第57回 「90年比25%削減」
政権が変わって、何かが変わりそうな感じが出てきました。既得権やこれまでのしがらみにとらわれず、政治のリーダーシップによってこれまで常識的にはそう簡単には進まないと考えられていた改革が進んでいくならば、良かれ悪しかれ、この国は新たな国づくりの道を歩いて行くのでしょう。何よりも、澱がたまって身動きできないようなこれまでの閉塞感から開放されるように思えるのは、とても良いことのように思えます。しかし、そうした具体的な歩みを進める際の最初の痛みとして、50年以上に渡って地域とそこに住む人々の生活と運命を大きく変えてきた、八ツ場ダムのような問題にまず突き当たらざるを得なかったのは、ある意味、象徴的であり、また皮肉なことでもありました。
鳩山首相の訪米と国連演説は、国内では一定以上の評価を得たようです。特に、国連の気候変動サミットで提示した「我が国は、温室効果ガスの排出を2020年において90年比25%削減する」という公約は、世界各国から高く評価されたと報道されています。確かに、従来の慎重で思い切った政治的メッセージを発することが少なかった日本とは異なる新しさを感じます。主催者の潘事務総長やCO2の排出削減余力を背景に高い削減目標を掲げる欧州諸国はもちろんのこと、オバマ大統領も「勇気ある発言」と称えたという報道を見た記憶があります。
我が国において「90年比25%削減」を実現することは容易ではありません。麻生前総理が「2005年比15%削減」目標を「政治的決断」で選んだ際の判断材料となった分析によると、「90年比25%削減」を達成するための国民負担は、生産活動の低下等を通じた経済影響によって世帯当たり少なくとも年間36万円(可処分所得の低下22万円、光熱費負担の増14万円)、総額で18兆円(消費税率にして6.8%相当)に及ぶと試算されています。このほかに太陽光発電パネルの設置、エコカーの購入、住宅の断熱化等に必要となる施策・投資額が1年で13兆円(消費税率にして5%相当)にのぼると見られていますが、この相当部分は国民の支出によって為されるものなので「90年比25%削減」を実現するための国民負担は極めて大きなもの(ざっくり言って、消費税率を10%程度上げるのと同水準の負担を求めるもの)になる可能性が大きいと考えられます。(ただ、この試算には環境製品を生産供給する新産業の経済効果や、温暖化被害の未然防止の効果が反映されていないということで、試算結果の見直しが新政権の下で行われることになるようです。試算する人の立場によって数字が変わるというのも、この場合はちょっとあからさま過ぎておかしな感じがしますけどね。)
そんなに大変な負担を日本国民にもたらす可能性の大きい削減目標であるにもかかわらず、日本のCO2の排出量は世界の4%程度に過ぎませんから、日本だけがCO2の排出を大幅に削減しても地球温暖化対策としてはほとんど効果がありません。地球温暖化を食い止めるためには、世界全体のCO2のおよそ半分を占めているにもかかわらず、現在の京都議定書では何ら排出削減義務を負っていない米国、中国、インドなどの国々を国際的な排出削減の枠組みに取り込み、さらに、今後、CO2排出量が大幅に増加する新興国に排出削減に向けた努力を促すことが必要です。
鳩山首相もこのことは十分に承知された上で、「90年比25%削減」の公約の前提条件として「主要国の参加による意欲的な(排出削減)目標の合意」が為される必要があることを明確に述べられています。つまり、必要な前提条件は明らかにしつつ、これらの国々の参加する国際的な合意形成に向けたリーダーシップを発揮されたのだと説明されています。
しかし、私はその説明には大きな疑問を感じます。
繰り返しになりますが、米国、中国、インド及びその他の新興国を温室効果ガスの排出削減のための新たな国際的枠組みに取り込むことが今般の交渉の最も重要な課題です。そうでなければ、国際合意を目指す意味はほとんどありません。米国は、国際的な枠組みに参加する気持ちはあるものの、自国の産業の国際競争力を維持する観点から、中国やインドが新たな枠組みに参加するかどうかが最大の関心事です。これらの国々が参加しない国際的な枠組みは、おそらく議会が認めないでしょう。ですから重要なことは、中国、インドなどの国が、排出削減のための国際的な合意に参加しないとまずいと思わせるような交渉を進めることが必要です。これができて初めて、米国を含めた主要排出国が参加した、地球温暖化防止の観点から意味のある国際合意を実現することが可能となります。
しかし、このためにCO2の排出削減量の大きさを競うことはほとんど意味がありません。地球温暖化対策についての取り組みの大原則のとして、「共通に有しているが差異のある責任及び各国の能力に従って」取り組むことというが国際的な原則として認知されている中で、中国やインドに対して日本は意欲的に排出削減に取り組むのだから、あなたたちも排出削減をすべきだと言っても、これらの国々は、日本は先進国としてやって当たり前のことを表明したに過ぎないのだから、せいぜいしっかりやってくれと言うでしょう。日本が率先して「友愛」精神に立った取組み姿勢を示せば、各国も同様の考えに立って協力するとお考えになったかどうか分かりませんが、そんな性格の交渉ではないように思います。(ところで「友愛」という理念は国際的に理解されているのでしょうか?「友愛」をfraternity:(博愛)と訳していた英語の論文を見ましたが、「博愛」とどう異なるのでしょう?)
