陸奥湾を望む。
半島の先が津軽海峡だが、ここからは見えない。
DNDメディア局の出口です。その23日夜は、折からの雨が予報通りに雪に変わった。その頃、新年会がお開きになって東京・新橋駅近くの居酒屋をひとり出た。湿ったボタ雪が吹き付けた。マフラーを頭からかぶって駅への道を急いだ。酔っていたせいかさほど冷たさは感じなかった。
仲間との酒席は、いっときでもあの吹雪の惨劇を忘れさせてくれたので、うれしかった。埼玉・越谷に着いて駐輪場からマウンテンバイクを引き取ったら、家人が車で迎えに来ていた。雪が凄いから自転車置いて車に乗ったら、と言う。そんな時、そうだね、と素直にしていればいいものを、なぜだか、八甲田の雪はこんなものじゃなかった、とむきになっている。青森歩兵第五連隊210人が八甲田に向けて出発した日と重なっていた。そのことが影響しているとはいえ、もう少し冷静になるべきでした。
吹雪の惨劇、八甲田山雪中行軍の遭難事故から今年が110年の節目ということで、新年早々、『八甲田死の雪中行軍真実を追う』の著者で元毎日新聞記者の三上悦雄さんの生きざまを取り上げ、現地入りした八甲田山の冬山ルポを写真入りで書いた。それらの取材ノートから書き残したいくつかのエピソードをこの項の総括として紹介します。
三上さんの奥様の千鶴さんとやっと電話がつながり、三上さんが急逝した時の状況を聞くことができた。10年前に9月だった。自宅で一緒に昼食をとったあと、「もうすぐ完成するぞ」と言って隣の仕事部屋に入った。それが最後となった。午後1時半ごろ、「買い物にいきますよ」と声をかけて部屋をのぞくと、三上さんは床の上にあおむけに倒れていた。顔面は蒼白で、身体は冷たくなりかけていた。何度声をかけても返答はなく、救急車で病院に運んだが蘇生することはなかった。死因はくも膜下出血でした。享年64歳。
仕事部屋のパソコンはスイッチが入ったままだった。原稿の最後の仕上げに向かっているうちに気分が悪くなり横になったまま意識を失ったのかもしれない、と千鶴さんは、語った。その本の巻末の「あとがきにかえて」のところで触れた、ほぼその通りの説明でした。
千鶴さんが三上さんから聞いた最後の言葉が実は、「あとは見出しだな」でした。電話口で語ってくれた。あとは見出しだな、というのだから原稿は完成していた。じっくりあわてずに、見出しの文字をあれこれ練っていけばよい、と言い聞かせていたのかもしれない。執筆に取りかかって覚悟の10年、事実を探る精緻な活動に専心していたのでしょう。根を詰めてきたから、その頂上を目前にしてふと気を緩めた瞬間、心の重石が取れたのか、緊張の糸が途切れたのだろうか。そんなことを思う。
あるいは体調をこじらせながらギリギリと自分を追い込んで行ったのかもしれない。10年とはね、余りに長い歳月です。命を削る思いで執筆を続けてきたのだと思う。終日パソコンで原稿を打ち込むと、神経の疲労は限界に達し何も手につかないほどの気だるさに襲われる。
まあ、文章は思いやりという。慈しみ深い三上さんのことだから、夢の中に現れた吹雪の中の遭難兵の苦しさを全身で受け止めてしまったに違いない。それが思慕する小笠原孤酒への追悼だったのだろう。彷徨う遭難兵、報われず逝った孤酒の無念…フリーの立場でそれらを背負いながらこの真実を浮き彫りにするという作業は、三上さんにとっての雪中行軍だったかもしれない。もっと、ねぇ、ゆっくり気分を変えながら取り組んでもよかったのでは、と思うと残念でならない。
秋9月上旬といえば、残暑はいよいよ厳しくなる。蒸し暑く台風も襲うのだが、三上さんの脳裏には季節感は失せて、ただ凍てつく真冬が連続していたのではないか、と思ってしまう。
