、何気に地獄っていう言葉さ使うげどさ、あれねぇ、そこにいた人間しかわかんねぇ、遺体も凄い状態だ。ほんとうに地獄絵図っていうのはこのことだと思った」
「しかしさ、こういうね、実際のこの現実を見てね、本当に宗教なんてなりたつのかなあと、ねぇ、先生、宗教なんてあるの、神様や仏様ってあんの?と、教えてくださいよ。祈れば、幸せになれる、世界が平和になる、というじゃありませんか。この現実をどう説明するのですか、ねぇ。戦後、一所懸命がんばってきた。田舎は田舎なりにがんばってきたのじゃないのですか。」
「わたしは(さか子さん)、毎日、それでも拝んでますよ」
何気ない雪雄さんの質問が、実に重く胸に突き刺さった。ひと言もないじゃありませんか。私は、うなずくしかなくその答えがみつかりませんでした。
雪雄さんから改めてその当日の様子を聞いた。
3・11午後2時46分、その激しい揺れの後、防災無線が繰り返し津波警報を知らせた。雪雄さんは、民生委員として独り住まいの高齢の女性宅にクルマを走らせた。が、家に女性の姿はなかった。ラジオは、4.1m規模の津波がくることを伝えていた。気象庁の予報がよく外れるから、今度もぴちゃぴちゃで終わるのではないか、と甘くとらえて海が見える高台にクルマを向けた。
「両石湾の南側の防潮堤を見下ろす、水海(みずうみ)トンネル入り口の崖上に立ってねぇ、すると、津波が凄い勢いで堤防を越え、あららって、次から次と堤防の外に怒涛のごとく流れ込んでいったのさ。第2波が凄かった。川沿いの岩場なんか削られた。アッという間にパチンコ店や競馬の馬券売り場の大きな建物を襲った。ラジオは今後、高さ10mもの第2波がくる、と警告していたのよ。その通りになった。ラジオを聴いていた女房が教えてくれた。それで車に戻り、引き返そうとしたら電信柱とトンネルの街灯が一緒に倒れて危うく押しつぶされそうになった。見ると、波が引き戻されていく。が、堤防があだになって堤防はダムの状態で満々と水をためたままだった」
4.1mの津波でこうなのだから、10mの津波が襲ったらひとたまりもない。水海トンネル付近には、宮古方面、大槌方向に北上するクルマ5、6台がその場で立ち往生していた。行くにいけない。戻るに戻れない。孤立していた。が、津波第1波が引いていくなかで冠水した道路が姿を現し始めた。その機を雪雄さんは逃さなかった。もともと勘がいい。いざ、という時の動きは機敏で、早期退職でやめるまで務めた親子2代の新日鉄釜石の現場で培ったものなのかもしれない。熱い魂が、ここで生きた。
周辺のクルマの運転手に、迷わず叫んだ。
「おれのクルマについてこい。いましかないぞ、まず、ついてこいって!」
路上でうろたえる運転手を励ましながら、道を選んで先を急いだ。途中、なんども行き止まりUターンを余儀なくされた。釜石方面へも行き止まりだし、北上もままならない。後でわかったが、北は、下閉伊郡の大槌町、その後3日3晩火の海となっていた。消防車が動けない。火事現場についても水が出ない。ライフラインが地震で破壊されていた。火災は、隣の山田町でも広がった。最初、石油ストーブで町のたった2軒から火の手が上がり、それが流れでたガソリンが引火し、津波の上を猛烈に火が走った、との証言を山田町立南小学校の教員から聞いた。
余談だが、高台にある山田町立南小から、教員が携帯カメラでその二つの火の手が上がるのを写していた。時間は、午後5時35分と表示されていた。ここも地震、津波、そして火災と悲劇的な犠牲を生んだ。津波によって街は水であふれているのに大火災が起きる。油が海の上を走る。それに引火した。爆発も起きた。火災は、気仙沼の港町でも連日燃え、街を焼き尽くした。対岸の大島は4日4晩火柱が消えなかった。信じられないことがあちこちでおきていた。現場は、もう2ケ月というのに焦土と化して異様な臭いが立ち込めていた。
雪雄さんは、行き場を失った彼らを自宅に連れて行った。それでなくてもしんどい状況なのに彼ら、彼女、通りがかりの21人全員を家に泊めた。コタツの板を外し、敷布団を敷いた。電気がない。ストーブもヒータも役に立たない。2階の押し入れから防寒着を出して配った。冷蔵庫からあるものを出して飯を食わした。得意のアウトドアがここでも生きた。寝袋や懐中電灯などを引っ張り出した。佐々木夫妻の奮闘は、こんな感じで始まった。
