第40回 「春なのに秋桜みたい」
「春なのに秋桜(コスモス)みたい・・・(♪)」
これは、むかしむかし、化粧品のコマーシャルに使われた私の大好きなコピーです。調べてみると昭和47年(1972年)の秋から次の年の春にかけて、資生堂によってプロモーションされた、口紅のコマーシャル用に生み出されたものでした。
「春なのに秋桜みたい。」このコピーは、寂しい気分になりがちな秋に、新しい春への期待を抱かせる気持ちを呼び起こします。そうかと思うとフワッとした暖かみのある中に、なんとなくあやうい翳を宿し、短い言葉の中に、全体のアンビバレント感が表されている。本当に、このコピーは傑作だと思います。ただ、口紅の商品コンセプトとマッチしていたかどうかについては忘れてしまいましたがね(笑)。
いま、我が家からは、秋の日差しに揺れるコスモスが窓いっぱいに広がって見えます。これは、もう耕作をやめた隣の農家の畑を利用して、農協が地区景観の向上のためにコスモスを畑いっぱいに育ててくれているからなのですが、ここ数日の秋晴れの中で、澄み渡った青い空の下、ピンク色のコスモスの花が秋風に揺れているのをみると、そうした風景と同じ世界で起きている金融市場の大混乱とのミスマッチ感とともに、このコピーが頭の中に浮かんできます。
世界の金融市場が未曾有の危機的状況にあるにもかかわらず、国内は政局一色です。この危機に向けて政治が講じようとしている対策は、この動きの激しい経済社会情勢のもとでは、おととい作ったような補正予算だけ*。それも政局次第でどうなるか。そして、民放のTVで流れているのは、秋の番組編成替えの谷間を埋めるべく、お手軽に作ったバラエティー番組ばかり。総選挙の時期に関する不透明感はここ数日で大きく増しましたが、もし総選挙になれば、さらに1ヶ月以上は政治の空白が続き、TVでは、またその間、政治ショーでお祭り騒ぎをやるのでしょう。この国はいったいどうなっているのだろうかと、どうしようもない焦燥感のようなものを感じますが、しかし、そうやって立ち竦んでいるうちにも時間は確実に過ぎていきます。
*この文章を書いていた10月初めには、さすがに第2次補正予算など追加経済対策の必要性が指摘され始めたと報道されていましたが・・・。
政治はしっかりしてもらわなければ困るものの、今般の金融市場の混乱は、一国の国としての統治能力の限界を改めて露呈しています。あまり話題にはなりませんでしたが、次のような報道が私の目を引きました。それは、まだ構想中であった不良債権買取機関が、買取対象とする金融機関を、当初、米国の金融機関に限るという案が出されたが、その後、すぐに米国を主たる活動拠点とする金融機関とすると変更されたという報道です。
確かに、米国国民にとっては、自分の払った税金が金融機関の救済のために使われるという話ですから、どこの金融機関かということは大変に気になるでしょう。どこの、あるいは、だれの金融機関かなどということは、現在のグローバル化した経済の下では詰めてみてもしようがない話のようにも思いますが、税金の使いみちといった、いわば個別の国家政策の典型のような問題とグローバル化した政策対象との微妙な関係が、一挙に顕在化してもおかしくないような瞬間だったように思います。
ところで、これまでは、やや能天気に他人事のように株式動向を見ていた我が家でも、私が役所を辞めた後、妻が株主優待特典の獲得とささやかな利殖を目指して株を多少購入するようになってから、世界の金融市場の混乱が家族の会話の話題にのぼるようになりました。(ただ、こんな株主もいるんだと改めて認識しましたが、妻の株購入の主目的は株主優待特典を得ること。ですから、購入株数は株主優待特典を得られる最小限度額で、しかも、実利ある特典ということで、食品メーカーばかりです。まあ、私も特典で送られてくるジュースやお菓子の恩恵に与ってはいますがね(笑)。)
そんな動機不純な株への投資であっても、妻はやはり株価の動向は気になるようです。そのため、これまではほとんど見ることのなかった新聞の株式面も見るようになりました。こうした姿を目の当たりにすると、人はやはり何らかの痛みを実際に感じるようになると関心も湧き、実際の取組みにも真剣味が出てくるようです。
