第105回 「水素社会の構築に向けて持つべきスケール感 」


 燃料電池自動車の市場化の目標時期(2015年)が間近に迫ってきて、水素社会の到来かなどという声をあちこちで耳にするようになりました。燃料電池を始めとする水素技術関係のシンポジウムや展示会なども活況を呈しているようです。しかし、中には水素利用の拡大自体が目的化してしまっているかのような取組みも散見されるように思います。日本は、水素社会の構築に向けて確かな足どりで歩んでいるのでしょうか。


 ここで、水素社会の実現によって私たちは何を目指しているのか、再確認してみることは意味のあることでしょう。水素社会の実現は、日本の化石燃料への依存を低減し、CO2の排出を大幅に削減することを可能にします。加えて、水素エネルギーを太陽、風力エネルギーなどの無尽蔵の再生可能エネルギーから製造したものとすることができれば(1)、再生可能エネルギーの大規模導入にもつながります。すなわち水素社会の実現の目的は、私たちを資源制約、環境制約から解き放つ、エネルギー社会を実現することにあるといえるでしょう。


 そのためには、「水素社会の実現に向けた」それぞれの取組みの意味と、それらがもたらすインパクトのスケールを、目的に照らしてきちんと評価し、取組みの優先順位と費用対効果を見極めていくことが重要です。当たり前のことですね。


 今回は、そのスケール感について考えるためのいくつかの材料を提供したいと思います。


 政府は、燃料電池自動車の普及目標として「2025年に200万台」の目標を掲げ、自動車、エネルギー企業も呼応して目標達成に向けた取組みを進めています。冒頭の「燃料電池自動車の市場化の目標時期」は、その一環でもあります。さらに政府は、家庭用燃料電池を2030年で530万台普及させるとの目標も掲げています。では、この規模の燃料電池の導入は、日本のエネルギー需給とCO2排出量にどれほどのインパクトを及ぼすものなのでしょうか。このスケール感は、以下のようなラフな計算で簡単に見ることができます。


日本国内の自動車の保有台数は約7,500万台で、運輸部門で消費されている化石燃料の量は、日本の化石燃料の供給量の約20%です(2)。ですから、燃料電池自動車の普及(200万台)によって節減できる化石燃料供給量は0.5%程度ということになります。


 一方、家庭用燃料電池の場合は、エネルギー効率が大幅に高まるものの、都市ガスなどの化石燃料を燃料とし、燃料電池の中で水素を取り出す際にCO2を出しますから、化石燃料フリー、CO2フリーではありません。それでも、その普及によってエネルギー効率は大幅に高まるし、発電された電力により家庭で消費される電力の一部を置き換えるという効果はありますから、とても雑なやり方ではありますが、燃料電池自動車と同様の計算のやり方で、家庭用燃料電池のもたらすスケールについて見てみましょう。すると日本の世帯数は約5,000万世帯、家庭部門で消費されている化石燃料の量は、日本の化石燃料の供給量の約6%なので、家庭用燃料電池の普及(530万台)によって節減できる化石燃料供給量は0.6%程度ということになります。(これは上述の理由で過大な数字となっていることに注意してください。)


 つまり、現在の燃料電池の普及目標が日本の化石燃料の供給とCO2排出にもたらすインパクトは、ざっくり言って1%程度の削減スケールということになります。


 燃料電池の開発と普及を進めることは、水素利用の拡大という観点からだけでなく、エネルギー消費効率の改善、電力使用の平準化、エネルギー・システムの分散化などの観点からもきわめて重要なことです。しかし、水素社会の構築という観点から見ると、この程度のスケールでは不十分なことは明らかでしょう。最低でもこれより一桁大きな規模での水素エネルギー(3)の利用拡大が図られなくてはなりません。そのためには、燃料電池自動車の一層の普及拡大などはもとより、化石燃料供給量の35%を消費量している発電分野や25%を消費している製造業分野においても、水素エネルギーの大幅な導入拡大策が併せて検討される必要があります。


 次に、水素の量に関わる問題について見てみましょう。現状、国内の水素供給ポテンシャルは80〜160億m3/年あると言われています(4)。


 燃料電池自動車1台当たりの年間水素消費量は、約1,000m3と見積もられている(5)ので、この量は燃料電池自動車などへの供給用には、量的には十分なように見えます(200万台でも必要量は約20億m3)。しかし、160億m3の水素から得られるエネルギー量(=2.0x108GJ)は、日本の最終エネルギー消費量(=1.4x1010GJ)の1.4%程度に過ぎません。この程度の量では、水素社会の目的の達成にほとんど効果がないことは自明でしょう。さらに、計算では燃料電池自動車向けには十分に供給余力がありそうに見える水素量も、実際問題としては2025年頃に200万台分を賄うということは難しいと見る専門家もいるのです(6)(7)。


