第38回 記録に残しておきたい話(2)
  −国際機関をゼロからつくりあげたある英国人の話−



 久しぶりに二子玉川の花火大会に行きました。しかも、気のおけない家族が5家族も集まって、多摩川の河川敷、それも花火を楽しむには一等地の打ち上げ会場の対岸に陣取り、心地よい川風がそよそよと吹き渡る中、持ち込んだ手料理を肴にビールや焼酎を手にしての花火見物です。皆で楽しみにしていたこの夏のイベントでした。

 この家族の集まりは、1993年から96年までの3年間、オランダ、ハーグに住んでいた時にブリティッシュ・スクールと週末の日本語補修校で子供たちが一緒だった出会いから始まっているのですが、それ以来、理由を見つけては年数回集まり、自慢のワインや料理を持ち寄ってはとりとめもない話に興ずることの出来る仲間達です。普段は、もうなかなか親と行動をともにしたがらなくなった子供たちも12年ぶりに集まって、皆、二十歳を越え、その容姿や風貌を変えたにもかかわらず、お互いに昔の面影をそれぞれの表情の中に見つけあい、和気あいあいと話しに興じていました。

 それにしても、最近の花火の進化は著しく、さすがにあの北京五輪の「巨人の足跡」は出ませんでしたが、オリンピックの五輪やニコニコマーク、そして、さまざまな花の姿を模した花火は見せるものがありました。そして、あのおなかの底に響くような音。これも花火大会の会場に行かないと味わえない、夏の風物詩の一つです。中でも観客の喝采を浴びていた花火は、白色の尺玉の大輪の重なりを背景に、まるで白い綿の花が無数に弾けながら花開くように見えるもので、こうしたユニークで見ごたえのある花火に対しては、会場全体から自然と大きな拍手が沸きあがっていました。

 花火が、人々の興奮を河川敷に残しながら終わったあと、その近くにある、あるご家族の家に上がりこんで、今度は持ち寄ったワインを手にしながらの話題の一つは、まあ、当然のように昔の思い出話とともに、ヨーロッパで見た花火の話になりました。そういえば、私は、ドイツのハンブルグとカナダのオタワで、花火大会を見たことがありますが、それは、いずれも冬の花火でした。

 冬の花火も美しいものです。凛と張りつめた冷気の中で空を彩る花火。ただ、気のせいか冬の花火は花火のひと輝きひと輝きから放たれる煙が目立つような気がしてなりません。それ以来、花火を見るとその影に漂う煙が目に付くようになりました。よく目を凝らしてみると煙も立派に空に大輪の花を描いています。でも冬の強い風は、すぐにその花を吹き消します。

 ところで、なぜヨーロッパでは冬の花火しか見たことがないのだろう。それは、結構長いこと私の心に引っかかっていた疑問でした。ひょっとして、ヨーロッパ人は冬の花火が好きなのか?光と煙の影が織り成す、比較的、明暗のはっきりした花火が・・・。実は、ここ数年間、そんなことが夏になると気になっていたのですが、ふとヨーロッパの夏は宵が長すぎるからなのだという、至極、単純明快な理由に思い当たりました。北緯50度を超えるロンドンやハンブルグなどの北部ヨーロッパの都市では、夏ともなると夜の11時ごろまで日が明るい。ですから、花火をやりたくてもできない。何か日本の花火とヨーロッパの花火の間には文化的な差でもあるのではないか、とまで思っていた私としては、何とも肩透かしを食ったような気づきでした。

 今年の夏は、私の心に、花火のように、一瞬、光り輝く思い出を残して亡くなっていった人たちの訃報が数多く届けられた夏でもありました。その一人がIan Kenyon氏です。

 Ian Roy Kenyon氏は1939年、イギリス、ランカスター生まれ。そして、Ianは、今や500人の規模の中央事務局をもち、年に100回以上の国際査察チームを各国に派遣して、世界中の化学兵器の破壊の監視と化学兵器原料に使用することのできる工業化学品の転用防止に力を注いでいる国際機関、化学兵器禁止機構(OPCW: Organisation for the Prohibition of Chemical Weapons)技術事務局を文字通りゼロから立ち上げた人物です。(ちなみにOPCWの査察団は、日本にも毎年10チームくらい、どこかの化学工場に来ているのですよ。皆さんお気づきでないかもしれませんが。)

