DNDメディア局の出口です。人事異動、ポジションがなんであれ、僕は辞令がうれしかった。会社がなにかしらの期待をもってくれるのだから素直に喜んだ。それにいくぶん悪意が込められていようと塞翁が馬で、まだ知らない新しい部署に心が躍ったものだ。上司は選べるものではないが、興味を持って観察すると、よくも悪くも笑いネタに事欠かなかった。社会とつながっている仕事はどこも面白いことに溢れていた。
ある社長は、ぼくの性格を見抜いて用もないのに内示の席に呼んで、「とくに何も変わらないけれど、声がかからないとさみしいだろう。頑張れ、なっ!」と手を差し伸べた。会社の経営はうまく回っていなかったが、人をやる気にさせる先輩には多く恵まれた。
その異動の張り紙一枚で日常の風景にさざ波が立つものだ。自分ばかりか玉突きで所属の上司の影響をモロにかぶるケースもある。まったく上司の動向も油断がならない。異動のシーズンとなったこの4月もきっとさまざまなドラマが繰り広げられたに違いない。栄転とか、昇進とか、誰が言うのか左遷とか、飛ばされたとか。長い目でみると、なんにもあわてることはない、ということに気付く。
地位があがると偉くなったような錯覚に陥る。いや、役職が人を育てる、というのも案外、真実でしょう。とはいっても組織においては同じ地位にとどまることは珍しい。創業一族ならまだしも宮仕えの肩書なんぞ、やがてしぼんで消えるシャボン玉のようなものだとは、その時は誰も思いが至らない。
とかくサラリーマンは、辞令に一喜一憂するものだ。一喜一憂することなかれ、と言いたいですね。組織の要諦は人事だという。人事が組織の命運を握る。その浮沈すら決定するのだから、そうだからといって軽んじてはならないのは言うまでもない。
僕は、無頓着に過ぎたかもしれない。記者なんて書いてなんぼ、どこに行こうが、仕事は人についてくる、とうそぶいていたきらいがある。大なり小なりその辞令で人生が左右されるのであるから、いまふりかえれば、なぜ、あのように他人行儀でいられたのか。思慮が浅かったのだろうか。選択肢を与えられながら「どちらでも結構です」と言い放った。右か左かの人事にどちらでもいいという選択肢はないのである。しかし、二度もそう言ってしまった。あの時、どちらかに決めていれば…と思うと、もう一度やり直したいような、そうでないような、これまたどっちでもよいというような選択に傾きかかる。
あの当時、ぼくはその人の一生に何度かあるという大きなチャンス、または転機を迎えていたようだ。が、その煮え切らぬ態度が理由で、その大事なものが手元からすりとぬけて行ってしまった。若気の至りで、その要請の意味すらつかみ切れなかった。今回は、反省を込めて若い人に伝えたい人事異動への気構えというところでしょうか。
新聞社の総務部長から珍しく電話があり、猫なで声で「今夜、時間をとってくれるかい」と聞いてきた。行った先は、東京・門前仲町の小料理屋のカウンターだった。組合の委員長経験のあるその部長は、奥歯に物が挟まったような口ぶりで、今の職場がどうかとか、社会部の都庁時代のことなどを話題にしてひたすら飲んでつまみを口に運ぶだけで、なかなか本論に入らない。
注文した品々が、ほぼ腹に収まったころあいに、「ところで…」と唐突に切り出した。その要件は、フジテレビが君を欲しがっている。越智さんの後任にきてくれないか、という要請で、ポストはFCG建設事務局長代行、局次長待遇だから異例の扱いだ、という意味のことを告げられた。
それに対して、ひと晩考えさせてほしい、と少し間をおいて回答すればよいものを、僕はあっけなく「どっちでも結構ですよ」と言った。正直に言ったつもりだった。サラリーマン人生の大きなチャンスだったかもしれないのに、それを軽く、淡白に、少しの動揺もみせず、「どちらでも結構です」と、あっさり言いのけてしまった。体をイスにもたせかけ右45°に顔を傾げてタバコに火をつけていた。楽天的というか、無定見というか。右か左か、その二者択一を迫った上司を不愉快にさせたかもしれない。そんなこと少しも意に介さず、不遜にも「どちらでも、会社が決めてくれればいいですよ」と、言葉をつないだ。
