塩 沢 文 朗

前内閣府大臣官房審議官
(科学技術政策担当)



イノベーションの源泉を涵養する


−イノベーションの創出のためにわれわれができること−


 世の中、本当に「イノベーション」ばやりである。

 「イノベーション」については、今年の3月末に閣議決定された「科学技術基本計画」では、『科学的発見や技術的発明を洞察力と融合し発展させ、新たな社会的価値や経済的価値を生み出す革新』として定義し、科学技術の革新に起因する社会変化という前提に立ってイノベーションの創出のための政策のあり方について記述している。昨今の「イノベーション」議論には、必ずしも科学技術の革新を前提としない新たな社会的価値や経済的価値を生み出す革新を念頭においた議論も数多く見られるが、そうした「イノベーション」論も当然にありうるものの、イノベーションの創出において科学技術の革新の重要性を否定する者は誰もいないであろう。

 そう考えるとき、日本の科学技術革新の源泉となり、また、源泉を豊かに湧き続けさせる人材の育成を担う大学の重要性とその活性化について、もっと世の中の関心が寄せられてもよいのではないかと思う。

 大学は、大きく変わりつつある。しかも、懸命に。国立大学の法人化以降、まだまだ努力の余地は大きいものの、多くの大学において、これまでの大学の変化のペースからいったら革命的な変化が起き始めている。法人化により、個々の大学の運営にあたっての学長を始めとする大学経営陣の裁量の余地が大きくなり、そうした方々の努力により大学の改革が進んでいる。

 大学がそうした自主的で自律的改革を進めていくにあたって重要なことは、社会との「対話」である。改革から生まれつつある変化、改革の方向性などが、社会のニーズや変化との関係においてどのような意味をもつのかなどについて顧みることが必要だ。また、他の大学の特徴や改革の進展と比較して、自己の大学の相対的位置付けや特徴を認識することも重要である。これは、社会に迎合することではない。社会のニーズにかかわらず、大学運営の思想と哲学を明確にし、その特徴を際立たせていくためにも必要なことだ。

 一方で大学は、困難な状況に置かれている。学生の数が減り、また、大学の運営費交付金が漸減するなかで、大学経営の自由度が限界にきているともいわれている。実際、大学の研究室に大学の本部から支給される研究費がほとんどなく、工学系でもポスドク、大学院生一人にかけられる教育・研究指導経費が月に1万円(理工系中心大学)しかない状況にあるという調査結果(「国立大学法人等の科学技術関係活動に関する調査結果」平成18年10月27日 内閣府(科学技術政策担当))もある。

 こうした大学のおかれている状況を社会に説明し、大学改革の進め方について社会と対話していくために、大学はこれまでにも増して大学に関する情報を社会に公表していくことが必要である。それも都合のよい情報だけでなく、自己の改革や努力の相対的状況が分かるように、同種の大学との比較が客観的に可能となるような努力をすることが重要だ。それによって、社会との関係で独りよがりでない、真の意味での自主的で自律的な改革が可能となり、大学への必要な投資についての社会の理解も得られやすくなる。

 社会の側もイノベーション創出の源泉としての大学の重要性を踏まえて、大学の抱えている困難、努力の状況にしっかりと関心を払うことが必要だ。ここで社会の側とは、われわれ個人個人、そしてイノベーションの重要性を論じるマスコミなどだ。

 実は、文部科学省はそうしたことを可能とする環境づくりに既に取り組んでいる。やや失礼になるが、文部科学省にもそうした先進的な意識をもった行政官がいるのだ。文部科学省は、平成18年9月4日付けのプレス発表で「国立大学法人の平成17事業年度財務諸表の概要」という資料を発表しているが、その中にはこうした意欲的な取り組みの表れがある。それは、次のようなものだ。

 前述の資料には、「大学別・財務指標の適用(例)」という資料が付属資料として示されているが、そこには、国立大学をその特徴(医系大学、理工系大学、総合大学、教育大学等)にしたがって分類した上で、「業務費対研究経費比率」、「業務費対教育経費比率」、「学生当り教育経費」、「行員当り研究経費」のデータが大学毎に示されている。単純に言って、学生から見れば同じ授業料を払うのであれば、同種の大学であれば「学生当り教育経費」や「教員当り研究経費」の多い大学がよいと思うのが普通であると考えられるが、例えば、同じ分類に分類された大学の中で、お茶の水女子大学の「学生当り教育経費」は横浜国立大学のそれの2倍(241千円対124千円)あり、宇都宮大学の「教員当り研究経費」は和歌山大学のそれの2.5倍(1,892千円対758千円)であることが分かる。私が、解説をするのもおかしいが、同分類の大学とはいっても、例えば学部構成や学生定員などが異なるために「学生当り教育経費」や「教員当り研究経費」は影響を受けるので単純な比較は難しいし、ましてや、そうしたデータだけで結論めいたことを導くことは危険であるが、こうした点に気づくことによって問題意識が生まれ、また、大学側には、同種の他大学との相対的な関係を認識し、社会に対して効果的な説明を行おうとする際の気づきの機会にもなる。

 大学の改革は、個々の大学が社会との対話を進めながら自主的に、かつ、自律的に進めていくことが、その本来的な姿であり、そのためには、先にも述べたように両者の間で対話がもたれることが必要である。その対話を進めるための重要な基礎となる情報環境を文部科学省が整えつつあるにもかかわらず、イノベーション創出が重要とする一方でこうした環境を利用しないことは、われわれ及びマスコミの大いなる怠慢ではなかろうか。一方、大学の側も運営費交付金の漸減に対する苦情や窮状を訴えるだけでなく、大学における教育費や研究費の実態について、もっと積極的に明らかにし、社会との対話を通じてイノベーション創出の源泉たる大学への個人からの寄付を含む社会からの投資を獲得する努力が求められるのではなかろうか。