◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2011/11/17 http://dndi.jp/

変貌する中国、知られざる海南島ルポ

〜「もう日本に帰れない」の巻〜
・特許週間初日に講演、張輝氏と私
・信頼の窓口は、元外交官の呉松氏
●黒川清氏の「学術の風」
「IS-HGPI、フクシマで会議」
「Botswanaとの交流」
「ドラゴン桜、1年後にまた快挙」


  時計台を思わせる海口鐘楼と川を挟んで対岸の街並みを望む。


  2003年に竣工した世紀大橋から、緑が茂る左手一帯が海南大学のキャンパス、学生は3万人という。


DNDメディア局の出口です。案内された会場中央のテーブルには、マイク、そしてスピーカーの名札がセッティングされていた。席のひとつに私の名前があるとは思わなかった。促されて壇上に。ひとたび着席したのなら、ただ口を閉ざして観客の表情をながめていても様にならない。なにか話しをしなきゃならないですか、と隣の海南省科学技術庁副局長で国際部長の呉松さんに伺うと、「私が通訳しますから安心してください」と、講演は当然という表情で軽くうなずいた。あらっ!


 ここで出番があるなんて、こりゃ予定外のことでしたが、まあ、想定外ではないはずだ。海南省政府の要請で一週間近く滞在するのだから、きっと自己紹介や挨拶の場面があると思っていた。なにもしないで物見遊山にふけってばかりはいられないだろうと、踏んではいた。で、実は準備を少々、先月は講演づいて数えて6回もやったので別段、あわてることはない。この辺の先読みは自慢じゃないが、昔からうまい。が、会場を埋める参加者の大半が若い学生というのは意外でした。


 中国の未来を担う若人のためにどんな話がよいか、簡潔でわかりやすく、そして役に立つもの、ユーモアがあってもよいだろうなどと、短い時間の中であれこれスピーチの題材を頭でめぐらしながら、ここはしっかりやらねばと自分に言い聞かせたら少しテンションがあがって体に力がみなぎってきた。



  特許週間開幕を記念する講演風景、左から張さん、私、呉松さん


 さて、中国南端に浮かぶ島、海南省の訪問は、見るもの聞くもの驚きの連続でした。省都・海口市、文字通り大きな河口に臨んで美しい街並みが整備されていた。過去、数百年、希望と悲哀を胸に秘めた多くの人を行き来させたに違いない。朽ち果てた建造物が、その歴史の断面を物語っているように思えた。


 その、長閑で豊かな最南のリゾート地は、いま、目まぐるしい変貌を遂げようと息せき切っているように見えた。雄大な熱帯資源の宝庫でもあるこの島は、どこへ向かうのだろうか。


 しかし、まあ庶民の暮らしはその恩恵の只中にあるようでした。熱帯性の温暖な気候が気持ちを和ませるのか、どこのレストランに行っても円形のテーブルを囲んで、お年寄りから子供まで10人ほどが何品もの料理をシェアしながら食事する家族の光景は、僕にはまぶしかった。すれ違いざま、彼らと目が合うと、誰もが屈託のない笑顔をみせてくれた。それをツーショットでたくさん撮った。日本ではありえないことだ。


 日本といえば、牛丼やカレーなど安くて手軽なチェーン店がすこぶる繁盛し、コンビニでいつでも弁当が手に入って困ることはない。便利と言えばそうなのだが、この孤食の姿がどこか将来に暗い影を落としているように感じられた。核家族化が進み、加えて単身世帯が増え、いつからバラバラになってしまったのだろうか。数人の家族はあっても一族みんなでテーブルを囲むことが珍しくなった。


 読者の方々は、あれっ夏には四川省を訪問したばかりじゃないの、と思われるでしょう。そうなのです。四川省はこの夏に、2009年5月12日に発生した四川大地震の研究視察で日本政治総合研究所の白鳥令先生らと一週間余り滞在した。山岳の険しい震源地のブン川県まで足を延ばしました。また3・11の東日本大地震の取材は5月以降、合計4回に及んでいたのです。