 ですから、水素社会の実現のためには、日本は、水素エネルギーを海外から持って来ることを考えざるを得ないということになります。


 以上のようなスケール感を踏まえれば、水素社会の構築のために優先的にやらなければならないことは自ずと見えて来るはずです。


 まず、日本は、水素エネルギーを大量に、かつ、安価に製造する技術を磨く必要があります。化石燃料への依存を減らし、CO2の排出削減を図ることが目的であるなら、海外の質的にも量的にも恵まれた太陽、風力エネルギー資源を利用したCO2フリーの水素エネルギーの製造を目指すべきでしょう。そのためには、海外の太陽、風力エネルギー資源環境の下で優れた性能を発揮する技術を開発しなければなりません。いつまでも国内での製造を前提としていたら、日本の技術はガラパゴス化してしまいます。


 次に、海外から水素エネルギーを長距離、長時間かけて運んでくるためには、物性的に貯蔵、輸送が困難な水素を、安全に、そして大量、かつ、安価に貯蔵、輸送する方途が確立されなければなりません。


 以前にも書きましたが、水素は超低温(-253℃)まで冷却しないと液化しませんし、液化しても外部からの自然入熱によるボイル・オフ(自然蒸発)を止めることはできません。また、水素は漏洩すると爆発する危険性がきわめて大きい物質ですが、水素は金属を脆くする性質があるため、容器には炭素繊維などの高価な材料を用いる必要があります。さらに、水素には臭いが付きにくいため、漏れているかどうかが分かりにくいという問題もあります。こういった事情で水素を取り扱うことは容易ではありません。これまでの技術開発によって、水素の輸送・貯蔵技術にもかなり目途がついてきたと言われていますが、水素社会の構築のためには、先に見たように、国内の燃料電池向けに必要となる量とは桁違いに大量の水素エネルギーを取り扱うことが必要なのです。こういった大量の水素の貯蔵、輸送用に、高価で繊細な貯蔵設備や輸送手段を用いることはできないでしょう。


 こういったことから、水素エネルギーを水素の形で貯蔵、輸送するのが良いのか、水素エネルギーを多く含有し、貯蔵、輸送が容易な別の化学物質に変えて利用するのが良いのか、十分に検討される必要があります(8)。


 さらに、水素社会の構築の目的に立ち返って考えるならば、燃料電池自動車と家庭用燃料電池の導入だけでは不十分です。先にも述べたように、発電分野や製造業の分野など、エネルギーを大量に消費している分野に水素エネルギーを導入する方策が考えられなければなりません。(例えば、発電用の燃料電池の導入などは、分散型のエネルギー・システムを構築する上でも重要です。)


 実際には、将来の水素社会では、用途、輸送距離や場所によって、水素を始めとするいろいろな物質や技術がその特徴に応じて水素エネルギーを運ぶために用いられることになるでしょう。ただ、その根幹となるエネルギー・システムの構築に当たっては、以上に述べたようなスケール感を念頭において、水素社会の実現に向けた取組みが体系的、合理的に進んでいるのか、そのための資源配分が現状のようなもので良いのか振り返ってみる必要があります。


 エネルギー制約と環境制約の解決策となり得る、夢と可能性に満ちた水素社会にできるだけ早く到達するための、スケール感を持った取組みを、一歩一歩、確実に進めて行きたいものです。




(1)ここで「水素を再生可能エネルギーから製造した水素とすることができれば」と書いたのは、水素は化石エネルギーからも製造できるからです。
(2)2011年度エネルギー・バランス表。家庭用燃料電池に係る計算においても同じ。
(3)このコラムでは、後段で記すように「水素エネルギー」という用語には、水素及び水素を多く含有する化学物質の両方を含む意味で用いています。
(4)「貯蔵技術が変える水素戦略−課題はコストとC O 2回収」、日経エコロジー、2013年10月号、P P 12~13
(5)http://www.pecj.or.jp/japanese/report/reserch/report-pdf/H15_2003/03cho3-3.pdfに掲載されている(株)コスモ総合研究所技術調査部の伊藤孝司氏の論文「水素ステーション−水素供給ケーススタディと経済性評価−」参照。
(6)「貯蔵技術が変える水素戦略−課題はコストとCO2回収」、日経エコロジー、2013年10月号、PP12~13
(7)これは、この160億m3/年の「余剰」水素は、工場等において副生するものであるため、他の燃料との価格関係によっては自家消費され、必ず、燃料電池自動車用に回るものではないためです。さらに、燃料電 池が不純物を嫌うため、工場で副生する水素を燃料電池自動車の燃料用として販売するにはこれを精製する必要があり、そのための追加コストがかかるので、自家消費した方が経済的に有利になる可能性が大きいという事情も考慮する必要があるという指摘もあります。
(8)第101回 「海外の再生可能エネルギーに目を向けよう」にも書きましたが、これらの物質の候補としては、体積当たりの水素の含有量が多く、常温、常圧に近い条件下で液体となり、かつ、利用の際にCO2を出すことのないアンモニア、メチルシクロヘキサンなどが提案されています。これらの物質は、利用の際に再び水素を取り出して使うので、水素キャリアと呼ばれますが、このうちアンモニアは、そのまま発電タービンや工業炉などの燃料、あるいは燃料電池の燃料としても使える可能性があるので、エネルギー・キャリアとも呼ばれます。






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