第39回 学生村は今・・・
三十年ぶりの白馬でした。少し遅い夏休みをとって、白馬を訪れたのにはちょっとだけ理由があります。以前、この連載の第36回 「蛍のクリスマス・ツリーとリズムと自然の構造化」に書きましたが、私は、大学生の頃、毎年のように夏になると白馬の学生村に一週間ほど滞在していました。珍しく一緒に夏休みの取れた娘に、そんな場所を見せてやろうと思ったのと、学生村という言葉をあまり聞くことがなくなった今、昔のその地はどのようになっているかという好奇心もあったからです。
学生村とはいっても、特に何か施設があるというわけではなく、朝昼晩の三食と10時と3時のおやつ付きで、確か1泊3,000円ほどの格安の料金で、簡単な机と蛍光スタンドを備えた部屋を学生たちに提供してくれる民宿がここそこに点在する集落を、当時は学生村と称していたのだと思います。そこに学生は、基本的には勉強をしにやって来ます。司法試験などを目指して、学生村にこもって勉強という人も多かったようです。また、大学のゼミが学生村に合宿に来るということもありました。私はというと、もっぱら大好きな信州の夏をのんびりと過ごしに行っていたように思います。
私が、滞在していたのは、白馬駅から一つ松本側の無人駅、飯森(いいもり)駅の近くの深空(みそら)という名の集落にある民宿で、勉強に疲れて部屋から窓の外を見ると、緑豊かに広々と広がる田んぼの上に、美しい頂きを連ねる白馬岳、杓子岳、白馬鑓ガ岳の白馬三山、いかにも剣呑な山容の不帰の険、そして八方尾根から立ち上がる唐松岳といった後立山連峰の山々が山肌のあちこちに雪渓を残して連なり、その田んぼの上を涼やかな風が吹き渡ってくるという、夏休みを過ごすには絶好のところでした。
学生村では学生は、午前中は、朝早くから白馬の爽やかな空気の中で勉強、午後は、天気が良いと白馬山麓のハイキングなどで過ごすのが普通です。ハイキングの地には事欠きません。近場では、八方尾根、ちょっと足を伸ばせば、木崎湖、青木湖、そして栂池高原など、信州の夏の自然を満喫できるところがいくらでもあります。もちろん、一日、読書や勉強にいそしむ学生もいます。民宿の若奥さんが作ってくれる素朴な昼食の後、風がそよそよと吹き渡る畳の上で大の字になってする昼寝は、これまた最高ですし、おやつの採れたてのトマトやトウモロコシも本当に楽しみです。
そのうちに、毎年、示し合わせたように同じ時期に白馬に滞在するようになった学生仲間もでき、夜になるとそうした見知った顔が集まっては、缶ビールを手にあれこれ議論をしたり、民宿の庭で一緒に花火を上げたり、時には近くの体育館に繰り出していって民宿対抗のバレーボール大会に参加したりして、夕食後の時間を過ごすようになりました。私が知り合いになったのは京都大学の学生さんたちでしたが、そうした仲間と再会するのが楽しみで、仲間が白馬に着くという日には、先に着いていた者たちが連れ立って、北アルプスの山々が見下ろす田んぼの中をまっすぐに伸びる国道の端を、用水に落ちないように気をつけながら、白馬の駅まで30分以上も歩いて迎えに出たものでした。
三十年ぶりに訪れた飯森駅の周辺は、ちょっと恐れていたように、長野五輪の会場になった八方尾根に向かう新しい道ができたり、国道148号線の道沿いの建物が少し建て変わったりしたものの、飯森の無人駅や深空集落は、昔そのままの雰囲気を保っていました。特に、国道沿いに建つ「みそらの館」という昔のままの民宿を見つけたときは、ちょっとワクワクして、その見知った名前を手がかりに国道を折れ、集落に向かう路地に入ってみました。しかし、「みそらの館」と私たちが夏を過ごしていた民宿の地理関係はまったくといって良いほど思い出せません。当てずっぽうに集落を回ってみましたが、集落の様子には何となく親近感があるものの、確か「あたらしや」といったあの民宿らしい家もなかなか見つかりません。