翌日から三々五々、独り去り二人去りして最後に宮城県気仙沼出身の26歳の女性が残り、彼女は都合一週間余り泊った。彼女は、宮古市内の病院に勤務しているが、たまたま実家の気仙沼に里帰りしてその日午後、勤め先の宮古に帰る途中に津波に遭遇した。後日、彼女の両親が律儀に御礼にきた。
「いろいろ娘がお世話になりました。助かりました」
「いえいえ、お互い様のことですから」
こんなことがあった。炊き出しの公民館にきていた独り住まいのお年寄りの女性が、姿が見えないから心配して家に訪ねたら、死んでいた。警察に届けると、「いま忙しい」と言われた。が、すぐに詫びた。警察官もきりきり舞いだった。遺体が引き取られて火葬されたのは4月1日だった。同じ町内会なので釜石市中妻町の葬祭場に線香を上げに行ったら真新しい棺がたくさん並んでいた。
いやあ、それにしても無事、被災を免れたとはいえ、雪雄さん夫妻の活躍ぶりは、涙ぐましい。被災者には義援金や支援があるが、そのエリアで運よく被災しなかった、とはいえ、生活の苦労は被災者と変わらない。逆に、家のものを全部持ち出して被災者の救済に立ち上がっても、行政担当の目に触れることは少ない。ここはなんとか、改善しようよ、ね。
再び、雪雄さん夫妻。3月13日午前に高校生を送って再び、公民館での炊き出しやら、食糧の確保やらに追われていると、午後になって今度はそこに長男、俊さん(34)、嫁の綾さん(32)が市内の定内町から歩いて訪ねてきた。
電話も通じないから、親父が生きているのか死んでいるのか、わからない。心配になってきた、という。路上で、生きていることが確認できたら、人目はばからず抱き合って涙を流すだろう、と俊さん夫妻は、手に水のタンクを持参しながらそう思い描いてきたのだ。
が、その親父は、いつも以上に元気だった。息子夫婦をみつけると、親子が抱き合う感動のシーンは、淡く消えた。
「しゅん、おおっ!ちょうどよかった。おめぇ、いいところにきた公民館さ、これを届けろ〜」
「なんだよ、おやじ、それはいいけど心配したんだぞ、こっちの身にもなってくれよ」
「そうか、そうか。わかった。わかったさ。その話はあとにしてけれ、悪ぃけど手が離せねぇ」
そんなやり取りをしながら、一見、不愛想に見えながら、この親子の目にはうっすら光るものがにじんでいた。さか子さんは、それを見逃しませんでした。そしてさか子さんご自身は、嫁と手を取りながら泣いて、笑った。
その深夜、息子夫婦、気仙沼の女性、一緒にやはりコタツの部屋で川の字になって横になっていたら、IBC(岩手放送)のラジオから、安否情報が流れてきた。
「ササキユキオ、ササキサカコ、ササキシュン、ササキアヤ…」
「一瞬、どっか似たような名前があるもんだ、と思ったさ。しばらく、その安否情報がわしらの家族の事と気付かなかった。以上の方、タクイシミユキさんまでご連絡ください、というところで、えっ!長女の美由紀だ。てっきり一家みんな死んでいるのじゃないか、と思っていたみたいだ」
いまでこそ笑えるが、連絡がつかないし、実家の両石町は海岸付近の家々が全部流された。堤防が決壊し、津波は山を駆け上がった痕跡が生々しい。雪雄さん家のすぐ1キロにもない至近にまで津波が押し寄せていた。100人近く流されて、いまだ50人以上の行方が分からない。そのため、岩手県八幡平に嫁いだ長女の宅石美由紀さん(39)がラジオ局に両親の安否情報を流していた。
このころ、携帯も家の電話も通じない事態に、多くの人々が心配した。私たちが住む越谷でも家族ぐるみの付き合いの岡田さんに、私から岩手の奥さんのご実家や親せきはどうでしたか、と心配の電話を入れていた。
「いやあ、出口さん、ぜんぜん連絡が取れない。心配している」という返事でした。その後、岡田さんから私にも釜石の佐々木さんらが無事だったことが伝えられた。
雪雄さんの長男の嫁のツテで翌日14日に、八幡平の長女宅に無事確認の連絡が届いた。八幡平から埼玉・八潮の次女、そして越谷の岡田さん、埼玉・川口の親類などへ伝言がリレーされた。
