第61回 国東半島と「昭和の町」


「フグを食べに大分に行こう!」


 こう書くと大変な豪遊のようですが、貯まったマイレージを使って、冬の味覚と温泉を楽しみにどこかへ行こうという発想から生まれた企画でした。臼杵の安くて美味しいフグと温泉をいっぺんに楽しめるのは、どうやら別府。そして、地図をよく見ると大分空港は、燧灘に円く突き出た国東半島にあります。国東半島といえば石仏の里。石仏めぐりも良さそうです。国東半島の西の付け根にあたるところには、全国八幡社の総本宮である宇佐神宮もあります。


 ということで実際に行ってみると、いろいろ驚きと出会いがいっぱい。今回は、その国東半島の旅の記録です。


 大分空港から国道10号線で宇佐の町に向かってゆるやかな坂道を下っていくと、古代人が住処として選ぶこと間違いなし、と思われるような地形が目の前に広がっています。空が広く、川が流れ、海に向かって開けた緩やかな斜面です。宇佐神宮の神殿は、その斜面の海岸近く、広大な森の中にありました。さすがに全国四万余あるといわれる八幡社の総本宮だけあって、神域は広く、神殿は荘厳です。


 宇佐神宮でちょっと驚いたのは、参拝の仕方が出雲大社や諏訪大社と同じ「二拝四拍手一拝」だったことです。実際に現地に行ってみると、その立地、祭神、お参りの仕方などから、大和朝廷の成立以前から続く土着の豪族の存在が歴史の背景にあることを感じさせます。そういえば、宇佐神宮には、「宇佐八幡神託事件」がありましたね。「続日本紀」の記録です。八世紀半ば、称徳天皇が弓削道鏡を天皇に就かせようとし、和気清麻呂に宇佐神宮のご神託を聴きに行かせた。しかし、八幡神のお告げは「皇室の血統でない者に位を授けてはならない」というものだったという話です。謎は、清麻呂はなぜ宇佐神宮まで足を運ばなければならなかったのか。奈良の近くには皇祖神の天照大神が祭られる伊勢神宮があったにもかかわらず・・・。


 国東半島の旅を宇佐神宮から始めたのは、偶然にも正解でした。宇佐神宮は、国東半島の六郷満山文化と呼ばれる仏教文化と切っても切れない関係にあり、神仏習合の発祥の地とされているからです。山岳信仰に由来する六郷満山文化は、国東半島の地形、成因に大きく関係していると考えられます。国東半島の地形からは、半島全体が富士山のように裾を引く大きな火山であったことが容易に想像できます。実際、ここは約150万年前に活動した両子山(ふたごさん)火山群の跡であるそうです。この火山は、活動を止めてから長い時が経ったために、以前、円錐形であったはずの山体の侵食が進み、今では、昔、中央火口丘を形成していた付近は、放射状に谷筋で分かたれたいくつもの峰のように姿を変えました。そして、峰のところどころには、昔、地上に噴出してきた溶岩が、溶岩柱して屹立する形で残ったために、奇岩や絶壁が散在する特異な奇観を呈しています。この自然環境が山岳信仰を生み、そして、6つの谷筋(六郷)で花開いたのが六郷満山文化です。



 この旧両子山火山群に残る屹立した峰、断崖は、やがて修行僧の荒行の場となり、そこには多くの寺院が建てられました。また修行僧の駆け抜ける険路のあちこちには、多くの石仏が置かれ、大きな磨崖仏が岩壁に穿たれたのです。今では、石仏や石段は苔むし、磨崖仏は風雪に削られ、冬の淡い光の中に静かに佇んでいます。断崖の窪みを利用した懸崖造りの奥の院の建物は、すっかり色が褪め、白茶けた岩壁の一部のようになりました。今では、全てが自然に溶け込んでいます。そして、山の空気は清冽で、海からほど近いのに深山幽谷の趣があります。下界とはちょっと違う時間が流れていることを感じさせる異次元の空間でした。



 ところで国東半島自体は、一日あれば十分に車で回れる広さなのですが、国東半島の寺院や石仏は峰々に散在し、峰々が深い谷筋で分かたれているために、両子山のほぼ中心に位置し、六郷満山の総持院となっている両子寺(*1)から周辺の寺々を回るのも決して容易ではありません。また、各寺院の山門から奥の院や磨崖仏までは、当然のことながら峰の高みへのきつい登り坂となります。しかも、いかにも素朴で歩きにくい数百段の石段です。ただ、これも国東半島の奥の深さを感じさせる魅力なのかもしれません。


 それにしても都会では階段を登りたがらない妻や娘が、そんな石段を文句も言わずに登っていくのは信心深いからなのでしょうか。いえいえ、残念ながらその理由は、寺院の奥の院の岩壁から染み出る「不老長寿の水」や「知恵の水」をいただいて霊験にあやかりたいという、極めて切実な現世利益の追求であったようです。


 国東半島は、国東市、杵築市、豊後高田市の三市から成り、その北西部分に位置する豊後高田市は、人口2万5,000人ほどの小さな街です。下の写真は、その豊後高田市の商店街の写真ですが、ちょっと変わっていると思いませんか。「昭和座」で上映している映画は、「ローマの休日」と「真昼の決闘」の豪華二本立て?でも、妙に閑散としていますね。また、「蜂捕屋」って何でしょう?



