DNDメディア局の出口です。なかば諦めて途方に暮れていたら青森市内に住む知り合いが、雪道の案内を快く引き受けてくれた。八甲田に行ってみたい、と衝動的に飛び乗った夜行バス。翌朝、粉雪舞う青森駅前に着いたら、駅近くのホテルのロビーに彼が約束通り、現れた。
北海道の小・中学のクラスメートの竹馬の友というのでしょうか。実に45年ぶり、昔の写真を家から持参してきたのだが、目が合った瞬間、ヨッチだ、とわかった。やわらかな目元の面影がしっかり残っていた。懐かしいなあ、と言葉を交わしていると、遠いおぼろげな記憶が少しずつ甦ってきました。
夕張市真谷地の山の小学校、いまやすっかりさびれた旧炭鉱の町だ。その山深い斜面の一角で家が近くだった。ほんの薄い縁なのにその存在は大変うれしかった。松の内早々、厳寒の東北行脚はのっけから熱いものが込み上げていた。
松橋良則さん、それ以後、兄さんと呼ばせてもらう。兄さんは、山の神が鎮まっているうちに急いだ方がいい。いつ暴れるかしれない。そうなるとどうにもなんないさ、とあいさつもそこそこで僕をワゴン車に誘った。雪は、暮れからずっと降り続いていた。このドカ雪で道路の半分が埋まっていた。やっと青空が見えたのだという。
まず、あの人が通った学校の旧連隊本部の門柱があるか、どうか。それを確かめたい、と思った。兄さんは迷わずワゴン車を筒井中学校に向けて走らせた。
『八甲田死の雪中行軍真実を追う』の著者で、元毎日新聞の三上悦雄さんがその本の「まえがき」で紹介した青森市立筒井中、隣接の県立青森高校は、もとはといえば旧青森歩兵第五連隊の本部があったところだ。筒井村出身の三上さんは、中学、高校の6年間を第五連隊の門柱が立つその営門をくぐっていた。そして幼い時から、八甲田山の雪中行軍で199人の犠牲者を出し壮絶な遭難事故のことを村の古老から聞かされて育った。
ワゴン車は雪の轍を踏んで南へと急いだ。数十分走ると、雪中行軍の鳴沢の周辺で迷った兵士らが足を滑らせた駒込川、その支流が街中で荒川と名前を変えている。その荒川を越えたら、北側一帯が桜川と呼ぶ桜の名所で、学校はその付近から雪の中に見え隠れしていた。体育館の軒先から巨大なツララが垂れていた。ツララをみるなんてほんとうに久しぶりだ。
正門付近にいた女子学生に連隊本部の門柱のことを聞いたが、要領を得ない。それは無理ないことかもしれない。職員室を訪ねても、教頭の新井山毅さんもその辺の事情にはさほどの感心をしめさない。偶然、廊下の壁を見上げると、ひと昔まえの校舎の写真がかかっていた。校舎の屋根の中央に遠くを見張る監視哨のようなものが見て取れた。連隊本部が一時期、筒井中の校舎となっていたことを示す数少ない手がかりだった。三上さんが本に書いた通りでした。当時の第五連隊本部を偲ぶものは、時を経てセピア色になった写真1枚だけ、それだけでもここに来たかいがあった。青森で、三上さんとやっとつながった、と思った。
職員室の玄関を出たら、灰色の空から雪が降り始めていた。せめて、と真新しい門柱のわきで首をすくめながら写真を撮った。門柱には青森市立筒井中学校と書かれていた。あの当時の門柱は、どうなったのだろう。調べてもらったが、やはりわからないということだった。戦後の軍部批判のなかで歴史の闇に葬られていなければよいが。
三上さんの記憶をたどって南下すると、そこから3.5キロ先に幸畑の陸軍墓地があることがわかった。遠足では墓石群に一礼し隣の広場で遊んだ。墓地公園からくるり身をひるがえして北を向ければ、青森市街の陸奥湾から津軽海峡へとつながっていた。生家があった筒井村浜田字玉川(現青森市)からは、荒川の堤防越しにいつも歩兵五連隊の後藤房之助の勇ましい銅像が見えていた。
さて、次に向かう先はどこか。その八甲田山遭難記念館が併設されている陸軍墓地か、八甲田山の麓にある遭難付近の銅像茶屋か、しばし考えあぐねた。時計は、もう昼を回っていた。風が出て雪が激しくなっている。夕刻4時までに戻れば遭難記念館の入館もまだ間に合う。吹雪にかすむ銅像が頭をよぎった。八甲田山の田代平付近を急ぐことにした。白魔の雪山とは、どんなものなのか。
