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北の厚田に眠る原田裕さんのこと(下)

DNDメディア局の出口です。夕方にでも連絡が入ると思っていたが、それも ない。緊急の電話じゃなかったし、特別に用件があったわけでもなかったよ うに思う。ふと、何気に携帯をプッシュしたという単純な動機だったから、 返事とて、何となく待っている感じだった。やはり変だなあ、それが日に日 に胸のつかえとなって重く引っかかった。「必ず電話を返す律儀な人だから、 ぼくばかりじゃなくまわりの友人らも電話をかけても原田さんから返事がな いことに、ぼくと同じような疑問を抱いていたのではないか。


◆2011年5月31日の悲報

その悲報は3日後の5月31日の昼前にもたらされた。ぼくの携帯が鳴っている のを息子が気づいて「電話が鳴っていたよ」と携帯をぼくにところに持って きた。留守電にメッセージが残っていた。体から血の気が引いた。


「お世話になっております、札幌の原田裕の娘の由美と申します。あの、父 が事故で…またご連絡させていただきます。失礼します」


感情を抑えた控えめな声だった。張りつめた様子が留守電から伝わってきた。 家族のみんなに「原田さんが亡くなったみたい…」と伝えたら、えっ、と絶 句してしまった。なんで、どういうこと、いったいどうしたのだろうか。


携帯に表示された011で始まる着信番号を押した。奥様の典子さんが、石狩 の畑で主人がトラクターの下敷きになって…と言った。えっ、トラクターで すか、と声を上げそうになった。捜索の経緯をと手短に語り、いやあ、主人 はいつも出口さんのことを話題にしていました…と続けた。取り込んでいる 様子なので電話を切った。しかし、どうしたのだろう、という疑問は膨らむ ばかりだった。


原田さんと懇意だった長男は、ぽつりと、「なにも死ななくてもいいのに …」と死を悼んだ。そうだよ、なにも死ななくてもいい。葬儀に飛んでいき たかった。が、震災取材からの現場報告を仕上げることが供養にもなる、と 思って踏みとどまった。6月2日配信のメルマガ「http://dndi.jp/mailmaga/ mm/mm110602.html」に「原田裕さんに捧ぐ」との一文を添えた。原田さんは、 毎回、メルマガをプリントして読んでくれた。必ず感想を電話で伝えてくれ た。そんな力強い応援団のひとりだったのだ。純朴で、愚直で、一所懸命な 人のために、そして僕のメルマガを楽しみにしてくれる人のために。いや、 こういう人がいるからこそ、書き続けられるのかもしれない、と気持ちを綴 った。まだお別れをする心境にはなかった。献花と弔電の手配を済ませたら、 ふいに切なさがこみ上げてきた。


◆その日、いったい何があったのか。

そもそもなぜトラクターの下敷きになったのか、わかっていることを教えて ほしいと思った。薄れていく意識は何を念じていたのだろうか、ささいな痕 跡でもいい、それらを知る手がかりはあるだろうか。


事故のあった2011年の春先から5月にかけて長雨が続いた。畑がぬかるんで 耕せないのさ、と原田さんは、天を仰いでぼやいていた。少し焦りがあった のかもしれない。ぼくは2012年8月14日にご自宅で典子さんと向かい合って いた時、その日いったい何がったのか、聞いていた。


◆典子さんの述懐

ぼくが泣くものだから、しばらく沈黙が続いたあと、典子さんが、言葉を区 切って事故当時の状況を静かに振り返った。


5月27日の金曜日は、久々の快晴で、朝弁当を持って家を出た。玄関で、行 ってらっしゃい、といつものように見送った。会社に一旦顔を出して、お客 様と打ち合わせを済ませたあと、午前9時頃に会社を出たらしい。畑仕事の 遅れを取り戻そうとしたのかもしれませんね、ずっと雨降りだったから。


わたしはその日、東京から友だちが札幌にきて、学校の同期会があって、 その晩お友だちの家に泊まったんです。次の日に家に戻ったら、主人はまだ 帰っていなかった。週末は、石狩市の厚田にある畑近くの山小屋に泊まるの で、その時も泊まったのだろう、と思い込んでいた。


私には電話をマメにする人じゃないけれど、一応電話を入れてみた。返事は なかったのね。そして翌29日の日曜日になっても返事がこない。というのは、 やっぱり変だなあ、と胸騒ぎがしたので、娘を誘って厚田の山小屋まで行っ た。車で1時間ほどなのです。


山小屋ではお弁当を食べたらしく、テーブルの上に空になったお弁当箱があ った。すぐに戻ってきそうな雰囲気だった。けれど、その夜も家に帰ってこ なかった。さすがに、これはまずい、と焦って体に震えがきた。


日曜は、テレビのDASH村が楽しみで、それに間に合うように帰ってくる。い つもはですね。どこかで事故になったかなあ、交通事故なら警察から連絡が あるはずだ。そうでないなら山に入っていた時にどこかで転げたのかなあ、 と不安がよぎった。


