:突如、視界に現れた古風な街並み、ここがチャン族の住む水磨鎮。
DNDメディア局の出口です。上り坂でギアを入れたバスは、再びぐわーんとエンジン音を上げた。岷江の上流に沿ってノンストップでひた走ってきたのだから、このバスにとってこの辺が踏ん張りどころかも知れない。唸りをあげて登る。もう遥か都江堰市の境を超えて、M8の震源地、ブン川県(ぶんは、さんずいに文)に入った。震源地を知らせる「映秀」の方向標識、「距震源25.8km」の案内板などが目に飛び込んできた。ホテルの看板も1つあった。
四川大地震は、こちら四川省に来てみると、震源地の地名をとってブン川大地震と呼ばれていた。ここはかなりの標高だ。白濁した川を見下ろすと、ふと、青みがかった玉の色に見えるのは周囲の木々のせいだろうか、滔々たる流れは不思議な色をしていた。
この大きな川が上流にきて左右ふたつに分かれた。どちらが本流で支流なのか。地図で確認すると、向こう側、龍門山脈の北側にくねるように伸びるのがどうも本流らしい。バスはそこを岐点にハンドルを左にきると、方向を南西に変えた。大きな川は山の影に遠ざかりやがて視界から消えた。
険しい山をやっと越えたらしい。バスのエンジン音が静かになった。車窓の風景に色味がでてきたなあ、と思ったら古風な建築様式の街並みが突如、現れた。静謐の中で独自の文化を育んできたチベット・チャン族の集落だという。場違いなほど広大なスペースを取った駐車場に、大型の観光バスが20数台止まっていた。シンボルなのだろうか、水車が大小3つ並んでいた。
ブン川県水磨鎮(すいまちん)。水車で石臼を引くというのが地名の由来らしい。茶色を基調とした瀟洒な家々の佇まい、古い街並み、周囲の山々がなだらかで風の通りがよい。いやあ、すっごく落ち着くわ〜、遠い昔にタイムスリップしたみたいだ。
山深い炭鉱の故郷のイメージなのか、民族のDNAの所以か、詳しいことは分からないが、いずれにしてもたちまち懐かしさを憶えてしまった。
バスを下りたら、水磨鎮の女性らが紅白のシルク製のスカーフをレイのように首にかけてくれた。歓迎のもてなしようだ。案内された観光センターでは、さっそくこの街全体の模型を拝見した。
いやいや、地震前の昔の水磨鎮をそっくり再現し、一部移築したのだという。元の場所に復旧するより、安全な土地に移転し、そこに復元、そして復興をするというのも考え方として一般的かもしれない。残された激震の街は、災害遺産として保存するという。押し潰された学校は、鎮魂の場所になっているところも少なくない。
水磨鎮には、それまで人口2万人余り暮らしていた。震災で、家々が押し潰され、崩壊の土砂に流された。暗くさびしい人里離れた山岳地帯でどんな恐怖と絶望を味わったことだろうか、そのどん底から立ち直ったかに映るのだが、ほんとうの胸の内は私にはとらえようがない。愛する人を失った悲しみは、そう簡単に癒えるものではない。彼らの外見からはその影は、少しも見当たらない。ごく平凡な日常の延長線の中で暮らしているように見えていた。
が、カメラのファインダーから見えてきたものは、聞こえてきてものは…。
◇
あの時、やはりメルマガで救出のドラマを追っていた。
≪2008年5月21日配信のDNDメルマガ「衆志成城、抗震救災」 〜四川大地震その苦難を乗り越えて〜http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm080521.html≫
残る最後の一人まで諦めないで…黙々と汗を流す中国兵士らの姿、その必死の救出劇が連日、テレビ画面に映し出されてきます。きょう21日の朝は、発電所の男性職員が179時間ぶり、そして60歳過ぎの女性はなんと195時間ぶりに救出された、という朗報が飛び込んできました。まさに奇跡の生還、刻一刻、まさに時間との戦い。
12日の地震発生からもう9日目です。しかし、一向に余震は鎮まる気配がなく、逆に地震災害の過酷なニュースは緊迫を増しています。大勢の患者でごった返す医療の現場は混乱し、それで手が十分に回らないといって誰を責められるでしょう。
避難住民は500万人、けが人が24万5千人、死亡や不明、それに生き埋めによる犠牲者が7万人(実際は8万7000人に)、これが日々数を増している。
涙ながらの懸命の救出作業、道なき道を進む寸断された村落の捜索、泥まみれのインフラの復旧作業、悪臭の中での消毒作業、敬虔な遺体収容に心を砕く救急隊員、遺族への身元確認の誘導、押し寄せる患者の治療、避難住民の不満や批難を浴びながらの食糧や水の補給、食事の炊き出し、避難する子供らのための臨時の学校再開、仮設テントの提供など生活の確保、そして情報収集などなど、地震直後も大変だったが、今に求められる作業量は数百倍に膨らんでいるのではないか。
ひんぱんに名前がでる震源地に近いブン川県は、正式には、アバ・チベット族チャン族自治州のブン川県、山岳をまたぎ、数十万の村落に夥しい数の少数民族が居住しているという。急勾配の山道が寸断されてしまって救援の手が入りきれていない。悲しみを誘うのは、学校の倒壊による中学や高校の生徒多数が、ガレキの下敷きになって絶望感を深めていることでした。いまだ状況がつかめないが、学校の倒壊件数は6900校に及び、数千人の子供たちが犠牲になっている模様だというから、切ない。
「抗震救人」。頑張れ、隣国・中国!
