第85回 「科学技術イノベーション」政策推進??


 2012年になりました。元旦から、深度370kmという異様に深い場所を震源とするやや奇妙な地震や、ユーロが100円を切るといったことが起きましたが、まあ、表面的には静かなお正月休みでした。ここのところずっとDNDのテーマとは関係ないことばかり書いてきましたが、今日は久しぶりに科学技術政策に関することに触れたいと思います。


 年末に総合科学技術会議のサイトを見ていたら、12月15日に開催された同会議で「科学技術イノベーション政策推進のための有識者研究会」の報告書の素案なるものが報告されたことを知りました。何でも、同研究会は、2010年6月に閣議決定された「新成長戦略」で、「科学技術イノベーション戦略本部(仮称)」の設置による科学技術とイノベーションを一体的に推進する体制の整備の必要性が示されたことから、その体制案について検討したらしい。(ただ、会議時間は全体で25分間とのこと。)


 その報告書の素案のポイントは、総合科学技術会議に提出された資料に紹介されていましたが、正直言って、これだけではまったく意味、内容が分からない 。(参考までに、同資料に書かれていた内容を文末の注1に示します。)そこで、12月19日にとりまとめられた「科学技術イノベーション政策推進のための有識者検討会報告書(案)」を読み、自分なりにこの検討会の問題意識と報告書の内容を整理してみました。それは、以下のようにまとめられると思います:

【問題意識】 

  • 我が国の優れた研究開発成果が実際の社会で十分に活かされず、新たな産業や雇用の創出に結び付いていない。

【そのための政策推進組織の改革の内容】
@総合科学技術会議を「科学技術イノベーション戦略本部(仮称)」に改組し、科学技術振興のみならず、その成果を活用したイノベーションの実現にいたる施策に係る総合調整権限と能力を有する組織とする。(従来の総合科学技術会議は、科学技術政策の調査審議を行い、答申・意見具申を行う組織に留まっていた。)具体的には、

  • 総合戦略を策定するとともに、適切な予算配分の方針を示す、

  • 各府省及び各府省所管の研究機関に対する提言を行う、

  • 施策の実施に係るPDCAサイクルを回す、

  • 研究開発法人の研究開発活動に対して一定の関与をする、

  • イノベーションの推進に向けて大学等における研究活動に対し自発的研究を促す 等。
A客観的・中立的立場から科学技術イノベーション政策のあり方について助言をする、科学技術イノベーション顧問を新設する。
B科学技術イノベーション戦略本部や科学技術イノベーション顧問の機能を支えるための事務局機能を強化する。


 私は、この報告書の素案なるものを読んで、大きな違和感を覚えました。少し細かい議論は後で述べるとして、私がやや反射的に感じた違和感について、まず、記しましょう。


 「我が国の優れた研究開発成果が実際の社会で十分に活かされず、新たな産業や雇用の創出に結び付いていない」との問題認識にはうなずけないこともありません。実際、かなりの数の研究論文等で、日本企業の研究開発効率(一般に、累積営業利益/(その5年程前までの)累積研究開発投資額などで表される)が、外国企業のそれに比べて低い水準にあることが指摘されています。一つ目の違和感は、しかし、その認識が正しいとしても、新たな産業や雇用の創出は政府が主導することによって進むというものなのだろうかということです。研究開発の実用化も、さらには雇用の創出も、民間がその主役であるはずです。計画経済ではないのだから、「司令塔」を創ればイノベーションが進むというものではないでしょう。


 役人的に法律論を詰めれば、総合科学技術会議の従来の権限には(総合調整権限が無いという点で)限界があったことは確かです。でも、各省間の政策の調整というのは、基本的には政治の意思の問題と思います。ある役所に権限があろうがなかろうが、重要なことは内閣がその都度必要な調整を行い、政策のメリハリと優先順位を付けていく。それが本来の政治家たる大臣の役割ではないでしょうか。しかも、報告書によると「科学技術イノベーション戦略本部」に付与されるべきとされる総合調整権限の具体的内容は、研究開発の成果を社会において実用化するための環境整備の促進を可能とする事務の実施であり、各府省において必要な事業が行われることを確保するための提言・勧告であり、政策に係るPDCAサイクルを確立するための評価・検証であり、予算編成等資源配分に関してはその方針を示すことであるようです。それだったら、現在の総合科学技術会議のやっていることとほとんど変わりはありません。本来、政治の意思の発揮により方向付けされるべきことが、政府の組織の小手先の変更案となっていることが違和感を覚えた二つ目の理由です。


