第103回 「シリアの化学兵器とOPCW」


 シリアの化学兵器問題の関係で、最近、TVや新聞等でOPCW(化学兵器禁止機関)の名前をよく目にするようになりました。1993年から96年までの3年間、オランダのハーグ(Den Haag)に赴任して、このOPCWという国際機関づくりに参加した私としては、OPCWが世界の人々に役に立つ組織として、日本国内でもその存在が広く認識されるようになったことはとても嬉しいことです。


        【OPCW本部】

        【OPCWのロゴ】


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 OPCWについては、これまで本コラムでも何度かとりあげました(1)が、OPCWについて、再度、その概要を記しておきましょう。


 OPCWは、世界から化学兵器という大量破壊兵器をなくすことを目的として1993年に合意された化学兵器禁止条約(CWC: Chemical Weapons Convention)により新設された国際機関です。OPCWは、国連の機関ではありません。職員の既得権の積み重ねによってコスト高となった国連機関の増殖を嫌って、CWCを執行するための独立の機関として設立されました。OPCWは、オランダのハーグに本部があります(2)。ハーグがジュネーブ、ウィーンとの招致合戦に勝った結果です。OPCWは、条約の発効要件が整った1997年から正式にその活動を始めました。今では加盟国数が189カ国(3)となり、国際査察官170名を含む事務局員数約500名、年間予算規模7,500万ユーロの組織となっています。OPCWには大きく2つの役割があります。一つは、かつて米国やロシア、そしてイラク、リビア、インドなどの国々が保有し、現在も廃棄を前提に保管されている化学兵器とその生産施設の破壊を行う、いわば「軍縮」の実施機関。もう一つは、化学兵器の原材料となりうる一般工業薬品の化学兵器原材料への転用を防ぐ、いわば「不拡散」の監視機関としての役割です。


 さて今般、ロシアの後押しを受ける形でシリアがOPCWに加盟したことによって、これからOPCWは、シリアの化学兵器の完全廃棄に向け、軍縮の実施機関としての仕事を遂行することになります。このOPCWに与えられたミッションは、化学兵器の破壊にとどまらず、中東地域の政情の安定化を図るうえでも大きな役割を担うものであり、ミッションの達成によってOPCWに対する国際社会の認知と信頼も高まることでしょう。しかし、その道のりは容易なものではありません。むしろ、困難に満ちたものになるのではないかと心配しています。


 私がそう申し上げる理由は、内戦の続くシリアの危険な環境の中でOPCWの査察官が活動しなければならないからという、よくマスコミが指摘する理由ではありません。もちろん、その問題も大きな問題ではあります。査察官はシリアの化学兵器の保管施設、製造施設に行き、状況を確認し、化学兵器と製造施設の破壊方法を決めなければなりませんし、OPCWの監視下で化学兵器が確実かつ安全に破壊されるよう、施設全体を監視下に置くための方策を決定し、実行しなければなりません。砲弾等に充填されたサリンなどの化学兵器物質を安全に処理するために、砲弾から信管を抜いたり、化学兵器物質を別の容器に移し替えたりしなければならない場合もあります。こういった作業を行うことは平時の環境でも容易ではないのに、戦場のようなところでこうした作業を行うことはプロの査察官にとっても大変なことでしょう。


 しかし、OPCWにとっての真の困難は、もっと違ったところにあるように思います。そしてそれは、戦時環境下での物理的危険性といった、目に見え、あるいは、一般の人にとって想像が容易な困難ではないだけに、OPCWという国際的組織、ひいてはOPCWを中心とした化学兵器の軍縮体制にとってより深刻な問題をもたらす懸念があるのではないかと思います。その困難とはどのようなものか。


 私が心配するのは、CWCに規定された手続きにまつわる問題です。


 シリアがOPCWに加盟したということは、今後、シリアの化学兵器の破壊はCWCの規定に従って進められることになります。そして、報道では(内容は外部に明らかにされていないものの)シリアが保有する化学兵器をOPCWに対して既に申告(4)したと言われています。出だしは順調のようですが、問題はこれからです。問題は、CWCに規定されている化学兵器の破棄に向けた一連の手続きが、いわば平時の−当事国を含めた国際社会が、問題となっている化学兵器の破壊に協力的な環境下で進められることを前提とした手続きであることです。今般のように、当事国シリアの政権が米、英、仏などのOPCWの主要加盟国と緊張関係にあるというだけでなく、OPCWの主要加盟国の間でもシリア問題に対する立場や意見が大きく割れている中で、CWCの規定の適用にあたって加盟国間の合意が容易に得られ、手続きを円滑に進めることができるかどうか・・・。(ちなみに、シリアによる保有化学兵器の申告は、CWCの規定によることなく、米ロ間の合意に従ってOPCWの事務局長あてに行われたものです。)