「みんな涙を流してくれた。うれしがった。それを聞いて泣けたさ。我々が思っているより心配してくれていたことを知った。連絡を取りたいけれど取れないし、それと町会長としてこの地を守らないとならないわけだからね。姉、兄弟、親類、それに家族、本当にその絆の大切さを改めて認識させられた。人間、独りじゃないのよねぇ。大震災は、不幸で恐ろしい悪夢のようなものだが、絆、つながり、それが近隣住民を含めて一層深くなった気がする」
釜石2泊の滞在は、収穫が大きかった。得難い体験でした。短いスケジュールをテキパキこなした。こちらは、知人で新日鉄出身、釜石ラグビーの監督を務めた北澤仁さんのお蔭でした。5月11日は、午前中に新日鉄釜石製鐵所を訪問し、釜石シーウェイブスのGM、高橋善幸氏に面会、総務部長の内田勇人さんとの取材もかなった。続いて野田武則市長と実のあるインタビューができた。インタビューは後日、そのやり取りを採録します。
午後一番には、北澤さんの友人で案内役と調整を頼んだ釜石市芸術文化協会会長の岩切潤さんの、そこはやはり口利きで、岩手県水産技術センター所長の井ノ口伸幸さんと岩手県の水産の今後の復興プランについて意見を交わした。北海道の美唄市出身で北大卒、同郷と聞いて親近感を抱いた。
さて、時間が迫ってきた。岩切さんとはそこで別れ、雪雄さんと私は、釜石港の岸壁を急いだ。
あれから2ケ月ちょうどの午後2時46分、街にサイレンが響いた。私が黙とうと海に向かって叫んだのを合図に、雪雄さんが目を閉じた。私も鎮魂の祈りをささげた。祈りながら、なぜ、どうしてこんな惨いことが起きるのか、そのわけを教えてください、なぜなのか、と心に問うた。雪雄さんからも鋭い質問があった。その答えが見つからないうちは、私の心の旅は終わらないかもしれない。
夕刻、さすがに疲労困憊した。雪雄さんの家に戻り、すぐに風呂に入った。そのまま少し休もうかと思ったら、コタツの部屋に夕食の用意が整っていた。やはり佐々木さんのご自宅で栽培した野菜、山菜類が食卓に季節の彩りを与えていました。翌朝は、再び壊滅の鵜住居地区、警報を聞いて逃げ込んだ近隣住民200人余りのうち160人が津波に流された防災センターに出向いた。そして地形を変えた根浜海岸、根浜地区、蓬莱館などを訪ねて取材を重ねた。
楽しみは、佐々木さんご自慢の菜園、そこに案内されました。ブルーベリーの木々、棚は、キウイフルーツ。いいなあ、うらやましい。いいなあ、いいなあ、新緑がまぶしい。雪雄さんとさか子さんは、お昼の弁当を持ってここにやってくる、という。ピクニックみたいじゃないの。まるで初恋物語みたいだ、と言ったら、うれしそうに兄さんが声をあげて笑った。
佐々木さんの畑からスグリ、行者ニンニク、
エシャロットなどをもらった。うれしそうでしょう。
のどかで平凡だ。ここに何か人目をひくものなんかない。が、この暮らしの中に素朴で失われたものをもっている大勢の人が息づいていることを知った。畑で栽培したウドをたくさんもらった。根の付いた行者にんにく、それにエシャロットを土産用に新聞紙にくるんでもらった。ついでにグミの苗木、それに北海道ではグスベリというこちらではスグリ、この苗木もいただいた。
家に戻って私の庭にさっそく植えた。そうすると、なんだか雪雄さん夫妻と我が家がつながったような気になって、これまたうれしい気分になった。今、水を吸って青々している。元気になるようにEM液をたっぷりまいた。
その最後の日の朝、ご飯を食べていると、雪雄さんが奇妙なことを言う。
「深夜ね、ミミズクが鳴いたのよ。オットントン、オットントン、オットントンってしばらく鳴いていたんだ。夢かと思った。外に出てみたら、鳴き声が大きく聞こえた。家のすぐ裏手に来ていたみたいだ」
雪雄さんによると、ミミズクの鳴き声を聞いたのはこれが生涯で2度目だった。最初は、あれは平成9年の3月、喉頭がんで手術をしないといけない父親、勇三郎さんが病院から一時外泊許可をもらって2泊した時のことだった。
