講演前の控え室。晴れ晴れとした松島先生、金沢工業大学扇ケ丘キャンパスで。
DNDメディア局の出口です。東京・羽田から、北陸の小松空港に飛ぶ。厚い雲を一気に突きぬけると、高度1万m近い上空はまぶしいほどの陽光が照りつける。揺れはなく、ゴオーッというエンジン音をのぞけば静止しているかのようだ。どうだろう、日常を超える機上の人には、だれにでも新しい気づきと発見がついて回るものだろうか。そわそわしてこの昂揚感を抑制する術を僕は持ち合わせてはいない。
小松空港行きの飛行機でご一緒したのは松島克守氏でした。また何かしらの感動をもたらしてくれる、そんな期待感がある。気分がのってハイテンションなのはこの人のせいかもしれない。
松島氏の姿を小松空港行の搭乗ゲート付近でみつけて近寄ると、中国・海南島にも持ち込んだ愛用のiPadを開いていた。午後からの講演のチェックをしているのだろうか。あいさつをしたら、やあやあ、と目を細めて屈託がない。バッグひとつの身軽さでいつもながら涼しい表情をされている。洗練された旅装は旅慣れているためであろう。仕事とはいえ、哀愁の北陸、雅の金沢への旅は、これまた格別の趣がある。ひとの気をそらさない柔軟思考の松島氏のことを書こうと、その時に決めた。手ごわい存在だが、取材はすでに始まっていた。
◇機内誌で目にしたジャーナリスト・近藤紘一の世界
小松空港到着。金沢工業大学の常任理事、産学連携機構事務局長の村井好博さんが出迎えてくれた。ひと足早く降りた松島氏とロビーで談笑していた。初対面なのに松島氏をめざとくみつけて声をかけたのだと感心した。松島氏の風貌は個性的だが、村井さんに頼めば、万事、そつがないから安心だ。
松島氏が、あのさぁ、機内誌に近藤紘一が愛したアジア、そんな一文があったね、とポツリ言った。ぼくも話題にしようと思っていたところだった。産経新聞のアジアの特派員でジャーナリスト、近藤紘一さんのことについては、つい最近、松島氏がご自身の俯瞰メルマガの書評で取り上げていた。また昨年秋に中国・海南島の視察の先々で松島さんから近藤紘一論を興味深くうかがった。機械工学のエンジニアと筆のやわらかな近藤紘一との結びつきが捉えにくかったが、アジアを調べていくうちに近藤さんの本に出会った、との説明で得心がいった。俯瞰古代史、日本人はどこからきたのか―の論述は、面白かったし、網羅した読書量にも驚いて、これには心底、唸った。いまだに人気が衰えず、堂々の5ページのもの特集を組まれていることに松島氏も驚かれた様子だった。
※『俯瞰的古代史』
http://www.fukan.jp/%E4%BF%AF%E7%9E%B0%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2/
※『俯瞰的書評』
http://www.fukan.jp/%E4%BF%AF%E7%9E%B0%E7%9A%84%E6%9B%B8%E8%A9%95/
その機内誌の記事には、近藤紘一の足跡や家族のこと、著作の系譜が丹念に紹介されていた。ベトナムからきた妻と娘のためにアルバイトの依頼原稿を深夜まで書き続けた、というのには参った。当時の産経は給料が安かった。フジテレビに入社した娘が、数年して産経の親父の年収をあっさり超えちゃった、という笑えない話がグループ幹部の口にのぼった。まあ、これは余談だが、機内誌の特集に近藤紘一に関した新しいエピソードや発見はなかった。松島氏の書評を越えるものでもなかった。
ただ、近藤紘一の後輩としてひとこと言わせてもらえば、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『サイゴンから来た妻と娘』が、NHKでドラマ化されたため、一躍、有名人になった、とか、売れっ子作家になった彼はバンコクにいても休まることはなかったなどの記述の中の、有名人、売れっ子作家という表現は、近藤紘一が忌み嫌うフレーズだろう、と、その言い回しにひっかかった。
しかし、ケチばかりじゃ、年寄りの冷や水と言われてしまう。筆者が、ノンフィクション作家として近藤紘一を敬愛されているところは行間から素直に伺えたことは確かだ。機内誌は、バッグに押し込んで持ち帰った。
それは、わずか4文字のシンプルなタイトルに心が動いたからである。
「美しい昔」。
◇スペシャルゲスト、松島先生の"白熱教室"
その日の午後から金沢工業大学で松島氏の特別講演が予定されていた。一押しのスペシャルゲストである。就職か、研究か、その選択を迫られる金沢工大の機械工学系の大学院生らを対象にしたキャリア授業の一貫なのだ。松島氏の半生、そのものがキャリアのお手本のようなもの、ここはぜひ、先生の人生哲学、生きざまを通して、学ぶという意味、働くという意義についてご教示願いたい、と今年の3月にお願いしていた。それが6月に実現した。松島氏は、ミャンマー視察から戻ったばかりだった。
