第58回 続「90年比25%削減」


 最近では、地球温暖化対策がマスコミの話題にのぼらない日はほとんどなくなりました。それだけ大きく重要な問題になっているということでしょう。このコラムでも、このところ何回かこの地球温暖化対策問題をめぐる話題、しかも、振り返ってみるとやや周辺の藪をつつくような話題ばかり書いていて、またかという声も聞こえてきそうな気がします。でも、まあ、重要な問題というのは、いろいろなところに波紋のように気になることを引き起こすのだとご理解いただき、もう一回、お付き合いください。ちなみに、今月、11月号のオピニオン誌"WEDGE"には、「CO2『25%削減』の問題点が丸ごとわかる」と題した一連の水準の高い記事が載っていますので、ご関心の向きには必読だと思います。「90年比25%削減」という目標のもつ、それこそ本質的な問題点が分かりやすく解説されています。


 さて、再び、藪にもどります。


【COP15の成否と「90年25%削減」】


 10月29日の朝日新聞朝刊1面には、「『ポスト京都』議定書の年内採択断念 COP15」という大きな見出しが躍っていました。「ポスト京都」議定書の交渉の事務局を務めている、国連気候変動枠組み条約事務局のデブア事務局長の記者会見での発言をもとにした記事です。そして、その記事は、「交渉が長引けば、鳩山内閣が掲げる2020年までに90年比25%削減という中期目標の見直しも迫られるおそれもある」としています。今回の国際交渉の成否の鍵を握る米国で、国内の温暖化対策に必要となる法案の年内の成立可能性がほとんど無くなっていたことなどからも、年内に交渉がまとまりそうもないことは既に十分に予測できることでしたから、このニュースは別に驚くようなものではありませんでしたが、条約交渉推進の実務責任者であるデブア事務局長が、まだ年内2回の交渉会議を残すこの時期にそう公言したというのは、やや意外なことではありました。交渉の現場では、今年末にセットされた交渉期限までに合意を形成しなければならないという心理的圧力が全く高まりようもないほど、交渉の先行きに対する醒めた諦めの雰囲気が蔓延していたということでしょうか。


 しかし、朝日新聞が書いたように「鳩山内閣が掲げる2020年までに90年比25%削減という中期目標の見直しも迫られる」ことには、十中八九なりません。何故なら、仮に京都議定書の約束期間終了に間に合うタイミングでポスト京都議定書についての国際合意ができなかったとしても、国際合意が存在しないからといって、京都議定書期間が終わった後はもう国内で排出削減対策は行わないということは政治的にあり得ない選択だからです。そして、それまでに国際合意が出来ていようといまいと国際公約で掲げた「90年比25%削減」に沿った国内対策の準備を開始することになるでしょう。


 つまり、私たちは国際合意が事前に整った場合よりも、鳩山総理が掲げた「主要国の参加による意欲的な(排出削減)目標の合意」という条件を「90年比25%削減」の前提条件として担保することが、一層、難しくなった状況におかれつつあるのです。しかし、COP15で交渉が整わないことは、以前から十分に想定されていた事態ですから、ここにも「前提条件」の危うさが見えます。それにも拘らず、「前提条件」を具体的にどのように確保していくのか、どうなったら「前提条件」が確保されたことになるのかということについて、政府が真面目に検討し、それについて国民のコンセンサスを構築するための努力を始めているようには未だに見えません。(なお、その検討を行う際に詰めるべき点についての常識的な例は、前回、連載第57回目の「90年比25%削減」に記しました。)


【温暖化対策の国民負担】


 また、麻生政権時代に政府が実施した温室効果ガス排出削減対策の経済や家計に与えるインパクトの試算値に間違いがあることが明らかになったとの報道もありました。前回のコラムでも引用した「『90年比25%削減』を達成するための国民負担は、生産活動の低下等を通じた経済影響によって世帯当たり少なくとも年間36万円(可処分所得の低下22万円、光熱費負担の増14万円)」との試算値において、「光熱費負担の増14万円」は既に「可処分所得の低下22万円」に織込み済みで14万円がダブルカウントされていた(つまり、家計への負担は22万円だった)ことが明らかになったというのです。このダブルカウントは意図的なものだった、いや、単純な間違いだったという、すったもんだの騒ぎもあったようで、どうせ「経済分析結果」は為政者にとって都合の良い数字になるのだろうという、そうでなくても官製経済分析結果について従来からある不信感を増幅するような残念な結果になりました。(余談になりますが、こうした事態に対して経済分析専門家は、その道のプロとしてこんな誤りを今まで放置してきた政府や、間違いに気がつきながらこれまで何も指摘しなかった分析機関に対して、怒りの声を上げるべきだと思います。)


 まあ、あれやこれや、先にも書いたとおり地球温暖化問題に関してはいろいろな問題が出てきて話題には事欠きませんが、鳩山総理の掲げた我が国のCO2の排出を2020年までに90年比で25%削減するという目標、いわゆる「90年比25%削減」目標について話をしていると、意外に「いいんじゃない?」という人が多いのに驚きます。


 前回も書きましたが「90年比25%削減」を達成するためには、それによってもたらされる生産活動への制約と光熱費価格の上昇によって世帯当たり年間約36万円、いや上記のように今となっては22万円が正しいようですが、そんな規模の負担増がもたらされることが、以前、政府が行った経済分析により推計されています。これだけでも大変な負担増ですが、これはある意味、家計のフロー面だけの影響を示したものです。「90年比25%削減」の達成のためには、家庭からのCO2排出を削減するために、これに加えて太陽光発電パネルの設置、ハイブリッドカーの購入、そして断熱性能を上げるための住宅のリフォーム等のストック面での投資が行われることが必要とされています。これらの投資については、一部は補助金の支給による公的支援が行われるでしょうが、基本的には各世帯の自前の資金でやることが前提です。これらの投資に必要な経済的負担の大きさ(おそらく百万円のオーダー)を考えると、私自身の感じを含めて申し上げれば、国民にとっては、まだ、そうした負担の大きさについての実感が湧いていないということではないかと思います。