「キャンプにもう一度行ってミミズクの声を聞きてぇもんだ、と冗談半分で言っていたら、父が家に戻ったその夜、オットントン、オットントン、オットントンって鳴いてくれたのさ。親父が涙を流していた。いやあ、あの声を聞くと、キャンプ場に行った気になって心が落ち着いてきた、と言ったのさ」。
ミミズクの声をきいて安心したのか、あんなに嫌がっていた手術をあっさり決断した。手術で声は失ったが、それから6年間生きた。亡くなったのは平成15年4月16日、81歳でした。脳梗塞で倒れた母親のキクさんは、認知症が進行していた。父が逝った2年半後に後を追うように平成17年10月20日に逝った。父と同じ年齢だった。自宅介護で、両親の世話を続けたさか子さんは認知症のキクさんを一人にさせられないから、父親の病院にいくのにもキクさんと一緒だった。深夜の徘徊、目を離せない心労が長引いた。見かねた雪雄さんは、50歳過ぎに会社に早期退職の申し出をした。一緒に両親の介護に専念していた。いやあ、大変でしたね。以来、その後遺症で首や腰を痛め、さか子さんの体調はいまだにすぐれない。それでも愚痴ひとつ口にしない。震災の対応は、まさに夫婦一体となった不眠不休の闘争でした。命がけだった。それをお互い様です、と言い切るのですから。
さて、話をミミズクに戻しましょう。平成9年3月の一時退院以来、一度も現れなかったミミズクが偶然、昨日夜、飛んで来た。そして忘れかけていた鳴き声を聞かせてくれた。
なんなのですかねぇ、と聞いた。
「あんまり出口さんと楽しくやっているので、あれかなあ、オヤジがミミズクに扮してここの様子を見に来たのかもしれないなあ、不思議なことがあるもんだねぇ」。
玄関に出て、改めて庭を見ると、芝桜が一面、色を増してきた。この花は、花好きのキクさんが、隣の敷地に植えていたものの一部を玄関先の庭に移植した。3年前の事でしたが、今年が一番きれいだという。
芝桜は、花言葉が忍耐、そして夫婦愛、佐々木ご夫妻にふさわしいじゃないの?
「いやねぇ、花は赤、白、薄紫、ピンクと色とりどりだが、花の下の茎はそれぞれ一本ずつ巧みに絡んでつながっているのですね。だから小さな花だけど、それが集まって強くなる。雪の下にも耐えられる。雪の下でも咲く。私たちも、芝桜のようにひとりひとりの絆を大切にしよう、ということを教えているのじゃないですかねぇ〜まず。」
兄さんの数多いセリフの中で、いまの言葉がとっても素晴らしい。雪の下で咲く、っていいじゃないですか。雪雄さんのセリフらしい、と言ったらすっごく照れながら、ホントですか先生、いや、はははっ、と笑顔がはじけていました。
□ □ □
どうでしたか。雪雄さん、さか子さん夫婦って、いいですよね。自分で、この原稿を書きながら、なんどもメガネが曇った。
さて、ここにでは触れませんでしたが、被災現場には、こまめに足を運びました。何回も何回も歩いて回った。取材記者時代に習った現場百回の教訓です。すれ違う人から話を聞いた。夢中で、その瓦礫に踏み込んでいくと、残されたアルバムや縫いぐるみを目にした。私がどんどん先に歩いていくから、雪雄さんは、それを目で追いながらじっと待った。ある時は先回りしてくれた。私がいつしか、ぼろぼろと涙が止まらなくなったのは、泥にまみれたアルバムや縫いぐるみのせいじゃなかった。愚直で、一途で、誰がみていなくても相手がだれであろうと、ご自身だってしんどいのに、奥さんだって病院通いの身なのに、それでも他人に声をかけて相手の痛みを心に刻む。人の辛さをしょい込んでしまう。雪雄さん、さか子さん夫妻の、なんというか悲しいまでの人の好さに心が揺さぶられ続けていたのかもしれません。
夫妻は、私の次の取材先、気仙沼までの途中、私の取材がよりよくなるために労をいとわずむしろ進んで、三陸町越喜来湾、大船渡市、陸前高田市、高田松原の空前絶後の被災現場を見せて回ってくれました。車中、おいしい自家製の梅の入ったおにぎりとシャケのおにぎりを用意してくれた。もっと食べな、まだあるから、これ出口さんの分よ、とやさしい。
