第29回 ハノーバーから



 ドイツのハノーバーに来ています。この北部ドイツに位置するハノーバーではスイセンの季節が終わり、木々は芽吹きを始めたばかりですが、穏やかな丘陵に散在する疎林は、うすい黄緑色が点描画のように林一杯に広がり始め、日に日にその色を濃くしています。また、日は確実に長くなり、人々がワインやビールを手に楽しみ始めた薄暮の街路の木々のどこからからは、ナイチンゲールの美しいさえずりも聞こえ始めて、ハノーバーは春の装いに衣替えをしようとしています。

 ハノーバーの中心部では地下に二層に収められたトラム(市電)が、ハノーバー・メッセの会場に向けて、やがて地上を走り始めるころになると、トラムの軌道の両側を走る道路の両側に郊外の住宅が林や芝生の中に広がり、住宅地と公共交通施設が見事に共存する形を見せてくれます。トラムは、市内に網の目のように広がり、しかし、騒音も混雑もない公共交通の理想的な姿を見せていますが、これは、やはり人口の少ないドイツの都市だからできることなのでしょう。私は、ハノーバーは初めてですが、街の一角には中世の街並みの旧市街も昔のままに残されており、また、市の中心からトラムでほんの5分ほどのところには、約300年前に夏の離宮として造営され、今では人々の休日の憩いの場になる広大な庭園が広がっていて、うらやましい都市環境です。

 しかし、この街は第二次世界大戦の際の連合軍の爆撃で完全な廃墟となったという歴史を持っています。市庁舎には、廃墟となったハノーバーの姿を驚くほどよく再現したジオラマが、城塞都市として生まれた中世の姿、第二次世界大戦前、そして現在のハノーバーの姿のジオラマと対比するようにおかれていますが、ジオラマを見るだけでもその徹底した破壊のされ方に暗澹たる気分になります。そんな悲惨な歴史をもつこの街は、広島と約20年前から姉妹都市の関係にあり、市内に破壊されたままの姿で保存されている教会には、広島の平和の鐘のレプリカがおかれていました。



 そうそう、ハノーバーに来ている理由をお話しなければなりません。世界で最大の見本市、ハノーバー・メッセに来ているのです。今年は、そのメッセのパートナー国が日本ということで、メッセ会場のあちこちに日の丸がはためき、日本のポスターが飾られています。日本からは数多くの展示だけでなく、日本文化の紹介ということで、大相撲のパーフォーマンスもあるようです。



 私は、パートナー国、日本の一員としてではなく、ドイツの規格協会(DIN)に頼まれて、メッセの「R&D」のテーマ棟に出展するDIN、連邦政府の研究技術省、ドイツ産業連盟、フラウン・ホーファー研究所などが共催するイベントの一つ、"Innovation and Standardization"というテーマの講演会で、講演をするためにやってきました。(まあ、講演といっても、ちょっとびっくり。展示ブースの一角に椅子を並べた出入り自由の講演で、まるで新商品を売り込むようなセッティングの中での講演でした。)

 DINの計らいでメッセの開会式にも参加しましたが、メルケル首相も出席した開会式の会場は、客席が三階まで円形に立ち上がり、5,000人ほども収容できるほどの、まるで今にもヒトラーが演説を始めてもおかしくないような戦前の雰囲気をそのまま残す会場でしたが、さすがに演出は現代的で、映像やレーザー・イメージをふんだんに使い、1時間半ほどの開会式は、まあ、厭きさせないものでした。最後に登場したメルケル首相は、サブプライム・ローンの問題でもあまりドイツの経済が痛まなかったのは、ドイツの製造業、とくに伝統的に競争力のある機械工業を支える中小企業のおかげと、開会式に招待されたメッセへの出展者を持ち上げていました。ドイツは、近年は、その経済の大層を占めるようになったサービス産業の生産性の向上に力を入れているようですが、サブプライム・ローンの問題を引き金として経済の沈滞が懸念される中で、最近、雇用を着実に増やしている製造業の力を改めて感じたということでしょうか。ところで、メルケル首相の演説の中で気になったのは、market economyという言葉が数多く使われるのですが、それが全てsocial market economyと言われていることです。どうもよく聞いているとsocial market economyの参加者には、責任(responsibility)と連帯(solidarity)が求められると言っていて、この言い回しの違いは、どうも(ドイツ語から英語への)通訳の問題だけでもなさそうです。ドイツの言うsocial market economyの意味を、日本に帰ったら調べてみなくてはなりません。