 条約に書かれた規定を適用するだけなのに、条約の規定の適用にあたって、何故、各国の合意が必要なのかと疑問に思われるかもしれませんが、CWCの規定内容は、実は簡単明瞭で条文に従って機械的適用が可能と言えるものでは必ずしもないのです。これは、CWCが政治的な妥協の産物であるためです。特にCWCは、それまで多くの意見対立があって長い間頓挫していた交渉が、国際環境の変化によって1992年から93年の初めにかけて急激に進み、成立したという経緯をもつために、CWCには本来であれば時間をかけて解消されるべき曖昧さが数多く残されました。こうしたことが起きるのは、特にCWCのように各国間の利害対立が大きい問題について妥協を重ね、ようやく合意に漕ぎ着けたような条約には、条約の目的の達成のために加盟国に対して権利の制約や順守義務を課す条項を規定する一方で、そのカウンター・バランスとして加盟国の権利と利益を手厚く保護する条項が置かれるケースが多いためです。また、CWCには、条約本体と一体不可分のものとして、化学兵器の破壊に向けてOPCWが当事国との間で整えるべき監視や検証に関する手続きなどが、条約本文の条項数24条延べ190項に匹敵するほどの分量(3つのパート、延べ174項(5))の付属文書として存在します。加えて、条約加盟国の国家機密を守るためのConfidentiality Annexという23項から成る付属文書もあり、これらの文書全体にそういった問題が残っているのです。


 このため、条約の規定の適用にあたっては、これらの複数の文書にまたがる相当数の関連条項を見る必要があり、その解釈に当たっては加盟国間で意見が相違する場合が出てきます。意見や立場の異なる国は、政治的意図をもって解釈に難癖をつけることもできますから、シリアを含む加盟国の政治的意図次第では、条約の解釈に意見の差異が生じ、手続きに関する議論が紛糾して化学兵器の破壊手続きが頓挫する可能性も捨て切れません。


 ひとつだけ例を挙げて、どんな議論が起きうる可能性があるのかを説明してみましょう。私はOPCWの創設作業において、先のConfidentiality Annexに規定された原則を踏まえたOPCW内の実務規則の策定を仕事の一つとして担当しましたが、上述の"権利の制約や順守義務を加盟国に課す条項"と"加盟国の権利と利益を手厚く保護する条項"の間のバランスをとることには大変な労力を強いられた経験があります。以下は、そうした議論の例です。


 CWCの遵守状況に関連のない情報については、被査察国側にはその情報の流出を防止する当然の権利があります。ところが化学兵器を開発するような施設は、軍事施設である場合が多いために、CWCの遵守状況に関する情報と、同じ施設内で開発している化学兵器以外の(国際的に禁止されていない)軍事技術に関する情報をどのように分けて取り扱うかということが問題となりました。OPCWの査察官にはCWCに関連のない情報を意図的に収集する権利はありませんが、同じ施設内で査察官がそうした情報を非意図的に収集してしまうかもしれません。ということで、(査察の効力を削ぎたいと考える)ある国から、被査察国側にはOPCWの査察官が施設から退出する際に査察官が携行する情報機器のハードディスクや分析サンプルを全てチェックし、被査察国側の判断でCWCとは関係のない情報の消去が認められるべきという主張がなされました。査察の有効性の観点からは、どんな情報を査察官が収集したのかを被査察国側が全て把握し、さらには被査察国側が、どの情報はCWCには関係あるかないかを決めることができるというのは大問題です。結局、この問題は、加盟国の間で延々と議論され、この問題の取扱いに関する最終的なルールが合意されるまでには、1年以上にわたる交渉を要しました。こういった一般人から見れば理解しがたいような議論は、条約に基づく作業の進捗を遅らせたいと考える加盟国が存在する限り、今後とも条約のあちこちの条項に関して起きる可能性があります。