松島氏は、東大教授として実に痛快な「最終講義」をなぞりながら「最終講義」以降のストーリーを加筆するなど最新版に仕立てて本番に備えた。数年前のパワーポイントを使いまわして何年たっても同じという、そういう"手ぬき"はやらない。細部にこだわった精緻な編集の成果が随所にうかがえる。外資で鍛えたスタイルなのか、研究者としての矜持なのか。特別講演が90分、会場を交えたパネルが90分の"白熱教室"は、じつに魅力に溢れ、エキサイティングでした。
さて、昔語りを始めましょうか。遠い日の記憶が輝いてみえる。追憶と呼んでいいのかもしれない。自慢話といったら、いやあ、そうじゃない、と首を横に振ったが、とっておきのエピソードを逃す手はない。
◇30年前の邂逅、ライブラリーセンター秘話
村井さん運転のワゴン車は、小松空港から一路、金工大の「やつかほリサーチキャンパス」を経由して、途中、歓迎をかねた石川憲一学長の招きによる昼食の懇談をはさみ、扇ケ丘のメインキャンパスに向かうことになる。講演の場所は、扇ケ丘のライブラリーセンター2階・第1AV室が用意されていた。ライブラリーセンターの名前を告げると、松島氏の顏がみるみる赤みを帯び、なにやら感無量の表情なのである。
確か、その名前のところで講演をしたことがある、と言って、あの時は、生涯でも痛快なプロジェクトだった。その一環で金沢工大を訪問していたのよ、と声のトーンを上げた。
IBMに入社して3年目ぐらいの時、38歳ぐらいで40歳前でしたから、元気よかったですね、かれこれ30年前になるだろうか。IBMがコンピュータの普及を図る目的で全国の大学にコンピュータを寄付する「大学ドーネーションプログラム」を組んでいた。どこにもコンピュータが入っていないのでショウケースというか、その担当をまかされて、北大から九工大まで走り回った。信じられないかもしれないが、コンピュータを導入している大学は珍しく、情報システム系の部署をもっていた金沢工大は先端的だった、と言った。
すると、普段、口数少ない村井さんが、昭和44年頃でした、と切り出し、全国の大学のうち7大学に計算機センターが誕生した。金沢工大がそのうちのひとつでした。少しだが、その辺のお手伝いをしていた、と明かし、"コンピュータ事始め談義"に花が咲いた。
あのご存知でしょうか3031のカラー端末は…と村井さんが言いかけると、あれも寄付したのでしたか、と松島氏がたたみかけ、いえ、IBMから買いました、と答えると、IBMもやるものだね、と松島氏が笑った。
続けて、村井さんが計算機の購入は、国立大学は国産を使えという決まりになっていましたね、と意味深なことを言った。そう、と相槌を打って、暗黙の了解があって、誰が決めたわけじゃない、と松島氏が言った。
どこまで明かしていいのか、少々ためらいながら、きわどいところは端折って、その戦略的と思わせるところをかいつまんで紹介したい。これはいまでも役に立つマーケッティング手法だと思った。これが圧巻なのである。
松島氏は、まず東大にコンピュータの寄付を実現した。IBMの幹部らもそんなことできるとは思わなかった。設計CADや大型のメインフレームも入れた。工学部機械科の設計室にCADを50台、1台150万円もする代物だった。それを寄付したから、CADで設計の教育をしたいと希望しながらお金がなくて途方にくれていた機械科の先生らは喜んだ。
が、案の定というか、教授会の席で、そういうものを一民間企業からもらっていいのでしょうか、という先生がいた。それも想定のうちで、何をいっているのか、これからの教育にコンピュータはなくてはならい、資金がなくて困っているのに、それを、断る手はないだろう、と正論を吐く大物教授もいたし、評議会の許可が必要になるので、運用のコストを考えて同窓会の賛意を取り付けていた。
つまり、と松島氏は、最初の3年はIBMがメンテナンスの費用を負担するが、それ以降は機械科の同窓会が経費をねん出するという確約を取り付けねばならない。そこをきちんとフォローした。東大は、学問の自由という立場から文部省に口を挟ませなかった。評議会の許可に対して文部省は良いも悪いも言わない。東大の評議会と文部省の微妙な関係をつかんでいたし、最初に、東大への導入を決めたことが大きかった。他の国立大学への導入は時間の問題だったが、すんなりとはいかない。紆余曲折があったらしい。
みんな経験がないからビビるわけですよ。ビビることは何もないわけですね。当時の金額で数億円のプロジェクト、この実現のために打つ手はすべて打った。戦略、段取り、完全な布陣で臨んだ結果でした、と振り返り、俯瞰的に見ていくと、どこをどのタイミングで押さえればいいか、そこがわかるわけです、という。その日午後の講演の中で紹介される、IBM時代の16年、それは「芸の肥やし」と言ってはばからない松島氏の核心部分でもある。
コンピュータ導入を始めていた金工大にも松島氏自らが足を運び、設計CADのコンピュータを寄付し、そして新装のライブラリーセンターで講演をしていた、という。金工大は図書館システムという図書館のコンピュータ化を全国に先駆けて実現した。ライブラリーセンターという呼称も斬新だった。情報システムの対応が抜きんでていた、という証明でもある。
