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また、いじめを見逃したのか

DNDメディア局の出口です。いじめに悩む子をどうやれば守れるか。わが子がいじめにあったら、ぼくならそんな学校には行かせない。いじめられると、怖さと苛立ちで勉強どころでなくなる。未来の夢がしぼんで気持ちが冷え切ってしまいかねない。日々、地獄の苦しみだろう。わが子にそんな辛い思いはさせたくはないし、親として断固、守らねばならない。しかし、我慢がならないのは、教師が、見て見ぬふりをすることだ。


読み書きそろばん、その学びは、人間形成の場ではないのか。なんのために学び舎があるのだろうよ。教師が未熟すぎる。大学を出て、社会経験が希薄だからですか。しかし、嘘をついたり、事実を隠したり、問題解決にしり込みしたり、と、いじめの現場に立ち向かう、敢然たる気構えが少しもみられないのは、どうしたことか。そんな学校には行かせられないでしょう。


いじめを回避するために、公立より私立を選択する方がよい、という考えがある。いじめに対して厳格で即刻退学という姿勢で臨むからだ。息子三人は中学から私立に入れた。それでいじめにあわなかったかどうか、実際のところはわからないが、いじめによる悩みをぼくは耳にしていない。


そもそもいじめ回避のために私立に入れる、というのもおかしなことだ。学校という集団生活の場では生徒間の多少のいさかいや仲間外れといったことも起こるのはやむを得ない、との思いもある。が、その嘲笑が一時のいたずらで終わらずに恐喝や暴行にエスカレートしていく。次々に手口が陰湿になり、ついには自殺に追い込む、ということが学校の中で繰り返されているとしたら、それを見逃す教師や学校関係者の責任は重大だ。なぜ、見て見ぬふりをしてしまうのか、繰り返すが教師が未熟なのか、人間の扱いがわからないからか。そんなことはないだろう。理由もなく大勢でひとりをいじめていいか、悪いか、わからないというのなら、それは教師が、まともな人間になっていないことの裏返しでしょう。自殺した男子生徒のことを思うと、胸が引き裂かれそうだ。


中学に入ってまもなく友だち三人が校庭の裏手に誘い込んで、ひとりが無言でボディにげんこつを打ち付けた。理由なんてない。


学校のトイレの脇にあった石炭小屋に、小さなクラスメートをひっぱりだして図体のでかい奴が、何か叫んだと思ったら腹に一撃を食らわした。小さな子は、しゃがみこんだまま声もあげなかった。後ろでその場面を見ていた。


いじめにあったり、加わったり、思い出せば、胸の痛みはどうすることもできない。心に、真っ赤な焼きごてをあてられたような傷痕が疼く。


大津市立中学2年の男子生徒が昨年10月、自宅マンションから飛び降り自殺した問題では、自殺から9ケ月が経った今頃になって騒がれるのは、どういうことなのだろうか。いじめたのは同級生の3人、そのうち2人が転校してしまった。自殺の1ケ月前の体育大会の日のことである。同級生3人が、男子生徒の手足を縛り、口を粘着テープでふさぐなどの暴行をしていた疑いが明るみになった。どう考えても、おかしいのはいつも担任教師である。


新聞の記事を拾って読むと、今回も釈然としない。ぼくは、担任教師が、うそをついていると感じている。


9月30日に男子生徒がトイレでいじめられている、というのを女子生徒から聞いて、男子生徒に確認したら、「大丈夫」との返事だった、と担任教師。次に10月5日、女子生徒からの連絡でトイレにかけつけたら、すでに落ち着いていたので、男子生徒から事情を聴いたら、「大丈夫や、これからも友達でいたい」と答えたため、「けんか」と判断し、双方の保護者を呼んでその経緯を伝えた、という。これらは、担任教師の証言に基づいた、その経緯なのだが、どうもしっくりこない。校内の担任らの会議でも「けんか」と片付けられた、と新聞が伝えていた。


どう思いますか。男子生徒が、ほんとうに「大丈夫」と言ったのだろうか。何が、大丈夫なのだろう。担任が、「大丈夫か?」と聞いたから少し首を縦に振ったていどだったのではないか。それとも教師が言うとおり、「大丈夫」といったのかもしれない。その大丈夫の意味って、どうにでも解釈できる。


「(暴力を振るわれたが、ケガは)大丈夫」ということだってあるだろうに。そして、「これからも友達でいたい」と言った?