それがどう解釈されたか知る由もないが、フジテレビに行くつもりはないと断った、と伝わったらしい。それは数年後にぼくの耳に入ったから、そんな風に言ったつもりはないのだけれど、と釈明してみせたが時すでに遅しである。
ふりかえれば、フジテレビに出向を終えて産経新聞社の専務直轄組織の戦略部門、総合企画室に異動になっていた。当時、グループの代表で産経新聞社長の羽佐間重彰氏から、産経新聞並びにフジサンケイグループのマルチメディアの対応を検討してほしい、との要請を受けた。ニューメディアは失速したが今度は、本物かもしれない、といった。
米国のオンラインニュースの動向を調査した。その流れで4月28日には、常務で編集局長の清原武彦氏(現代表取締役会長)を座長に電子メディア研究会を立ち上げて東西の若手17人をメンバーに紙に変わる新しいメディアの検討に入っていた。「短期で結論を」という趣旨通り、その暮れにインターネット導入による新規展開、編集局に専門の部署、電子メディア室の設置など緊急提言し、端末に新聞データをのせて読む、新しいタイプのメディアをスタートさせる準備に入った。まあ、この端末ビジネスは10人中9人が反対した融通の効かない不器用な端末だったが、大勢の期待通り、すぐに破たんした。膨大なデータベースから記事にヘッドラインを付けて一本一本取り出すシステムの開発は、IBMとの共同開発だったがのちのち記事データの処理に威力を発揮した。瓢箪から駒、あの時の蓄積が今日の産経デジタル誕生の基礎をつくっているといってよい。その前後から動き始めたインターネット活用の取り組みに入っていた。
あの頃、ぼくの周辺では次々と足元を揺るがす一大事が津波のように押し寄せていた。フジテレビへの移籍の話は、そんな渦中に突然、降ってわいたように舞い込んだ。それは複数の人事に端を発していた。1994年の夏、産経新聞の編集局長に清原氏から住田良能氏(のちに代表取締役社長、現取締役相談役)に代った。その内示の前後か、同時期にフジサンケイグループ内でもひと目置かれていた都庁担当の先輩の越智毅さんが、脳梗塞で倒れた。二度の手術で再起が危ぶまれるほど一時、緊迫した。
住田さんと越智さんは同期入社で、しかも慶應大学で同じゼミに所属し、お互いに次の編集局長との呼び声が高かった。当時、越智さんは戦略の総合企画室の開発部長、ワープロ導入を手掛けて評判をとった。フジサンケイグループ事務局、そしてお台場に新社屋を建設するFCG建設事務局長代行というマルチプレイヤー並の活躍だった。
どちらかといえば、僕の目に映った将来の社長候補は、う〜む、住田さんより越智さんだった。フジサンケイグループの周辺では越智さんの評判が圧倒していた。グループの会長とか、フジテレビの経営幹部にすこぶる好かれた。越智さんが書いた東京都知事の『鈴木俊一の挑戦』はさすがで取材は綿密で分析力も文章力もあった。都政への食い込みが尋常ではなかったことを裏付けた。越智さんは、都庁クラブ詰め記者をそれまで最長の4年経験した。ぼくの先輩でもあった。さしずめぼくは5年やった。
そんな越智さんだったが、日常に爆弾を抱えていたように感じた。グループの幹部らの前では上機嫌なのに部下には怒鳴った。血圧が高じたのか、感情の起伏が激しかった。鬼のような形相で目を吊り上げて、ひんぱんに怒鳴った。新聞社を、そしてグループ100社を背負っていくという気負いがあったのかもしれない。飲み方が派手だった。誘われると気が重くなった。酒席でもなんどかぶつかった。もう少し上で長老の吉田久夫さんからちゃんと付き合っておいた方が将来のためだぞ、と心配してくれた。
