第70回 物価から見える中国(吉林省をあるく その2)
沖縄・尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件についての中国政府の対応を見ていると、まさに「暴力団の縄張りと同じ」(石原東京都知事)と私も思いますし、さらには、これほどの対応をしなければならないような、よほど困った事情が中国側にあったのではないかと、逆に勘ぐりたくなるほどの異常さすら感じます。そんな雰囲気の中で、こんなコラムを書くことはいかにも能天気という気がしますが、まあ、こういった時ほど中国の人々の生活実態について知ることも良いのではないかと思い、今回も中国吉林省への訪問記を続けます。
写真は、ちょっとローカルな情報ですが、中朝国境からそれほど遠くない長白山(朝鮮名は白頭山)の北麓、二道白河のホテルに貼られていた求人広告です。二道白河は、朝鮮族の聖地、長白山の中国側からの登山基地として中国国内のみならず韓国からも観光客を集め、観光拠点として発展しつつあります。このホテルは、そうした観光客目当てに新築されたホテルの一つ。求人広告には、求人職種ごとに月給と応募者の要件が示されています。ホテルのフロント要員が1,200元(約16,000円、1元13円で計算。以下同じ。)、レストランの接客係が900元(12,000円)、客室係が800〜1,000元(10,000〜13,000円)、保安要員が1,000元(13,000円)と書かれています。
:【写真】 ホテルの求人広告(二道白河で)
ところで、応募者の要件には何でここまでと思うほどの条件が付けられています。写真でご覧になれるでしょうか?もちろん中国語ですが、この程度なら何が書かれているのか想像がつきますね。フロント要員の募集条件は、女性、身長165cm以上とあります。フロント要員なのに何でそこまで身長がなければいけないのでしょうか?Casher担当にまで身長を求めていますよ。レストランの接客係の身長はもう少し低くても良いようで、身長160cm以上。女性との指定はありませんが、年齢18〜25歳が条件です。保安員は175cm以上で退役軍人優先とあります。この辺までは、いかにも「雇ってやる」といった雰囲気ですね。一方、電気工事技術者は不足しているようで、給与は面談次第となっています。
中国国家統計局から発表されている統計では、2008年の中国の都市部労働者の平均年収は約30,000元(約40万円)ということなので、新規採用ということを割り引いて考えても、このホテルの給与水準はやはり地方の町の水準と考えた方が良いかもしれません。一方、日本の平均年収は437万円(2005年度、国税庁調べ)ということですから、中国の都市労働者の年収は、日本人の平均年収の10分の1程度ということになります。この10分の1という物差しで日本と中国のモノの値段を見てみると、少し面白い中国の生活が見えてきます。(もっとも日本の値段の方が変わっているのかもしれませんが。)ただ、先の中国の数字には農民の年収が反映されていませんから、比較のベースが異なることに注意が必要です。ちなみに、中国農民の一人当たり年収は、2007年の時点で4,000元(52,000円)との報道記事がありました。中国の都市労働者と農民の間には、さらに約10倍の所得格差があるということになります。
今回の吉林省の調査旅行では、中国の庶民が利用する町の小さな食堂で食事をする機会が数多くありました。一品の値段は、麺類や野菜炒めで大体5〜8元(60〜100円)、海鮮や肉を使ったちょっと高いメニューで12〜15元(150〜200円)というところです。日本の田舎の食堂と比べたら、相対的な価格は少し高いという感じでしょうか。ちなみに旅が続くにつれてやや中国料理に疲れてきた調査団のオジサンたちに好評だったのは、日本のラーメンを思わせる汁麺を出す食堂でした。汁麺の正体はラーメンならぬ刀削麺です。刀削麺は山西省の料理なので、それが吉林省の小さな町にも広がっているということになります。その食堂では、いろいろなバリエーションの刀削麺を出していました。その麺と餃子を食べて10元(130円)ほど。朝鮮族の住む地域ですから冷麺も何回か食べました。これは12元(160円)くらい。冷麺の本場ということで期待は大きかったのですが、スープの味がやや物足りなく、日本の冷麺の方が美味しいというのが正直なところです。