 化学兵器禁止機構の技術事務局を創設するために設けられた暫定技術事務局(*1)の事務局長として、新しい国際機関を立ち上げるという、とてつもなく大きく、道筋の見えないような仕事を肩に背負ったIanが感じた孤独感は、Ianが2007年に書いた以下の文章に良く現れていると思います。
 "As I write this it is almost fourteen years since I sat, on 15 February 1993, at a borrowed desk in the offices of the OPCW Foundation, on Noordwal in The Hague, wondering how one set about establishing the Technical Secretariat of a new international organisation, the Organisation for the Prohibition of Chemical Weapons (OPCW).(*2) "
 付言すると、Ianにはゼロから国際機関を立ち上げるというだけでなく、時間制限も課されていました。OPCW技術事務局は、条約の規定で条約が署名された1993年1月13日から2年以内には活動開始の準備が整っているということが要求されていたのです(*3) 。しかし、Ianに用意されたのは、オランダ政府がOPCWを招致するために設立したOPCW Foundationの一室と机一つだけでした。

 ここからIanの戦いが始まります。その仕事はどれほど膨大なものであったか。

 まず、条約を実際に施行するための細則づくりが必要です。条約本体は、24条から成る本則に加え、計12部から成る検証付属書及び秘密情報の保護に関する付属書から構成される全172ページにも上る膨大なものです。この条約は、現存する化学兵器とその生産施設や遺棄化学兵器の廃棄とともに、化学兵器に転用しうる工業化学品の管理を確実に行うため、各国の軍事施設や産業施設の状況についての情報を申告させ、国際査察団を派遣して申告内容の確認を行うことを内容としていたことから、軍事秘密や産業秘密の漏洩の懸念が叫ばれ、申告内容、査察内容・手順のあり方などが、交渉開始から20年以上に渡って条約交渉の大きな争点となっていました。それが、1989年に米国とソ連が二国間で化学兵器軍縮に合意し、また、1991年の湾岸戦争の際にイラクが化学兵器を保有し使用する具体的懸念を連合国側が抱くようになったことなどを背景として、急速に条約の合意に向けた政治的環境が整ったため、細部には多くの異論を残しながらも1993年1月に合意されたのです。

 こうした背景があったことから、条約で規定された各国の義務内容に係る細則を決めるという作業は、難航することが必至の状況でした。また、申告された情報、査察で得た情報に係る機密管理の方法・手順の構築、査察に必要となる機器の特定と調達、査察時に採取したサンプルを分析する分析試験所の設立、査察員のリクルートと訓練、技術事務局の組織、要員のリクルート、予算案の策定、財務・経理・執務ルールの策定などを行う必要もあります。さらに、こうしたルールは、事務的に決められるものではなく、条約を署名した各国の代表からなる委員会の合意で決めることが求められるので、世界の政治環境や、大国の国内政治情勢などの影響を受けることが不可避でした。また、大型の設備や機器の調達に関する各国の思惑も影響します。これを考えただけでもIanが直面した仕事の膨大さと困難さがご想像いただけると思います。

 しかし、Ianがこれらの仕事の前にまず取り組まねばならなかったのは、細則づくりを行うための暫定技術事務局のスタッフのリクルートでした。暫定事務局もIan一人から始まったのです。このリクルートも、国際的に地域バランスの観点から公平に行うことが要請されます。その暫定技術事務局の体制や仕事のやり方も一朝一夕に整うわけではありません。私が暫定技術事務局に国際的にリクルートされたスタッフの第一陣の一人として着任したのは1993年の6月1日でしたが、そのとき、暫定技術事務局には現地採用の事務職員を含め、まだ、総勢35名ほどしかいませんでした。そして、世界から集められたスタッフのバックグラウンドは、軍縮外交に携わっていた外交官、化学兵器関連の軍や諜報機関の専門家、化学産業の技術者、国際法の弁護士、そして、私のような産業政策担当省庁の行政官ときわめて多様で、出身国も20カ国以上に及んでいました。多様ではあるが、それだけに、いつバラバラになってもおかしくない組織環境でした。

 この時期に私が経験した暫定技術事務局の混沌ぶりも少しご紹介しましょう。暫定技術事務局は、人的スタッフの面でも施設面でも、全くと言ってよいほど整っていませんでしたから、仕事を掛持ちすることも珍しくなく、担当外の仕事もどんどんやらされました。今でも冷や汗ものの思い出は、英語の良く出来ないブラジル人の議長とともに、やはり英語レベルが十分とは言えない状態であった私が事務局役になって、ある委員会を一週間も運営させられたことでした。そんな英語の十分にできない議長と事務局が運営する委員会に参加する各国代表もさぞ迷惑なことであったろうと思いますが、不慣れであろうとなかろうと、事務局としては、一日のセッションで各国から山ほど出された修正意見を反映した英語の討議資料を次のセッションまでに用意しなければなりません。このときばかりは、討議文書の準備のために朝の7時から夜の11時まで何も口にすることが出来ず、ハーグでは、唯一、夜遅くまでやっているマクドナルドの閉店直前に駆け込んで、ようやくハンバーガーを口にしたなどということもありました。また、専用の会議場もないので、暫定技術事務局が間借りしていた市の中心部から車で30分ほどもかかる北海を臨む海辺のホテルで会議をせざるを得ず、車のトランクから大量の会議資料を会議場に運びこもうとしたとたん、北海からの強風にあおられて資料が駐車場いっぱいに散乱するといった"悲劇"も経験しました。