ワゴン車は、国道103号を南下し一路八甲田山を目指した。兄さんによると、国道103号は、青森市から十和田湖まで続く八甲田・十和田ゴールドラインと呼ぶ。新緑の頃の景観は、凄いよ、どうまた来たら、と誘う。うん、きっと、と相槌をうった。
緩やかな雪の坂道をしばらく走ると、風景から色が消えた。八甲田連峰のすそ野は、黒い幹と白一色、モノクロの世界に一変していた。風が加速する。沿道は除雪による回廊が迫る。雪が重くのしかかりブナの木々が体を捻じ曲げているようにもみえる。道と森と空の輪郭がおぼろげでその境が視界からふと消えた。雪で薄暗くなるのである。なんという世界なのだろうか。
道すがら雲谷温泉の看板がかすかに目に入ってきた。その峠を越えてゆっくり進む。窓外の景色を写真に収めた。雪に埋もれるブナの森、やがて樹氷になるのだろうか。iPhoneと一眼レフのデジカメを持ち替えて交互にシャッターを押した。車を止めてもらって外から雪景色を撮った。
登り坂を徐行していると、少し明るくなったと思ったら、途中で道が左右に別れている地点にきた。標識は、赤く十和田方面、裏八甲田ルートとある。しかも夜間ゲート閉鎖とも。いよいよ、八甲田山雪中行軍の遭難現場へ踏み込む。ハンドルを大きく左に切った。するとその先から大型バスがのろのろ近づいてきた。ワゴン車は左の端に寄ってバスが通りぬけていくのを待った。
そうだ、ここから田代平に抜ける火箱沢林道に入るのだ。国道103号線が、ホクセンと呼ぶ表八甲田ラインの十和田北線で、火箱沢林道を東に進むと、田代平から増沢に続く県道・青森〜三本木線の裏八甲田ラインに通じている。三上さんの本にも、小笠原孤酒が、新田次郎を案内する場面でこの周辺の解説があった。この火箱沢林道が表と裏を結ぶ、唯一の抜け道なのである。数キロ走ると、馬立場という地名のところで三叉路にぶつかるが、そこが遭難兵士の後藤房之助伍長の銅像が建つ茶屋なはずだ。
雪道を急いだ。風が強くなって横殴りの雪でほとんど視界が利かない。確かに、この八甲田山の冬山は用心がしないといけない。ハンドルを握る兄さんもフロントガラスに顔をつけんばかりの前かがみの状態でまばたきひとつしない。地表の白と灰色の空がひとつになって方向がわからなくなっていたからだ。怖い道だなあ、と呟いていると、左右のブナ林を抜けたらしく、いくらか空が明るくなった。その先に三角屋根の茶屋の輪郭がぼんやりみえてきた。
ここが銅像茶屋だけれど、冬場はこれだもの閉鎖するさ。後藤伍長の銅像は、この裏手にあるはずだが道が閉ざされている、と兄さんが言う。
ちょっと降りてみるから、とワゴン車の外に出たら猛烈な吹雪が吹き付けてきた。雪が目に入るわ。茶屋への道はないのだろうか、とウロウロしたらたちまち全身に雪がまとわりついてきた。顔にも目にも眉毛にも雪がへばりつく。外気温は氷点下をさしていたから雪が顔にあたっても解けないのだ。風で息苦しい。底冷えするわ。寒ぶ〜。
しかし不思議なことがあるものだ。肉眼では見えない茶屋への道が、カメラのファインダーから見えるという事があるのだろうか。そこを手探りで向かった。後ろを振りかえると、ワゴン車から兄さんがなにやら手を振りながら叫んでいる。危ないからやめろ、と言うのだろうか。しかし、茶屋の銅像はこの雪道を進まないと辿り着けないことはわかっていた。三上さんの本『八甲田死の雪中行軍真実を追う』で記憶していたあの時の様子がリアルに浮かんだ。それを確かめねばならない。そして写真に撮りたい、と。
1970年9月25日、小笠原孤酒が新田次郎を八甲田山に案内した時の事です。
〜孤酒と新田は、銅像茶屋の前で車を止めた。茶屋の前から北へ遊歩道がついていた。馬立場で新田は後藤房之助の銅像を見上げた。台座だけでも2mは超えていた。その上に後藤の全身像があった。左足を半歩ほど前にだし、両手で小銃を握り、銃床を地面につけ、膝までの外套を着ていた。
「この見晴らしのいい場所で、後藤房之助は胸まで雪に埋もれていて、捜索隊の目印になったわけか」
新田のつぶやきに、孤酒が即座に否定した。