次は乗り物の話。長春市の公共交通機関(バス、路面電車)は均一運賃で1元(13円)です。これは、相対的には日本より安いですね。ちなみに長春市は人口750万人の大都市ですが、他の中国の都市に比べると地下鉄の建設が遅れ、まだ地下鉄はありません。現在、市は地下鉄やライトレールなどの建設を相当な勢いで進めています。ライトレールは既に一路線完成していて、モダンなデザインの車両が走っています。そのライトレールは、長春市の中心部からその30km以上郊外まで延び、全線乗って4元(50円)とのこと(※1)。これは、日本のJRの運賃が35kmまで570円であることを考えると日本並みの価格ということになります。(ちなみに、ライトレールを走る車両は、ドイツやオランダやスイスの町で見る車両にそっくりなのですが、「中国国産」だそうです。)
長春市のタクシーは、初乗り2.5kmまで5元(65円)、その後500m毎に1元加算といった値段で、日本人にとっては長春市内の移動手段として極めて安く便利な乗り物ですが、中国人にとっては、日本人が日本国内でタクシーを利用するのと同様に贅沢な乗り物ということになりそうです。でもこのタクシー料金は、次に記す中国のガソリン価格と比べてみると異様に安いように感じます。
:【写真】 ガソリン価格(吉林市で)
この写真は、中国のガソリンスタンドで撮ったものです。右がレギュラー、左がハイオク・ガソリンの価格です。レギュラーはリッター当たり6.17元(約80円)、ハイオクは6.71元(約90円)と表示されています。中国らしく、この価格は吉林省のどこでもほぼ同じでした。日本の60%くらいの水準の価格です。相対的には、日本の約6倍の水準となります。このガソリン価格と年季の入った燃費の悪そうなタクシーを見ると、とてもガソリンをこの値段で買っていてはタクシー会社の経営が成り立ちそうもありません。運転手の人件費を相当に押さえ込んでいるということでしょうか。
もちろん、庶民にとってもガソリンは極めて高いものになるはずです。中国政府は、内需拡大策の一環として古い車を新車に買い替える場合、1件当たり1万元という相対的には大変な額の補助金を出していますが、ランニングコストの高さから見ても、中国の庶民にとって乗用車は、依然としてそう簡単には手の届かない高嶺の花なのでしょう。
この石油製品価格の相対的な高さは、中国の経済発展にとって大きな問題であることは容易に想像がつきます。そのせいか、敦化(トンファ)、延吉などの零下20℃を超える極寒の冬を迎える地では、新築されたアパートの屋根に太陽熱温水器がところ狭しと並べられていて、都市部において少しでも石油の消費を抑えることが政府(地方政府)の重点政策となっていることを感じさせます。また、こういった石油製品価格の実情を見ると、中国政府が世界の油田の権益確保を猛烈な勢いで進めている理由も分かるような気がします。
:【写真】 新築マンションの屋根に並ぶ太陽熱温水器(敦化(トンファ)市で)
吉林財経大学の計量経済研究所長のR先生は、最近、新築のマンションを購入しました。そのマンションのR先生のご自宅を訪ねる機会に恵まれました。午後のお茶に招いていただいたのです。長春市の中心街から車で5分ほどのところに位置するこのマンションは、長春市が整備した経済開発区の一角にあり、不動産会社(中国では「開発商人」と呼ばれている)が開発した住宅街です。モダンなデザインの高層マンションが10棟ほども立ち並ぶ敷地には、花壇やあずまやのある中庭もあります。敷地全体は鉄柵で囲まれ、出入り口にはガードマンも常駐する、セキュリティの確保された高級住宅街のつくりになっていました。
先生のお宅は9階にあり、先生は私たちを玄関から招じ入れると中を披露してくれました。先生はご主人との共働きで、ご主人も大学教授です。広いリビングルームとダイニングキッチン、寝室とご夫妻共用の書斎、そして今は独立して広東の方で働いている息子さん用の部屋の4LDKの造りです。広さは170m2あるそうです。床は紫檀色にきれいに磨き上げられ、部屋の中央にはどっしりとした家具、そして隅のほうには大きな石の彫刻が配置されています。壁には大画面の液晶TV。南には日の光がいっぱいのちょっとオシャレな窓。そして、リビングルームの一角には、先生の趣味である太極拳を練習できるスペースがあります。ちょっとついていけない・・・と思ったのは、太極拳を踊るためのスペースを照らす赤と紫色の照明。しかし、先生はその照明がとてもお気に入りのようでした。