 「科学技術イノベーション顧問」というポストを新たに設置したければしても良いとは思います。しかし、こういったスタッフは、時の総理が日本のグランド・デザインを構想する際に科学技術面でのアドバイスを得たければ置けばよいのではないでしょうか。常設のポストにする必要性が良く分かりません。また、実際問題として、「科学技術イノベーション」という、学問分野、産業分野を超えて、科学技術に第一級の見識を持ち、かつ、その社会での実装化のために必要となる種々の制度改革までを視野に入れたアドバイスを行うことのできるスーパーマンのような人がいるのでしょうか。しかも、常設のポストにお就きいただけるほど恒常的に。これが三つ目の違和感。


 そして、そもそも私は、「科学技術イノベーション」という概念がよく分かりません。今、日本に必要なことは、イノベーションを通じて新たな産業や雇用を生み出していくことです。イノベーションは、言うまでもなく新奇なアイデア、方法を創出すること、変化を生み出すことで、それは科学技術だけによって生み出されるものではありません。科学技術の進歩を契機としてイノベーションが生まれることはもちろんありますが、イノベーションの多くは、情報の流れの変化や既存の制度、仕組みの変革、そして習慣を変えることなどによっても推進されるものです。例えば、哺乳瓶を洗う習慣の普及によって開発途上国の乳幼児の死亡率は激減しましたし、シートベルト装着の普及によって交通事故死は大幅に減りました。日本の薬価制度、医薬品の審査や治験の体制整備の遅れは、医薬品分野のイノベーション推進の障害となっています。それにもかかわらず、イノベーション全般を対象とせず、科学技術イノベーションだけを推進する組織が、何故必要なのでしょうか。


 ここまで、私がいわば背骨で直感的に感じた違和感について記してきましたが、以下に、報告書の内容に沿って、もう少し実際的な問題点と思われることを記してみます。


 最後の「科学技術イノベーション」という概念の問題は、言葉の問題と思われるかもしれません。しかし、この言葉の問題は組織のあり方にも関係してくるように思います。「イノベーション」全般を対象とするのであれば、総合科学技術会議を改組して「科学技術イノベーション戦略本部」をつくることが適切なことかどうか疑問だからです。


 最近、東京大学大学院ものづくり経営研究センターの小川先生の講演で聞いた以下の話は、この問題を如実に表しています。


 液晶TV、リチウム・イオン電池、太陽電池、パワー半導体などのエレクトロニクス分野では、日本企業は現在でも韓国、台湾企業に比べて圧倒的な数の特許を保有している。しかし、その日本はこうした製品が大量普及のステージに入ると韓国や台湾企業の追い上げを受けて、次々と事業からの撤退に追い込まれている。


 その原因は、生産コストの差。でも、労働コストや研究開発コストの差ではありません。減価償却コストの差が、致命的なコストを生んでいるのだそうです。これらの製品分野では、高額で最先端の製造装置の大量導入が必要となるために、減価償却コストが生産コストの20%以上に及ぶことが珍しくないそうです。そういった事情を背景として、韓国、台湾では、大規模投資に対して政府が手厚い税控除などの優遇措置を講じているので、韓国、台湾企業の減価償却のコスト負担が低くてすみ、ここで生産コストに圧倒的な差がついてしまうというのです。


 もちろん韓国、台湾企業は、研究開発成果を生んだ日本などの企業に所要の特許使用料などを支払わなければなりませんが、それは全生産コストの5%程度。一方で、自身の研究開発費の負担は小さい。(なお、こうした戦略が成り立つ背景には、こうした加工組立型の産業では、一社が生産に必要となる数万の特許を独占することは不可能で、どんな企業もクロスライセンスにより必要な技術を獲得せざるを得ないという加工組立技術分野の産業特有の事情も関係しています。)


