第80回 「脱原発」、「縮原発」のメッセージがもたらすもの


 実は、以下の文章は8月の初めに書き始めたものです。


 東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故によって、原子力発電を2030年の中核的電源と位置づけていた「エネルギー基本計画」の見直しが不可避となった状況の中では、当然とも思える「脱原発」、「縮原発」という言葉に、しかし、何となく引っかかるものを感じたからです。しかし、いろいろな話を見聞きするにつれ、「脱原発」、「縮原発」という言葉の裏には、何も深い思慮がないのではないかと感じるようになり、その引っかかりが怒りのようなものに変わりました。


 怒りのようなものに変わって、しかし、筆は止まりました。単なる批判をしてもしようがない。そのうち、菅総理(今となっては前総理)の言葉の軽さへの批判が出てきました。同じことを書くのもいやなので、ボツにしようと思いました。


 しかし、「脱原発」、「縮原発」のメッセージのもたらす影響の大きさを考えるにつれ、やはり何か書いておかなければと思いました。前置きばかりが長くなりましたが、そんな逡巡を抱きつつ書いたのが以下の文章です。


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 巷では「脱原発」とか、「縮原発」という言葉が飛び交っています。その主張の是非は別として、こうした状況を作り出した人たちは、何と思慮に欠ける人たちであろうかと思います。「分かりやすい」ショートフレーズでの主張につきものの乱暴さと言ってすまされる問題ではありません。これらの言葉が発するメッセージは、今後の日本の将来に深刻な影響をもたらしかねないからです。


 さらに呆れてしまうのは、「分かりやすい」ショートフレーズでの主張にもなってないことです。「脱原発」、「縮原発」の具体的な道筋がまったく描かれることなく、言葉だけが先行している。つまり、ショートフレーズに要約されるべき中身も無いというお粗末さ。


 それだけでなく、こうした言動が如何に今後の日本にとって大きな影響をもたらすものであるか。私の気になっていることを記します。


 原子力関連施設は、やはり「迷惑施設」です。こうした施設であっても、地方自治体の中には国の政策に協力するために立地を引き受けてくれるところがあります。「国の政策への協力」といった大義名分がなくなったら、立地の引き受け手はなくなります。よく原子力関連施設の立地を受け入れる自治体は、経済的なインセンティブが目当てなんだろうという人がいます。しかし、経済的インセンティブという理由だけで、「迷惑施設」の立地の容認はできません。やはり、大義が必要です。「脱原発」や「縮原発」が公然と語られるようになったら、もうこうした施設の立地は出来ないでしょう。既に立地している施設だって国の政策に沿わない迷惑施設の操業はもうやめてくれということになりかねない。


 つまり、大義を国に否定されたら、もう「迷惑施設」を引き受けられるところはなくなります。そういったことを分かった上で「脱原発」とか、「縮原発」とか言っているのだろうか。それが、こういった言葉を軽々に口にする人たちの思慮の程度を疑う第一の理由です。


 また、原子力は、一つの原子炉を廃炉するにも30年、40年といった時間がかかる技術です。原子力発電をきちんと止めていくためには、今後とも長期間にわたって高い技術水準を維持する必要があります。そのために、次世代の優秀な原子力技術者を育てていかなければなりません。しかし、「脱原発」、「縮原発」と言われて、今後、有為な若者が原子力の道に進もうと思うでしょうか。日本では原発建設がスローダウンしただけで、大学から原子力工学科が一時期なくなったこともあるくらいです。


 この影響は直ちには表れないが、次世代において大変に深刻な問題となります。次世代に技術を継承していくためには、この道に進もうとする若者に、その道に進むことの意義と展望を与えなければなりません。未来のない分野に優秀な若者は集まりません。この点でも「脱原発」、「縮原発」というメッセージのもたらす影響は、きわめて深刻です。


 また、日本は、エネルギー源のほとんどを海外に依存しています。その安定確保を図るためには、選択肢を増やしていくことが必要です。しかし、「脱原発」、「縮原発」は、それを危うくするだけでなく、他のエネルギー源の確保のための重要な交渉カードの一枚を自ら捨てることになりかねません。少しでも有利な条件の交渉ポジションを維持しておく必要があるにもかかわらず・・・。


 こうして考えると「脱原発」、「縮原発」などということは、例えそれが必要だと思ったとしても、少なくとも為政者は軽々に口にしてはならない言葉です。これらの言葉は、それを言うこと自体が、これまで述べてきたように、その実際的な実現を危うくします。ですから主張はどうあろうと、それを口にすることは、はなはだ思慮に欠けたものといわざるを得ません(*1)。関係する人々の心を思いやり、発言により引き起こされる社会の反応を考えれば、そんなことは分かるはずです。政治とは、その字義のとおり、理屈だけでなく人の心を治めながら対立する利害を調整しつつ、国民を導いていくことが仕事のはずです。その政治家から、こうした発言が為されるのには呆れるばかりです。


 もう既にこの「脱原発」、「縮原発」というメッセージが発せられたことによるダメージは、避けようもないほど大きくなっているように思います。日本は、少なくとも5年、10年、あるいは、今後ずっと、この軽はずみな言動の影響を被ることになるでしょう。


 ところで、そう批判するのは簡単です。でも、もし、原発への依存を減らしていくことが必要だということになった場合、その政策を実現するためにはどのように進めるべきなのでしょうか。


 いろいろ考えてみましたが、やはり、為政者は、政策の実現に向けた具体的な方策案が検討されていない状況で、こうした問題の政策の方向性について軽々に発言してはいけないのだと思います。例え外部からは官僚的な答弁に終始していると批判されたとしても・・・。(但し、実質的には何も言っていなくとも、発言の仕方や人柄で、その欠点をずいぶんと補うことは可能だとは思いますが。)


 また、そういうことを分かった上で、敢えてけしかけるような質問をするマスコミも問題だと思います。ですが、私は、あるときからマスコミの批判をすることはやめました。彼らは、権力をチェックすることがマスコミの使命と言い張るでしょう。国をダメにするような、そんな使命に燃えないでくれと言いたくなりますがね。そして、いずれにせよ、批判したって彼らがそう簡単に姿勢を改めるということも考えられません。


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 ここまで書いて、私は昨年に引き続いて中国吉林省の省都、長春に一週間ほど出かけてきました。たった1年の間にも、長春はずいぶんと変わっていました。経済が発展するとはこういうことか、ということを改めて思い知らされるほどの変貌ぶりです。彼らの生活の実情を表すいくつかの数字とともに、この話は、次回に書くことにします。乞う、ご期待。


 ところで、中国に行っている間に菅内閣が総辞職をし、今日(8月30日)、野田さんが新しい総理に選ばれました。中国で見ていたCNNでは、「日本の不人気な菅総理が辞めた」とのごく短いニュースが流れただけでした。そして今日は、米国では国務省の報道官が日本での新政権の誕生についてのコメントに関連して、記者から「また同じコメントを読み上げることになった」と交ぜ返され、笑いをこらえきれなかったとのニュースが報じられました。


 どっと疲れた感じがするのは、暑く、喧騒極まりない長春の街を歩いてきたせいだけでしょうか?



1) 但し、世の中が混乱することをも厭うことなく、確信的に原発を止めたいと考える者が「脱原発」を口にすることは、少なくとも論理的には思慮に欠ける発言とは言えないでしょう。


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