第18回 「生物は原子・分子の流れの中のゆらぐ淀み」 −「生物と無生物のあいだ」の描く生物観−
自分の持っていた殻のようなもの、これまでの知識や経験を通じて自分の中で育まれ、自分の感性や発想や思考のモールド(型)となっていたようなものを大きく変えるようなものやできごとに出会い、世の中が少し違って見えるようになることがあります。ベストセラーになっているようなので、かなりの方が既にお読みと思いますが、福岡 伸一先生が書かれた「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書 No.1891)という本は、私がこれまでもっていた生物観とでもいえるようなものに、そんな新鮮な機会を与えてくれました。
分子生物学の本でありながら、この本は、ニューヨーク、イースト・リバーとハドソン川から見たマンハッタン島のシルエットの描写から話が始まります。そして、ストーリー性と映像感にあふれる数々のエピソードとともに分子生物学の発展の歴史が語られていきます。それだけでも十分に面白いのですが、この本の魅力は、私たちがこれまでもっていた生命観を根底から揺さぶるような形で、分子生物学から見た「生物」の描像を巧みな比喩を使いながら、しかし、科学的説明から逃げることなく描き出していってくれるところです。 まず、この本は、あの波動方程式で有名なエルヴィン・シュレディンガーが1944年に書いた「生命とは何か」の中で発した問いから語り始めます。その問いとは「原子はなぜそんなに小さいか?」 生物は、原子から構成されています。そして、当然のことながら原子には意思はなく、原子は、物理法則にしたがって、無秩序な熱運動であるブラウン運動などによってランダムに運動しています。しかし、生物が生命体として、その存在を維持するためには、生命体としての秩序を維持することが必要です。それでは、その秩序は、どのようにしたら得られるのでしょうか。
ここに原子が小さくなければいけない理由、いや、生物が原子に比べてとてつもなく大きくなければならない理由があると説明は続きます。ランダムな運動には、その「平均的なふるまい」があり、その「平均的なふるまい」は統計学的な法則に従います。そして、サイコロを振る回数を増やせば増やすほどサイコロのそれぞれの目が出る確率は1/6に限りなく近づいていくのと同様に、原子の「平均的なふるまい」が統計学的法則に従う精度は、関係するランダムに運動する原子の数が増せば増すほど増大することになります。1個の原子や分子のふるまいの誤差が、生命としての秩序の維持にとって致命的な影響をもたらさないためには、生物は、原子に比べてとてつもなく大きいことが必要となるのです。
ここで、私たちがこれまで原子の大きさ(小ささ)について、生物の大きさとの具体的な対比をして考えてみたことがあまりないことに気づかされます。原子の直径が1〜2オングストロームであるのに対して、生物の最小単位である細胞の直径は約30〜40万オングストローム(1オングストロームは、百億分の1メートル)ということですから、ざっくりと計算しても細胞一つに原子が約20〜30万個。人間の体は、約60兆個の細胞から出来ているといいますから、一人の人間を形作っている原子の数は、とてつもない数となります。これだけの数の原子が集まって、人体のさまざまな秩序を維持するために必要となる原子の「平均的なふるまい」の精度が、ようやく得られるということなのでしょう。こうして考えてみると、私たちは当たり前の世界と思っている、私たちを含む生物の生息する世界の特殊性に気づかされます。何故、私たちは量子効果を特に意識する必要のない世界に生きているのかなどの理由が・・・。
こうして、生物が存在できる「サイズ」の世界は、物質の存在のあり方として必ずしも一般的な世界ではなく、ひょっとしたら特殊な世界の一つなのだと理解すると、私たちの感覚でとらえることのできる「物理現象」の物理世界での危うさというようなものがあるということが、より理解できるように思います。例えば、「温度」や「時間」は、私たち生物が住んでいる世界では私たちが「実感」できるごく身近な物理現象ですが、原子レベルの「サイズ」の世界では、これらの概念は存在しないか、あるいは、その存在は自明のものではなくなります(*1)。また、私たちの存在している世界は、地殻変動のような数万年の単位で起きているもっとマクロな物理現象の世界と比較しても特殊な世界なのでしょう。例えば、日本の北アルプスは、現在でも年に3〜4mmの速度で隆起しているそうですが、これは、1万年で3,000mも隆起する地殻変動としては大変に大きな変化で、それにもかかわらず、私たちを含む生物にとっては、その変化を感覚でとられることはできません。
生物が原子に比べてとてつもなく大きくなければならない理由の説明に続いて、この本は、私がこれまで生物といったものに対してもっていた理解というか認識のかなり根本を揺さぶるようなことを語り出します。
生命体が原子に比べてとてつもなく大きな存在となったことによって生まれた秩序は、しかし、何事にも例外なく冷徹に働く物理法則によって、エントロピーの増大の圧力から逃れることができません。その圧力は、一つ一つの原子や分子を襲い、容赦なく生体を構成するタンパク質を構成する分子の酸化や変性を引き起こします。これに対して、生物は、こうした圧力に対して秩序を維持することのできるおそらく唯一の方法として、生体を構成するタンパク質をどんどん壊して排出する一方で、外部から摂取した原子や分子でタンパク質を再構成し、生命体を維持するという驚くべき方法で対抗しているということが、こうした理解にいたるまでの分子生物学研究の紆余曲折の歴史を辿りながら説明されていきます。