 このようにOPCWの査察ルールには、加盟国の権利を守るという理由で、一見、単純で技術的な問題と思われる事項についても、政治的な思惑から国際交渉の対象となりうる可能性が残っています。シリアがCWCの加盟国となったことによって、今後、シリアを始めとする一部の加盟国による(条約上は「正当な」)権利行使によりOPCWの活動が制約を受けるのではないか。そしてその結果、OPCWの活動が国際社会の期待通り進まず、OPCWに対する期待が失望に変わるのではないか。このことが、私が心配する「より深刻な問題をもたらす懸念」です。


 なお、法的に正確に言えば、今般のシリアの化学兵器の破壊にあたって、OPCWは関連の付属文書を含むCWCの規定に厳格に従う必要は必ずしもありません。条約上はOPCWの執行理事会の決定に従うことが要求されているだけだからです。テクニカルな説明になりますが、CWCは、1997年の条約発効後、10年内に世界に存在する化学兵器の破壊が終了することを想定しており(6)、シリアのように条約発効後10年以上経って条約に加盟する化学兵器保有国があった場合には、その破壊等のための手続きや方法は、先に述べたように「OPCWの執行理事会が決定する」とCWCには書かれている(7)のです。ただ、シリアの化学兵器の破壊を粛々と進めることが戦略上、得策と思わない国がいる可能性のある中で、条文には執行理事会の決定だけに従えば良いと書いてあるのだからという理由だけで、これまで他の化学兵器保有国の破壊作業に適用されてきた手続きや方法にかかわりなく、シリアの化学兵器の破壊作業を進めることができるとは残念ながら思えません。


 

 OPCWにとってシリアの加盟は、化学兵器を全廃するという組織のミッションの達成に向けた大きな進展ではありますが、今般の加盟の経緯を見ると大国間の面子の確保と利害の調整のために、OPCWがやや都合よく利用されたという感がなきにしもありません。大国の面子が保たれたことで、主要国のこの問題に対する熱が冷めてしまうようなことが、万が一にでもあったら、OPCWは大変な苦難の道を歩まされる可能性があります。そうしたことが起きないよう、OPCWの加盟国は責任をもってシリアの化学兵器の全廃に向けた強い政治的意思を今後とも発揮していく必要があります。


 OPCWの、中でも特に化学兵器の分野には、化学兵器を安全に取扱い、処理することのできる本当のプロフェッショナルと呼べる人々が、日本の自衛隊を含め世界各国から派遣され、化学兵器を世界から全廃するために日々働いています。OPCWという機関が、化学兵器の全廃という人類の理想の実現に向けて、国際政治の荒波に翻弄されることなくその機能をいかんなく発揮してくれることを、OPCWの創設に参加した者として心から願っています。




(1)第38回 記録に残しておきたい話(2) −国際機関をゼロから作り上げたある英国人の話−
 第73回 ハーグ再訪−「OPCW将来構想委員会」への参加
 第75回 再びOPCW(化学兵器禁止機関)の将来構想委員会へ
 第79回 「OPCW将来構想委員会」を終えて
ほか。
(2)ちなみにOPCW本部は、モンドリアンの最大のコレクションを有するハーグ市立博物館の裏、以前、North Sea Jazz Festivalが開催されていた土地の一角に建っています。なお、査察官が携行するさまざまな装備は、隣町のRijswijk(ライスワイク)にある装備管理倉庫で管理されています。
(3)残念ながら、今回、急遽加盟を表明したシリア以外の北朝鮮など6つの国(北朝鮮、イスラエル、ミャンマー、アンゴラ、エジプト、南スーダン)は、国際社会の説得にもかかわらず、OPCWには依然として加盟していません。ただ、このうち、イスラエルとエジプトはシリアの条約加盟によって、その保有化学兵器が廃棄されれば、条約に加盟する可能性が高いと思われます。
(4)CWC上は、「報告」は「申告(Declaration)」と言います。
(5)CWCに付属するVerification Annex のPart III, Part IV(A), Part Vの条項数。CWCには、このほかにAnnex on Chemicals, Confidentiality Annexの計3つの付属文書があり、これらは条約本文と一体のものとして扱われています。
(6)しかし、化学兵器保有国の破壊予算の不足や作業の困難性などにより、米国、ロシアなどが保有していた化学兵器の破壊は、2013年7月末現在、化学兵器薬剤ベースで約81%、砲弾や容器ベースで約57%の破壊が終了した状況です(OPCW)。なお、この数字にはシリアの化学兵器は含まれていません。
(7)CWC第4条第8項及び第5条第10項。





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