夜8時の時報を聞いて、ああ、これはもうダメだと思って会社の営業部長の 玉川浩一さんに電話して、「きのう、主人から連絡ありませんでしたか?」 と聞いたら、「いやっ」とひと言区切って、彼もハッとしたようですぐ家に かけつけてきてくれた。


捜索願を出しましょう、と警察に110番した。警察は、すぐに対応しますが 明日の朝になるかもしれません、と言った。ところが深夜2時過ぎに連絡が 入って、携帯の履歴を調べたいので印鑑を持って署に来てほしい、という。 警察に行って控室に居ると、携帯は27日の金曜の午前中に岩見沢から発信さ れていたことが分かった。どこに、とは聞きませんでしたが、消息を知る数 少ない手がかりでした。


岩見沢にはあてがない。が、タラの木の苗木を頼んでいる夫婦が江別にいる ので、ひょっとしてそちらに行った可能性がある、と思って江別の知人に朝 早く電話を入れると、主人は27日午前の10時頃に江別を訪ね、荷物を受け取 って帰ったという。


主人は、会社から江別に向かっていたのですね。江別からの帰り、厚田に戻 る裏道を抜けると岩見沢を通過するのでその辺りで携帯を使ったらしい。そ れが最後の発信でした。


翌30日の月曜の朝になって、玉川さんと江別のご夫婦が厚田方面に主人を探 しに向かってくれた。玉川さんから逐一連絡が入った。午前10時半ごろだと 思う。玉川さんが、社長の車があった、と知らせてきた。山小屋からほぼ1 キロの場所でした。そんな近くに畑を借りていたとは知らなかった。しばら くすると、今度はトラクターが見えた、という。携帯をつないだままだった。 畑の中で大型の赤いトラクターが横倒しになっていた。主人がその下に倒れ ていたという。それを聞いて、娘とその場所に向かいました。通報で警察が 駆けつけてきた。救急車も到着したが、主人はすでに息がありませんでした。


◆死体検案書の「短時間」

典子さんの話を聞きながら、テーブルの上の書類のなかに「死体検案書」が 見えたので、拝見させてもらった。検案書には、警察医が診察した診断書で ある。医師は、ドクターヘリで現場にきた。


「場所」は石狩市厚田区嶺泊先の畑内とあり、「死亡推定時刻」は27日夕方、 「死因」は胸腹部圧迫による窒息死と書きこまれていた。「受傷から死亡ま での時間」の備考欄に「短時間」という走り書きの文字に目がとまった。事 故の直後、短い時間だが、わずかに意識があったように読み取れる。


その「短時間」って、どのくらいだろう。死亡推定時刻が仮に27日夕方5時 とするなら、トラクターが横転した時間は、午後4時か、午後3時半だろうか。 ぼくは死亡までにある時間が流れていたのではないか、と推測した。その時 の原田さんの意識というか、心の内はどのようなものだったのか、そのヒン トのひとつでもつかみたいという思いにかられるのである。


原田さんのその日の足取りを思うと、夜の「DASH村」の番組を見るのなら、 家に6時すぎには着いていなければならない。帰宅してシャワーを浴びて、 着替えてという時間が必要だからだ。そして畑から小屋までの時間や、道具 等の後片付け、山小屋から自宅までの所要時間などを考えあわせると、遅く とも午後4時前にはトラクターの仕事を終えていないと間に合わない計算に なる。まあ、それもあくまで検案書の「死亡推定時刻」の27日夕刻という推 定が前提だから、夕刻という表記を午後5時とみていいのかどうかの判断は 微妙だが、その少ない手がかりをたぐってみた。


この「短時間」にこだわったのだ。トラクターの横転でたとえその下敷きに なっていても意識があったなら、なにかしらの動作というか、痕跡をとどめ ているものではないだろうか。携帯がある胸ポケットに手を伸ばす、とか、 呼吸しやすいように首を動かす、とか。携帯は、ストラップで首から下げて 普段は胸ポケットに入れていた。トラクターから投げ出された勢いであって も携帯が首から外れることは考えにくい。うつぶせになった状態のそばの、 手が届く範囲に携帯があった可能性が高い。


携帯をさぐった様子はうかがえなかったか、手に携帯を握っていた痕跡はな かったかどうか。その辺を知りたい。第一発見者の証言に期待した。


◆発見は、偶然の賜物

原田さんを発見したのは、玉川さんだった。彼に電話で聞いてみた。


5月30日の午前11時すぎだったかなあ、ともかく原田さんの行方を探し回っ て、もう諦めて帰ろう、という時に江別の夫婦が、そういえば土地を借りる のに不動産屋に相談していたわ、と不動産屋の名前を思い出した。「ホク ト」と言った。


