◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2013/09/26 http://dndi.jp/

幸せな記憶‐メルマガ500回直前号

・仙台の鈴木英俊さんの「絆の井戸」記念碑除幕式
・徳島の板東正さんが教え子と日光で桜の記念植樹

DNDメディア局の出口です。お彼岸が過ぎたら正直なもので朝夕ひんやり、庭先で栽培しているぶどうが収穫期を迎えている。種類は巨峰だが、昼夜の別なく暑い日が続いたためかマスカットみたいに青いまま熟成し、このところの冷え込みでほんのり色づいて甘みが増してきた。発生するぶどうの虫は手でつぶし、葉っぱを食い散らすコガネムシとのバトルは壮絶を極めた。多い時で20数匹も捕まえて、これはスズメらのエサに。微生物を使ったEM栽培だから無農薬にこだわるのだ。



そうすると市販の物に比べて傷がついて見劣りはするが味は抜群。みずみずしく皮がやわらかいので皮ごとのみ込んでも少しも違和感がない。毎朝、ひと粒ちぎって味を確かめている。贅沢な見回り役だ。

ぶどう棚の先には刈取りを待つ田んぼが用水路を挟んで東側に広がる。あぜ道に除草剤を撒くから、水路の際の雑草が汚れたように茶色に萎れている。除草剤は、今年で3回目だ。除草剤をまくたびに雑草が化け物のように暴れ回るような気がしてならない。萎れているのはほんの一時で、その後、生え変わってモンスターのようにあたりを覆い尽くしてしまう。


小学校が近いため、そのわき道を学童が列をなして通る。幼い子も走りまわる。朝夕は犬の散歩道だ。田んぼの水中動物をつかまえる児童も少なくない。そんな子を見ると、家に帰ったら必ず手を洗うように知らせてあげる。田んぼに突っ込んで汚れた手で口元をふいているのだから、おだやかではない。農薬をふりまく都市近郊の農業は、どうかしている。雑草なんて、草刈り機でやればいいものを。近所の古老からは、あれは悪質な税金対策だ、どうせ食べられる米なんかできやしない、と容赦しない。農薬漬けって困ったものだ。

その田んぼに水が入った頃、ぶどうの花が散って小さな実を付け始めたら、紫陽花やバラが咲いた。猛暑の夏が終わって、4ケ月前の「あの時」と「いま」のふたつのアングルを定点で比べてみると、考えさせられるものがある。

美しいのは新緑のまぶしい「あの時」だ。「いま」は、確かにぶどうは大きな房となって食べごろなのだが、太陽のめぐみを浴びたぶどうの葉といえば、害虫に食い荒らされ、風雨にいたぶられたのか、茶色く枯れて葉脈が浮き出ている。千切れちぎれのぶどうの葉に、人間でいえば終末期にさしかかった老人の姿のように思えてうらさびしさを覚えるのである。


巨峰なのに青いまま熟している、と思いきやここ数日の冷え込みで一段と房が大きくなってきたように感じる。もう少し待ってみようか。収穫を終えたら、残る葉の表面を1枚1枚、丁寧に布きんで汚れを取ってあげることにしている。ぶどう栽培は今年で5年目、手間を惜しまず小さな作業を丹念に繰り返してきたのである。


ぼくのメルマガだって、思えばぶどう栽培のようなものだった。こちらは10月で12年目に入る。今年は、極端にペースが落ちてしまった。迷ったり戸惑ったり、と筆が鈍って一向にはかどらなかった。パソコンに向かって原稿を打つ体力がずいぶんと落ちた。目はしょぼつくし、背中や肩は鉛が張り付いたように重く、耐えられないのだ。時折、坐骨神経痛のような痛みが足腰に走ることがある。


そのメルマガもやっと500回までもう一息というところに辿り着いた。ネコでもないのに背中は丸く、いまだに近視なのだがそれも極端に進んだ気がするし、なにより60歳をすぎて途端に頭髪が鳥についばまれたように抜け落ちた。育毛剤の空瓶が無情に並んでうらめしいほどよ。

葉脈が浮くぶどうの枯れ葉におのれを重ねてしまうのだ。布きんで汚れを取ることはかなわないけれど、積み上げたメルマガは、ぼくにとっての記憶のクラスターでもある。振り返れば、メルマガが縁で知り合った方々と川の流れのような淀みのない豊かな交流が続いている。人生の醍醐味というのだろう。人との関係を抜きにして世の中は成り立たないし人生もない。人は人との記憶を確かめながら生きていられるものらしいことが、この歳になってぼんやりだが、その輪郭が見えてきたような気がする。