「いいえ、ここにも遺体があったのですが、後藤がみつかったのはここから2キロばかり青森寄りの、我々が通ってきた道の反対側、道路の西寄りだそうです。この場所は、ほら、すぐそこの下が鳴沢ですから」
そんなことを反芻していたら、雪に足がとられた、と思ったら前のめりに転倒した。ずぼっと頭から突っ込んだ。拍子に靴が脱げた。起き上がって靴を探したらまた足を滑らせて転んだ。ああ、あかんと思った。なかなか起き上がれない。
吹雪は容赦しない。手足が凍り付いて動かない。わずか5mも歩いていないのにこのありさまだった。雪原の吹雪は、恐ろしいわ。惨劇は、起こるべきして起きたのだ。銅像を写真に収めるのは諦めた。これ以上進めないから断念するしか、手がない。雪国専用とはいえ、革靴ではどうにもならなかった。
わずか数分の出来事だった。それ以上、外に立ち尽くしたら、どうなったことか。う〜む、この状況で数日といわず、数時間でも雪の中に放り投げだされたら寒さで卒倒してしまうことは容易に想像できた。
積雪は背丈を超えていた。銅像まで歩くには胸までの雪を泳ぐように進まなければならない。ワゴン車に入る前に呼吸を整えて、もう一度周辺を見渡した。その茶屋への道はもう消えていた。茶屋の裏手に建つ後藤伍長の銅像は撮れなかった。若い頃だったら雪をかき分けても銅像の前に立っていたはずだ。後藤伍長の銅像こそ、この取材に欠かせない写真だった。う〜む、しょうがない。
八甲田山雪中行軍は23日早朝、連隊本部を出発し小峠、大峠から約5キロ進んだ駒込川沿いの西側の道からこの茶屋周辺の馬立場を無事通って、そこから数百m十和田寄りに入った鳴沢の崖付近で往生した、と記録にある。時計は翌深夜になって疲労が尋常ならざる事態になっていた。露営を決め込んで雪を掘って炭を起こすなど艱難辛苦を兵隊に強いたが、気候の急変でその未明に帰営することに変更した。またブナの枝を鋸で切った跡が目印だという部下の安易な情報を鵜呑みにして今度は再び田代平を目指した。この寒波と吹雪の中、指揮の混乱と迷走が重なった。なだらかな台座風の目的地の田代平高原まであと、ほんの2キロなのに、どうして前へ後ろへ右へ左へといたずらに無定見な行軍を繰り返したのだろうか。
新田次郎の『八甲田山死の彷徨』では、その辺をこんな風に描写した。
「それまで台地状の地形を歩いていたが、次第に下り坂になり、そして急な坂を滑り下りると、そこに川が流れていた。駒込川の本流だった。その駒込川のほとりを進むうちに前に川、左は絶壁という暗い谷間に入り込み、行き詰って動きが取れなくなった。24日8時半であった。その期になって、山田少佐は進藤特務曹長の嚮導に疑問を持ったが、もはやどうにもならぬところへ追い込まれていた」と。
また、なぜ、このような結果になったのか。神田大尉が自問自答する場面がある。 「田茂木野で案内人を頼まなかったこと、小峠で下士官に突き上げられて前進したこと、第一夜の雪濠を夜中に出発したこと、特務曹長が部隊を死地に導いたこと等がひとつひとつあげられた。その計画の中には幾多の誤りがあった。自然を甘く見過ぎていた。装備も不足だった。すべて事前の研究が不足だった。責任はすべてこの神田にある」と。
吹雪という敵が控え、突風という伏兵が現れ、そして寒気という賊が忍び込む‐と新田は喝破した。小説家の巧みな想像力は、死の彷徨の現実を凌ぐほどの筆力を持って迫ってくるもののようだ。冬山の怖さを知るのには、この数行の表現で十分なはずだった。が、実際にきてみれば、遭難の原因を指揮系統の混乱というリーダーシップの欠如という文言で片付けられるものではないなあ、と考え込んでしまった。
遭難した青森の第五連隊と、無事に踏破した弘前の第三十一連隊とを比較するのは簡単だ。雪山の怖さの認識や、予行練習や事前の準備が明暗を分けたのは確かだ。が、出発の日時やコースが違った。人数の差も見逃せない。遭難した青森連隊の210人という数に比べて弘前は38人で、視界がふさがれ声が届かない地吹雪の中での大勢での行軍は、あまりに無謀で過酷だった。この雪山を荷物運搬用の大型のそりを引かせるという無理も祟った。