 ただ、他方でこうした環境は、出来上がった国際機関にありがちな功名の奪い合いというものとは程遠い、出身国を超えたスタッフ間の結束を生みました。お互いに助け合い、皆、朝早くから夜遅くまでよく働いたものです。今では、その仲間たちも全員OPCWを退職したものの、未だに国境を越えた"戦友"としてお付き合いを続けています。今般のIanの訃報も、こうした仲間からもたらされたものでした。

 Ianは、こうしたちょっと動揺すればバラバラになりがちな組織を率い、そして、各国代表のエゴと駆け引きに立ち向かって、暫定技術事務局に課された責任を果たすべく努力をしていました。各国代表は、暫定技術事務局の意思決定権限を持つだけでなく、事務局とともに期限内に与えられた準備を完了する責任を負っている立場にはあるのですが、その時々の政治情勢を背景として、自国の利益を守るために、さまざまな駆け引きをします。中には、自国の要求を通すため、意図的に準備作業の遅延を図ったり、予算審議を止めたりすることだって厭いません。Ianは、そうした政治的な駆け引きでこんがらがった状況を事務局長として解きほぐしていかなければなりません。

 そんな数多くの困難を乗り越えて、Ianは条約が発効した1997年4月29日までに、とうとう約350名の事務局スタッフと約100名の国際査察員、計450人からなるからなるOPCW技術事務局を創り上げました。そして、条約発効後、第一回目の締約国会議を成功裡に運営した後、同年5月に後任の事務局長に後を託して引退したのです。

 Ianはその後も立派な活動を続けました。イギリスのSussex大学にOPCW技術事務局という新たな国際機関の誕生の記録を残すための研究プログラムを立ち上げ、後世のためにきちんと記録を残す作業を開始したのです。さすがイギリス人らしい立派な努力に、私も若干のファンドを世話して協力しましたが、その成果が、先の注に挙げた"The Creation of the Organisation for the Prohibition of Chemical Weapons - A Case Study in the Birth of an International Organisation -" (Ian R. Kenyon, Daniel Feakes 編著、2007, T-M-C-Asser Press, The Hague, The Netherlands)という本です。新たな国際機関の立ち上げといった貴重な記録が、本として残されることになりました。

 Ianはイギリス人らしく、いつもユーモアを忘れない人でした。熱くなると190cmはあろうかという長身を折り曲げて、眼鏡の奥から青い目でやや人を見上げ、そして口をやや尖らせながら議論を始めます。英語は、本人も自慢のBritish Englishです。でも、普段からやや空気漏れするような話し方なのと、50代半ばの当時からオールバックでありながら、どうも髪があったのかなかったのかあまり良く思い出せない程度の薄さのためか威厳はいまいち。でも、そのうちリズムをとるように机を柔らかくたたきながら話し続けるので、真剣さは良く伝わってきます。リラックスすると椅子に深く掛けながら、機嫌よく体を前後に揺らしながら笑って、時おり得意そうに、口を尖らせながらユーモアを繰り出していました。

 Ianの気分転換は、休みにハーグ市外の草原で、イギリスから連れてきた馬と馬車を操って馬車競技の練習をすることでした。「馬車を操っている最中は、頭の中を空っぽにすることができるんだ」とIanは言っていました。その馬車競技の練習にIanは私の妻と当時8歳ほどであった娘を招いてくれたことがあります。馬車は、意外と速く、また、競技コースのシミュレーションをするために激しい回転をするので、確かに動いている間は、馬車に乗るだけでも相当に集中する必要があります。Ianがイギリスに戻った後、出場した馬車競技の様子を聞いたことがあります。冷たい雨が吹きすさぶイギリス特有の荒天の中、起伏の多い泥濘の競技場で馬車が泥濘に車輪をとられて横転し、Ianは鎖骨を痛めたと言っていました。結構激しいスポーツです。