あふれそうな幸せな記憶を紡いできた。それがぼくの誇りかもしれない。


◆友情の証だっちゃ〜

さて、この9月中旬に忘れがたい体験をした。DNDメルマガの取材を通じて出会った方との再会なのだが、ぼくは夢心地だった。東北は仙台、彼らとは一生のお付き合いだっちゃ。新しい出会いにも恵まれた。


その筆頭は、瓦礫とヘドロの田んぼから奇跡を生んだ鈴木有機農園の鈴木英俊さんだ。ぼくは銀シャリ名人と名付けた。場所は、仙台市宮城野区蒲生、あの日、津波で親類家族が犠牲になった。あの時、丹精込めた田んぼの作付けが危ぶまれた。が、その失意の中でひとり立ち上がった。あの時の青ざめた表情が脳裏にこびりついている。が、彼は涙をふいて負げねがった。

その5月に、おらの米を待っている人がいると田植えを強行した。近在の農家から白い目でみられた。悪戯や器物損壊の憂き目にもあったけれど、微生物がヘドロを分解してくれると期待し、その秋には素晴らしいお米が収穫できたのだ。全国からのボランティアも含めてたくさんの人がかけつけて収穫を祝った。鈴木さんの涙ぐましい奮闘ぶりは、全国ニュースとなりテレビや新聞等に取り上げられた。鈴木さんの覚悟は、被災者のみならず多くの日本人を勇気づけ希望となった。

ぼくは、震災の2ケ月後に被災地に入りした。宮古、山田町、大槌町、釜石、気仙沼、女川、南三陸、石巻、そして最後に仙台に下って鈴木さんのところにやってきた。2011年5月14日のころである。被災地は、交通手段は寸断、ホテルや食堂も閉鎖されていた。これらの記事は連続でレポートした。

鈴木さんのことは、まだこの先どうなるかわからないうちに『仙台のコメ作り名人と微生物の奇跡』とのタイトルで6月8日に配信した。それから節目にメルマガでフォローした。その後、この奇跡を呼んだ微生物の物語は大きな反響となった。

鈴木さんは、多くの人が言うように誰彼の分け隔てなく接する気さくな人柄だ。毎晩、ブログを発信するブログファーマーであり銀シャリ名人なのだが、心のひだに響くようなやさしさで相手を包みこむ名人でもある。

いつもその眼差しに深い憂いをたたえているようにお見受けする。そのためか鈴木さんに会うとなぜか胸がつまる。熱いものがこみ上げてくるのだ。きっと、太い絆の賜物だと思う。


◆絆の井戸と記念碑

そんなことを思い浮かべながらスピーチ原稿を読み込んでいた。挨拶しないといけない、そう思うと、結構、緊張するものだが、準備に時間をかければ心配はない。ぼくは親友の岡田正さんが運転するセルシオで9月14日の朝早く、台風で曇る西の空を気にしながら東北道を北に走った。仙台は抜けるような青空が広がり、汗ばむほど日差しが強かった。式典の30分前に着いたら、前EMみやぎ世話人の小林康雄さんが岡田小学校の脇の駐車場まで出迎えてくれた。



やあやあ、と懐かしさを満面にたたえている。ビシッとスーツ姿だ。七五三かと思ったよ、とからかったが、これから始まるイベントの責任者なのだ。正装でお客様をもてなすというあたり、小林さんらしい気の配りようだ。小林さんの後について鈴木さんのお屋敷内に入った。紅白の天幕にかこまれた一角では、ご近所のお手伝いさんらが式典や宴会の準備に追われていた。


式典は、「絆の井戸」記念除幕式と銘打たれていた。ここ宮城野区は仙台でも有数の米どころだ。が、あの津波で1800fのうち1500fが瓦礫とヘドロにうまった。当分、3から5年間は作付けが困難と言われ、国の指導で作付けが自粛された。それもそのはず、田んぼは10cm以上のヘドロに埋まり悪臭を放っていたのだ。