調べて訪ねると、不動産屋のご主人は、われわれの知らない場所を教えてく れた。地図を示しながら、ここに立ち入り禁止のチェーンがあるが鍵はかか っていないのでフックを外せば入れる。その先にある斜面一帯が原田さんの 畑だ、という。


その畑は、驚いたことに山小屋から1キロほどの場所だった。指示通りに地 図に照らしながら移動すると不動産のご主人が言った通りに立ち入り禁止の チェーンにたどり着いた。チェーンのフックを外して通り抜けたら、その先 の正面の高台に原田さんの車を発見、そこから歩いて斜面をくだった下方に 大型の赤いトラクターが横倒しになっているのが目に飛び込んできた。そば に行くと、原田さんがうつ伏せになってトラクターの下敷きになっていた。


地面はやわらかな土と伸びた雑草だったためか、顔に傷一つなかった。ただ 歯ぐきが少し血でにじんでいた。起こそうとしたが、トラクターの重みで動 かせる状態ではなかった。首は倒れた方向の林側ではなく山側に向けられて いた。レスキュー隊がジャッキでトラクターを浮かせてから原田さんを引き だした。レスキュー隊がトラクターを浮かせたとき、偶然に原田さんの携帯 がなり響いたのには驚いた。携帯は、電波が通じていたり、通じなかったり していたようだ。


玉川さんにぼくの疑問をぶつけてみた。事故が起きてから亡くなるまでの時 間をどう思うか、検案書に「短時間」とあったことを伝えた。わたしはそれ ほど意識があったようには思えないです、即死に近かったのでは、と言った。


200キロ余りもある重量級のトラクターの下敷きでは身動きが取れず、胸も 圧迫されていたから、玉川さんの見方が正しいかもしれない。だが、なんと なくぼくはそう思えないというか、思いたくないのだ。兄貴は辛抱強いから 意識があればこの事態を携帯で伝えようとしても不思議ではない。首の位置 が、傾いた側の下の方向ではなく山側を向いていたというのは、携帯が山側 に落ちていて薄れる意識の中で偶然、着信音が響いて携帯のある山側に首を 回したのではないか、とか、いろいろ考えてしまうのだ。携帯がどの位置で 見つかったか、それさえわかればもう少しイメージがふくらむはずだ。が、 それ以上の手掛かりは残念ながらない。


玉川さんは、レスキュー隊が作業している時や、ドクターが検視している時 は、現場から立ち退きを求められていたので、携帯がどこにあったものかは 確認できていない、と語った。警察に訪ねてみるしかないのだろうか。記者 ならそれも可能だろうけれど、個人的な関心で警察の手を煩わせるのもいか がかと思う。


畑は、離農から2〜3年たって草が茫々と荒れていた。耕作を終えた上段には、 にんにくが植えられていたという。その下段には、タラの木を植える予定だ った。にんにくのことを思うと、なんだかまた切ない気持ちになってきた。


◆兄貴の夢

兄貴のことだからゆっくりと眠りについたと思う。大好きな厚田の地、その ど真ん中で、やわらかな大地の感触を確かめたことだろう。夕暮れの茜空は 視界に入ってきただろうか、漆黒の星空の下でやがて静かに目を閉じる時、 畑一面に青々としたタラの木が林立している光景を想い浮かべていたに違い ない。いやあ、凄っごい、見事だべさ、たらんぼの森だ、という兄貴のうれ しそうな声が聞こえてきそうだ。


◆さようなら、兄貴

満63歳の誕生日をその2日前に迎えたばかりだった。これからなのに、と思 うと無念でならない。兄貴と出会って40年の歳月が流れていた。ここ10年ぐ らいは、ほぼ毎日電話のやり取りをかわしていた。それがいきなり、まるで 月が雲に隠れるようにさっと姿を消したみたいで、その雲間から再び姿を現 すのをじっと、いまだに暗い空を見上げている。 


前回も触れたが、その夕刻、日光街道は突然、激しい雷雨に見舞われた。閃 光が轟音とともに走った。思わず、緊急に車を止めたほどだ。それが5月27 日の夕刻だった。ぼくは家内と息子と知人の通夜に向かっていた。その帰り、 やがて大きな月が上り、雲から一瞬、神々しい光を放ったのを驚きをもって 見た。偶然というより、ぼくはそれが兄貴のシグナルのような気がしてなら ない。


典子さんに打ち明けると、きっと主人が出口さんに知らせにきたのでしょう、 と言った。日光のぼくの森に、枝垂れ桜の苗木を植えて、それを「原田桜」 と命名したことをお知らせしたら、まあ、素敵な話、主人が喜ぶわ、なん と幸せな人なのでしょう、と言って声を詰まらせた。花が咲く頃には、ぜひ、 訪ねてください。


つい先日、厚田の地で原田さんの3回忌が営まれた。遅咲きの桜が満開だっ た、という。鮮やかな散り方だったかもしれない。たくさんの友人に惜しま れて、夢一途にかけぬけた誉れの人生でした。


これでやっと、その時が訪れたようだ。   以上