 ところで、メルケル首相の前に演壇に立ったのは安倍前首相です。「パートナー国」の首相として出席が期待されていた福田首相の特使として、わざわざこの開会式のために日本からいらしたようです。安倍特使の話を聞いていてわかったのは、この「パートナー国」は、2007年の1月にメルケル首相が訪日された折、メルケル首相から「パートナー国」としての協力を要請され、当時の首相であった安倍特使との間で合意されたものらしい。安倍さんは、ご自分でご自分の約束をしたツケを落としたということになります。まあ、そうでもなければ日本ではあまり流行らなくなってきた見本市に、「パートナー国」として大挙してヨーロッパまで数多くの民間企業が出展するということは、なかなかできないことでしょう。実際、「パートナー国」として参加している約150の日本からの出展者に、日本の代表的な企業は、ほとんど名を連ねていません。(個別展示には、いくつかの代表的な日本企業が参加していましたが、そのほとんどは、特定の技術分野に焦点を絞った欧州現地法人の出展でした。)JETRO、AIST(産業技術総合研究所)、中小企業基盤整備機構などがかなり大きなブースで出展していましたから、この企画を実現の段階にまでこぎつけた関係者の方々のご苦労が想像されます。でも、というかその結果、しかし、よかったと思うのは、数多くの日本の中小企業や、地方大学、地方都市の産業振興部局が出展していたことです。日本の産学官連携や中小企業の国際展開がヨーロッパに広がる新たな機会となれば良いと思います。

 ハノーバー・メッセは、何でも60年以上の歴史を持ち、毎年25万人以上の人を集め、毎年のように新たな展示棟が新築されているというように、いまだに年々その規模を大きくしています。今年も62カ国から5,000以上の出展が行われているそうで、巨大な展示棟が20棟以上も今回のメッセのために使われています。先進国でやや時代遅れとなった感のある総合的な産業見本市が、ここハノーバーで盛んなのにはいくつか理由があると思います。その第一は、東欧諸国、ロシア、ウクライナ、トルコ等の近隣の新興工業国に加え、インド、パキスタン、中国などの国々から数多くの中小企業が、おそらく政府の援助を受けて出展をしていること、第二は、総合産業見本市とは言え、20以上の広大な展示棟ごとに、テーマを細かく設定して出展企業を集めていることです。先に「R&D」のテーマ棟があることをお話しましたが、その外にも、「産業オートメーション」、「新エネルギー技術」、「ナノ・テクノロジー」、「衛生器具」などの個別技術分野に加え、ちょっと変わったところでは「下請け技術(Sub-contracting technology)」、「販促品(Promotion products)」に特化した展示棟があります。さらに、"Job and Career Market"と題する技術者の募集のための会場もありました。そして、何よりも大きな理由は、ハノーバー市長はもとより、ニーダーザクセン州政府、連邦政府の首相が自ら売り込みを図るというように、このメッセのためにドイツの国を挙げて世界各国に向けたセールスをしているということでしょうか。



 しかし、正直言って(技術を見る目がないからかもしれませんが)、展示内容にそれほど目を見張るようなものがあるとも思えません。その典型的な一つの例は、「下請け技術(Sub-contracting technology)」棟でしょう。このテーマ設定はユニークではあるのですが、この棟は、ドイツ国内からの中小企業の展示以外は、中国やインド、そしてトルコやウクライナ政府などの政府が広大な出展ブースを借り上げ、それを小分けして、数多くの中小企業が出展しているということもあって、個々の展示ブースは、どれも似たような鋳造部品や鍛造部品が無味乾燥に並んでいるだけです。実際、商談はほとんどないようで、ブースの中では手持ち無沙汰なのか、仲間と雑談に興じている姿が目につきます。でも、そんな様子を見て回りながら感じたのは、西ヨーロッパ、特にドイツ語圏の企業と出会いたいという強い思いで、はるばるハノーバーまで出展をしている新興工業国の中小企業経営者の熱意です。ハノーバーで見る他者の技術や先進国の技術は大変な刺激になるでしょう。たとえ一日中、立ち寄る人もいないブースに座っていることになったとしても、次の発展への大きなステップをこの人たちは踏んでいるのではないかと思います。ただ、私のように特定の技術に関心がある訳でもない人間は、同じような展示が続くとすぐに退屈になって、自分の目のアンテナは不謹慎にもきれいなおねえさん探しモードに切り変わり、目が引き付けられていく先は、SIEMENSなどの大企業のブースということになりがちなのですが(笑)。 

 ところで、このメッセのハノーバー市に及ぼす波及効果は大変なもののようです。街中、東欧、ロシア、中国、日本などからの外国人の旅行者であふれ、ホテルやレストランはどこも満員です。(ただ、不思議とアメリカ人やイギリス人は少なかったようで、街で英語を耳にすることはほとんどありませんでした。)一方、この賑わいは旅行者にとっては大きな迷惑で、四つ星のホテルが一泊?365(約57,000円)、三つ星でも約48,000円と法外な値段に跳ね上がります。いくらなんでもこれはやりすぎと思うのですが、他の外国人が平気な顔をしているところを見ると、経済が停滞して自国通貨の価値が下がっている国民の悲哀を私も味わったということでしょうか。

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