 その現場で、深い悲しみとたくさん向き合ってきたので、さすがに心がぼろぼろになっていたのかもしれない。体重が一時、7キロ減ったのよね。脱東京を宣言し、埼玉に引っ越し、脱テレビと称して地味で静かなNHKラジオの生活に浸ったりした。もう足し算を控えて引き算の生活に考えを改めようと、悩んだ。これもやや物事を深刻にとらえ過ぎかもしれない。生活スタイルはシンプルになったが、心がまだまだヘビーなのね。感情のマグマがドロドロと、いやあ、人間ができちょらんのよね。


 今月4、5の両日、友人の塩沢文朗夫妻とご一緒した紅葉の信州・塩田路は、気分がよかった。そして今回、技術経営創研代表で友人の張輝さん、ビジネスモデル学会会長で東大名誉教授の松島克守さんらとの海南島の訪問は、これもとても得難い体験になりました。都合、6時間以上に及ぶ松島先生との話は、まるで俯瞰塾のそれ、大いに刺激された。こんな友人との語らいと新しい出会いについ時間を忘れ、それら心のふれあいにしみじみと感じ入った。そして傷んだ心身が少しずつ癒されていくのが実感できた。お蔭で心身ともにリフレッシュしました。


  まるで松島先生との語らいは、俯瞰塾を受講しているような気分でした。


 アルバムをながめていると、その時の記憶がまたふつふつと甦ってきます。


 さて、話を戻しましょう。ステージが用意された舞台は、海南省海口市内の堂々たる海南省図書館内の講堂でした。11月9日朝から特許普及のための特許週間の開幕式が予定されていた。正面入り口の広場に省の幹部が乗った黒塗りの車が横一列に並び、いくつもの赤いバルーンが風に揺れてお祝いムードが漂っていた。晴れていたらその玄関口で式典を開くはずだった。


  会場の図書館前は、赤いバルーンがあがりお祝いムードでした。


 あいにくの雨、前夜もよく降った。急きょ一階のロビーに赤い絨毯を敷いた。省の幹部が横一列に並んで次々マイクの前に立って挨拶をしていた。学生や一般の人たちが大勢押しかけていた。テレビ局のクルー、メディアとおぼしきカメラマンがしきりとシャッターを押していた。大きくスリットの入った赤いチャイナ服姿のモデル風の女性が彩りを添えていたのだろう。特許週間にしては少し違和感があったが、別に悪いわけじゃない。が、近年、中国で均整のとれた飛びっきり美人を多く見かけるようになったのはどういう事情なのだろうか。


  特許週間開幕の式典風景


  通路には、展示パネルや商品説明がならぶ


 見渡すと、左右、正面と続く廊下に新製品や特許製品を紹介するコーナーがあり、それを説明する担当者がいて背後にパネルが並んでいた。一種の展示会なのですね。特許普及、これは海南省だけのイベントじゃないらしく、この日、中国全土で一斉に繰り広げられた公式行事なのである。


 我々の目的も特許週間における訪問先での交流と講演でした。張さんはその講堂で、トップバッターで約1時間こなした。企業の経営に特許は不可欠だというその必要性を説いた。特許をめぐる訴訟やその実例を多く語っていました。中国語だから僕には理解できない。が、振り返って正面のスクリーンをながめると、死の谷、ダーウィンの海とかが図面付きで映し出されていた。立教大学の特任教授のご専門のところをいかんなく発揮されていたのでしょう、話に淀みがない。



  科学技術庁の担当者と張さん


 そして私の番、紹介は呉松さんが丁寧にやってくれた。僕は、少し数字を紹介した。大学の研究成果を主にベースにした大学発ベンチャーに関して、1980年〜2000年までの日米比較で米国が年200社のペースで約4000社、一方日本が200社余りしかなく年に10社程度だった。が、2002年以降、日本の成長戦略の一環としてスタートした大学発ベンチャー1000社計画の効果もあって、2010年頃まで約1800社を超えベンチャー創出の成果の年平均が200社となりようやく米国並みになったことを紹介した。上場企業も40社近い、と付け加えた。


 米国はいま年平均400社に及ぶというが、あんまり根拠がはっきりしないのでその辺はお茶を濁した。それで私がやっている仕事は、学生の自主性を尊重する金沢工業大学の客員教授であり、省エネECOの桧家ホールディングスの社外取締役で、そしてDND研究所の代表という3足の草鞋状態で、メーンのDNDは大学発ベンチャー起業支援のサイトを運営し、お隣の張さんの会社も大学発ベンチャーの1社と思っている、と伝えた。