仙台湾を囲むように走る貞山掘の揚水ポンプ場が津波で吹っ飛んだ。水が引けないのでは田んぼと言っても話にならないのである。その窮状を耳にしたEM技術の開発者で名桜大学教授の比嘉照夫氏が、ポンプ掘削の費用や技術の提供を申し出たのだ。水さえあればやれる、と鈴木さんは小躍りした。そのお蔭で、震災の年にも収穫を可能にしていたのだ。

それから2年6ケ月、その井戸を桧材で囲う建屋が完成した。そして建屋の隣に「3・11 あの日あの時」と題した石碑が建立された。それらの式典が予定されていた。

小林さんが実行委員長で、安斎かずえさんが司会を務めた。息の合ったお二人だから万事、そつがない。建屋の前で、臨時に設けられた式典の舞台。挨拶にたった比嘉先生は、まずこの井戸の完成などに尽力した北海道在住でUネット理事の福田昭夫さんの活躍を紹介し、震災直後なので井戸を掘るために業者を探したが地元で手当てができず山形にまで声をかけたなどとその時のご苦労と経緯を語った。そして、鈴木さんの奮闘を称えながら「大変な決心でした。この奇跡的な事実を後世に伝なければ、あとあと力になっていかない」とこの日の落成の意義を解いて、「絆の井戸」の落成は「新しい農業のシンボルになる歴史的な偉業だ」と賛辞をおくった。



冒頭、挨拶に立った鈴木さんは、神妙な面持ちで言葉を選びながら大勢の方々のご支援やご協力に感謝の意を伝えたのだが、井戸を掘る、なんとしてもポンプが必要という時に比嘉先生が…というくだりで言葉につまった。言葉が途切れてしまった。しばらく会場がシーンとなった。鈴木さんは、肩で息をしながら涙も拭わずしきりに嗚咽を抑えていたのである。鈴木さんの挨拶は感動をよんだ。


ぼくの番がまわってきた。司会の安斎さんが、本日の主役と言って持ち上げるし、感性豊かな目と心で被災各地を取材し発信し続けた、とたいそう大仰な紹介をするから、突然、頭が真っ白になってしまった。原稿は飛んでいった。あんなに準備していたのに。

まずその前に鈴木さんにロシア製の帽子を贈呈した。冬場の外回りに使ってもらいたい、と言って鈴木さんに帽子をかぶってもらった。会場から、お似合い!と声が上がって、鈴木さんは目を細めて嬉しそうにしていた。



 さて、ぼくのスピーチは、碑文を数行朗読した。「金色の稲穂に笑顔が戻った。笑ったら、また泣けた」と。これは想像で書いたもので実際にこの場に来て稲穂を見たら想像していた通りだったので驚いたという意味のことを話した。そして、比嘉先生と出会って15年、やっとEMの皆さんの仲間入りができたと付け加えて締めくくった。

正直にいえば、稲穂がこんな輝くものだとは知らなかったのだ。収穫期に鈴木さんの田んぼを訪れたのは初めてだった。式典の少し前、あぜ道を下りて手に取って確かめたら、弾けそうな籾米が頭を垂れていた。こぼれそうな稲穂の波は、しゃんしゃんと響く舞妓さんの花飾りのようにたおやかに揺れるのである。美しい日本の風景だと見惚れてしまった。

石碑は、その田んぼを背負うように建っていた。想像していたより大きく堂々としていた。稲穂の波がまるで金色の屏風のように黒御影を引きたててくれる。碑文の末尾にしっかりと刻まれた名前の「俊楽」はぼくの俳号である。心を込めて碑文を書いた。震災を機に、鈴木さんは大変多くの出会いを積み重ねたと思う。

式典のあとの宴会は、おおいに盛り上がった。長茄子の漬物がととびっきりおいしかった。ずんだ餅も焼肉も堪能した。鈴木さんのブログを読むと、当日の参加者は総勢111人を数えたという。この24日には稲刈りが始まったことが報告されていた。昼間のお酒がほどよく効いて、ぼくはやはり夢心地だった。何かいいことがはじまりそうな予感がした。




◆夢の中で

仙台の帰りにお土産をいただいた。越乃寒梅の一升瓶、茄子の漬物、なぜか焼肉のタレも桜の苗を包んだ紙袋に入っていた。桜の苗は、この日の朝、神社の宮司でEM仲間の齋藤義樹さんが、ぼくのためにわざわざ石巻から持参した。桜は山桜で神社の境内から採った実から育てたという。ひとつの鉢に苗が5〜6本、これが大きくなると株立ちといって構えのいい桜の樹に成長します、と斉藤さんが太鼓判を押した。