これからも友達でいてください、とは、直接相手に伝えることはあるだろう。担任に、それも、いじめられた同級生らに対して、「これからも友達でいたい」って不自然な言い回しだ。なんだか、奇妙な文脈だと思いませんか。嘘っぽさが、消えない。男子生徒はどんな状態だったのですか。服装は?、表情は?、言葉は? けんかと言う風に解釈したわけだから、どこかに傷を負っていたはずだ。この担任教師は、ごまかしているように感じてならない。担任は、通報した女子生徒からの聞き取りもしていなかった。今週のAERAによると、男子生徒の親が、10月から12月にかけて3回、大津署に暴行容疑の被害届をだそうと相談したが、「犯罪事実が特定できない〕などとの理由で受理されなかったのも、担任教師の「大丈夫」という証言が、影響したかもしれない。


記者会見した市教委の教育長や、中学の校長らに、悲しみのかけらも見受けられなかった。親の気持ちを思うと、こんなやりきれないことはない。


親からの要望で実施した市教委のアンケートでは、いじめはあったが、自殺との因果関係は不明として調査を打ち切っていたし、市長が業を煮やして批判すると、一転、アンケートは2回あったことを認め、その中に「自殺の練習と言って首を絞められていた」、「先生も見て見ぬふりをしていた」との記述があった、と、やっと"白状"する始末だ。そんな重要な証言の数々がアンケートを頼んだ親には、伝えられていなかったというから、どこまで卑劣で、薄情なのだろうか。


事なかれ主義のなれの果てが、このざまだ。無能でも正直ならまだ救われる。悪の温床となるような市教委なんて、百害あって一利なし、もう無用、とネットでは厳しい書き込みが相次いでいる。


新聞が、このいじめ撲滅キャンペーンに前のめりになってきた。新聞の力は、大きい。朝日新聞は、7月14日から1面で「いじめ」をテーマに識者らのメッセージを掲載している。が、いまさら、なにを読め、というのか。日替わりでメッセージの発信者がかわるが、顔ぶれに、そのものにも興味がわかない。このシリーズは2006年11〜12月の連載の続編だという。


自殺してしまったあとでは手遅れだ。なぜ、生徒の自殺を防げなかったのか、と社説は問う。その通り、と思う。だから、いじめの芽を早く摘め、なのだ。


家内にいわせれば、いじめという言葉が生ぬるい、と思うらしい。これはいじめの域を超えてすでに陰湿な人殺しである、と、怒りを隠さない。


新聞には、いじめを訴える投書や相談が届いていないのだろうか。学校教育に新聞を普及させているのではないか。発信ばかりがメディアの仕事ではないはずだ。現場で、いま何が起こっているのか、聞くとか、嗅ぐとか、察するとか、そういう形跡が最近、記事からすっかり見られなくなった。いじめで自殺した後にそれも9ケ月もたって騒いでどうにかなるだろうか。


ネットに頼る、検索記者や、ツイッター記者が蔓延しているためだろうか。現場をつぶさに見て歩かねば、いい仕事はできない。足で書け、とは先輩記者からの矜持だったはずだ。取材の手を抜いてちょっと電話して、あるいはネットから必要な結論をかき集めるという安易なご都合取材が、まかり通っているから、新聞がいじめの抑止にならなくなってしまったのだろう。


新聞はまた、いじめの芽を摘むことを見逃してしまった。いじめは、学校現場ばかりにおきているのではない。メディアが、加害者になるケースだってある。次回、メディアによるいじめの実態を報告することになるかもしれない。





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