第16回 日米和親条約と江戸時代



 歳をとるにつれて、自分ではそうでないつもりでも、人は頑固になっていくようです。

 五十歳を越えて人生経験をそれなりに積み、やたらのことには驚くことなく、ややけしからんと感じる話しでも顔に柔和な笑みを浮かべて寛容な態度で話を聞く・・・。自分ではそうしているつもりでも、頭がかたくなってきた分、譲れないことが増えてきて、つい自分中心の会話や自己主張ばかりの会話になってしまう。こうしたことを自覚しているだけでも、まだましなのかもしれませんが(笑)、自覚していようといまいと、後で思い返してみると、歳をとった人同志の集まりでもたれる会話は、やっぱり皆それぞれがてんでばらばらに言いたいことを言っていた。そんなことはありませんか?

 思い返すと恐ろしいのですが、この間、久しぶりに会った年格好も似た仲良しグループの集まりでの会話が、まさにそんな感じでした。それぞれが相手の話に関係なく、会話が飛躍しようが、脈絡がむちゃくちゃになかろうがおかまいなく、自分中心で話題を振り回し、会話全体としてはとりとめもないことで終始した挙げ句に、それぞれ「楽しかった。また、会おう」と言って別れていくというのは、それぞれ同じように呆けてきたということでしょうか。

 DNDのコラムや連載が、それぞれバラバラな問題意識の文脈や視点に立って書きつづられているのは、もちろん、もちろんこれとはまったく異なる理由だからであることは確信をもって(?)言えるのですが、今回は、石黒さんがここ2週間ほど書かれている「現代サラリーマン社会の原型」に触発されて、日本の江戸時代の話題をとりあげてみたいと思います。

 日本が近代化の道を歩み始める夜明け前の最も闇の深い時代。それが高校で日本史を学んだころの江戸時代のイメージでした。もっとも、これは、高校2年生の時、大学紛争に触発されて時代を憂えた生徒の一部が校長室を占拠し、2学期の授業が全く行われなかったことをよいことに、私の日本史の勉強がとうとう近代まで行くつくことのないままに終わってしまったからなのかもしれませんが、最近、江戸時代のいろいろな記録や事跡を読んだり訪ねたりするたびに、自分がこれまで江戸時代に対して抱いていた時代イメージが変わっていく思いがしています。

 どこで読んだのか忘れてしまいましたが、日本は、室町時代以降、開墾、灌漑などが進んだことによって農業生産力が大幅に向上し、これによって近代社会の礎がしっかりと築かれたそうです。こうした室町時代の後半から江戸時代にかけての約300年以上にわたる社会、経済、文化の各面での蓄積がなければ、とても日本が世界の先進国の一つにはなれはしなかった。よく、明治以降の日本の発展ばかりがとりあげられますが、明治維新の前後に、DNDのコラムでも取り上げられたような凄い人材が綺羅星のごとく輩出されたのも、産業の急速な発展が可能であったのも、その苗床を涵養してきた江戸時代の教育、文化、技術の蓄積があったからだと思います。

 これも誰に勧められて読んだのか忘れてしまいましたが、横浜市立大学の学長を務められた加藤 祐三先生の書かれた「幕末外交と開国」(ちくま新書 No.453、2004年)を読むと「日米和親条約」とこの条約交渉に臨んだ江戸幕府の対応について、これまで私たちが抱いていた認識が大きく変わると思います。詳しくは、この本をお読みいただければよいのですが、この本を読んで、私が認識を大きく変えることになったエピソードをいくつかご紹介しましょう。

 まず、江戸幕府は、オランダから情報を得てペリーの来航の可能性をその1年以上も前から把握し、譜代有力大名のみならず、外様の薩摩藩や奉行レベルまでその情報を伝えていたということです。ですから、ペリー来航で幕府が慌てふためいたということはない。そして、ペリーが来航した際には、戦争ではなく外交で対応するという基本方針を立てていた。そこで、ペリーの艦隊が1853年7月に浦賀沖に着くやいなや、浦賀奉行所の役人が旗艦のサスケハナ号に番船で漕ぎ寄せ、"I can speak Dutch!" と叫び、艦長室で話し合いに入ったそうです。発砲交戦を避け、最初から対話に入った。そして、来航から6日目には浦田奉行がペリー一行を艦隊まで迎えに行き、一行の総勢約300名を久里浜に上陸させ、急遽設けた会見所で会見、そして米国大統領からの両国間の親交と通商に関する条約締結を提案する国書を受領しています。江戸幕府の基本方針が、こうして速やかに実現したのです。戦争と植民地支配が主流であった19世紀という時代に、戦争によることなく、条約によって欧米列強との関係を築き上げるという基本方針をもち、その方針に沿った対応を速やかに実施した。江戸幕府の政策立案能力と出先機関の政策実施能力が優れていたことが伺えます。