 実はこの映画館や店は、張子の虎です。中身はありません。「昭和座」を覗いて見たら、その入り口や切符売り場はモノ置き場になっていました。「蜂捕屋」も表看板だけ。ですから何を売っていたのかも分かりません。欧州であれば、「ファサードが保存されている」とでもいうのでしょうけれど、ちょっとそこまで立派な感じではないところが正直なところです。 「ウエガキ薬局」は実際に営業中。とても味のある「薬」の看板が出色です。この「薬」の字は木組みでできているのですよ。


 この商店街は、営業中、休(廃)業中にかかわらず、町並みがこれらのような外観で統一されています。そう、この街の人々は、昭和30年代の「昭和の町」をコンセプトとした町興しに取り組んでいるのです。昭和30年代、この地域は10万人の商圏をもつ大分県北地域の商店街として賑わっていた。その後人口の減少や、宇佐神宮に通じていた鉄道の廃線によって寂れてしまった街の復興を図るため、有志が「まちなみ実態調査を実施」したところ、既存商店街の建物の約7割近くが昭和30年代以前のものということが判明。そこで、最も元気であった昭和の頃の商店街の再生に向けた取組みが始まったということです。後で知ったのですが、この町は、中小企業庁の「がんばる商店街77選」にも選ばれています。


 こうした町並みを作り上げるために、商店の外観に関する一定のガイドラインに合致した形で改装や修復を行うと、市と県からそれぞれ改装費の1/3が補助されるそうです。「うちは、結局1/3以上、自己負担しましたけどね」と「アイスキャンデーやミルクセーキの森川豊国堂」という昔風の看板を掲げる店の小母さんは、しかし、嬉しそうに話してくれました。近くの「杵や」というお餅屋さんの経営者のご夫婦は、元東京のみずほ銀行の銀行員と銀座プランタンのブティックの店長だった人。「金岡」というお肉屋さんは美味しいコロッケで人を集めています。この「昭和の町」の店を覗き、その店の人たちと話していると楽しくなってしまいます。お話をしていて気持ちがいいのは、みな楽しんで町興しをやっている風なのです。「うちの旦那は、商店街のことで外を飛び回っていて、この店のことは私に任せきり」と楽しげに嘆く(?)のは先のお餅屋さんの女将さんでした。



 ついでにもう一つご紹介したいのは、写真にある「新町ナイトセンター。」これは「昭和の町」のコンセプトに入っているのかどうかは分かりませんが、私は、この「ナイトセンター」という名前がいたく気に入りました。変だけれど、いかにも素朴で味がありますよね、この名前。「おかあちゃん。ナイトセンターでちょっと飲んでるわ」なんて言って、おとうちゃんは、身を小さくしながら家を出て行くんですかね。こんなところで夜飲むと・・・しかし、ちょっと寂しそうですね(笑)。


 町興しのために撒かれた種はこれだけではありません。商店街に隣接して建っていた巨大な米蔵を「昭和ロマン蔵」という楽しめる展示館に改修し、一般に開放しています。同蔵内には、昭和の暮らしを体験できる「昭和の夢町3丁目館」、10万点を超える古いおもちゃを展示する「駄菓子屋の夢博物館」などが設けられています。この博物館の館長は、おもちゃコレクターの小宮裕宣さんという方ですが、地元の方ではなくて福岡の方です。この博物館を開設するに当たり商工会議所関係者が福岡県へ何度も足を運び、小宮さんを口説き落としたそうです。


 それだけに、博物館は見ごたえがあります。館内に入ると正面に鉄人28号がいて、鉄腕アトムが空を飛んでいます。陳列ケースには、グリコのオマケがいっぱい。そして、吹き抜けになっているホールの壁いっぱいに、フーテンの寅さんシリーズや、時代劇の映画のポスターが貼られています。何故か、昔のアイドルのレコードもたくさん飾ってあります。中でも柏原芳恵のレコードのコレクションは充実していました。どうやら若いころの小宮さんは、ふっくらした女性がお好みだったに違いないと密かに疑った次第です。博物館のすごさが伝わるかどうか自信がありませんが、写真を載せておきます。 



 館員の方々も純朴で、一所懸命に働いていて、とても好感のもてるところでした。ただ、「開館した頃に比べて、最近は訪れる観光客の数が段々減っています」と話されていたのが、少し、気になります。


  でも、みんな明るく一所懸命。



1.昨年から今年にかけてのNHKの「ゆく年くる年」に、この両子寺が出ていました。両子寺には雪が積もっていました。

記事一覧へ