第113回 「伊豆の春 -河津桜と稲取のつるし飾り-」


 いやあ、本当に長いことご無沙汰しました。前回のコラムからやがて1年が経とうとしています。気が付いたら、しばらくペースを落とされていた出口さんの執筆活動も、再び活発になっていますね。

 私の方は、前回も書いたように引き続き、水素エネルギーにどっぷりと浸かっていて、この1年間に書いた原稿や行った講演は、その関係の話ばかりになってしまいました。そう言えば、第89回のコラム「化学技術がエネルギー問題を解決する-アンモニアが面白い-」でご紹介した、水素エネルギーの利用形態としてのアンモニアの話も、あれからいろいろな進展がありました。今度機会を見て、その「面白さ」ぶりをご紹介したいと思いますが(本当に面白いんですよ)、今回は、はなはだ自分勝手ですが気分転換したいこともあり、まったく違う話題について書きたいと思います。

 ちょっと時季外れの話題になりますが、先日、伊豆の春を楽しんできました。河津の桜、稲取の雛祭りを見に行ったのです。

 観光案内のようになりますが、河津の桜は、本当に一見の価値があります。まだ見たことがないという方には、是非、行かれることをお勧めします。染井吉野よりも濃いピンク色の花をいっぱいに付けた河津桜の並木が、河津川の河口、河津浜から上流数kmにわたって、川の土手に咲き誇っています。本当にピンクの雲のようです。桜の木々のまわりには菜の花の群落もあるので、青い空、河津川の清流と相まって、「春」が満喫できること間違いなしです。

 河津の桜は、例年、2月の第3週くらいが盛りのようです。現在では伊豆の春を飾る一大風物詩となっていますが、河津桜は昭和になってから発見されたこの地域の固有種で、1968年くらいから増殖が始まったのだそうです。河津桜の歴史が約50年しかないというのはやや意外な感じがしましたが、しかし、桜の木々を改めてよく見ると、確かに樹齢はそのくらいのものです。この桜は1か月くらいは花が持つようですから、東京から河津までちょっと遠いですが、比較的見に行きやすいのではないかと思います。

 河津桜については、いろいろなサイトで紹介されているのでこの話はこのくらいにしておきますが、何枚か写真を掲載しておきます。





 河津から伊豆半島の東海岸を電車で20分ほど北行したところに伊豆稲取という集落があります。ここは温泉でも有名ですが、雛祭りでも名前の知られたところです。特につるし雛に関しては、日本三大つるし雛の地のひとつで、この時期、街中が数多くの赤く華やかなつるし飾りで彩られます。(稲取のつるし雛は「雛のつるし飾り」というそうです。)

 日本三大つるし雛の地は、山形県の酒田市、福岡県の柳川市、そしてこの伊豆稲取とのことで、ともに桃の節句を祝うものですが、それぞれ「傘福」、「さげもん」、「雛のつるし飾り」と呼ばれ、その発祥の歴史も少しずつ違うようです。

 酒田の「傘福」は、地元の豪商の本間家が町おこしのために始めたものと言われ、柳川の「さげもん」は武家の女子が手遊びで作っていた袋物がその始まりと言われています。私は酒田の「傘福」は、実際に酒田に行って見たことがあるのですが、柳川の「さげもん」はまだ見たことがありません。それにもかかわらず、分かったようなことを言うのは問題ではあるのですが、具象化の方法はそれぞれ異なるものの、これらのいずれの地でも、つるし雛に下げられる縫い物の小物は、いずれも女の子が賢く、健康で、そして物に不自由することなく育つよう祈りを込めて、それらを象徴するようなものが着物の端切れなどを利用して作られています。例えば、知恵の象徴はふくろう、健康・安産の象徴はいぬ、食べ物を象徴する野菜、そして縁起の良い物や生物などというように…。

 ただ最近は、手芸作品としても人気が出てきて、過去の造形にとらわれないユニークな題材やデザインのつるし雛も増えています。さらに、日本のいろいろな地域でつるし雛作りが手芸活動として盛んになってきていて、伝統工芸品としての性格はかなり薄れてきているようです。実際、つるし飾りの販売とつるし飾り作りの手芸教室を開いている店の人に聞くと、最近では諏訪湖畔の岡谷市でもつるし雛が盛んになっているのだそうです。(実は、私の義理の叔母-この人は器用なだけでなくはなはだユニークな人なのですが-も、長野県の上田市で、まったく他の地域とは関係なく、ひとりでつるし雛作りを始め、それが結構な出来栄えということもあって、今や地域の手芸活動として広がっています。)



 ということで、ここ伊豆稲取でも、今のうちにこの地の雛のつるし飾りの伝統と歴史についてきちんと調べておこうという動きが出てきています。稲取のつるし飾りは、裕福な家のように高価な雛人形を飾ることのできない漁師や農家の人々が、娘や孫の健やかな成長と幸せを祈って着物の端切れを持ち寄り、飾りものを作ってつるしたのが始まりとのことですが、実は、古いつるし飾りはあまり残っていないのだそうです。それは、つるし飾りは、成人や結婚など人生の節目において、娘や孫の順調な成長を神様に感謝して、どんと焼きの火にくべ燃やしてしまう風習があったためです。

 しかしこれは、古いつるし飾りが残っていると、その家で何か悲しい出来事があったということを意味することでもあります。このため町の人々は、仮に家の納戸か蔵で仮に古いつるし飾りを見つけたとしても、あまり積極的に表に出して世間様に披露するということはこれまでしませんでした。こうした背景から、古いつるし飾りはあまり表に出ることもなく、つるし飾りの歴史や由来もあまり記録に残されることないままに、これまできたということのようです。

 そういった話を聞いてからつるし飾りが飾られた街を歩くと、つるし飾りで華やかに彩られた町の表の姿の陰に、一抹の悲しい現実を垣間見た思いがしました。

 稲取のつるし飾り祭りに行かれたら、是非、つるし飾りづくりを生業としている店に立ち寄り、お店の人といろいろお話されることをお勧めします。そうすると、きっとつるし飾りにまつわる土地の人々のいろいろな思いを知ることができるでしょう。



                         (了)


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