「ということで、キャンパスにくるのは30年ぶりくらいですね」と、松島氏はしみじみと懐かしむのである。これは、松島氏の「俯瞰経営学」を縁取る原体験であったかもしれない。
◇俯瞰経営学とは
「俯瞰経営学」。ご存知ない方には、松島氏が主宰する(社)俯瞰工学研究所のホームページ(http://www.fukan.jp/)にその概要が余すところなく公開されています。松島氏の略歴等は、DNDサイトに『松島克守氏の世界まるごと俯瞰経営塾』のプロフィルなどをご覧になれば参考になります。(http://dndi.jp/27-matsushima/matsushima_Top.php)
俯瞰経営学については、「私(松島氏)が社会で得た経験と、其の上での大学教育の体験的評価を踏まえて、一つの体系的な教育プログラムとしてデザインしたものである。基本は知識を蓄えるのではなく論理的思考能力を高めることを目的としている。さらに学生が持つ潜在能力を顕在的能力にすること。企業とは何か、ビジネスとは何か、企業組織はどのように動くのか、その中で社員としてマネジメントとしてどのように考え行動すべきか、このような認識を深め、それを踏まえて人生で最も大切な、社会でのキャリアデザイン、就職活動に臨む準備をする事が目的である」と明快です。
続けて、「ビジネスリテラシーを身につけるために、ビジネスの実務においてもっとも重要な能力である情報の収集・分析・編集のスキルを磨くこと。その基礎となる日本語の読み、書く、話す、聞く、の能力向上の訓練に留意した」と語り、具体的な事例を解説しています。
◇発見された30年前の証拠
ところで、松島氏が、どんな講演をされていたのか。いやいや、30年前のIBM時代にである。コンピュータについて未来をどう予測していたか、そんな期待も含めて大変、興味深い。松島氏が講演した記録か、なにか資料はないだろうか。金工大のライブラリーセンターの完成はいつごろか、コンピュータ化の具体的姿は、など次から次に浮かび上がる疑問を村井さんにメールした。
村井さんからは、数日後、「松島先生の30年前のご講演ですが、少し探してみましたが不明です。私も松島先生からのお話だったので、そうだったのか、と思う次第です。明日、その当時、本学計算機センターにいた人が役員におりますので確認してみます。確認が取れ次第、ご連絡いたします」と丁寧な文面のメールが届いた。ご多忙なのに、手間をかけて申し訳ないなあ、と思う一方で、30年前の何か"証拠"というか、手掛かりがほしかった。
コンピュータ導入についての回答が届いた。コンピュータ導入のきっかけとなる金沢工業大学ライブラリーセンターの開館は、1982年6月、我が国最初のカードレスライブラリーとして話題を呼んだことなどが報告された。 http://www.kanazawa-it.ac.jp/kitlc/#
村井さんによると、初代館長は、この企画にも携わった国会図書館副館長の酒井悌氏で、酒井先生は、戦後GHQが統治を始めた際に、国会図書館の復興を委ねられた人物であった。当時は、ネットワークという考え方が、まだイントラネットによる業務の効率化が優先していた時期です。図書館の情報化にいち早く着手し名称も変えたものでした、と詳しい。
それから、待つこと数日、村井さんから、「松島先生の資料が見つかりました」との朗報が入った。添付された資料は、卒業生に向けた情報誌『ばっくあっぷ』の記事のPDFで金工大の水野一郎教授と、松島氏が見開き6ページにわたって対談していた。水野教授は建築家で、現在、副学長(教育支援担当)、情報誌は1981年創刊で年1回の発行、松島氏の対談は第5号で1985年版であった。松島先生の導入機器は、主にCAD/CAM教育に関するものだったので、対談者が建築家の水野一郎先生となったようだ。
ページを開くと、特集「CAD/CAM」の未来を探る―とタイトルがあり、リードの文章にこうあった。
「コンピュータがこの世に誕生して40年になろうとしている。そして、いま、その恩恵をうけずに生活をしている人はほとんどいない。産業も、社会構造も、人間の生活さえもコンピュータを抜きに語ることはできない。この波はどこへ向かっていくのか、未来技術は人間に何をもたらすのか、不確実なものから確実なものへ、混沌の時代を検証する。」
対談の場所、これは写真撮影用と思われるが、藩政期の町屋を現在にとどめる重要文化財の喜多家の上り框で、渋い時代屋風情なのである。太い梁や漆喰の白壁など、その趣は充分にそそられるものがあった。当主に、電話であれこれ聞いた。快く対応してくれた。か細い声で、ぜひ、お越しくださいという。 その、重厚なる年代ものの調度品が並ぶ囲炉裏のそばで、若かりし頃の、闊達な姿を発見した。動かぬ証拠であった。
これはいわば、松島氏の「美しい昔」の残像なのだろう、と確信した。溌剌として若々しい。しばし、じっと見とれてしまった。
◇
さて、その対談の内容や石川学長との"健康比べ"は、講演の様子を織り込みながら、次号に譲る。金沢からはバスで白川郷を抜けて高山経由で東京に戻りました。白川郷の写真も紹介する予定です。