第23回 食と健康、環境を守る農業の未来像(3)



 前回は農水省の1、農業生産における地球温暖化対策の推進。2、有機農業の推進。3、環境保全型農業の推進。に対するEM技術の応用と農業に産業としての付加価値をつける方法を紹介した。すでに述べたように農の本質は質、量ともに食の供給に責任を持ち、積極的に環境を保全し、自然資源を育み、人々の健康を守ることにあるが、現状の化学肥料、化学合成農薬、大型機械を中心とする近代の農業技術は、全く逆のことを行っており、食料輸出国はすべて類似の方法に従っている。


 日本農業の壊滅的な不振は、農民を保護するために作られた数々の法律が、構造的な自己矛盾を引き起こし、同時に合理化された海外の安い農産物と競争を強いられているためである。 この問題の解決には、全く別の次元で当る必要があり、従来の延長線上には、いかなる合理化を行っても、お茶をにごす程度であり、事態を更に悪化させるのみである。


 倒産した企業を再建する場合、同じような手法を使っても、含み資産の少ない企業の再建は容易ではなく、いかなる努力を払っても、失敗するのが通例である。含み資産とは株の総額や現金以外の土地や建物、客の信用度、社内の人材や技術力や情報量等を含め企業の本質を支える力である。経営者のミスで、資金繰りが行き詰って倒産しても、システムを変え、その潜在力を多様化すれば、金融機関や債権者の協力が得られ、それを機会に、潜在的な不良資産や不良債権を根本から取り除くことが出来るからである。


 このような常識は、誰でも知っているが、現実の世の中のルールは、すべてデジタルである。それに対し、アナログの部分は非常時の潜在力とみなされているが、企業の実力もアナログ次第である。すなわち、デジタルとは数値化し、お金に換算できる部分であり、アナログとは普遍的な数値化は困難であるが、デジタル化すると膨大な金額になる幅広いものである。数値化できない「人の思いやりや親切や生きがい等々」はすべてアナログの属するものである。


 更に、くどく言えば、現在の資本主義は、デジタルの世界である。そのため、デジタル以外は、法に触れなければ、何をやっても勝てばいいという人間の良心に反するようなことを平気でやる人々を増産し、犯罪を含め様々な社会不安を引き起こす、負の含み資産を持っている。この負の含み資産が増えると、社会は不安定となり、人々の不幸をメシの種とする職業が繁栄することになり、資本主義、すなわち、デジタルの限界と自己矛盾が明確に現れてくる。


 ITの発達とともに、アナログ部分からデジタル部分への換算が行われ始め、裁判も次第にその様式を取り入れつつあるが、形式的には可能であっても、人間の力量や思いやりや希望や強い意志が入ると、たちまちにして不確なものとなる。


 例えば、米国で家事をすべてデジタル化、すなわち、主婦が行う労働を他の人が行って賃金を支払った場合の試算がある。その結果は、フルタイムの勤労者の80%以上、場合によっては120%に達するというものである。我が国には法的には50%が目安となっているが、この場合は単に労働の対価である。主婦の家庭管理や育児能力が高い場合は、この数値は、大きく変わるのである。例えば、省エネ技術に詳しく、物を大事に効率よく長く使ったり、日常的に、建物をていねいにメンテナンスする力があるとすべての減価償却は半分以下になる場合も多く、子供の健康や教育も母親の能力次第では、塾も病院も不要であり、社会人としての成功率も、はるかに高いものとなる。


 このような個人の能力差を含め、世の中は、デジタル化できない部分が大半を占めているにもかかわらず、デジタルの部分だけで決着を試みようとするために、様々の問題を次々と生み出している。格差社会はその象徴的なものである。この現象も、小泉改革とは無縁で、ITのスピードとデジタル化万能主義の結果、短期間に勝敗が決するために生じたものである。

 

 このような背景を十分に理解せずに、デジタル大好きな経営者が米国にならって、デジタル的能力主義を導入した会社で成功したのは、ゲーム的、ギャンブル的性格を持った虚業の分野に限られている。実業の分野においては、ことごとく失敗し、利己的で要領のいいデジタル的人間が多くなってしまい、会社はギスギスし、業績が上がらないうちに、デジタルの代表である金融ショックに打ちのめされ、生き残ったのはアナログを重視した会社のみである。


 更に、しつこく言及すると、役所は、すべてデジタルであり、デジタル人間が出世できる仕組みとなっており、実業ではなく虚業である。同時に、デジタル的人間は「科学的という宗教」が大好きである。宗教とは、常識ではあり得ない嘘を奇跡と称して信じ込ませるドグマを持っている。科学は歴史が示すように、常に過ちをおかし、常に進化し、その基軸は常にゆれ動いている。