ぼくはうれしくてたまらない。セルシオに体をあずけた時は意識が薄れていた。あの方たちとまた会えるだろうか。そして、この桜の苗は、日光の森に植えられないだろうか。ぼんやりとそんなことを思い描いていた。


◆記念の桜を植樹

桜と徳島、ぼくには思い入れがある。これもご縁というものなのだろうか。
この4月下旬に徳島に行った。ちょっと先に触れた徳島の桜の苗木というのは、これはおかしなことで少し説明が必要かもしれない。仙台に車を走らせた友人の岡田さんが里帰りすることになり、ぼくも便乗させてもらった。岡田さんのセルシオで行ったのだが、さすがに一人じゃ、しんどいので息子が同乗しハンドルを握った。 

夜10時すぎ埼玉をスタートして予定通り、淡路島には午前6時頃に通過した。徳島大の佐竹弘先生と合流し、先生の山に案内してもらって、その日のうちに徳島の美馬市木屋平という標高800mの山里に向かった。そこが岡田さんの生まれ故郷だ。うらぶれた山間に廃屋や旧式の乗り合いバスが2台、狭い沿道に朽ちていた。人の気配はもはやない。人が住まなくなったのに道路が拡幅されていた。こんな山奥にも公共工事がはびこる。

阿南市から美馬市の山奥まで往復、なんと8時間を要した。埼玉から徳島までと同じ時間だ。岡田さんとお付き合いして40年、このなんとうか無邪気で人懐っこい親友の故郷をこの目で確かめておかなければ、というのが徳島行の主な理由だった。相手を知るとは、それは友情の発露と思うのだが、どうだろうか。


翌日の昼、徳島名物、たらいうどんの里で岡田さんの恩師で、旧土成町の前町長、板東正先生を囲んで同窓会が開かれた。そこに同席したら、こんなドラマが連続してくるとは思わなかった。その一部始終を今年の5月配信の2本のメルマガで紹介した。板東先生の心情のところは、いま読んでも目頭が熱くなる。


また忘れられないのは桜の樹のことである。木屋平の山間を縫うように走ってみれば、そこは申し合わせたように優美な枝垂れ桜が植えられている。剣山連山を一望する桜の名所、川井峠でもその見事な枝ぶりに見入った。斜面から低地にふりそそぐように花が散るらしい。岡田さんの友人の手塚さん宅の引き込み道路の脇に3本、もう少し行った先の重要文化財で古風な三木家の中庭に上品な老木が1本、岡田さんが板東先生と過ごした旧三ツ木中跡地のグランドの隅々にも若い桜が植栽されていた。いずれも花を散らしたばかりの枝垂れ桜であった。郷愁の木屋平は枝垂れ桜の里のような趣だった。

さて、台風を避けるため、玄関に取り込んだ枝垂れ桜の苗のことだが、これは徳島の木屋平から枝先を何本か失敬して持ち帰ったもの。その1本が幸運なことに根付いたらしい。どうもこれは偶然ではないような気がしてならない。

置き場所を変え、肥料を加え、水を枯らさぬように見守っている。雨がくると、雨にあたらせることもしばしばだ。猛暑の日は、玄関先の日蔭に鉢を移してやる。すると、いつの間にか桜の声に耳を傾ける自分がいる。頑張れ頑張れと声をかけているのである。ぼくは、桜守りになれるかもしれない、と本気で思った。

そんな折り、徳島から板東先生が上京することになった。教え子のひとり、森本照之さんが付添うという。9月19日に羽田に到着し、東京スカイツリーを見学し翌20日は両国の大相撲を観戦した。手配したのは岡田さんである。相撲は、前から3列目の砂被りの席で、浦和に住む板東先生のご長男が録画してチェックしたら、はっきりと画面に先生が映っていた。孫娘が、おじいちゃんだぁ、と声を上げたという微笑ましい話が伝わってきた。 

そして、21日の土曜日、日光に1泊旅行に出かけた。ぼくに秘策があった。サプライズイベントとして、ぼくの森に、桜を植えようという試みである。

さすがに徳島から持ち帰った鉢の中の枝垂れ桜は、まだ幼い。山桜なら石巻の齋藤さんからいただいた株立ちの苗木が、いいと考えた。が、葉は落ちているし、背丈も30pから40pと小さく見栄えがしない。そのことを岡田さんにこっそり話すと、いいね、いいね、といいつつ、しかしあれじゃあ、ままごとみたいじゃないの、と一蹴された。植木の産地、安行で買ったらいいじゃない、とさらりという。わかっていないのだ。岡ちゃんは、ね。材木屋を生業にしながら、ちょいとその辺で買えばいいとは何事か、と不満を口にした。