あの時の若奥さんはもう60歳を越えたいい小母さんになっているでしょうし、一緒に民宿を切り盛りしていたお婆さんは、もう完全に第一線を引かれているに違いない。そして、ちょっと遊び人だったご主人は、今では油っ気が抜けた好好爺になっていることでしょう。若奥さんの背に負われていた赤ちゃんも、もう立派な成人となっているはず。この地に留まっているかどうか・・・。そんなことを考えながら、集落をめぐっていると一軒だけ、萱葺き屋根の母屋に続いて木造のアパートのような建物が寄り添うように建つ、ちょっと気になる家が目に付きました。昔、私たちがお世話になった民宿も、こんな感じで学生の宿泊する建物は別棟になっていました。しかし、その家に人気はなく、建物は荒れて、母屋も少し傾いてもいました。一緒に車に乗っていた妻が、「そんなに気になるのなら、昔からある『みそらの館』であなたの探している民宿のことを聞いてみたら?」と勧めてくれましたが、何となくそんな気にもなれず、昔、よく白馬駅まで歩いた国道に再び車を出し、集落を後にしました。
白馬の夏は、昔は、特に駅前や八方の町を中心に、北アルプスを縦走する登山者、学生村の滞在者、テニスやサイクリングで高原の夏を楽しむ若者でいっぱいで、キラキラと光っていたように思うのですが、最近は、駅の周辺も八方の町も夏の白い光の中で静まり返っている感じがします。そういえば、水泳やボート遊びに興ずる若者たちの賑わいを想像しながら途中立ち寄った木崎湖、中綱湖、青木湖の仁科三湖も、予想に反してすっかりと静まり返り、湖畔のホテルなども閉鎖されていて山間に潜む静かな湖の趣を取り戻していました。
昨今の白馬周辺の夏の売りは高山植物を鑑賞しながらのトレッキングのようで、白馬で目にした観光パンフレットの多くが、こうした魅力を紹介するものでした。夏の遅い北アルプス北部に位置する後立山連峰の山々では、短い夏を目いっぱい使うように次々と高山植物が花をつけるのだそうです。そして、そのパンフレットのターゲットは、若者ではなく熟年の観光客です。実際、白馬駅前の信州そばとおやきを供する昔ながらの食堂で出会ったのは、山歩きの格好をした60歳ほどの方々のグループでしたし、ロープウェイを乗り継いで行った栂池高原の高層湿原群をめぐる周回コースも、ご年配のトレッキング・ツアーで賑わっていました。実際、8月もやがて終わろうとしていた時期にもかかわらず、栂池高原は、ちょっと地味ではあるけれど何種類もの高山植物が花を開いていました。よく整備された桟道のあちこちで、たくさんの年配の方々が高級一眼レフカメラを手にしてそうした花々の写真を一生懸命接写しています。日本の山々のあちこちで見るこのような光景は、今の時代を特徴付ける光景になったようです。
「学生村」は、昭和35年(1960年)頃から信州の高原や山あいにある村で、村おこしの試みとして村の意欲ある若者の手で始まり、その後、15年から20年の間、夏でも涼しく快適な勉強と憩いの地を都会の若者に提供しつづけましたが、いつの間にか既にその役割を静かに終えていたようです。学生村は、こうやって時代の使命を終えたようですが、ちょっと見方を変えると、こうした変化は、昔は学生村で山国の夏を謳歌し、そして、今はトレッキングで山々の自然を楽しむ団塊の世代が、日本の時代時代に残してきた特徴ある足跡とも解せそうです。団塊の世代、恐るべし・・・。
以下、余談。
実は、ここまでの文章は8月の末までに書きあげていました。しかし、その後、福田首相の突然の辞任や事故米の偽装販売などを始めとしていろいろなことが起き、すっかり学生村の話題などは自分の心の文脈の中でも全く場違いの話になってしまった感があります。今の雰囲気に合わない。よほどボツにしようかと思いましたが、こんな風に社会の雰囲気が急変する現代社会は、やはり相当におかしいですね。そんな気分の不協和音をお感じいただくのも一興でしょうか?
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