以前、オランダに住んでいたときにこんな話を聞いたことがあります。不精なせいで、自分で実際に調べたことはないし、かなり以前に聞いた話なので、現在、どうなっているか分からないのですが、オランダでは、個々の市が強い課税権限をもっているので、市民に課せられる税額が居住している市によって大きく異なるそうです。何でも税金の最も高い市と低い市が、偶然とは思いますが隣接しているところがあるそうで、その両市民は、それぞれの市当局が税金を原資に市民に提供している公共サービスの差を目の当たりに実感できる。
市民の税負担の大きい方は、街路の整備や市内の清掃など住民サービスがやはり目に見えて行き届いている。一方、税負担の小さい方はそれらの点で見劣りする。オランダの土地代は、日本と異なって制度的に極めて安く維持されていますから、市民が居住地を変えることに対する障害はあまりありません。したがって、どこの市に居住するかというのは、比較的自由度高く選択できます。ですから、市民は、税金の安い/高い市を選択して、そこで受けることの出来る住民サービスの内容については納得ずくで、その地に住んでいるといえるでしょう。そうした事情もあって税金の使いみちに対する市民の関心がとても高い。
こうした自分の負担や痛みが、分かりやすい形で見える社会では、地域の政治への関心や参加意識も当然のことながら高くなります。これは、人間の心情から見て極めて自然なことです。こういったことを見知ってから、私は、日本の国が抱える財政、年金などの問題を国民の理解を得て解決する最も効果的な方法は、国民が負担している税金や保険料が、どういった使途に使われ、どのような行政サービスにつながっているかが、負担者一人ひとりの目に見え、感じることのできる社会にしていくことが必要だと考えるようになりました。それは基本的には、地方分権を進めていくことでしょう。地方にもっと権限と仕事を移転し、負担と効用の関係が実感できるような社会にしていくことが重要です。それが日本をより成熟した民主主義社会としていくための基本的方向だと思います。
ただ・・・、というとたちまち総論賛成、各論反対のようで歯切れが悪くなってしまうのですが、単純に基本的方向を目指せないのも現実です。日本はオランダと異なり、特に都市部の土地代が高いことから、私たちの物理的移動の自由度が高くないことも考慮される必要があります。そんな土地代の状況を放置したまま地域の多様性を強めても、それは地域間の格差の拡大にしかならないでしょう。また、地方分権を実現するために、仕事や財源を地方に移すだけではうまくいきません。
例えば、かつて、こんなことがありました。国会での議論にしたがって、事業者による化学物質の自主的管理を促進するための指導権限の一部を都道府県に移すことになったのですが、その時、N県の人が心細そうに「N県では、化学の分かる技術系のスタッフを県の行政職員として一人も採用していないんです。だから、地方の権限の強化に反対することはできませんが、実は、どうやってこの仕事をこなすか。いやあ、とっても頭が痛いんです」とおっしゃるのです。それは大変でしょう。専門外の方にしてみれば、化学物質の名前を聞いただけでも頭が痛くなるのに、300を越える化学物質ごとにその発生源となりそうな工場を一つ一つ確認し、発生量などを整理、集計しなければならなくなったのですから・・・。
地方分権の問題については、もっと勉強してから発言したいと思いますが、ここで書きたかったことは、人の感情や行動から見て無理のない、自然な制度、そして、政策実施の現場から見て無理のない制度づくりが大事だということです。これは、国民感情受けする、いわゆる「分かりやすい」制度とはちがいます。分かりやすさに加えて、もう一段、そうした政策が実際に動くのかどうか、長続きするものかどうかという観点から十分に検討された制度設計と出来るかどうかが重要です。しかし、どうも最近、そういった良く考え抜かれた制度設計が最近少なくなってきたのではないか。頭だけで考えた政策や、あるいは、政策効果の一面だけしか見ていないような政策が増えているのではないかと感じています。
またぞろ出てきた社会保険庁による保険料納付データの改竄の問題は、もちろん、到底、許されるものではありませんが、こうした行為が行われるようになった背景には、それまで対象外とされていた小規模零細企業まで含め、全ての企業を1988年に厚生年金保険料の徴収対象としたことによって生じた制度実施面での無理が遠因になっているとの報道がありました。
