第68回 今年のお盆
今年の夏のお墓参りも、お盆を過ぎてのお参りとなってしまいました。私の家のお墓は、上田市の別所温泉の安楽寺というお寺にあり、道が空いていても川崎市の我が家からは車で3時間以上かかります。そんなこともあって、お墓参りはいつもお盆を外れた時期になってしまいます。
安楽寺のことをご存知の方もいらっしゃると思いますが、このお寺は信州最古の禅寺です。鎌倉の建長寺とも関係が深く、日本で唯一の八角三重塔(国宝)があることでも知られています。ちなみに安楽寺の近くには常楽寺という、これも鎌倉時代からの立派なお寺があり、今は失われてしまった長楽寺というお寺とともに、かつては別所三楽寺といわれていたようです。
連載第6回の「本籍地の危機」でご紹介したように、建治三年(1277年)に北条義政が別所温泉のある塩田平に鎌倉から居を移し、塩田北条氏を開いたことから鎌倉文化がこの地でも花開きました。別所温泉は、塩田平の西の端を画す夫神山の山ふところにあります。そして安楽寺は、さらにその山裾を少し登った檜林の中に建っています。
ところでこの夫神山は、毎年7月15日に青竹に反物を吊るした幟を何十本も連ねて頂上まで往復するという雨乞いの祭り、「岳の幟(たけののぼり)」で知られています。塩田平は地味に肥えた地なのですが、その一方で日本でも有数の雨の少ない土地です。このため、塩田平には溜め池が散在しています。
写真は、八角三重塔の建つ山の高みから本堂を見下ろしたものです。これからお分かりのとおり、塔にいたる道は結構な上りです。我が家のお墓は、この塔の裏に続く夫神山の尾根の起伏が緩やかになったところにあるので、さらに高いところまで登らなければなりません。若いころは苦になりませんでしたが、お墓掃除の用具と手桶一杯の水を持ってこの坂道を登るのは結構な運動ではあります。
最近では、法事などでお参りに来ても、足が弱くなってお墓まで登ることのできない親戚が増えてきました。雪の少ないこの地でも、冬になると日陰の坂道に雪の残ることがありますから、一層大変です。やがてもっと歳をとったら、私たちもお墓まで登って来られなくなるかもしれません。件の「本籍地の危機」問題(別所温泉にある私たちの本籍地が、「本籍地の危機」に書いたような事情で、あやしげな宗教団体の所有地になってしまった問題)はそのままの状況になっています。それやこれや考えると、そろそろお墓の将来のことも真剣に考えなければいけないと思いつつのお参りでした。
実は、両親にとって別所温泉は出会いの地ですが、故郷ではありません。話せば長い事情があるのですが、両親は養子同士の結婚です。父は、第41回の「肥後の石橋と地方の力」に書いたように熊本県の出身です。戦前の日本にあった厚い人間関係が縁となって、別所温泉出身で熊本の旧制御船中学に勤めていた先生の養子となり、別所温泉にやってきました。一方、母は千曲川の近くの旧丸子町の出身です。今ではともに同じ上田市に編入されましたが、丸子町は別所温泉からは直線距離でも約20kmも離れたところです。むかしは、丸子町から別所温泉までの道のりは半日がかりでした。母は、別所温泉で教師をしていた伯父のところに子供がなかったために、女学校卒業後、養子となってここへやってきました。しかし、伯父は、その後まもなくして亡くなってしまったために、最初は、かなり寂しい思いをしたようです。悲しくなった時には島崎藤村の「小諸なる古城のほとり(千曲川旅情のうた)」や北原白秋の「落葉松」の唄を歌って気を紛らわせていたと母から聞いた記憶があります。
その二人が、たまたま別所温泉の青年会で出会って・・・・・。養子同士の結婚ですからなかなか大変だったようです。2年前に亡くなった父の長兄にあたる伯父が、そのときの状況をポツリポツリと語ってくれたことがあります。亡くなる数年前のことです。それで私は、そのころのことを断片的にしか知りません。ただ、父は、昔、写真を趣味としていたので、別所温泉で撮った当時の母の写真が数多く残っています。それを見ると別所温泉時代の父と母の青春時代が垣間見えます。写真には、別所温泉のあちこちで、若い頃の母が笑顔を輝かせて写っていました。昔の別所温泉の落ち着きある温泉街の趣はずいぶんと失われてしまいましたが、街のそこここにはそんな舞台となった当時の面影をまだ見つけることが出来ます。
今回、別所温泉で「高倉 輝の碑」の案内板を見つけました。安楽寺の山門の近くです。以前、そんなものはありませんでしたから、最近整備されたものでしょう。高倉 輝は、文学者、共産党員で、左翼的な農村文化運動に参加し、上田の「自由大学」で文学論を講義していました。そのころ高倉 輝は、別所温泉に住み、安楽寺の本堂で講義をしたことがあったらしく、父親は、この高倉 輝に私淑していた時期があるようです。戦争直後の時期、そして父親は熊本の貧乏神社の神職の三男坊ですから、思想的にも共鳴しやすかったのでしょう。しかし、私は、このころの話はほとんど聞いたことがありません。私の知っている父親は、どちらかといえば共産党嫌いでした。
先日、父親の使っていた本箱の引き出しを整理していて、父親の書いた古いメモ帳を何冊もみつけました。メモ帳には、何かびっしりと几帳面な字で書き込まれています。どうも別所温泉で高倉 輝の講義や高倉を囲んでの議論に啓発を受けて書かれたもののようです。でも、私は父親の青年時代の青さを見るような気がして、その手帳を読む気にはなれず、本箱の引き出しにそっと戻しました。まだ、それきり、そのままで置いてあります。
お墓の不便さや「本籍地の危機」を引きずりながらも、別所温泉と関係を持ち続けているのも、多少はこんなことが関係しているのでしょう。今回は、そんなことを思い出すまま書き綴り、すっかり私的なことばかりの文章となってしまいましたが、それだけお盆らしいお盆を過ごしたということかもしれないですね。
最後に、観光案内になりますが多少はお役に立つことを書いておきましょう。別所温泉は、上田から上田交通の電車で30分ほど。田舎の温泉場の域を出ませんが、「美人の湯」の看板に偽りが無い、いいお湯です。街中には誰でも入れる外湯が3ヶ所あって、素朴な温泉街の風情も楽しめます。また、鎌倉を髣髴とさせる安楽寺、常楽寺のほか、芸事にご利益がある北向観音などのお寺があります。この北向観音は長野の善光寺と向き合い、名前のとおり北向きに建てられた珍しいお寺で、お参りするときには両方のお寺をお参りしないと、「片参り」になると言われています。
このほか周辺には、鎌倉時代の素朴で美しい三重塔を見ることの出来る前山寺、大法寺、そして平安時代創建の由緒ある生島足島神社などもあって、菅平や浅間連山を眺めながらの塩田平の小ハイキングも楽しめます。(周遊バスもあります。)また、前山寺の近くにある、太平洋戦争で志半ばに散った画学生のデッサンを集めた「無言館」は、ここだけを訪れに来る方々もいるほどの人気を集めているところです。
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