石巻など東北の被災地は、津波で樹木が根こそぎ流されてしまって海岸付近から樹が消えた。そのため、ブナや桜の種をとって苗を育てて植樹する「寂光の森」の運動がボランティアの手で進められている。その復興のシンボルとなる東北の山桜を日光に植える、その桜を板東先生に植樹をお願いしてはどうか、東北、日光、徳島を結ぶ、絆の桜になるはずだ、という思いがある、と説明した。物語なのである。

しかし、結局は、安行で高さ2m弱の「陽光」という種類の桜の苗木を選んで車に積み込んだ。トランクには、ぼくが用意した植樹用の鍬、大きな木槌、縄ひも、ナイフ、ノコギリ、肥料、添え木用の杭数本に署名する板とマジックペンの一式を持ち込んだ。

日光へ向かう車中、徳島の教え子の安丸一代さんから電話が入った。先生ら一行がどういう旅程で移動してきたか、これから日光観光に行って冷たいそばを食べて源泉のかけ流しの温泉に入るんだよ、と話し、それらのことは後日、森本さんから詳しく聞いてねと伝えた。

桜の植樹の件は、内緒にした。ぼくが岡田さんの同窓生と親しいのは、前にも書いたようにたらいうどんの「新見家」で開いた同窓会に飛び入りで参加したことや、あのメルマガを書いたことで、なぜか特別な親近感を持ってもらっているからだ、と思う。

先生は、ぼくのメルマガの文章をたいへん気に入ってくれた。メルマガが先生のところに届けられてのち、先生は岡田さんに送った手紙のなかで、メルマガを読んで感激したことや、ぼくのことに触れてくれた。

「出口先生という方は、これまでに私が出会った人々の中で、ずば抜けて人間性が大きく感性豊かな方、文章表現も読みやすく軽妙で、さすが元記者という経歴の裏打ちがありますね」と綴り、それは同時に岡田君の素晴らしさでもある、と付け加えるのである。なんだか過分なお言葉で恐縮した。でもうれしい。


さて、21日の夕刻、ぼくらは板東先生を日光の森にお連れした。先生は84歳になられる。植樹の場所は、車を降りてから60mぐらいの近場で陽当たりがいいところを選んだ。先生は、しっかりした足取りだが、急な斜面もあり大変だったかもしれない。斜面には、ぼくがこの春に間伐材で階段をこしらえた。それが役立った。

そもそも昨年の10月にこの山を購入できたのは幸運だった。板東先生をお迎えするためにこんな素敵な舞台はない。先生は、周辺を見渡して先へ先へと進まれた。目を細めて清流を眺めていた。

さて、トランクから取りだした植樹用の道具一式に加え、種から育てた徳島産のすだちの苗、石巻からの山桜の苗も一緒に山に運んだ。この時期に山に桜を植えても大丈夫だろうか、と、知人で日光の自然を守る会の事務局長で桜に詳しい山下和男さんにアドバイスをもらっていた。


場所は樹齢60年の杉が覆う。間伐が進んで陽が差し込むこの森の一番の高台だ。近くに堂々とした赤松、桧、樅の木がある。ここなら、樹が大きくなって桜が満開になったらひときわ目立つよね、とみんな口々に言い合った。花吹雪が、入り口の小道に降りそそぐに違いない、とぼくにはその光景を思い描いた。散って小道に桜の花が咲く。続く5月には藤の紫の花がおびただしいほど小道を埋める。紅や紫の華やかな散歩道なのだ。


作業は手際よく進んだ。高さ2mもの添え木を左右に木槌で打ちつけた。鍬で土を掘りあげ、雨水を注ぎ入れてEMのぼかしを撒いた。そこに桜の苗を厳かに沈ませた。土をかぶせていたら、先生が私に鍬を入れさせてください、と申し出た。先生は、鍬をしっかり持って腰を据え、土を丁寧に寄せていた。静かな森に野鳥のさえずりとザーッという渓流の音だけが響いてくる。先生は、しばらく鍬を手放さなかった。額に汗をにじませながら感慨深い様子だ。