また、事故米の不正転売の問題なども、人間の心理から見て悪用の誘惑に満ち満ちた、あのような隙のある制度を設計した行政の責任は問われてしかるべきですが、米の輸入義務の達成と通常の流通ルートには乗せにくい輸入米の処理のために、工業用というような無理のある用途向けの処理スキームが考えられたのでしょう。(もっとも、私は、この問題に関しては、辞めさせられた次官が言っていたように、徳のかけらもない業者が最もひどいと思いますが。)この他にも弱者からも否応なく年金を徴収する制度と受け取られた後期高齢者医療制度、尊い志をもち、重労働の仕事に従事しているにもかかわらず、介護士さんたちが低額の報酬に喘がなければならないような状況を生んでしまった介護保険制度など、昨今、行き詰まりを見せている制度は、やはり人の気持ちや人の自然な行動、そして現場の実態から見ると制度設計に十分に意が払われていたとは言いがたかったのではないでしょうか。
これらのことを詰めアマだからだめなんだと言って非難するのは簡単ですが、私は、これらの問題の背景には、もっと根深くて深刻なものを感じます。それは、こうした制度設計は決して悪意で行われたものではなく、関係者は、それなりに真面目に問題に取り組んで(取り組んだつもりになって)生み出されてきたものだからです。もちろん、結果責任はいささかも軽減することはできませんが、狭い個別の局面ではそれなりに最適解を目指して、関係者は制度設計にそれなりに努力をしていたはずです。
サブ・プライムローンの件にしても、証券化された個々の金融商品については、金融商品に関するルールにしたがって、一定の透明性が担保され、それらのリスクは個別には評価できるようになっていたはずです。しかし、全体を見る目を失っていたために、リスクの全貌が把握できない状況に立ち至った。要するに、個別には見ていた(見ることが出来た)はずものが、全体としての状況は何も見えていなかったということでしょう。
悪意なく、問題解決に一生懸命取組み、それなりのリスク管理の仕組みも整っていたのに、結果としてうまく行かなかった。それだけに、私は、事態は深刻だと思っています。
こうなった原因は素人の私でもいくつか想像できます。まず、世の中が複雑化し、情報がますます増大する一方で、政策の企画立案にかけることのできる人手と時間はどんどん減っています。また、余裕がなくなったこともあって、企画立案にあたって現場を十分に見なくなった。しかし、現場の事情は複雑です。現場の話を聞いてみると、机の上では想像もできないような問題や事情が絡まりあっていて、単純な問題設定やそれに対する論理的な模範解答だけでは、本質的な問題解決に迫ることは困難なことが多いものです。
私の個人的経験に照らして言えば、本質的な問題の解決や事態の改革に迫るためには、最低でも2年程度の準備と議論が必要のように思います。それにもかかわらず、最近の政策サイクルは数ヶ月。結果として、目に見える範囲、頭で理解している範囲での解決策を追い求めることになります。かくして皆忙しくなって、一生懸命やって、・・・しかし、部分最適の積み重ねによって、結果的に全体として現実社会の抱えている問題に必ずしもマッチしない、合成の誤謬に満ちた対応に、関係者のエネルギーが使われてしまっているのではないでしょうか。
実は、こうした憂えるべき状況は、官の世界に限らず、民間企業を含め社会の全てのセクターに起きているように感じます。さらに、政策の企画立案に許される人的、時間的余裕が、そう簡単に緩和する方向に変わるとは思えません。
何となく、何となくではありますが、実際に社会で起きていることは、多元的で複雑で、非線形な事象であるにもかかわらず、それを要素に分解してそれらを論理的に組み上げ、新しい政策を一部の関係者で構築していくという問題解決のアプローチが限界にきているということではないかと感じます。うまく表現できませんが、もっと直感的というか、概観的というか、全体を見た政策企画立案の方法論への転換が必要ではないか。「春なのに秋桜みたい」のコピーが見事に捉え表していた全体感と自然な感じを大事にしなくてはなりません。そのためには、連載第36回の「蛍のクリスマス・ツリーとリズムと自然の構造化」に少し書いたように、いよいよ非線形の科学をもう少し勉強しなければいけなくなったような気がします。
最近、企画立案に携わることが多い者としての自戒と悩みです。
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