 このような不安定なものを信じて疑わない背景には、デジタル化された教育システムとテストのせいである。その上、デジタルの世界では、100点を取れば、すべてわかったことになり、デジタル的秀才が役所に入り、出世する仕組みが出来上がっており、常識的に分かることにもデータを要求するようになる。


 その結果、自分では行動せずに、常に他人の情報を集めるようになり、データ化されていない住民の善意をすべて否定し、悪代官と化するのである。その上、問題が発生すると、活用した他人のデータのせいにする「勉強好きの無責任」ぶりを発揮し、この現象はすでに社会のDNAとなっている。


 更に、付け加えると、役所の人事異動もデジタルでマニュアル化をなぞるため、数年で配置転換が起こり、結果として前任者の責任を放免し、新しい部署で一所懸命に勉強する「勉強好きの無責任」を増幅する仕組みとなっている。この病疫は国中に蔓延し、外交を含め、あらゆる分野で素人国家となり、真のプロが育たない滅亡的な構造に陥っている。


 換言すると、デジタルの世界は、すでに答がわかっているか、必ず答が出る世界である。問題が発生するのは、常に従来のデータを越えた領域であり、アナログの重要性を無視した場合である。自然生態系や農業や人体の機能の仕組みの大部分はアナログの世界である。


 すでに述べたように、農業は生み出した富よりも、作り出したマイナスが多く、また、医学の進歩(デジタル化)が膨大な病人を作り、科学的処方に則った投薬で副作用を増幅しつつ、難病を大量に作り出している現代の医療は、国を亡ぼしかねない状況になっている。その殆んどが、科学的というデジタル教の失敗であり、犠牲者である。新インフルエンザをめぐる膨大な失態も、健康を守るという個人の責任範囲に対し、デジタル化を武器に国が介入した結果である。


 その失態に対し、誰も責任はとらず、処罰されることもなく、すべて過去のデータのせいにしているが、このようなデジタル教の膨大な無駄は、我が国を高コスト体質にしており、日本の国際競争力の低下は、構造的なものとなっている。


 農業に対する付加価値の付け方も、その潜在力(アナログ)の再評価ということになるが、その基本はあくまでも、生命や自然の理にかなった、農の本質が生み出す力を、社会全体の中に位置付け、経済的な評価を下すことから始める必要がある。


 日本の水田のはたす水源涵養や治水機能等々は、すでに評価の対象となっているが、化学肥料や化学合成農薬を使用すると、その評価は無意味である。すなわち化学肥料や化学合成農薬の引き起こす環境汚染や自然生態系の破壊は、人々の健康や水産業に対し、膨大なマイナスを生み出しているからである。


 すでに述べたように、EM技術を徹底すれば農業の生産過程で環境を積極的に浄化し、生態系を豊にし、水産業等の自然資源を大幅に回復させることが可能である。その上、食の安全と機能性による医療費の節減効果も、正しく評価すれば、今の数倍も農業を手厚く保護しても、おつりが来ることになる。

 我が国が、EM技術等々で化学肥料や化学合成農薬を全廃すれば、海外で化学肥料や化学合成農薬を使用した農産物は、全面的に輸入を禁止することも可能となる。また海外の有機農産物の輸入に対しても、その農産物は、日本の環境保全や水産振興に寄与していないため、その分にかかわる税金をかけることも可能である。


 このような手法は、WTO(世界貿易機関)の協定違反にもならず、「農は国の基」として、その本質を充分に発揮できるようになる。


 食と健康と環境を守る農業の未来像を考える場合、耕種部門の農業だけではなく畜産、水産、林業、バイオマスはもとより観光、障害者や高齢者を含む福祉、社会全体のセーフティネットとしての調節機能等も農の潜在力として評価する必要がある。


 おいしくて、体にいい食、美しい自然と合致した無農薬で生態系豊な農村は何にも変え難い保養地であり、観光地でもある。今の農薬まみれの農村は危険きわまりない汚染地帯である。かつて、農村は都市では働けない弱者や都市で失業した人々を受け入れ、必要に応じ都市の労働力を供給する機能を有し、農村全体が社会と機能を持ち、巨大なセーフティネットのバッファーゾーンとして機能する膨大な国家の含み資産であった。


 合理化、国際競争力を含め、数値のみが一人歩きして、いつの間にか悪しき資本主義に呑み込まれ、農の本質を忘れ、デジタル社会に組み込まれ、気がついてみると「農は国の荷物」になってしまったのである。



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