 自分の個性を生かす、この人生でいかんなく発揮していく。そのために自分が主体となって起業する、そういう起業マインドを持つことの重要性に触れたところで、こう言った。


 いいですか、将来にね、会社に勤めて給料をもらうでしょう、それが当然と思っているかもしれないが、給料はもらう側から、給料を払う側になってください、会社を自らが経営する、ということです、と呼びかけた。そして、例えば、講演を聞く側から講演する側に立場を変えていくことも同じことです、と念を押した。一拍おいて、なにげないタイミングで、OK?と言ったら、ワーッと場内から大きな声が返ってきた。口々にOK〜と合掌するじゃないですか。指を立てている学生もいた。気持ちが通じた、と思った。前列の学生の表情が見えた。笑って、きらきら輝いていた。


 そして、僕が、大事にしていることを3つ紹介するね、ベンチャーの成功の秘訣に通じることだよ、と言ったら、なんだか知らないがさらにまたワーッと歓声があがった。う〜む、ノリがいい。やっぱり若さだなあ、とこちらもうれしくなった。共鳴するのかしらね、僕の声も一段と通るようになっていた。


 その1つは、夢、Dream、大きな夢をもって進んでください、といった。その夢が実現するか、どうかわからないが、夢を持たなければ実現しないものね。OK?と再び、呼びかけたらまたO〜K〜とどよめいた。2つめ、志、Ambition、will、あるいはHopeです、と言った。通訳は、張さんがわかりやすくやってくれていたようだ。残りのひとつ、その前にこんなことを話し始めた。


 海南省に来ることができたのは、友人でいま私の通訳をやってくれている張さんのお蔭です。張さんと知り合えなかったら、このようにして私は皆様の前にいなかったはずですと言った。そして、昨日夜、副局長で国際部長の呉松さん、そして場内で写真を撮ってくださっている国際科学技術協会の秘書長、趙桂芳女史とも友達になりました。講演会が始まる前には、海南大学環境保護学院で英語を教えている田凌渓さんとも知り合った。



  この日、聴講にきていた海南大学で英語を教えている田さん


 この出会が、次にどのようなドラマを見せてくれるか。とても楽しみだし、人の出会いによって人生が大きく変わる場合があります。さて、最後の秘訣、その3つ目は、仲間です。友だちやネットワークなのです、と声のトーンを上げた。みんな身を乗り出して聞いてくれているのがはっきり見て取れる。


 こういっては失礼だが、どういうのだろうか、生き方、それを求めているのかもしれない。僕のメッセージが砂漠に水を撒くように吸収されていく、と強く感じだ。若さゆえ、希望が大きい。その半面、悩みも深いものだ。いやあ、できることなら一人一人個別に相談にのってあげられたらいいのになあ、と心底思った。


  お茶をひと口含んでのち、椅子に腰を深く落として、静かに言葉をつないだ。


 あのね、昨日午後、東京から広州の空港に降りたら雨が機内の窓を濡らしていたのね。雨が降っていた。夕刻、海南省の海口空港に着いたら外は激しい雨だった。そして本日も空に暗雲が垂れ込め、朝から雨でした。ずっと雨なのね、が、将来あるみなさんにこうして会うことができて、私の心には太陽が燦々と輝いています、と言って、謝謝、ありがとう、Thank Youとお礼を述べて締めた。


 ちょっとやり過ぎと思ったが、場内から大きな拍手がわいた。呉松さんが、無言のままうっすら目に涙をためて握手を求めてきた。手がしびれそう。張さんが、よかった、みんな喜んでいる、とコメントしてくれた。会場に降りたら、美人の田さんが英語で語りかけてきた。またお会いできる日を楽しみにしています、と。学生らがはにかみながらこちらに笑顔を向けている。笑顔で返したら、恥ずかしそうに笑っていた。次から次と挨拶に見えた。技術相談もあった。手ごたえを強く感じた瞬間でした。


 会場を埋めていたのは海南大学、海南工商大学の学生と教官、民間のバイオ企業の幹部らもいたという。



  海南大学の学生と図書館の玄関前で

外に出ると、雨が上がっていた。若い子が、僕のそばにきてニコニコしている。さっき講演を聞いた子らだ。iPhoneで記念に写した。笑顔が、いいね。

う〜む、海南島初日、この島が、この土地が、ここの人らがとても好きになってしまった。ひょっとしたら、もう日本に帰れないかもしれない、という言葉を口にした。もう日本に帰らない、と言ったのはこれが最初でしたが、それ以降、いろんな場面で数多く連発することになる。


