塩 沢 文 朗(*i)

前内閣府大臣官房審議官
(科学技術政策担当)



CTOさん、あなたの出番ですよ!(*ii)



 "イノベーション"は、科学技術の新発見によって起きる変革に限られる概念ではないが、第3期科学技術基本計画が、同計画中で用いている"イノベーション"の概念を「科学的発見や技術的発明を洞察力と融合し発展させ、新たな社会的価値や経済的価値を生み出す革新」と注記しているように、日本のイノベーション政策は、科学技術の新発見によって引き起こされる変革を重視し、科学技術の振興とその成果の普及を通じて、日本の経済社会にイノベーションの波を次々と生み出していくことにその重点をおいている。

 イノベーションの創出に関する政策を含め、ある政策目標を実現するために配分される資金の額は、それが唯一の指標でないにせよ、その政策目標の達成に向けた推進力の大きさの最も一般的な指標の一つであろう。日本政府が、毎年、科学技術政策に投ずる予算額は、約3.8兆円。よく知られているように、これは、日本全体で科学技術の研究開発に支出されている資金額の20%でしかない。残りの80%は、民間企業が支出してあり、中でも製造業に属する民間企業が、その約90%を支出している。民間企業が行う研究開発のために政府から民間企業に直接支出されている金額は、政府支出額の5%以下であり、NEDO(新エネルギー産業技術総合開発機構)やJST(科学技術振興機構)といった資金配分型独立行政法人を経由して政府から民間企業に配分されている資金を入れても、政府支出額のせいぜい10〜15%程度と推定される。つまり、政府から民間企業に直接、あるいは間接的に支出されている研究開発費の金額は、民間企業が年間に支出している研究開発費の総額の2.5〜3.75%を占める程度にすぎない。

 政府が支出している研究開発費の約50%は、大学で使用されていることから、大学の行っている研究開発活動の多くが基礎研究であるということからみて、それが短期間でイノベーションの創出につながることもあまり期待できない。過去の例を見ても、多くの場合、大学で生まれた新たな科学的成果が、革新的な製品や生産プロセスとして結実するには20年以上を要するのが普通だ。さらに、政府が特定の政策目的の達成のために、大学における研究活動のあり方について口を挟むことはないし、そうしたことをすべきでもない。

 以上のことから明らかなように、政府が科学技術予算という政策手段によってイノベーションの創出と振興を図ることには限界がある。さらに、日本の厳しい財政事情をみれば、将来にわたって科学技術予算が大きく伸び続けるということを期待することは、あまり現実的とはいえない。

 したがって、近い将来、日本でイノベーションを創出する重要な役割を担うことを期待されるのは民間企業なのだ。このために民間企業がこうした重要な役割を果たすことができるような環境を生み出すイノベーション政策を工夫することが強く求められる。

 しかしながら、例外はあるにせよ、日本の民間企業の技術経営(または管理)戦略は、一般に効果的とも、優れているとも評価されていない。「2005年経済財政白書」は、日本企業の過去5年間の社内研究開発費の合計額と過去5年間の営業利益の合計額の相関関係をもとにした分析並びに日本と欧州の双方で行われた"Innovation Study"の結果をもとに、日本企業は、高水準の研究開発費を投じているにもかかわらず、それが売り上げや利益の増加に結びついておらず、研究開発効率が悪化する傾向にあることを指摘している (*iii)。

 こうした認識が背景にあって日本政府の政策、ことに経済産業省は、ここ数年来、技術経営の重要さを訴えていると私は理解している。経済産業省は、民間企業の技術経営に関係する様々な政策−産学連携の推進、知的財産の戦略的活用、国際標準化活動への積極的参加などを民間企業に促す政策−を展開している。これらは、みな民間企業の技術経営に影響を与え、その現状を改善することをねらったものだ。

 しかし、どれだけの民間企業経営者が政府のイノベーション政策に日々深く注意を払い、それを受けて自身の技術経営の状況の改善の必要性を認識するだろうか?政府の政策を忠実にフォローして企業経営をしている経営者−こんなことは民間企業経営者の普通の経営姿勢ではあり得ないが−か、あるいは、官公需に依存している企業の経営者でもなければ、民間企業経営者の多くは、そうした政府の技術経営に対する懸念に気づきもしなければ、ましてやそうした懸念に基づいた政府のイノベーション政策の意図を理解することはないだろう。

 したがって、今後のイノベーション政策は、できるだけ広範囲の企業経営者が日々行っている技術経営に、直接的に影響を及ぼすことをねらいとするようなものであることが重要ではないかと思う。そうした政策手段としては、研究開発活動に関する税制や規制改革などがあるが、日本の研究開発税制は、既に国際的にも競争力のあるものになっているし、知的財産の保護と活用に関する法的枠組みや組織整備は、過去5年間の間に知的財産戦略本部の強いリーダーシップのおかげで大幅に改善した。

 こうした技術経営の改善に向けた政策の現状と歴史とを踏まえると、新たなイノベーション政策では、規制改革などを通じて事業活動の枠組みに影響を及ぼすことにより、日本経済に蓄積し沈殿している非効率な技術経営に関連する慣習を大きく変えることを目指すべきではないだろうか。日本は、民間企業の有するイノベーション創出潜在力をフルに発揮させる大きな可能性をもっている。したがって、今後5月を目標に策定される予定のイノベーション政策の中に、どれだけたくさんの具体的なそうした対策を盛り込めるかが、新政策の効果と"イノベーティブネス"を量る鍵になると思う。

 私たちは、何故、日本の多くの製薬企業が新薬の治験を海外で実施せざるを得ないのか、何故、UPS(United Parcel Service)のような革新的な物流企業が日本に存在しないのか、何故、Wal-Martのような革新的な流通販売企業が日本で苦戦を強いられているのか、などについてよく考える必要がある。同時に、企業のCTO(技術経営担当役員)の方々は、「自社が保有する/生み出しつつある技術を本当に効果的に戦略的に管理、活用しているか」自分自身に問うて見る必要があるのではないか。

*i.しおざわ ぶんろう:前内閣府大臣官房審議官(科学技術政策担当)。このペーパーは、個人の責任において書かれたものであり、日本政府の政策や見解を示したものではない。
*ii.この原稿は、著者が書いた"Mr. CTO, You are the main player in this game"という英文のオリジナル原稿を著者自身で翻訳したもの。
*iii.「イノベーションの源泉と競争力向上への課題」、2005年度経済財政白書第3章第4節