そこで先生にマジックペンを渡して、署名を頼んだ。
『板東桜、2013・9・21植樹』



 板東桜、えっ!と驚きの声は、感嘆の声に聞こえた。いやあ、サプライズだなあ、と先生、満面の笑みを浮かべた。そして、そばの丸太の板を載せてかがみこんで、マジックペンを握った。バランスの良い素晴らしい署名だ。板東桜なんて素敵だね。先生は、やや表情を紅潮させて、いやあ、こんなサプライズがあるなんて感激です、と心底うれしそうだ。植樹とは聞いていたが、板東桜とは恐れ入った、参りました、と繰り返した。ほんとうにうれしそうだった。



その桜のそばに、ぼくが徳島でもらったすだちの種から育てた苗を、今度は、森本さんに植えてもらった。そして板とマジックペンを渡した。
『森本 すだち 2013・9・21植樹』

彼も大声を上げた。森本すだち、いいじゃない。

わーっぼくもですかいなぁ、と徳島県警の刑事出身のニヒルな表情をくちゃくちゃに崩してはる。そして慎重にマジックペンを動かした。森本さんも達筆だった。師に影が沿うように控えめなすだちの苗だが、徳島の香りを日光の森に漂わせてもらいたい。


板東先生、森本さん、それに岡田さんらの故郷だもの。また相撲の観覧席や夜の歓迎会でご協力をいただいた徳島の佐名河内村出身の埼玉阿部木材社長、東朋良さんにも感謝したい。ぼくの父方の祖母が徳島生まれだった。縁が深いの〜。



その夜の宴会は、最初は、しみじみとしていた。板東先生が桜の植樹が一番うれしかったようで、なんどもサプライズを口にした。わしが生きているうちに桜を見に日光にこられるだろうか、と語っていた。森本さんと岡田さんは、まるで修学旅行のノリで、はしゃいで遅くまで楽しげに飲んでいた。素敵な旅は、紅葉の走りの奥日光に出向いて無事終えた。


先生は、羽田空港への車中、ずっと桜の植樹のことを話題にされていた。徳島を出る時は、体力がもたんかもしれん、と心配した。数年前に胃がんで胃の全摘手術をしたことが不安としてよぎった。なんとか体力をつけるため、その日のためにウオーキングや真向法で鍛えていたのだという。

森本さんがいう。

「行く時はなぁ、先生、大丈夫かいな、と少し心配したんやけど、帰ってみたらなぁ足取りも軽やかに、寿命がのびそうやわ、と満面笑みを浮かべておられたわ」。

ぼくの携帯に森本さんから報告があった。来年は、また徳島にきてください、その時は、出口さんのスケジュールに合わせて同窓会開きますから、という。桜が咲いたら、日光にも来てくださいね、と返した。桜の植えた場所を地図と一緒に教えてやらないといけない。

なんだか深い意味での幸せが連続している。記憶をまた記録することになる。さて、桜をどんな思いで眺めることになるだろうか。


◆感謝

今回は、仙台の鈴木英俊さん、徳島の板東正先生をメインに取り上げた。鈴木さんのところには小林康雄さん、板東先生のところには森本さん、安丸一代さん、そして岡田正さんがいてくれるから、このようにスムースに物事が運ぶのだと思う。みなさまに心から感謝いたします。次回は500号、乞うご期待!



◆鈴木さんに関係するこれまでの主なメルマガ
・2013年3月13日配信
【3・11、もう2年、まだ2年〜碑文「あの日あの時」】
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm130313.html

・2012年3月7日配信
【3・11、あれから1年、東北再訪:その1は仙台発〜仙台の鈴木英俊さんの憂いと誇り】
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm120307.html

・2011年10月19日配信
【涙の田んぼから希望の銀シャリ豊作】
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm111019.html

・2011年6月8日配信
【仙台のコメ作り名人と微生物の奇跡】
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm110608.html

◆板東先生、岡田さんに関するメルマガ2つ
・2013年5月23日配信
『阿波の国のやさしさと、憂いの中の恩師(下)』
 ・岡田正さん夫妻と行く徳島探訪その続き
 ・旧三ツ木中の同窓会と恩師、板東正氏の心
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm130523.html

・2013年5月16日配信
『阿波の国のやさしさと、岡田家の人びと(上)』
・徳島探訪、美馬市木屋平の「向こう樫原」
http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm130516.html