 加えて日本の高い法人税は、日本企業のコストをさらに押し上げます。


 この例が示していることは、企業税制のあり方がイノベーションの鍵を握っているということです。科学技術面では、やるべきことはあまりない。また、前述した医薬品の例では、制度面、体制面での障害がイノベーションの鍵を握っている。


 つまり、分野によっては科学技術政策の出番のないイノベーション政策が十分にあり得るのです。「科学技術イノベーション政策」という言葉を使うがゆえに、イノベーション推進のために必要となる科学技術政策面とイノベーション政策面の施策のウェイトにかかわりなく、あたかも「科学技術イノベーション戦略本部」が、その施策遂行の中心的役割を担うという錯覚を生む可能性があります。そしてそれは、政府全体のイノベーション創出政策をゆがめてしまうことにもなりかねません。そんな懸念を持ちます。


 それにもかかわらず、何故、敢えて「科学技術イノベーション」と言うのだろうか。報告書に記された「我が国の優れた研究開発成果が実際の社会で十分に活かされず、新たな産業や雇用の創出に結び付いていない状況である」という問題意識を見ると、研究開発の成果を早期に実用化につなげるための国の政策、体制を強化する必要があるとの問題意識が根底にあるようです。この問題意識に応えるために「科学技術イノベーション」の推進という言い方をするのが良いのかどうかについては、上述のように大いに疑問がありますが、科学技術政策の反省として、日本の大学や公的研究機関の研究開発活動のあり方に問題があったのではないかという問題意識は重要です。これまでにも、政府の研究開発予算3.6兆円のうち、約2兆円を占めるこれらの機関における研究開発活動は、研究開発のための研究開発となっているのではないかと批判を浴びることがありました。しかし、だからと言って、その対応策が「科学技術イノベーション政策」の推進のための組織論になるというのは、よく分かりません。組織論に入る前に、そうしたことが問題であるというならば、最低限、次の二つの問題について、現行の施策では不十分なのかどうか、評価する必要があります。


 第一に、そうした批判に応えるためにこれまで進められてきた諸施策、特に、産学官連携政策の総括と評価をきちんと行うべきです。例えば、大学発ベンチャー推進施策の成果と反省に関する評価ですら、私は見たことがありません。第二に、そこから優れた研究開発成果が本当に生まれているのか、そして、それは今後とも生まれ続けることが期待できるのか。言い換えれば、イノベーションの源泉となる科学技術研究活動、そのための基盤整備、人材育成がきちんと行われているのかということの評価もない。科学技術イノベーションといっても、その源泉となる基礎科学研究が停滞してしまってはどうしようもありません。科学技術イノベーションの源泉を涵養するために、大学の教育、研究、あるいは、基礎科学研究に対してどれほどの政策資源を投じていくべきかという大事なことが、少なくとも「科学技術イノベーション」を推進するための組織の検討と並行して押さえられていなくてはならないはずです。


 「科学技術イノベーション顧問」を設けるというアイデアについても、気になることがあります。米国、英国では、大統領または首相の科学技術顧問が置かれていますから、行政組織のあり方として、こういったスタッフポストを設けることはあり得ることでしょう。しかし、米国、英国では、専門家の集団、ソサエティ(学協会)などで、専門家間のピアレビュー、相互批判がしっかりと機能し、社会における専門家の責任が常に問われているというところが、かなり日本と異なります。「科学技術イノベーション顧問」を置くのであれば、その顧問に対して、こうした専門家のソサエティからのきちんとした牽制が働くことが必要です。(日本の専門家社会、学会の抱えるこの辺の問題については、DNDの集中連載「イノベーション25戦略会議」への緊急提言「米国で落ちた目のウロコ」(第63回)や、本コラム第65回「専門家の責任」をご覧ください。)


 さらに、「科学技術イノベーション顧問」について、報告書では総理に対する顧問を置くだけでなく、各省にも顧問を置くという案も記されています。しかし、各省の所管の産業分野、技術の広さ、多様さを考えると、現実問題として直ちに「顧問」の人選に窮することになるでしょう。例えば、経済産業省のような広範な産業分野を所管としている省の場合、バイオも、エレクトロニクスも、ナノも、エネルギー技術も、デザインやコンテンツも分かり、それぞれの政策の軽重をつけられるような専門家などいるのでしょうか?