それでは、中国やインドを参加させるためには何が大事なのか。どうしたら、中国、インドやその他の新興国に、この国際合意に参加しないと「まずい」と思わせることができるか。実は、この「まずい」と思わせることのできる戦略が、あの「フラット化する世界」を書いたThomas L. Friedmanの"Hot, Flat, and Crowded"に分かりやすく書いてあります。
それは、こんなロジックです。「米国は、これまで150年間、石炭や石油を利用し大量のCO2を排出して産業を発展させてきた。これからは、中国の発展する番だ」という中国人に対し、Friedmanはこう言うのだそうです。「あなたのおっしゃるとおりです。あなたたちには、石炭や石油を利用し大量のCO2を排出して産業を発展させる権利があります。どうぞ、時間をかけてそうした産業を発展させて下さい。でも、米国は、あなたたち中国人がそうしている間にクリーンな技術を開発し、クリーンな産業を発展させて、圧倒的な競争力を持つ次世代の産業を作ります。米国にとっては、そうした時間が長ければ長いほどありがたい。」
つまり、中国やインドに一定の排出削減の努力を課し、そして、米国を新たな国際的な枠組みに取り込むための鍵は、先進的省エネ技術や新エネ技術の移転を中国、インド、その他の新興国に約束することなのです。したがって、今後の国際交渉の大きな焦点は、技術移転を促進するための仕組みづくりとそのための資金の確保になっていくものと思われます。現に、9月24, 25日に米国で開かれたG20首脳会議における地球温暖化問題に関する議論の中心は、技術移転に必要となる資金を確保するための国際的な基金の創設の問題だったようです。
同じ国連の気候変動サミットにおける演説の中で、鳩山首相は、さすがに開発途上国への技術移転を促進させることの重要性を的確に指摘されています。そして、そのための「鳩山イニシアティブ」を提案されました。今後、この面でも応分の、いや応分以上の負担とリーダーシップを求められていくことになるでしょう。このとき「90年比25%削減」の公約は、あまり意味も効果も持ちません。
「90年比25%削減」の前提条件をどのように担保するかという問題も、実は容易なことではありません。国際交渉において、最後の最後に合意形成の推進力となるのは、交渉を壊した当事者にならないようにしたいという強い思いです。これは交渉者の面子の問題ではなく、「交渉を壊した国」とのレッテルを貼られることによる政治的なダメージを避けるという国益に関わる問題になってきます。簡単に言えば、「主要国の参加による意欲的な目標の合意」とは、どういった条件が満たされることが必要なのか明らかにしておき、その条件が満たされないときには決然として合意に反対するということが必要になります。しかし、「主要国」とはどの国か、「参加」とはどのようなことか(義務を負うことか、自主的努力を約束することで足りるのか)、「意欲的な」とはどのような内容なのか。交渉は生き物で必ずしも想定どおり進みませんし、最後は文書の文言などにニュアンスを残しつつ決着を図るなどということがありますから、前提条件がクリアされる条件を事前に詰めようとしても詰めきれないのが実態と思います。そんな中で、各国の議論が終息に向かう中、最後の最後になって日本だけ合意に反対するためには、よほど前提条件と合意案の相違点を分かりやすく説得的に主張できない限り、間違いなく「交渉を壊した国」とのレッテルを貼られることになりかねません。
勝手に妄想を膨らませて、交渉の最後の最後に起きる可能性のある場面を想像してみましょう。先にも述べたように、先進国と開発途上国の間の省エネ、新エネ技術の技術移転促進の効果的な仕組みが合意できるかどうか、そして合意の見返りとして中国、インドが削減義務を負う、あるいは、義務に近い自主的削減努力を約束できるかどうか、この辺の文言の詰めになるでしょう。技術移転の効果的仕組みについては、先進国側が拠出する技術移転のための基金の額や、移転技術に関する知的所有権の取り扱いや対価の書きぶりが問題となるでしょう。そして、交渉の最後の最後は、先進諸国、開発途上国諸国の意向を踏まえながらも、米国と中国、インドが別室で双方のぎりぎり満足できる議定書の文言案を詰め、全体会議で諮られることになるでしょう。(ちなみに、こうした国際会議では全会一致が合意形成の原則です。)
「前提条件」が本当に前提条件として機能するか。さらに、先に述べたように、あの前提条件つきの「90年25%削減」の公約が、交渉を促進する効果があったのか、ということを考え、さらに、前回の原稿で書いた「国際炭素市場構想」と排出削減量の公約の関係を考えると、私は、今回の「90年25%削減」の公約が、日本の将来に禍根を残すような気がしてなりません。私は、オバマ大統領が「勇気ある発言」と評したときの英語を見ていませんが、もしそれを言うときに、braveという言葉を使っていたとしたら、それは褒め言葉だったのかどうか、ちょっと疑問に思います。
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