第10回 信州の風景



 夏休みに信州に行ってきました。信州とは行っても、私にとっての信州は、私の家の菩提寺や母の生家や親戚の住んでいる上田から軽井沢にかけての、いわゆる東信地方で、「平」や「谷」の間でライバル意識の強い信州人には、ひと括りで信州と言うなということになるかもしれません。

 私の母は、上田の少し東、霧ヶ峰や美ヶ原からの水を集めた依田川と千曲川が合流する丸子町で生まれました。千曲川は、その先、ほどなく川中島で北アルプスに源流を発する犀川と合流して信濃川となりますが、この辺では、まだまだ清冽なしぶきを上げながら流れる中流域の様相です。浅間連山の一つ、どっしりとした山容の双耳峰、烏帽子岳のちょっと圧迫感のある姿を目の前に、その右の方を眺めると、夏空に向けて浅間山が白い噴煙を上げ、浅間山の外輪山の一つ、前掛け山が気持ちの良い曲線を描きながら裾を引く。これが、ほとんど毎夏のように母の実家に遊びに行っていた私の目に今でも浮かぶ、心の原風景とも言える信州の風景です。

 昔は、信越本線で碓氷峠を越えて信州へ行くのが普通でした。横川で列車の前後に3台の電気機関車を付け、碓氷峠の急勾配の坂と26のトンネルをあえぐようなスピードで登って、ようやくたどり着いたところが、信州の入り口、軽井沢でした。横川と軽井沢の間の碓氷峠は、物理的にも心象的にも信州と東京を区切る境界だったように思います。長野新幹線が出来てからは、東京から軽井沢まで1時間。高崎から先は、ほとんどトンネルで、関東平野から軽井沢への急な登りは新幹線になっても感じるものの、十分に気分が切り替わらないうちに信州についてしまうような気がします。

 そして、信州自体も大きく変わりました。交通路の変化によって、小諸のように元気がなくなってしまった街もあれば、佐久平のように東京の郊外を思わせる賑わいを見せる街も出現しました。旧軽銀座や「うだつ」で有名な旧北国街道海野宿のように、歴史を背景とした町のコンセプトをうまく主張して人を集めているところもあります。

 今回は、夏休み真っ最中ということもあり、観光ガイドにはあまり載っていない、私が見つけた昔からの信州の風景を楽しめるところをいくつかご紹介します。

 軽井沢は、標高1,000mほどの所に広がる地域で、関東平野から軽井沢まで懸命に登ってきた列車も自動車も、その先、上田平まで一気に約800mも下っていきます。そうしたことは、頭では分かっていたのですが、軽井沢というところが、浅間山の裾野とその南に連なる関東山地の間に広がった雄大な高原台地であることに気がついたのは、去年の冬、軽井沢プリンスホテル・スキー場の最高点、標高1,155mの矢ヶ崎山の頂上から浅間山の方角を見た時のことでした。山の上から軽井沢一帯を見ると、周囲の山容はずいぶんと異なりますが、ユングフラウ、アイガーの麓に広がるグリンデルワルドを彷彿とさせるような地形で、この地が日本有数の別荘地になったのも至極当然、軽井沢を別荘地として開いた先達者の目の確かさに頷かされます。

 それにしてもこの矢ヶ崎山から軽井沢を見下ろした眺めは、ちょっと日本離れをした風景で、軽井沢の地形の恵みと言えば無難な表現ですが、こんなにすごいところに軽井沢というのはあったんだと言いたくなるような地形です。この矢ヶ崎山の頂上には、夏でも軽井沢プリンスホテルの東館のすぐ横から、高速リフトで登って行くことが出来ます。スキーゲレンデいっぱいに植えられた花を楽しみながらの空中散歩です。

 軽井沢から国道18号線をさらに上田に向けて下っていくと旧中山道と北国街道の分岐点の信濃追分を過ぎたあたりで「浅間サンライン」という道と分岐します。軽井沢から上田の間は、遠く甲武信岳に源流を発し、佐久平を北行してきた千曲川が浅間連山に行く手を遮られ、西に流れの向きを変えるのと並行して、千曲川の北岸、浅間連山の麓を川から近い低い順に国道18号線(旧北国街道)、上信越自動車道が東西に走っています。

 この浅間サンラインは、千曲川に沿って上信越自動車道よりも更に北、浅間山から湯ノ丸山、烏帽子岳と北西に連なる連山の中腹に近い裾野に造られた比較的新しい広域農道ですが、この道から、浅間連山を背にして南を眺めると、千曲川の南岸が浸食によって崖として立ち上がったその先、御牧ヶ原(みまきがはら)がのびやかに広がり、更にその向こうには北八ヶ岳連峰のゆったりとした山容の山々や高原が連なっています。

 確か、万葉集にも御牧ヶ原で放牧されている馬の歌があったように記憶していますが、この地域は、古くは広大な御料牧場として利用されていたそうです。そうした昔の光景も、この浅間サンラインからの眺めで目に浮かべることができます。