 最後に批判だけでなく、イノベーションを推進するために政府ができることは何かについて、私の考えを記しておきましょう。


 イノベーションを推進するためには、異質なアイデアのぶつかり合いを促進することや、新しいものを受け入れる組織、制度の柔軟性が必要です。また、イノベーションの内容によって、政府のとるべき政策は大きく異なります。ですから、イノベーション推進のための政策的支援策のあり方が、企業などの個々の組織が主体となったボトムアップで構想されることが基本となるべきです。つまり、イノベーションの推進策は、プロジェクト・ベース、ボトムアップをキーワードとして構想される必要がある。(意図的な制度変更による、トップダウンのイノベーションの誘発も否定はしませんが・・・。)


 こうしたことを促進するようなやり方と仕組みを考える必要があります。そのための一つの方策は、科学技術に限らずイノベーションごとに、官民が一体となってイノベーションが普及し、発展していくための規制改革を強力に進めていくということではないでしょうか。その際重要なことは、政府や制度を運営する側が大きくて柔らかい「聞く耳」をもつことです。つまり、ボトムアップのアイデアを極力尊重する。そういうことができるのであれば、「科学技術イノベーション戦略本部」が科学技術ダネに関してこのような場を持ち、必要な制度改革等の旗振りをすることは大いに効果があると思います。くどいようですが、科学技術ダネ以外のイノベーションを忘れないようにして・・・。ただ、これまで鳴り物入りで「規制改革会議」が何回ももたれながら、既得権益を有する利害関係者との調整が難航し、大した効果を上げてこなかった轍を踏まないようにしなければなりません。ここでも、やはり、政治の意思の発揮が鍵を握ることになります。


 いろいろ書いてきましたが、つまるところ科学技術の発展をイノベーションにつなげていくための政策が、「科学技術イノベーション戦略本部」という組織論に落とし込まれていることに、私の疑問のほとんどの原因があるようです。それならば「有識者研究会」は、大いに同情されるべき存在なのかもしれません。何故なら、今回の研究会の検討は、「科学技術とイノベーションを一体的に推進する体制を整備する」という方針を明記した、昨年6月の「新成長戦略」の内容を具体化することにあったからで、その時点ですでに報告書の内容が、組織整備が先にありきの、ボタンを掛け違えたようなものとなる運命にあったといえるでしょう。


 ただ、よく分からないのは、その「新成長戦略」を読んでみても、何故、総合科学技術会議を改組して「科学技術イノベーション戦略本部」を創設する必要があるのかについては、何も書かれていないことです。「科学技術イノベーション戦略本部」の創設は、政治家主導で決まってしまったということでしょうか。そうだとしたら、政治家の力の発揮のしどころが何か間違っているように思う一方で、日本の「科学技術イノベーション政策」の有識者が、この点について何も疑問を呈していないことを不思議に思います。


1) 総合科学技術会議に提出された資料に記されていた「報告書素案のポイント」は、以下のようなものでした。(12月15日開催の第101回総合科学技術会議の資料4)

  • 科学技術イノベーション政策を推進する「司令塔」として、内閣府に「科学技術イノベーション戦略本部(仮称)」を設置することが望ましい。

  • 「司令塔」は、様々な関係者のニーズ把握及び科学技術イノベーション関係施策全体の俯瞰に基づき総合戦略を策定するとともに、適切な予算配分の方針を示し、その実現に取り組むべき。

  • 内閣総理大臣等に各省の行政から中立な立場で科学技術イノベーションに関する助言を行う科学技術イノベーション顧問を設置することが望ましい。そのうちの1名を「首席科学技術イノベーション顧問(仮称)」とすべき。

  • 支援体制としては、日本学術会議等の学会及び産業界等との定期的な意見交換の整備及び事務局における調査分析機能の強化が必要。


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