 ところで、私がIanに初めて出会ったのは、確か1992年の年末のことです。Ianは、イギリスのジュネーブ軍縮代表部の次席代表として、化学兵器条約交渉に携わっていたこともあり、この頃から、条約署名後、条約の施行準備にあたる暫定技術事務局の事務局長候補に擬されていました。そのために主要国を回り、化学兵器禁止条約の施行準備に向けた各国の関心事の把握とスタッフ候補の発掘のために日本に来たのです。Ianは職業外交官ではありますが、ちょっと変わった経歴をもっています。Ianは、エディンバラ大学で化学を専攻したあとユニリ−バという化学会社勤務を経て、1974年にイギリス外務省に"キャリア"として入ります。(イギリスには、こうした理科系の人材が途中入省して、"キャリア"外交官になるという道が昔から存在するようです。)そして、ここからIanは、軍縮、技術協力、核拡散防止などの分野でキャリアを積んでいきます。(科学技術を知る人間が、科学技術分野の外交の第一線で活躍するなんて、日本に比べて何と合理的なことでしょう。)

 私は、何となくその時からIanとは波長が合っていた気がします。私が、暫定技術事務局に勤めていた1993年6月から96年6月までの間、私の担当した分野でもいろいろな問題が発生しました。中には英語が母国語でないために十分な取り組みが出来なかった問題もあったように思います。でも、Ianはずっと私を温かい目で見守ってくれていたように感じています。また、ハーグで私の父親が交通事故に遭って亡くなったとき、Ianは組織を上げて心温まるFuneral Serviceをしてくれました。

  Ianとは、私が日本に戻り、IanがOPCWを退職した後も交流は続きました。もう5年ほども前のことになると思いますが、Ianから「今度、日本に行くが週末が空いているので付き合わないか」とのメールが入りました。もう日本に何回も来ている人なので、それならしばらく行っていなかった父母の墓参りを兼ねて、信州に連れて行ってやろうと思い立ち、新幹線とレンタカーで菩提寺のある上田市の周辺を回ることにしました。

 旧北国街道の宿場町の町並みが残る海野宿、そして信州の鎌倉、別所温泉の温泉街と菩提寺の安楽寺。こんなところに連れて行きました。別所の安楽寺では、国宝にもなっている鎌倉時代創建の三重塔の周辺でちょっと待っていてくれと言ったにもかかわらず、Ianは塔の裏山にある私の家の墓まで坂を登ってお参りしてくれました。信州そば100選にも選ばれているからという理由だけで、好きかどうか分からないけれど昼食に連れて行った山あいにある蕎麦屋で、畳の上に窮屈そうに長い足を投げ出して、イギリス人にとっては、きっと味もなにもない蕎麦を啜っていた姿を見たときには、ちょっと悪いことをしたかなと感じたことを覚えています。

 この信州旅行でもっとも印象的な思い出となったのは、シャイで誇り高いイギリス人だからどうかなと思いつつ、露天風呂を試してみないと誘ってみると、どうでしょう。試してみようというのです。ややぬる目の湯の花の浮く露天風呂に二人で首までつかり、浅間連山とその手前に広がる上田盆地を眺めながら、昔話に花を咲かせたのは今では忘れることのできない思い出です。

 これには、何と言ったらよいか、ちょっと甘いような悲しいような後日談があります。Ianの訃報を受けて、奥様のGriseldaにお悔やみとともに「露天風呂に二人で入ったときのIanのちょっと困ったような、恥ずかしそうな顔が忘れられません」とIanとの思い出のメッセージを送りました。思いがけなく、次の日、Griseldaからメッセージが返ってきました。「すばらしいメッセージをありがとう。Ianは私にはそんなことがあったことは一度も話しませんでしたよ。あなたのメッセージを読んでIanのそんな顔を思い出し、Ianが亡くなってから、初めて、思わずちょっと笑ってしまいました。」

 Ianの葬儀は、8月18日にイギリスに住むOPCWの昔の仲間も出席して、厳粛に執り行われたそうです。享年69歳でした。


1.条約が発効し、OPCW技術事務局が発足するまでに、条約の発効準備や技術事務局を創設するために必要となる準備作業を行うため、暫定技術事務局(PTS: Provisional Technical Secretariat)が設けられた。
2.Ian R. Kenyon, Daniel Feakes 編著、"The Creation of the Organisation for the Prohibition of Chemical Weapons - A Case Study in the Birth of an International Organisation -", 2007, T-M-C-Asser Press, The Hague, The Netherlandsの前書きから抜粋。
3.より正確に言うと化学兵器禁止条約の附則の規定により、条約の施行にあたるOPCW技術事務局は、65カ国が条約を批准した180日後、しかし、最速でも条約が署名開放された1993年1月13日から2年後から、条約の規定にしたがって活動を開始することとされているため、OPCW技術事務局の設立のための事務的な作業は、1995年の1月12日までには完了することが求められていた。なお、実際に条約が発効したのは、軍縮問題をめぐる各国の政治的な駆け引き等もあり、各国の批准作業が遅れて65カ国の批准国となったハンガリーが1996年10月31日に批准した180日後の1997年4月29日となった。

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