 幸いなことは、海南省の窓口になってくれた呉松さんと張さんが強い信頼関係で結ばれていること。そして呉松さんのキャリアと人柄でしょうか。群馬大学に留学し、前橋に1年、工学部のある織物の街、桐生に3年過ごし、帰国して外交官になり、福岡の総領事に3年、中国大使館の1等書記官として6年近く科学技術部に籍を置き、日本の実情に長けているという点かも知れない。静かな話しぶりで、相手に警戒感を与えない。懐の深い熟慮の人と見た。ホテル近くの150平方メートルの広いマンションに素敵な奥様と、可愛いお嬢さんの3人で住む。ある時、ご家族があいさつに見えた。幸せそうだ。いつまでも一緒に居たいと思わせる人物でした。



  呉松さんのファミリー


 広東省から独立して中国で最も新しい省になった。面積は、3.4万平方キロで台湾の3.6万平方キロ、九州の4.3万平方キロよりやや小さい程度。人口は、890万人で、台湾の2300万人より少ない。交通は、成田空港から上海経由か、広州経由か、あるいは香港経由もある。張さん、松島先生は上海経由で、私は広州経由で入りました。広州の国際空港からローカル線に乗り換えるのには比較的簡単だが、国際線のゲートから国内線の出発ロビーまでの距離が徒歩で20分ほどあるので要注意でした。電気バスがシャトルで走っているのでそれを使うと便利です。広州から南方航空に乗り換えて海口空港へ、フライト時間は1時間程度でした。


 海南省の空港は、島の南にリゾート地の三亜空港が控えています。目的によってどちらかはっきり決めておくのはどこでも同じこと。北と南は気候も違う。温度差は、真冬で10度ほどの差がある、という。


 この日を皮切りに私たちは怒涛のスケジュールをこなすことになります。特許週間の開幕式での講演後、海口国家特許技術取引センター訪問、海南省の商工会幹部との懇親会、人民大会堂に昨年4月開設した意匠・デザインの一大拠点となる海南国際創意港(International Creative Harbor)の視察をし懇談した。


 翌10日はバイオ企業がひしめく集積地の一角に新たな拠点を開いた上場の海南康芝薬業訪問、懇親、そして建設中の巨大なITパークとなる海南生態ソフトウエアパーク(Resort Community Investment&Development)の視察と交流した。



 バイオ製薬の本社前で


 ここは中国の国策事業で省政府と電子産業情報集団が2007年から計画し数年後には2−3万人が就労するITのメッカになるだろう、と言われている。表の看板に「孵化楼」とあった。11日は、海南大学で講演と交流、懇談、午後には中国熱帯農業科学院兼香料飲料研究所の訪問と講演、その2011年11月11日の記念日に松島先生が夕刻、海南島入りし合流、12日は海口から一路な高速道路を南下して三亜へ。リゾートホテルで一泊し、翌日朝から三亜市内を見学した。それが、なんと5つ星のリゾートホテルが30数軒もその居館を構え、いまだGMGグランドなどラスベガスでなじみの世界級豪華ホテルの建設ラッシュに沸いていた。何をやるのだろうか、松島先生は「これはカジノだ。間違いないだろう」と言った。海岸ぞいのオーシャンビューにほどよい場所に高級ホテルが数キロにわたって緑と大きな塀の中に林立していた。ふ〜む。凄いでしょう。それもこれも張さんのアレンジだから感服した。



 白い砂浜のプライベートビーチが広がる。中国のハワイだというが、北アフリカのチェニスを思い出した。


 三亜から海口に戻ったらすでに夜9時半を回っていた。翌日午後は、海南大学で特許週間閉幕を飾る松島先生の講演で締めた。私は、15日に役員会があるので一足早い昼の便で広州に向かっていた。


 ざっとまあ、こんな感じなのです。変貌する中国・海南島訪問のルポ、「もう日本に帰れない」の巻、この第1回目はイントロということでこの程度にしましょうか。ゆったり、ゆっくりナチュラルにね。そんなにぎっしり詰め込んでは、せっかくの快適な旅が色あせてしまいますから、ね。





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