振り返れば、選択定年で水戸支局石岡通信部長を最後に毎日新聞社を平成4年に退社した。54歳でした。その後、文筆活動に入るが、八甲田山の真実を追う作業はライフワークと言うくらいだから、未完に終わった『吹雪の惨劇』の著者で三上さんの友人の小笠原孤酒への鎮魂が首をもたげたのだろう。雪中行軍遭難の資料集めに奔走する。記録が旧陸軍の資料を除くと、断片的な小冊子しか残っていないからだ、という。
千鶴さんによると、国会図書館や青森県立図書館に何度も一緒に足を運び、資料調査の手伝いをした。三上さんが執筆に関して参考にしたり引用したりした文献資料は、これも巻末に一覧で紹介されているが、ご覧の通りざっと30冊余りに及んでいた。
『歩兵第五聯隊雪中行軍遭難事件書類・全五冊』(陸軍省)
『歩兵第五聯隊遭難ニ関スル取調委員複命書・全二冊』(陸軍省)
『陸奥の吹雪』(第五普通科連隊編集、陸自第九師団発行)
『新版・陸奥の吹雪』(同)
『歩兵第五聯隊遭難始末並附録』(歩兵第五聯隊編集・発行)
『歩兵第五聯隊歴史』(渡辺祺十郎、第五聯隊発行)
『青森聯隊惨事 雪中の行軍』(佐藤陽之助・編、工業館)
『雪中行軍遭難談』(雨城隠士、笛浦堂)
『雪中行軍隊 悲雪惨風』(三沢好吉・編、三沢書店)
『雪中行軍捜索隊』(同)
『雪中行軍遭難実記』(福良竹亭・編、盛陽堂)
『八甲田連峰・吹雪の惨劇 第一、第二部』(小笠原孤酒・自費出版)
『八甲田連峰・雪中行軍記録写真集』(同)
『第五連隊雪中行軍記録写真集』(小笠原孤酒監修、十和田タイムリー社)
『八甲田山麓 雪中行軍秘話』(苫米地吉重編、福沢善八発行)
『雪中行軍日記』(歩兵第三十一連隊第二中隊伍長・間山仁助)
『八甲田山から還ってきた男 福島大尉の生涯』(高木勉、文芸春秋社)
『われ、八甲田より生還す 福島大尉の記録』(高木勉、サンケイ出版)
『八甲田山死の彷徨』(新田次郎、新潮社)
『強力伝』(新田次郎、新潮文庫)
『雪の八甲田で何が起こったのか』(川口泰英、北方新社)
以上、直接的に八甲田山の雪中行軍に関したものは21冊で、このほか
『気象100年史』(気象庁)、『昭和史全記録』(毎日新聞社)、『青森空襲の記録』(青森市役所)などが列記されていた。すいぶんとたくさんの資料を集めたり、あたったりしたのですね。僕は、千鶴さんと資料集めをしながら一緒に各地を回ったと聞いて、それはお二人にとって素敵な取材旅行になっていたのではないか、と推測し少し気持ちが和んだ。
資料収集にあたって三上さんは多くの友人、知人から協力をもらった。銅像茶屋の銅像のモデルとなった後藤伍長の親類に手紙で事実の確認をしていたことも明かし、一面識もない筆者のぶしつけな手紙での問い合わせに、家系図や戒名を送ってくださった後藤公佐さん(後藤伍長の孫)に感謝するという記述がありました。どこにどれくらい手紙を出したのか、その手間を考えたら気が遠くなりそうだった。一冊の本を仕上げるのに10年、この取材ぶりは文筆家というより、新聞記者そのものだった。
これらの膨大な資料やデータ、原稿を丹念にパソコンに入力していた。八甲田山の真実に執念を燃やした三上さんを今度は僕がどう取り上げるか、そう思うと、さらっと本を紹介してすませるわけにはいかないのである。
1月5日夜、東京・丸の内から夜行バスで青森にむかった。バス代は4000円、と格安だった。隣の席に、屈強な若者がドカッと座った。彼の太い腕が窓際の僕の右肩にあたる。彼は、健気にも右手で左肩を内側に引っ張って少しでも僕に触れないように必死で堪えていた。図体に似合わず、つぶらな瞳だ。
旅は道連れ、いろいろ聞いた。
どこまで?
青森です。
青森のどこ?
市内の桜川。
そこって筒井中があんじゃない?