あろうことか、越智さんがフジテレビの会議の席で倒れて意識を失った。救急車で病院に搬送された。脳梗塞だった。編集局長のポストをめぐるライバル意識が災いした、と解説する先輩がいた。住田さんが編集局長にという産経人事の内示を耳にした瞬間に、倒れたという噂が流れた。
その越智さんが担当したFCG建設事務局の局長代行の後釜にぼくの名前が上がったのだ。が、きっと総務部長じゃなく別の人が打診してきたら、二つ返事でYesと答えていたかもしれない。当時41歳でした。そのポストについていたら、いまのぼくはないのだが、さてどうなっていたか、その興味が捨てきれないのである。
「どちらでも結構です」という回答は、実は、その7年前に産経新聞のカラー化に伴う社運をかけたプロジェクトで「建築」紙面のダミー版のデスクに乞われ、ほぼ1年、その作業に携わった。いよいよスタートというその1ケ月前、ぼくが社会部から建築担当のデスクとして文化部から引き抜きがあった。
「やってみたいなあ」という思いはあったが、社会部と文化部の両部長に問われて、「どちらでも結構です」と答えてしまった。FCG建設局の時が初めてではなかった。部長は、いずれも39年同期入社で彼らの心情を思うと、どちらか一方に決められる状況ではなかった。ほんと、どちらでもよかった。運を天に任せたのである。その時、文化部に移籍していたら、と思うと、これまた未練がましく文化部での仕事に想いを馳せてしまうのである。
そして実は、ぼくが日本工業新聞社の電子メディア部長時代に、第3の波がきた。経済産業省から声がかかり、DND事務局の事務局長として経済産業研究所に2002年4月、着任した。その時、ぼくを経済産業省に行くことに猛反対した常務がいた。専務は賛成してくれた。社長は、迷っている風だったが、ある日、「どうする?」と行きつけの座敷にぼくを呼んで聞いてきた。三度目の正直というのだろうか、「おまかせします、どちらでも…」という轍は踏まない。「経済産業省に行かせてください。よろしくお願いします」と頭を下げた。
社長は、表情を硬くして、経済産業省に行ったら戻ってこないような気がするなあ、君の人生だからしょうがないことだけれど、と言った。出向の期間は2年、しかしその年の暮れ、まだ半年しか経っていないのに、経済産業省行きを最後まで反対した常務から帰還命令が発せられた。抵抗したが、翌年の3月いっぱいで社に戻るようにと譲らない。その3月で満50歳になった。4月に一端社に戻り、早期退職制度を使って5月に辞表をだして辞めた。7月に再び、DND事務局長に戻った。
経済産業省への約束は破れなかったからだが、6月30日の最後の日に社長室にあいさつにいった。社員からあれだけ社長を慕っていたのにどうして(出口さんは)辞めるのか、と聞かれたら、どう答えればいい?と珍しく愚痴った。
奇妙なことにぼくが退職した1ケ月後に新聞社内の粉飾決算が表ざたになり、その常務が刷新委員会の責任者となり9月1日からスタートするという直前に、辞表を出して放り出してしまった。粉飾の原因は、どうも常務周辺に見え隠れしていた。社長の歓心を買うために無理に部下を巻き込んで架空の売り上げをこしらえ続けた。社長は、その後体調こわして入院し、秋に辞任した。
その常務のあこぎな手法を社長に繰り返し伝えた。社長は、部長のおまえと常務とどちらを信用するか、と言うから、僕でしょう、と言った。憤慨していた。常務は片腕だ。戦友だ、と古いことをいう。これから常務の言葉をおれの言葉と思え、と無理を言った。もうこの会社はダメだなあ、と感じた。
さて、倒れた越智さんと、編集局長に就任した住田さんのことである。
その後、住田さんは持ち前のバイタリティを発揮し、次から次と組織改革に着手した。悪いうわさも立ったが、それはやっかみを含めてしょうがない。電子メディアへの将来を見込んで優秀な人材を惜しみなく投入した。編集局長に就任すると、2年おきに昇格し社長の道を進んだ。1996年取締役東京編集局長、1998年常務取締役主筆東京編集局長、2000年専務取締役主筆大阪代表、2002年専務取締役総括主筆、そして2004年から代表取締役社長に。昨年6月に社長を退いた。その8年の間、大胆な人事を断行し東京、大阪の垣根を取り払った。大いに若返りをはかった。新聞経営は斜陽産業といわれるほど広告や購読者の減少傾向に歯止めがかからない厳しい状況だ。産経も苦しい。住田さんは代表権のない相談役となった。病勢なのか、社内の確執が影響しているのか。また噂がたった。
