第35回 生物多様性を守るためには COP10を終えてA
前回はCOP10の論議の中で、極めて、常識的とも言える現在の壊滅的な生態系の破壊の原因に対する反省や対策および、他の生物種を犠牲者にしない方法等に関する視点が欠如していたことを指摘し、同時にEMの日常的な活用による水系の生態系の劇的な復活の事例を紹介した。
COP10に限らず、世の中の大半の論議は問題が起こって、それを放置すると大変なことになるという状況に対し、対症療法的に禁止、保護、新たな技術的な対応がとられることに主眼が置かれ、その問題の発生の原因は固定されたままである。
その代表的なものがDNA万能主義である。生物学や生命の探求という観点から考えるとDNAに行き尽くことは当然のことであり、その組み換えに対しても、神を冒涜するものではないことも理解する者であるが、本当にそれで良いのかという疑問は山積しているのである。
旧聞になるが、近代農業の3種の神器は化学肥料と農薬と大型機械であり、農業技術の根幹を支えている。化学肥料を連用すると2〜3作後から土壌の砂漠化が認められるようになる。先ず土壌の生物相を支えている腐植が激減し、土壌が硬化し、通気性や保水性や透水性が著しく悪化する。同時に土壌の生態系が著しく貧弱になり、多様な窒素固定菌や光合成微生物やリン溶解菌やミネラルを可溶化する有用な微生物が機能しなくなる。当然のことながら、土壌の健全度を示すミミズ等も姿を消し、雑草も広葉のやわらかい緑肥機能をもっているものから、宿根を持った固いやっかいな雑草がはびこるように変化する。
このような土壌は、10mm程度の雨でも集中的に降られると吸い込む事が出来ず、表土が流出し、30mm以上になると洪水みたいな状況となる。生態系が豊で安定した土壌は100mm程度の雨は十分に吸収する力があり、同時に地下水も豊にする能力を持つものであるが、我が国はもとより、世界中でひん発している洪水は、異常気象ばかりが原因でないことを知る必要がある。逆説的に見ると、土壌が固くなり、貧弱になることは、ある種のビジネスチャンスとなる。土を柔かくして雑草をおさえるため、先ずは小型の耕運機が現れ、規模を大きく、更に深く耕すため機械は大型化する。それに伴って様々な大型の機械が現れ、その機械が土壌をかなりの重量で展圧する。世界の表土の流出問題は深刻な状況にあるが、その根は土壌の劣化に伴う大型機械化に連なっている。
化学肥料や農薬で土壌の生物相や生態系が破壊され、砂漠化し始めている固化した土壌を、大型機械で深く掘り起こすと土壌の生態系は壊滅的となり、土壌の保水性や透水性も貧弱になり、多少の気象変動でも、洪水や多量の土壌流出や干ばつの被害が続出するようになる。
研究者や関連企業にとっては、このような土壌の悪化は、新しい研究やビジネスチャンスとなる。すなわち、様々な土壌改良法や土壌改良資材が次々と現れ、劣化した土壌対策に多大なコストがかかるようになる。
農業にかかわる様々な薬剤耐性の病害虫は、難防除病害虫となり、土壌の劣化と相まって、いたちごっこは、極みに達しているのが現状である。この打開策として、砂漠のように荒れた土壌でも育つ作物や病害虫に強い作物の品種改良を目指し、遺伝子組み換え技術に研究者も企業も群がるようになる。中には、土壌の活用をあきらめて、植物工場を本気で考えるようになる。
そうなると、今回のCOP10のように、ぶざまなことになる上に、自然の本質を活用しえない、コストの高い植物工場が公的助成金を得て、あたかも技術革新然とするのである。すなわち、障害が発生するようなバックグラウンドを放置し、その劣悪な条件に耐える遺伝子を集約し、問題の解決を図ろうということである。この延長線上には、すでに明らかなように、砂漠化しかなく、その程度がひどくなれば、いかに遺伝子組み換えをしても、まともに育つことは不可能となり、自己矛盾を拡大するだけである。
本シリーズで、繰り返し述べてきたように、生態系を支えているその基底部の微生物相を多様化し、密度を高め、土壌の発酵・合成機能を高めれば、不耕起栽培も容易となる。化学肥料や農薬は、限りなくゼロに近づき、ゼロにする事も可能であり、極く一般的な品種を、超多収高品質というスーパー品種に変えることも困難なことではない。
環境保全や自然災害対策や人間の健康を含め、生態系の持つ力、等々の総合力を考慮せず、単なるコスト主義に重点を置くやり方は、すでに限界に達しており、その延長線上には、根本的な解決法は皆無である。遺伝子組み換え技術は、生命の研究という観点から見れば重要な役割を持っているが、自己矛盾を抱える問題の解決には、一時しのぎは可能であっても、問題をさらに深刻化させる危険性を有している。
これまで述べてきた観点からすれば、医療や健康の分野でも同様のことが言える事は、論を待つまでもない。予防医学はもとより、人間が病気になる原因はほとんど明らかになっている。生活習慣病は、その象徴的なものであるが、多くの難病も化学物質や微生物の汚染に端を発しており、医療のあり方や生活習慣が、この問題を増幅している自己矛盾に過ぎないものである。
国難となってしまった医療費や介護は、高福祉、高負担を当然のように要求するようになるが、名古屋COP10の論議の大半は、そのあだ花のようなものである。生まれた時に、五体健全であれば、生涯健全であるための義務を負う社会的仕組みを作った方が、いかなる技術革新よりも、いかなるノーベル医学生理学賞よりも価値あるものである。
既成概念と既得権益とのはてしない戦いは、今後も延々と続くように思われがちであるが、真の情報公開と情報の共有化、本当に必要なものだけを公が実行し、後は自己責任原則と社会貢献認識を徹底すれば簡単に片付くものといえる。
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