 この御牧ヶ原というところは、車で走っても気持ちの良いところです。国道141号線の小諸と佐久の間、御影新田という信号で上田方面に向かうと、やがて、不思議とこの付近だけ深く渓谷を刻んで流れる千曲川を遙かに見下ろす小諸大橋を渡ります。この橋は、千曲川の渓谷の開けた先に浅間山が雄大にそびえる景色を楽しむことの出来る数少ない場所です。橋を越えて、坂を上り、御牧ヶ原台地に登りつめると車窓の右手、思いの外近いところに崩落した外輪山や屹立した溶岩柱に縁取られる荒々しい浅間連山の姿が続きます。一方、左手には蓼科山を始めとする北八ヶ岳連峰ののびやかな山々や霧ヶ峰、美ヶ原といった2,000m級の高原台地といった広々とした風景が広がります。

 運が良いと、目の前に、遠く屏風のように穂高連峰、槍ヶ岳などの北アルプスの雪をいただく山々が連なっているのを見ることも出来ます。この道も広域農道で、御牧ヶ原に散在する牧場や高原野菜の栽培農家に利用されているようですが、道は「千曲ビューライン」と名付けられ、隠れた観光道路です。御牧ヶ原の最も標高の高い地域には、小さいながらも別荘地や別荘客相手の喫茶店なども散在し、空も大きく広く、空気も爽やかで、山が見える天気に恵まれれば、東信地方の絶景を独り占めすることが出来ます。

 浅間連山の稜線を形成する山々の中には、美しい高層湿原と高山植物を楽しめる意外と知られていない穴場があります。小諸から高峰高原に向かう良く整備されたバス道路を登り詰め、標高約2,000mの車坂峠を過ぎてすぐのところが湯ノ丸林道の入り口です。

 この道は浅間連山の稜線近くを車坂峠から地蔵峠までつなぐ全長5kmほどの高原道路で、未舗装の道ですが、車もすれ違えるほどの比較的良く整備された道です。湯ノ丸林道を入って、浅間連山の一つ、篭の塔山の頂上を南にまきながら西に向かって3kmほど行くと目指す池ノ平湿原の入り口となります。

 池ノ平は、昔の浅間山火山群の火口の跡に出来た高層湿原で、現在では乾燥化が進み、残念ながら湿原の一部に鏡池という小さな池が残るのみですが、直径、500mほどの火口跡が、ゆるやかなすり鉢状に広がり、そこにコマクサなどの高山植物やモウセンゴケなどの食虫植物が生息しています。

 池ノ平には、火口跡を周回する桟道や、きっと昔はこの火口の主だった三方が峰を巡る道が良く整備され、1時間から2時間ほどの高原散策を楽しむことができます。桟道などの整備が進んだ結果、最近では乾燥化も回復しつつあるという、うれしい話も聞きました。桟道をのんびりと歩いていると時折、西側に崩れて大きく開けた火口壁の間から雲が登ってきて、火口跡に広がるお花畑に影を落としながら駆け抜けたり、私たちを霧につつんだりします。静かで美しい高原の世界です。帰りには、池ノ平からずっと舗装道路を下って、東部町と長野原を結ぶ国道144号線の峠、地蔵峠に出る手もあります。お薦めの高原散歩道です。

 実は、この夏、約20年ぶりに池ノ平で高原散策を楽しんだのですが、帰りに地蔵峠から東部町の方に下る途中に、自家製チーズとイタリア料理を食べさせる高原レストランを見つけました。ちょっとお洒落なテラスで、南に広がる御牧ヶ原や北八ヶ岳連峰ののびやかな風景と千曲川の方からゆるやかに吹き上がってくる涼やかな風を楽しみながら、軽いイタリア料理とお茶をいただくといった贅沢な時間を過ごすことが出来ました。

 この地では、島崎藤村、北原白秋などの詩人や歌人が美しい歌を残しています。

小諸なる古城のほとり
緑なすはこべは萌えず
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)

雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
若草も籍(し)くによしなし
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
浅くのみ春は霞みて
旅人の群はいくつか

野に満つる香(かおり)も知らず
麦の色わずかに青し
畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず
千曲川いざよう波の
濁(にご)り酒濁れる飲みて

歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
岸近き宿にのぼりつ
草枕しばし慰む

(島崎藤村  「小諸なる古城のほとり」  -落梅集より-) 

 私の母は、歌がとても上手でした。父親と結婚して東京に出てきた後も、心細い時や親戚と昔話になった時などは、幼い私をあやしながら、美しい声で歌を歌っていました。母が亡くなってもうすぐ20年になりますが、今でも思い出されるのは、母が歌っていた、この藤村の歌に弘田龍太郎が曲を付けた歌曲「千曲川旅情の歌」です。

 この地を歩いていると、ときおり風とともに、この歌が聞こえてくる気がします。

記事一覧へ