退任後、僕が世話をした若者が住田さんに呼ばれて食事をした。産経で誰を知っているか、と聞かれて、ぼくの名前を告げたらしい。そしていまのぼくの仕事を説明したら、「彼にそんな能力があっただろうか」といったという。僕が戦略室にいた時、東北改革や、早期退職制度など5つの改革案をまとめる起草をぼくが住田さんに指示されて手がけたことがあった。昨年暮れ、住田さんにひさびさにある会合でお会いした。全身からほとばしるようなかつてのエネルギーは感じられなかった。声も小さく沈みがちだった。
さて、もう一方の越智さんはどうしているだろうか。二度に及ぶ手術で一命を取りとめた。再起は適わず車イス生活となった。幸せなことにリハビリに向けて趣味の絵を描いているそうだ。左手に絵筆を持ち、精緻な四季の花の水彩画が評判を呼んだ。5年前に銀座の画廊で個展を開いたという記事を読んだ。それはそれは、見事な絵であった。もう一度、ぜひ、実際をみてみたいと思った。
その後、個展はやっているのだろうか。越智さんと親しいと推測される産経新聞、フジテレビの知人に片っ端から連絡した。この2週間余り、ストーカーばりの電話魔となっていた。都庁記者クラブでご一緒したという横山三四郎さんに聞いたら、鈴木隆敏さんが詳しいという。鈴木さんは、横山君じゃないかといった。斉藤富夫さんは個展に行っていた。素晴らしい絵だった。あのような才能があるとは思わなかったと、その感想を語ったが最近の消息はわからない、と申し訳なさそうだった。
フジテレビのFCG総合研究所に電話したら親しい人が入院中だったが、別な知人に事情を説明したら、産経の風間さんがよくFCGのオフィスに越智さんと一緒にきていた、と教えてくれた。越智さんは、数年前亡くなった吉田久夫さんと兄弟分だった。風間さんは、横浜総局長になっていた。電話したら、いやあ、と彼にもアイディアがなかった。
話しているうちに、越智さんと親密だった吉田久夫さんのお嬢さんが産経にいるという事に気づいて、吉田さんに連絡してくれる、といった。本日18日夕方5時すぎ、彼から連絡が入った。「越智さんは生きています」というのが開口一番でした。電話番号を教えてもらった。電話をかけたが留守だった。
すると、その5分後、電話がかかってきた。越智さんの奥様の和子さんだった。倒れて18年、相変わらずの努力家ですのであれからリハビリに専念し、最初は二人三脚で介護のためつきっきりでしたが、いまでは自分でトイレもお風呂も不自由なく入ることができるまでに回復した。言葉が不自由なので、絵文字で意思を伝えていた。そのうち、道具を持ち込んで絵を描くようになった。それから10年、週に1回、言葉のリハビリに通う。そして毎日、左手で絵を描いています、という。
「あのまんま行っていたら、どうなったか。倒れて、そのためにやっとしみじみと付き合ってこられました。言葉が思うように通じない。彼は一生懸命伝えようとする。私は、それ以上に耳を傾けて聞こうとしてきた。人生二人三脚、その意味をかみしめています。人生、捨てたものじゃないなあ、というのが実感です。」
和子さんの声が明るかった。人生捨てたものじゃない、という言葉に心底、胸を打たれた。この秋10月中旬には、毎年続けている越智さんの個展を地元のさいたま市の「馬宮コミュニティセンター」で開く予定だ。ご案内しますので、と言ってくれた。必ず、行きますね、と約束した。
越智さんの後任になっていたら、どうなっていたか。越智さんの消息を確認し、その幸せな光景を思い浮かべて、もうどうでもよくなっていた。