こんなのだから、「止めてくれますか、写真を撮ります」と言って外に出て、涙を拭きながらシャッターを押したものです。14日の土曜に自宅に戻った。それから、毎日、電話を欠かさない。すると、雪雄さんは、いやあ、ご無沙汰ですね、先生、もうあれから10年ぶりですか、と、おどけながら親しみを込める。いやあ、300年ぶりじゃないですか、と返すと、ハハハッ、300年ですか、長いですね、と言って笑う。楽しいやら、切ないやら。
雪雄さんは別れ際、以下のようなことを口にする。だから、黄色いマフラーでまた顔を拭わないといけなくなるのよ。さか子さんは、子供におやつを持たせるように柿の種やお菓子を手渡しする。う〜む。
「人生って出会いですよ。いやあ、何がどうなるか、わかんねえもんだ。せっかく知り合ったのですからねぇ、ぜひ、近いうちに遊びにきてくださいね。必ずですよ。こんな地震や津波があったから、めぐり合うことができたのだから、世の中、悪いこともあれば、いいこともあるのよね、まず〜」
「旅の途中で、なんか困ったことがあったら、遠慮なしで電話してよ。いつでもどこでも女房と一緒に飛んでいきますから。ハッハッハッ〜なあ、母ちゃんよ、出口さんを探しに行くべ〜」
続く:
□ □ □
《取材の経緯について》
なんとしても行きたい。どうしても行かなくてはならない。東日本大震災の3・11から数日後、その思いが抑えられず無謀を承知でタフな三男を運転手代わりにともかく仙台へ、東北へとクルマを走らせようと、試みた。愛車プリウスを満タンにしていくところまでいく、それからのことは行った先々で考えればいい、と思った。
が、その出発寸前の夜、そのたくらみが家内の知るところとなった。「何を考えているの?一般人の通行を制限しているじゃない。自己完結しえない人は行っちゃ迷惑よ」と、叱られた。返す言葉がなくやむなく断念したという経緯がありました。震災後の14日、15日は無情にも雪が降った。激しく吹雪いていた。あのまま行っていたら、どうなっていたことか。
それから2ケ月の間、ジリジリと待って今回やっと実現した。ちょうど2ケ月を迎える5月11日をまたいで5月10日から14日までのスケジュールでした。ご存じのように行った先からfacebookでリアルタイムに送稿し、あわせてDNDサイトの『東日本大震災から2ケ月、出口編集長 現地からの報告』でも同様の記事と写真をアップしました。首尾よくいったのは、その背後に多くの方々の協力があったからでした。ほんとうに感謝の言葉もありません。家内から「あんたは幸せモン」と。それらは記事の中でご紹介します。
参考までに取材先での難題は、宿泊と足の確保でした。
ホテルの確保は、厳しく容易じゃありません。沿岸部には私が知るところでは開業しているホテルがなかった。気仙沼に着いた日にビジネスホテルが1軒再開したという情報が入った。普通なら沿岸部に行くには内陸部でホテルを確保し、そこを足場に東西を行き来する。それでは時間がかかるし、思うような取材ができない懸念があった。私の場合、まあ民家に頼るしか手段がなかった。民家といっても直接的、間接的に被災者ですから、そこの人々とのやり取りがすぐに取材に結び付いた。メルマガで書いた釜石の佐々木さん宅に2泊、EM研究機構、EM生活などの協力で三陸EM研究会代表の足利英紀さん宅の気仙沼市に1泊できた。これは幸いでした。
そして、足。次に大変なのが移動手段でした。盛岡から宮古に入り、そこから三陸海岸を南にジグザグに下る。瓦礫がまだ覆い通行止めの箇所も少なくありません。私の事だから、ここで止めて、もう一度、あそこが見たい、とわがまま言って運転する方々を困らせたかもしれない。
さて、いくつかのエピソードは今回のように、それぞれ別建てで紹介します。EMの実践的取り組みもその一例です。釜石市長とのインタビューも掲載する予定です。被災現場の写真は一眼レフのデジカメで1,100枚、iPhoneで1,200枚のトータル2,300枚を超えた。動画は28本撮った。録音は30本近い。取材者は50人を超えました。これらをテーマごとに随時、まとめたいと考えています。
※:『東日本大震災から2ケ月、出口編集長 被災地からの報告』
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm110510.html