そう、そこを卒業しました。
あらら、僕がこれから行くところだよ。その中学は、ね。八甲田山の雪中行軍の連隊本部があった場所で、それから八甲田山を目指す、と言った。道中、人の縁とは不思議なもんだ。彼は、留学中のドイツ・ハイデルベルグから冬休みを利用して帰省するのだという。ドイツでは哲学が面白い。ハイディカーって哲学者知っていますか?と聞く。へぇー今どきの若者から、僕が学生時代に一般教養で学んだ哲学者の名前を聞くと思わなかった。たいしたものだ。青森についたら、父親が駅に車で迎えにきていた。メールアドレスを交換し手を振って別れた。
吹雪の八甲田山から戻ったら、その夜、携帯に彼からのメールが入った。 「青森の冬はいかがでしたか。吹雪いてとても過ごしづらかったと思います。越冬隊の像や彼らが遭難した八甲田の付近は、今も呪われている地域とも言われています。帰りましたらお祓いをした方がよいと思います」。
ふ〜む、ご心配してくださり、ありがとう、と返信した。ドイツに留学していながら意外と古風だった。
その夜は、雪がしんしんと降り続いた。八甲田山にワゴン車で案内してくれた松橋良則さんと街中の小料理屋に腰を下ろした。地酒を飲んだ。メニューに、「ばくらい」とあるから聞いた。ホヤとコノワタの塩辛だという。酒がすすんだ。45年ぶりなのについ昨日まで一緒だったような錯覚だ。同級生のひとりで成績が抜きんでていた橋本辰也のことが話題になった。高校を卒業後、自衛隊に入り茨城の駐屯地で20歳の命を絶った。上田達也、三浦龍一らの名前も出た。ひと晩で45年の歳月を振り返るのは無理があった。松橋兄さんが高校を卒業して夕張から青森に移ったことなどを話題にしながら地酒をいただいた。いくら飲んでも不思議と酔いが回ってこなかった。兄さんも強いわ。
翌朝は、目が覚めるような青空が広がっていた。青森にきたもう一つの理由は、古本屋めぐりだ。その日も兄さんは迎えにきてくれた。まず携帯のご近所ナビでアトランダムに古本屋を選んだ。まず市内は古川という地名にある古本屋を目指した。が、除雪した雪で道路が狭い。それも一方通行が多いから不便極まりない。雪深い道を徐行しながら、探し回ると、兄さんが偶然、古本屋の看板を見つけた。
古書店「林語堂」だ。若い店長が社長の木村拓治さん、数年前にこの業界に参入し、傾きかけた古本屋を次々買収した。お蔭で蔵書は10万冊、インターネットでも販売している、という。ここ数年で10数軒あった古本屋が3店舗程度に減った。淘汰の冬の時代を迎えていた。
八甲田山関連の、たとえば小笠原孤酒の『吹雪の惨劇』はないだろうか、三上悦雄さんの『八甲田死の雪中行軍真実を追う』はどうか、その他、陸軍が編纂した八甲田山の資料はないか、と聞いた。蔵書のネット検索が可能らしい。
八甲田関連は、なぜか、すぐになくなるのですよ。ちょっとお待ちください、と部屋の奥に姿を消した。僕は、雑然とした書棚と書棚の間に着ぶくれした体を押し込むようにしながら古本に目を流した。
ひょいと手にしたのが、安野光雅氏の『きりがみのイラストレーション』(岩崎美術社)だった。安野さんの切り絵の作品70点余りが掲載されていた。1976年の発行で定価1600円、あとがきで安野さんが、石を彫る時の難所である「シマ」について石屋さんから聞いた話を紹介し、機械で彫った字は一律で筆法が感じられない、という石屋の教訓から、もっと能率的な切り絵の工夫を考えていたが、それを聞いてあっさりやめた、などと書いてあった。絵はメルヘンチックで楽しいものばかりで、森本哲郎著の「ことばの旅」の扉絵や音楽の本の挿絵だった。
木村さんは、申し訳なさそうな顔をして、やはり一冊も在庫がありません、という。
専門店の誠信堂書店ならあるかもしれませんよ、と教えてくれた。電話番号を聞いてさっそくこれから行く旨を知らせた。場所は、市内の桜川8丁目、そうだ。最初に出向いた筒井中、青森高校のすぐ付近だった。
木村さんの古本屋では安野さんの切り紙のそれと、上村一夫の劇画「同棲時代」(中央公論社)は1040ページの分厚い愛蔵版、山本夏彦著の『「豆朝日新聞」始末』をそれぞれ値切って買った。
ところで三上さんの本は定価1200円だが、アマゾンで5000円近い値段がついていた。僕が数年前に買った時は9800円だった。小笠原孤酒の『吹雪の惨劇』第1部は、これもアマゾンで3万円と高価な値段がついている。これじゃとても手が出せない。地元なら、もっと普通の値段で買えるのではないか、と思って来たのだが、モノがないのだから話にならない。考えが甘かった。