【欧米諸国の取り組みに学ぶべきこと】


 欧米諸国はそうした検討を十分に行って、交渉に臨んでいます。どのような目的で欧米諸国がCO2排出削減対策を進めているか、そのために自国の国民や産業に求めようとしている負担はどれほどのものなのかなどについては、先のWEDGEの一連の記事でポイントが良く整理されているので、是非、ご参照いただきたいと思いますが、私自身も、オランダの排出量取引制度を調べてみてちょっとびっくりしたことがあります。


 よく知られているとおり、EU諸国では既に排出量取引制度が導入され、主要な産業施設毎に、毎年、年間CO2排出量の上限枠が割り当てられています。しかし、よく調べてみるとオランダの場合、その割当量は、単に排出量を規制するというものではなく、中長期的観点に立ったエネルギー原単位の向上施策と整合するように決められるのです。ですから、政府はエネルギー原単位の改善に向けたきめ細かい支援や指導を併せて実施しています。ちょっと細かいことは省きますが、要は、オランダではCO2の排出削減対策は、エネルギー原単位の改善を政策的に進める産業競争力強化策でもあるのです。


【規制は技術革新を促進する?】


 こうしたことを書くと「90年比25%削減」という高いハードルを掲げることが、日本の産業競争力の強化策なのだという人がいそうです。技術は危機的状況の下で進歩する。マスキー法のときも不可能といわれてと言われていた排ガスの排出基準を技術革新で突破できたではないか。しかも当時の誰もが想像もつかないほど短期間で・・・。


ちょっとマスキー法のときに起きた事実を再確認してみましょう。マスキー法は、1970年12月に制定され、その内容は、
 (1) 1975年以降に製造する自動車の排気ガス中の一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)の排
   出量を1970-1971年型の1/10以下にする、
 (2) 1976年以降に製造する自動車の排気ガス中の窒素酸化物(NOx)の排出量を1970-
   1971年型の1/10以下にする、
 (3) これを達成しない自動車は期限以降の販売を認めない
といったものでした。これに対して、米国の自動車業界はこれらの目標は達成不可能な規制内容だと大反対。ところが、日本のホンダが、法律制定からたった3年後の1973年12月、この基準をクリアするCVCCエンジンを搭載したシビックを発売し、規制をクリアしてしまったという経緯でした。


 つまり、高いハードルの規制が、不可能といわれていた技術革新を誘導した。しかも、今回、3年ではなく2020年まで時間がある・・・。「必要は発明の母」で、ニーズが技術革新を誘引することは間違いありませんから、規制には技術革新を促進する効果があることは間違いないでしょう。しかし、だからといって規制によって技術革新が目標どおり達成されるというのは、はなはだ乱暴な主張だと思います。規制の技術革新に与える影響は、古くからの技術政策論の課題の一つですが、未だにどの程度の規制のハードルの高さだったら、技術革新によってハードルを乗り越えることが出来るのかについては、残念ながら答えは出ていません。


 この「規制が技術革新を実現する」か否か、という政策的にも重要な問題について、総合科学技術会議や政策科学に携わる公的研究機関の真面目な検討を望みたいものですが、私は、それ以前にこの命題は、命題の立て方として乱暴ではないかとも思います。問題となる規制の中身、関連する技術進歩の状況を踏まえた、もっときめ細かい問題設定をすべきです。すなわち、ある規制を達成するためには、どのような技術要素における、どのような内容の、そしてどれほどの程度の技術的飛躍が必要なのか、という検討です。ですから、「規制が技術革新を実現する」のでCO2の90年比25%削減は可能だなどという議論は、無責任極まりない主張だと思います。そして、現在の状況は、90年比25%削減の達成に向けた(技術革新の実現の可能性についての評価を含む)具体的な道筋が描かれていないという点で、その無責任極まりない状況になっているのではないかと思います。


 ちなみに、言い訳をするようですが、私も「90年比25%削減」の目標を掲げることには反対ではありません。持続可能な社会に日本を変えていくためには、やはり抜本的な産業構造の変革が必要です。問題は、その目標の性格と目標を達成するための方法論です。仮にこの目標の実現がどうしても困難となった場合には変更や救済策がある柔軟性をもったものであれば、こういった高い目標を掲げるのも、たまには良いことなのかもしれません。しかし、「90年比25%」削減の目標が義務、特に自国の事情で変更することが困難な国際的な義務となる場合には、やはりその実現可能性を十分に検討すべきです。


繰り返しますが、この日本が2020年に向けて背負っていくことになるCO2の排出削減目標に係る国際的義務の重さと日本の将来に及ぼす影響は、「いいんじゃない?」といった気分で判断して済ませるにはあまりに重過ぎる問題です。「90年比25%削減」については、「前提条件」をフルに活用しつつ、周囲の状況をよく分析し、他国のやり方をよく見た上で、まだまだよく考えるべきことがたくさんあります。その上で、国民に分かりやすく客観的な情報を提供し、国民の個人個人がそれぞれに自分の頭で考え、納得し、そして国民全体としてしっかりと選択したという状況にすることが大事です。そうでないと結局は国民の不満ばかりが高まっていくことになるでしょう。


幸か不幸か、そうしたことに割ける時間的余裕はもう少しありそうです。



記事一覧へ