第6回 「本籍地の危機」
まあ、どうでも良いことかもしれませんが、前回に書いたことの訂正から始めさせていただきます。
前回の「オランダから見えたこと(3)」で、ヨーロッパ大陸の陸続きの国の間では鉄道の通行方式が異なる国があること、そして、車は右側通行、鉄道は左側通行の国として、スイス、イタリアがそうであったと記憶していると書きました。スイスとイタリアに関する記憶の真偽はまだチェックできていないのですが、フランスの鉄道が左側通行であったことが、ある雑誌を見ていて確認できました。そうだとすると左側通行のイギリスとフランスを結ぶユーロスターが、途中で反対側の線路に渡ることはないのですから、先の原稿に書いたように、ロンドンからユーロスターに乗った車内で、いつ、列車が左側から右側の線路に渡るのかと、夕暮れでどんどん暗くなる車窓の風景を注視していた私は、とても間抜けなことをしていたことになります。
ところで、これから書くことは、最近、わが身に起きた、心象的にはやや似たような肩透かし感をくらった出来事です。ひょんなことから「本籍地の危機」に直面したのです。この問題のおかげで、生まれついてから当たり前、あるいは、何となく信じきっていたことで、自分の所属意識というか、社会との位置関係を図る一種の拠りどころとなっていたことが、意外と危うく、脆いものだということを感じる経験をすることとなりました。
私の本籍地は、「信州の鎌倉」とも呼ばれる温泉地にあります。「信州の鎌倉」というのは、決して単なるキャッチコピーではなく、鎌倉時代の建治3年(1277年)に北条義政が鎌倉幕府の要職を引退して信州の塩田平(現上田市)に入り、館を構え、塩田北条氏を称したという歴史的事実に関係します。土地の歴史解説書によれば、塩田平の地名は、約一千年前に編纂された「延喜式」にも記述があるところから、この地は、古代信濃の国の要地であったと考えられ、源頼朝も重要視したため、この地には鎌倉時代に多くの学僧が集まりました。こうしたことから、日本の国宝切手シリーズの第一号を飾った安楽寺八角三重塔を始めとして、この地域のあちこちに、国宝や重要文化財の三重塔や仏像などをもつ鎌倉時代の神社、仏閣を見ることができます。ちなみに、この塩田北条氏は、三代五十余年に渡って続きましたが、元弘三年(1333年)、宗家の鎌倉北条氏が、新田義貞の攻めにあい危機にさらされた時、「いざ鎌倉」と塩田の館を発って鎌倉へ馳せ参じ、戦い利あらず、宗家に殉じたそうです。ですから、この周辺には、「鎌倉街道」と呼ばれる道も残っています。
ずいぶんと「信州の鎌倉」の話が長くなってしまいましたが、私の本家筋は、ちょうど80年前の1927年にこの温泉地に旅館を開いたそうです。この地では、老舗のひとつで、長いこと、温泉地の三本指に入る旅館のひとつでした。曽祖父の時代に本家から分家したこともあり、私の本籍地は、その旅館のとなりの地に建てられた家におかれました。私は、東京生まれですが、小さいころ夏休みに義理の祖母を訪ね、祖母が連れあいを亡くしてから営んでいた、たばこ屋で店番の真似事をしたことを幼いころのかすかな記憶として覚えています。
その後、本家筋が旅館を全面的に建て替えたとき、既に東京に出できていた私の両親は、このたばこ屋の建物を旅館の拡張のために売ることとなり、その結果、私の本籍地の地番は、物理的には、新築された旅館の厨房の一部となりました。考えてみれば、この時に本籍地に関する違和感をもっても良かったのですが、かなり遠い関係になっていたとはいえ、この親戚とはお付き合いがありましたから、そのときは本籍を移そうなどということは考えませんでした。この地のお寺に先祖代々のお墓があることも影響していたのかもしれません。
ところが、この旅館は、バブルの崩壊などの経済の低迷と団体旅行や宴会の減少のあおりを受けて、しばらく前から経営不振に陥ってしまいました。そして、債権者が債権回収のために旅館の土地・建物を競売にかけるので、旅館を閉めるとの連絡を現在の経営者となっている親戚から受けたのは、昨年の年末のことでした。そして、新年早々、旅館は落札され、全くの他人の手に渡ることになりました。聞くところによると落札したのは、「宇宙何とか教」という宗教法人で、旧くなった建物に最低限の修復、改装をして、近々にも営業を再開する予定とのことです。
ということで、急に気になりだしたのが、私の本籍地問題です。他人の所有となった宿泊施設の地にある本籍地をどうするか・・・。現住所に移すという選択肢はもちろんあるのですが、その地には、先祖代々の墓もあり、相当な愛着もある。かといって、菩提寺の住所に本籍地を移すのもおかしいし・・・。私には、娘しかいないことから、先祖代々のお墓の敷地を整備して、弟家族と一緒に「塩澤家」のお墓をまとめようか、などと考えていたのですが、本来は、本籍地とは論理的には関係ないお墓の件も、本籍地を他に移すのであれば、何も東京から遠い長野県にお墓をおいておくこともないのではないかと考え始めるなど、思わぬところに影響も出始めました。
このようなことが起きたために、「本籍地」とは何だろうかと考え始めて調べてみましたら、何と、本籍地とはどこの市町村が私の戸籍を管理するのか、といった程度の意味しかなく、「特定個人の戸籍を検索するための『タグ』のようなもの」との説明がなされていたのには、いささかたまげてしまいました。したがって、本籍地は、個人の希望で好きなところにおくことができ、実際、東京都千代田区1丁目1番地の皇居や富士山山頂、最近ではディズニーランドなどを本籍地とする人も多いそうです。
読者の皆さんの中には、「本籍地」なんてそんなものだと以前から認識されている方が大勢いらっしゃるのかもしれませんが、少なくとも、私にとっては、上述のような「本籍地の危機」に直面して、自分と社会との関りや、自分の社会の中での位置取りのようなものに、何となくではありますが、居心地の悪さを感じ、不安定な気分に見舞われることになったのです。
以前にも書いたように、自分にとって国とは何か、そして、今回書いたように、自分にとって本籍地とは何だったのだろうなどということを考えさせられてみると、自分と国、あるいは、社会との関係は、たまたまこの時代、この地に自分が生を受け、縁をもったという以上の意味はなく、特別とか必然とかいったことで結び付けられている関係ではないということをつくづく感じます。そうだとすると、自分自身がその国で、その土地で、周囲の人々や社会に積極的に働きかけ、関係(できればよい関係)を築きあげる努力をしない限り、自分自身の存在は、時の流れの中で浮き草のように漂っていくことになってしまいそうです。何しろ、私たち、個人個人は、「タグ」をつけないとどこの誰だか分からなくなってしまいかねない存在なのですから・・・。
訳の分からないことを書いたかもしれません。お許しを。
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