いろいろお話をする中で、ご夫妻はこのマンションの一室を約350,000元(約500万円)で購入されたことが分かりました(※2)。頭金として半額支払い、あとはローンを組んでいるようです。先生の話では長春のマンションの相場は、だいたい2,000元/m2、平均的広さは150m2とのことでした(※3)。
R先生から聞いた話によると、このマンション群を建てた不動産会社は、長春市の経済開発区の管理委員会から50年間の土地の使用権を競争入札で買いました。経済開発区の整備には、長春市、吉林省も資金を出しているので、購入代金は管理委員会、市、省に所定の割合で支払われたそうです。土地の所有は認めずにその使用権を売買するというのは、確か、私たちがかつて住んでいたオランダでも同じでした。そういった観点から見ると、中国では土地取引をめぐる制度も、既に市場経済国家のそれと本質的に何ら変わらない制度になっていると言えるでしょう。
ただ、その根っこには大きな矛盾を引き続き抱えているというのが、吉林省の実地調査に同行した高橋満先生(東京大学名誉教授、近代中国経済史の専門家)から教えていただいたことです。それは、大筋、以下のようなお話でした。
「中国では、現在、都市部の土地は国が所有権をもち、農村や都市郊外地域は、集団所有となっている。
かつて建国直後は、農村では農民が土地を所有していたが、やがて社会主義化の徹底のために人民公社による集団所有とされ、農民は土地所有の権利を失った。ところがその後、中国は改革開放政策に向けて政策の舵を大きく切り、土地の利用効率を向上させるために土地の所有権と使用権の分離が図られ、都市部では国有地の使用権を有償取引することが認められた。同様に、農業に供する国家所有地及び農村の集団所有地についても改革政策が導入されたが、それは農業労働者に請負権を認めることに留まった。
所有権と使用権の分離によって、特に都市や都市郊外での土地利用は中国経済の急速な発展とともに活発化した。それとともに土地の使用権の価格は大幅に上昇し、多くの富裕層を生み出した。一方、請負権しか持たない農民には使用権価格の高騰の恩恵は及ばなかったため、農村部と都市部の貧富の格差がますます拡大することになった。
日本で経済の高度成長が起きた時期は、農地改革によって、小作農を含むほとんどの農民が土地を所有できるようになった後だった。そのために農村にも高度成長の恩恵が広く及ぶことになり、都市部と農村部の貧富の格差がそれほど広がらなかった。他方、中国では高度成長の恩恵が、日本で起きたような形で農村部に波及することが望める状況ではない。」
現在、中国で起きている不動産価格(正確に言えば使用権価格)の高騰は、都市と農村の所得格差をますます拡大しています。さらに、かつておそらくタダ同然の価格で土地を所有した国や地方政府が、不動産価格の高騰によって得た莫大な収入を都市や郊外地の公共交通機関や住宅用地の整備に投入し、都市やその郊外地域の不動産価格のいっそうの高騰を生んでいるといった循環が続く限り、この格差は拡大しこそすれ、容易には縮まらないでしょう。
中国の経済発展の前途が決して容易ではないことを痛感しました。そして、翻って日本の農地改革が敗戦後の占領政策の一環として行われたものであることを考えるとき、奇跡といわれた日本の経済発展をめぐる運のようなものを感じたものです。
1.これらの鉄道に関する情報は、調査に同行した(財)運輸調査局の奥田恵子さん調べ。
2.但し、中国ではマンションの内装工事は部屋を購入した個人が別の業者に頼んでやることが多いとのことですから、仕上がりはもう少し高いのかもしれません。
3.その後、(財)運輸調査局の奥田恵子さんから長春市内のマンション価格について、ちょっと信じがたいような最新の調査結果も教えていただきました。それによると2010年9月現在、価格は2週間で1,500元/m2程度の割合で高騰しており、R先生のマンションのような上層階の部屋は5,000元/m2以上の価格になっているそうです。
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