第11回 普通に見えて普通でないこと
−オランダから見えたこと (5)−



 前回の続きで、私にとって新鮮だったオランダの秋冬の風物詩です。

 8月にはいるとオランダはすっかり秋めいてきます。オランダは、緯度でいうと樺太の北部と同じ位置にありますから、太陽の光は、夏の眩しい白からやわらかなオレンジ色にその色調を変え、その衰えが目立ってきます。(ところで、東京はヨーロッパの都市でいうとどこの都市と緯度が同じと思われますか?実は、ヨーロッパ大陸には、東京と同じ緯度の都市はなく、同じ緯線は地中海のさらに南、北アフリカのアルジェやチュニスの付近を走っています。)ハーグに住んでいた3年間、不思議なことに毎年、同じ9月1日になると近くの公園の一本の木のてっぺんの葉が茶色に色を変え始め、青空を背景に、朝露を光らせながら風に揺れていたことを覚えています。

 オランダの秋は、冷たい雨と風が毎日のように吹き降り、そして日々、朝が遅く暗くなる季節です。紅葉も、花も少なく、9月から11月にかけては、暗く湿った、精神的にも沈みがちな憂鬱な日々が続きますが、年によっては木の葉がきれいな枯葉色に染まり、それが北海からの横なぐりの風に飛ばされて落ち葉になるまで、美しく明るい茶色に染まった森を楽しむことも出来ます。ちょっと寒いのを我慢すれば、霧雨に煙るこうした森の風景をじっと眺めているのもなかなか良いものです。

 オランダの子供たちには、クリスマスのプレゼントをいただけるうれしい日が2回あります。ひとつは、12月6日の聖ニクラウス祭の前日の晩12月5日で、もうひとつは、日本でもおなじみのサンタクロースの来るクリスマスです。12月5日の夕方になるとオランダのあちこちの港に、黒いピーター(ズワルト・ピート)と呼ばれるムーア人(北西アフリカに住むイスラム教徒)を連れた聖ニクラウスが船でやってきて、街に上陸し、街中の良い子達にお菓子を配って歩きます。

 こうした習慣は、オランダがかつてスペインに支配されていたころ、スペインのカソリック司祭が、ムーア人の従僕を連れてオランダに着任してきたことに発しているようですが、スペインの弾圧と戦って独立を勝ち取ったオランダが、なおこうした習慣を維持しているのは、聖ニクラウスがアムステルダム及び船乗りの守護聖人であったためと、「クリスマスの文化史」(若林ひとみ著、白水社刊)は説明しています。どうも2つのクリスマスの背景には、カソリックとプロテスタントの血なまぐさい抗争の歴史が隠れているようですが、現代っ子にとってはそんなことに関係なく、2回もクリスマスがあるのは楽しいことです。

 オランダの冬は、その緯度の割には暖かな冬です。(とはいっても気温は日中でも4℃程度にしかなりませんが。)雪もほとんど降りません。積もっても5〜10cm程度。雪が降ると、道には、早速、融雪剤の塩が撒かれますが、除雪はしないので自動車の運転には、結構、怖いものがあります。こうした天候となるのも、遠くメキシコ湾から発する暖流が大西洋を北上して北海を西から東に流れ、そのために北極から吹き出す、凍るように冷たい北西風が、温められ、湿気を補給されて大陸沿岸に吹き付けるからですが、このためにオランダでは、冬に強い北西風に乗って冷たい雨が吹きつける惨めな日々が続くことになります。

 冬に1度か2度、ドイツの内陸部に高気圧が腰をすえると、オランダでは、カッキーンといった感じの寒い冬晴れの日が続きます。こうなると日中でも気温は零度を上回らず、こうした日が1週間も続くとあちこちの池や運河が凍り始め、子供たちのスケート場と化し始めます。しかし、実際に凍った運河をスケートで滑ってみると表面で凍った枯葉や枯れ枝に足をとられ、優雅なイメージのスケートとは程遠い、力強い滑りが要求されるので、あまりお勧めはできません。
それでもとおっしゃる方には、運河の上でご自分が滑る姿を想像するとすれば、荒川静香ではなく、スピード・スケートの選手を想像しなくてはいけないと申し上げましょう。

 私たちがオランダに居た最後の年(1996年)は、寒い冬となり、オランダ中の運河をつなぐ全長400kmのスケート・マラソンが、もう少しで40年ぶりにできそうになりましたが、あいにくと実施の直前になって気温が高まり、中止となってオランダ人を残念がらせました。ウィーンの美術史美術館は、ハプスブルグ家がオランダのかつての支配者であったスペイン王室と縁戚関係にあったことから、レンブラントやフェルメールなどのオランダ絵画の代表作を数多く収蔵することで有名ですが、そこでは凍りついた運河でさまざまな遊びに興じている数多くの庶民や子供を描いたピーター・ブリューゲルの絵もみることができます。その絵を見ると地球温暖化の影響かどうかは分かりませんが、今では運河はあまり凍ることがなく、17、18世紀から比べるとオランダの冬もずいぶんと暖かくなったことが分かります。

 オランダで借りていた家の自慢の一つが暖炉でした。週末になると暖炉に薪をくべ、パチパチとあがる火の粉やゆらゆらとゆれる炎を見ているだけで心が休まります。そうそう、オランダには他に誇れる料理はほとんどありませんが、寒い冬に食べるエルテン・スープはオランダの忘れがたい味のひとつです。昔は、そんな各家庭の暖炉で作っていた料理なのでしょう。多少のバラエティがあるようですが、えんどう豆をすりつぶし、ベーコンやソーセージなどと長時間、コトコト煮たスープを暖炉のそばで、ふうふういいながらいただくのは、本当にこたえられないほど美味しいものです。

 そして、本当の(?)クリスマスが来ると、それからは日が、毎日、少しずつ長くなり、太陽が元気を恢復してきます。まだまだ、寒く、暗い日は続きますが、気のせいか人の表情に明るさが戻ってくるような気がします。クリスマスの起源は、ヨーロッパ土着の太陽信仰にも関係すると聞いたことがありますが、日が長くなり始めるのを心待ちにしたくなる自然条件の中で暮らしてみると、それがとても自然に思えます。

 こうして書き連ねてみるとそれぞれの土地、国で、それぞれの季節の営みがあることが分かります。そのどれもが、少しずつ異なる自然条件や歴史に育まれたものですが、こうした季節の営みは、異郷の地で育った者にも自然体で受け入れることができるという点で共通しているように思います。「美しい国」は、どこの国もそうなのです。また、いつものような理屈っぽい話にもどってしまいますが、国とは何か、国を愛するとは何かと、再び、考えさせられます。

 最後に、今回のテーマと直接の関係はないのですが、この文章を書いていた週末に飛び込んできた悲しいニュースをご紹介させていただきます。あのサンパウロの空港で起きた飛行機事故で、私がオランダにいたときの同僚のマルタという女性が亡くなったというのです。思わず息を呑み、声も出ないほど悲しいニュースでした。マルタは、私よりもいくつか年上の真面目で、やさしいけれど芯のある小柄なブラジル人女性で、私たちが作り上げつつあった新しい国際機関の付属のラボの設置に尽力していました。マルタを始めとして、国境を越えてオランダに集まり、新しい国際機関づくりに携わった仲間たちは、3年間という限られた期間のお付き合いではありましたが、私にとっては国籍を越えた戦友のような仲間たちです。ここに紙面を借りて、ご冥福を祈らせていただきたいと思います。

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