外部から摂取された原子や分子は、生体内に張りめぐらされたタンパク質の形の相補性、電気的な相補性、親水性や疎水性などの化学的相補性によって、壊れたタンパク質をかつて構成していた原子、分子と入れ替わるような形で、壊れたタンパク質を新しいタンパク質に置き換えていきます。失われたジグゾーパズルのコマの形が、周囲のコマの形で決定される空間にはまるように決まり、欠損したジグゾーパズルが再生されるように。そして、こうしたことが次々と起きてゆくのです。人間を構成する60兆個の細胞の約20%、15兆個もの細胞が、毎日死んで、新しい細胞と入れ替わる仕組みの姿です。
このような生物の分子面からみた姿をこの本は、次のように描写します。「肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体であるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感は全く担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい『淀み』でしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている。この流れ自体が『生きている』ということ」なのだと。
つまり、生命体は、「たまたまそこに密度が高まっているゆるい『淀み』」といった動的平衡にある存在なのだと説明します。生命体は、時間の流れの中で「平均的なふるまい」を中心として揺らぎ移ろいでいく、実体があるようでないようなもの。私の頭の中には、「平均的なふるまい」というぼやけた輪郭をもち、時とともにその輪郭が薄らいでいく・・・、そんな生物のイメージが浮かびました。これまで自分の中でもっていた生物観が、大きく変わった瞬間です。かなり場違いで、科学的には不正確なイメージであるとは思うのですが、何故か映画「スパイダーマン3」に出てきた砂でできたサンドマンが、いとも簡単に体に受けた物理的ダメージを修復する場面も目に浮かびました。
さらに、分子生物学の研究から明らかになったこととして、生命体が、極めて精密なプラモデルのようにいろいろな要素部品にバラすことができ、逆に組み立てることができるものといった線形的な論理で理解できるものではないことも、自身が携わった当時世界最先端の研究の経過の物語を通じて説明されます。周到に計画された実験、精緻に進められた実験によって、ようやくの思いで世界のライバルたちに先んじて得た実験の結果は、しかし、きわめて予想外のものだった・・・というサスペンスのような物語を通じて語られたことは、次のようなことです。
生物とは、数多くの精密な部品によって構成されていても、いつ、その部品が組み込まれるかといったことが影響しない「時間のない」機械とは異なり、「生物には時間があ」り、時間とともに揺らぎながら維持される動的平衡の中で必要なタンパク質が組み上げられたものだ。この動的平衡は、時によって必要なタンパク質以外の代替物を許容しその後の成長を可能とするが、時によっては許容しないために、その特定の時間に特定のタンパク質が得られないことによって生物全体が死に至ることもある。さらに、この動的平衡自体が、特定のタンパク質を必要としない別の成長の経路に移行することを許容する場合もある・・・・・。生物は、こういった「やわらかな適応力となめらかな復元力」をもつ、いわば線形の構造物ともいえる機械とは全く異なったものであることが、ケヤキの枝の成長の例などを用いて分かりやすく説明されています。
それにしてもこの本の著者の福岡先生という方は、一流の分子生物学者というだけでなく、先生には失礼な感想になってしまうかもしれませんが、優れたサイエンス・ライターだと感心してしまいます。私は、文章が私の頭の中に生み出す映像とともに、この本を読んだような気がします。すぐにでも映像番組になるのではないか。しかも質の高い、内容に富んだ番組に。こんな先生のお話を、暖炉を囲み薫り高いコーヒーでも飲みながら、映像とともに楽しめるようなサイエンス・カフェがあったら、どんなに素晴らしいことだろうかと思います。そして、このような先生の話を聞いて、生物の奥深さとその精妙な存在に対する尊敬の念を忘れず、生命をもてあそぶことのない立派な生命科学研究者が育っていくのではないかと思います。
*1 この問題、特に「時間とは何か」という問題については、大変に難しい問題で、ここで要約して説明できるような簡単なものではない。詳しくお知りになりたい方は「ホーキング、未来を語る」(2004年、アーティストハウス)、「時間はどこで生まれるのか」(橋元淳一郎、集英社新書 No.0373G)などをお読みいただくことをお勧めします。
一方、「温度」とは何かという問題は、比較的容易に説明できるので、ここに記しておきます。「温度」とは、原子の集団のランダム運動によって、生物の感覚細胞が刺激されることによって生じるものなので、原子レベルでは、運動エネルギーの大きさという物理量しか存在しません。
記事一覧へ
|