誠信堂は、道路沿いにひっそり看板を掲げていた。地方に行く楽しみは、古本屋の存在がある。こんなところに意外と、掘り出し物がある、というものだ。さて、ここはどうか。ガラス戸を開けて店に入ると、しばらくしてご主人がのっそり、面倒くさそうにして現れた。書店の店主に、すし屋のお兄さんのような威勢のいい性格は不釣り合いだった。店内は、本や資料が圧倒的なボリュームで壁一面に天井高く整頓されていた。が、奥には段ボール箱がうず高く積まれていた。昨年の三十日まで新宿の京王百貨店で開催の歳末古書市に出展し、帰ったばかりで荷を解いていないのだ、という。いやあ、豆本あり、レアなマッチのラベルありと、それらがところ狭しと並んでいた。
さ〜て、ひと呼吸おいて、八甲田山関連の本を探している、小笠原孤酒の本はないだろうか、と直裁に聞いた。
間髪入れず、孤酒?とは言わない。ご存じなのだ。いやあ、どうしてなのか、出たら無くなるのさ、このところ八甲田関連は品薄だ、と言った。孤酒の本は、ちょくちょく出回ると、と付け加えた。
ネットで3万円の値段がついている、と教えたら、それは何かの間違いじゃないか、うちでは3000円が値頃ですよ、と迷わず言った。誠信堂、名前通りの信用商売に徹している風だ。店主の名前は、遊佐信顕さんという。渋い御仁だった。立ち寄ったついでに劇画の上村一夫の名前を出したら、あの奥の段ボールに入っているかもしれない、という。奥をのぞくと木枠で組んだ箱が何段にも重なっていた。
これをねぇ、横にすると本棚に早変わりする。私のアイディアだ。出張の展示会ではいちいち本を箱から出し入れせずに展示が簡単、上向きを横にすればいい、と。始めは知り合いの大工に特注させた。業界の標準になった。みんな真似したのさ、と得意げでした。
帰り際に、『青森県の事件55話』(二葉宏夫著、北方新社刊)を購入した。孤酒の『吹雪の惨劇』の本は、注文しなかった。僕は、もう八甲田山雪中行軍の真実を追う必要はないと思い始めていた。青森でのミッションはこれで終了としたい。
津軽海峡が見たい。陸奥湾に面した雪深い中央防波堤に向かった。見事に晴れ渡り、青空が広がっていた。振り返ると、なだらかな八甲田山が輝いてみえた。
みちのくや空蒼くして雪菩薩 俊楽
名物の煮干しラーメンを美味しく食べた。兄さんにごちそうになった。もうそろそろお別れだ。帰り支度を始めると、空の雲行きがあやしくなっていた。青森駅まで見送ってくれた。雪がまた降ってきた。新幹線「はやて号」なら、東京まであっという間だった。が、あんまりスピードが早いから、心は青森に忘れてきたさ。
駅で別れたヨッチこと松橋良則さん、ずっと僕の取材をアシストしてくれた。どう感謝を言葉にすればよいのか。この一連のメルマガは、彼の存在なくしては適わなかった。別れ際、ワゴン車を下りて僕に、「ばくらい」でもなんでも好きなもの言ってね、送るからさ、とぼそっと、言うのよ。それも兄さんは、目頭を赤くしながら。友だちは、優しさだと思った。
新幹線の車窓から、ヨッチのその残像が消えなかった。急いで帰らなくても、ゆっくりひと晩走る夜行バスの方がよかった。窓に雪が吹き付ける。その雪のせいだろうか、曇った窓ガラスが水滴で濡れている。
■ ■ ■
余談:
千鶴さんの追憶には後日談があり、三上さんが亡くなってまもなく茨城県からご自宅に連絡が入った。清酒「ピュア茨城」の誕生を記念して県が一般公募したキャッチ・コピーの部門で、三上さんの作品が最優秀賞を射止めたのだ。茨城産の酒米「ひたち錦」をベースに県の酵母にこだわり、そして豊かな茨城の水で作った清酒「ピュア茨城」の誕生を記念して一般公募したキャンペーンに応募していたのだ。応募総数は酵母名の部門と合わせて700件余り、10月1日の日本酒の日に茨城新聞紙上で発表される、という。
驚いたのは千鶴さん、賞金5万円と、副賞として茨城県の参加全蔵元の酒32本が届いたからだ。日本酒が大好きな主人でしたから、これを知ったらどんなに喜んだことかしら、お酒は三上の知人らに配りました、という。
最優秀賞に選ばれた三上さんの「ピュア茨城」のキャッチ・コピーは、以下の通りでした。えっ!ほんとう?という驚きと、キャッチ・コピーを口にする三上さんのくぐもった声が聞こえてきそうでした。
「いばらぎをギュギュッと詰めたお酒です」
古本屋の誠信堂書店、オリジナルの木箱、
普段は本の収納、縦にすると本棚になる。
古本屋は、飽きませんね。
上村一夫の愛蔵版をみつけた。林語堂で。
雪が降り積もり、屋根の雪下ろしにひと苦労です。
青森市内で。
三上悦雄さんの遺作となった『八甲田死の雪中行軍真実を追う』(中央)、右が27万部のベストセラーの新田次郎の『八甲田山死の彷徨』。