 実は、米国側にも武力に訴えて開国を迫らなかった事情はあったようですが、江戸幕府が軍事的手段ではなく、外交による対応を決めていた背景には、江戸幕府が1840〜42年にかけて起きたアヘン戦争に関する情報収集に努め、その教訓をもとにして外国船の来航に対する政策転換を行っていたからです。1842年の天保薪水令によって、それ以前の異国船は「なにがなんでも打ち払え」という強硬策(文政令(1825年))を改め、異国船が来航した場合には、発砲せず、必要な物資を与えて帰帆させるという穏健策に転換していました。そして、その政策転換は、きちんと実施に移されていました。こうした日本の政策転換は形ばかりであろうと疑った米国軍艦艦長が、遭難した米国捕鯨船から救助され長崎に送り届けられていた米国船員に質問したところ、「捕鯨船内より、長崎での待遇のほうがはるかに良かった」との話を船員から直接聞き、上げた拳の振り下ろす先がなかったといいます。こうした実績が、米国側においても武力でなく、外交的手段によって日本の開国を要求するという道を選ばせた一因となったようです。

 ペリーは、米国大統領の国書を江戸幕府に渡した後、約半年後に条約交渉のための再来を約して、一旦、浦賀沖を離れますが、米国大統領の国書を受け取った後の江戸幕府の対応も見事です。

 江戸幕府は、米国大統領国書を受領した2週間後には、それを各界に回覧して意見を求める老中諮問を行っています。現代で言う、意見公募です。外様の藩は大名から藩士まで、幕臣は奉行から小普請組まで、さらにそれに加えて、学者、商人などに対して広く意見を求め、開国の可否についての両論を紹介した上で、本件は「国家の一大事」であるから「遠慮なく意見を述べよ」としています。これに対して719通の意見の提出があったそうです。提出された意見の中には吉原の遊女の意見もあった(商人のカテゴリーで意見提出)。形ばかりの意見公募でなかったということです。ちょっと驚いてしまいます。また、長崎のオランダ商館からの情報、唐人屋敷に出入りする中国商船からの情報を積極的に活用して、諸外国の情勢を把握していた。

 さらに、約半年後にペリーが再来し、条約案を示したとき、江戸幕府は、米国の条約案を受け取り、内容を精査したものの、米国の条約案を交渉のベースとすることはせずに、幕府独自の案を作って米国との交渉に臨みました。このことは、ある意味では、外交の常識かもしれませんが、独立国家としての立派な対応です。また、条約文の詰めは、英語でも日本語でも、そして米国側が条約案を日本側に示す際に用いた漢文でもなく、オランダ語をもとに行っています。

 条約の内容に関する交渉においても、「米国人漂流民の救助に要する経費は、これを合衆国が支払う」となっていた米国案に対し、日本側が条約は双務的であるべきだと主張して、これを「米国人及び日本人が、いずれの国の海岸に漂着した場合でも救助され、これに要する経費は相殺される」と変更させています(第3条)。さらに、米国人漂着民を厚く保護することと併記して、米国人が「正当な法度に服す」とし、治外法権も排除しています(第4条)。日米和親条約が片務条約と、後世、批判されるのは、日本が米国に引き続いて米国以外の国と条約を締結し、その国が条約上の新しい利益を獲得した場合には、米国もその利益を等しく享受できるという内容の第9条の存在によるものですが、江戸幕府は、この日米和親条約のこの条項の内容が、むしろ他の列強国との戦争を避ける防波堤になると考えていたようであると加藤先生は分析しています。

 加藤先生は、記録に基づいて条約交渉の経過を忠実に追い、19世紀の戦争と植民地支配が主流であった時代に、戦争をともなうことなく、条約によって欧米列強との関係を築き上げる道を開いた江戸幕府の高い外交能力に対する評価と日米和親条約の意義を再評価すべきであると意見を述べておられますが、私もそのとおりではないかと思います。とかく、私たちは、無能な幕府が黒船の突然の出現に慌てふためき、その圧力に屈して、後世まで悔いを残すような不平等条約を結んだと思いがちですが、史実をきちんとおさえてみると、これはかなり誤った認識であることが分かります。当時の明治政府が、そうした分かりやすいストーリーを構築して条約改正の必要性を訴えた際の政治的キャンペーンの残像ではないでしょうか。これにかぎらず、とかく私たちが心に描きがちな"江戸時代は旧弊に支配された前近代的な時代"とのイメージは、明治政府が革命政権であったがゆえに、明治政府が意図的に江戸時代をそうしたイメージで語ってきたためかもしれません。

 これからは、江戸時代という時代をもっと予見なく見ていこうと思います。

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