資料によると、明治35年(1902年)1月23日の第五連隊の出発日から列島に寒気団が居座り、25日をピークに気温が急速に下がる異常な寒波が襲った。その25日には、北海道旭川で観測史上最低のマイナス41度を記録するなど、日本で一番寒い日を観測した。まさに天は我々を見捨てた、と口をついてでるのも大げさなことではなかったのだ。
急いで、数枚写真を撮ったらワゴン車に身をあずけるように駆け込んだ。手がかじかんで頬が赤く突っ張った。思い出すと背筋に悪寒が走り、あの時の悪夢が甦る。
ふ〜う、いやあ、誰だってこの辺を数日さ迷っていたら確実に遭難してしまうよ、凍てつく寒さと吹雪、半端じゃない殺人的だわ、と言えば、兄さんは、この時期は、地元の人とてまず近寄らないよ、茶屋も道路も冬季は閉鎖しちゃうからね、と言う。それじゃあ、遅い昼ご飯がてら温泉でも行こうかね、という。うれしい。凍えるような寒さだもの、温泉と聞いて小躍りした。それまでの怖さも寒さもいっぺんに氷解しそうだった。
銅像茶屋、そこでは結局なにも見えなかった。その三叉路を東南方向に下れば十和田湖へ、逆に北西の大峠付近を通る県道をいけば青森市内に出る。が、こちらは茶屋の前で閉鎖されていた。青森第五連隊210人が雪中行軍してきた八甲田山のすそ野の最大の難所なのである。ワゴン車は、そこを逃げるように火箱沢林道を逆戻りした。
林道を抜けて国道103号線に戻ると、なんということだろうか、雪も風もぱたりやんでいた。冬山の天候は劇的に変わる。あれだけ吹雪いていた破天が嘘のようで灰色の空がいくぶん明るくなっていた。国道に出ると八甲田ロープウエーのわき道を通った。スキー客はまばらだが、ゲレンデは広く整備されていた。兄さんが、八甲田山の大岳(1684m)の麓の山頂公園まで上ると、陸奥湾から両半島をはさんだ津軽海峡まで見える、という。
ワゴン車は、山小屋風の洒落た木造建築がある城ケ倉温泉付近にさしかかったら、ブナ林の木間から青空が透けて見えた。枝ぶりのよいブナの木は幹や枝先が真っ白い雪で覆われていた。そして辿り着いたのが、湯治場として知られる酸ヶ湯(すかゆ)温泉でした。別名、千人風呂、大浴場は男女混浴だった。白濁した源泉にしばし体を沈めて目を閉じた。いやあ、なんとも至福のひとときなのだろうか、冷え切った体が芯から温まってくるのがわかる。しかし、心に何かが取付いているようで気分はそれほどすぐれないのだ。
新田次郎は、一切の取材を終えて、十和田の蔦温泉に泊まった夜、全身氷に覆われた兵士が次々と私の前を通っていく夢を見た、と取材ノートに書いた。三上さんは、田代平に到着すれば、温泉が湧いているからその晩はお銚子を2本ぐらいつけてくれるだろう、と楽しみにしていた遭難兵士がたくさんいた、という。確かにね、吹雪と飢えに耐えきれず、残念ながら雪の中で意識を失い全身氷に覆われたままこと切れた兵士のことが脳裏をよぎるのだ。
本の完成を見ずして志半ばで逝った三上さんのことを思うと、悲しさを通りこして人の一生ってなんなのだろう、と考え込んでしまった。もっと長生きしてほしかった。もう一度、会いたかった。そして小笠原孤酒のことや青森の幼いころの思い出、毎日新聞の日光通信部から石岡通信部に異動になってからのことなどを聞かせてほしかった。
八甲田山の真実を追ってその完成の目前で逝った三上さんの壮絶ないきざまをいつか書きたいと思っていました。それがこのメルマガです。以来、いままで三上さんのことを思い浮かべながら綴ってきました。久しぶりに、それも長くご一緒しておしゃべりしたような感覚でした。さて、それにもお別れです。
■ ■ ■
あれから110年の歳月が流れました。三上さんの死去から10年、八甲田山雪中行軍の遭難事件の"真実"にこだわり、物書きとしての矜持をかけた小笠原孤酒、三上悦雄両氏のご冥福を祈りたい、と思います。また両氏の良き理解者として出版に携わった旧十和田記者クラブの先輩諸氏、そして奥様、三上千鶴さまの献身的なご努力に心から敬意を表したいと思います。