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そうだよね、震災当時、震源地、ブン川県と言えば、悲劇の現場だった。それがいまその微塵も傷跡を感じさせないのはどうしたことか。被災現場が観光に活路を見出していた、とは驚きでした。震災前に住んでいた場所での復興を諦めて、新しいこの集落に移り住んだ。ここに伝統的な街を再現した。上海が都江堰市を全面的に支援したように、ここブン川県には広東省が復興の後押しをした。繰り返しになるが、壊滅的な街をもう一度、そこに復旧、再生させるより、広い土地があるのならまったく新しい便利な場所を選んでそっくり街を作った方が合理的かもしれない。
その計画が奏功して、この新しい水磨鎮に多い日では1日3万人の観光客が訪れる、という。観光客の人数は、読売新聞では1日1万人訪れるという記述があった。数字は水物ということだろうか。この辺は少し間引いて考えた方がよろしい。
震災前は、この辺一帯に60社の工場が立ち並んでいた。が、立ち退いた。わずかに数社、離れた場所にセメント会社や石炭の採掘場が残った。まだ営業しているのか、どうかわからなかった。新しい街の構想には邪魔になるエリアではなかったから、残ったのかもしれない。
さて、われわれ一行が到着すると、3人の若い女性が案内役を務めてくれた。チャン族の血を引くその面立ちは、日本人に近い印象を持った。カメラを向けても気さくに応じてくれた。まあ、笑顔は大切です。
観光センターで、復興計画の模型を見た。映画のロケみたいな気がした。センターの裏側にでると、正面に石垣を配した城壁がそびえ立ち、その上部には、伝統的な建築様式の櫓がたっていた。赤いドアをくぐって中に入ると、そこはヤクーの干し肉やクルミなど木の実、物産、飲食、手作りの土産品の店舗が軒を連ねていた。聞くと、明清時代の古建築を思わせる渋い店構えなのである。
私は、ビデオを回したり写真を撮ったりとうろうろしてばかりなので、毎度、一行からはぐれそうになる。しかし、なんと古風で旅情をそそる通りなのだろう。川沿いに残る建築様式のひとつ、吊脚楼だろうか、それがあっちこっちにある。これは移築したのだろうね。柱も壁も黒光りしていた。古いままだ。石畳、坂道、古民家が並ぶ表通り、う〜む、これは風の盆の舞台となる富山県・八尾の街の風景に似ているなあ、と思ったらどこからともなく胡弓の音色が響いてくるじゃありませんか。
こんな街並みはどうですか、移転先にそっくり復元して復興した街。
この白い城壁をのぼる。
すると、そのドアの先は、遠い昔にタイムスリップする。
:これも吊脚楼で、彫刻や装飾が素晴らしい。
子供がこの上にあがっていたね。
ここは連続して写真をお見せしましょう。街の様子や、店、そこに生活するチャン族、お年寄りや子供、女性らをいっぱい写しました。
デジカメで撮った画像を見せると、静かな笑顔を返してくれます。まず櫓の中で土産を売る女の子3人、年の頃15、6であろうか、何をしても笑い転げていました。
外の石畳を歩いていると、前から幼い子供が3人、ひとりは子犬を抱いている。無邪気だなあ、きっと3歳ぐらいだろうか、この子たちは震災後に生まれたのかもしれない。子供がたくさん犠牲になったから、元気な子供を見ると、余計に切なさで胸が締め付けられます。
胡弓のような音楽は、あそこだ。太鼓をたたく女性のそばで、織機の前でシャトルを動かしている女性がいました。
髪を束ねた女性が店先に立っていた。ヤクーの干し肉を売っていた。試食したら、適度に歯ごたえがあって癖のない味だった。試食だけで買わなかった。いやあ、惜しまれるなあ。もうそんなに足を運べることがないのだから、ここでしか買えないものを、どんなものでも記念に購入しておけばよかった。
もうすぐ行くと、おばあちゃんたちに会った。カメラを向けたら笑ってくれた。面白い人形が露店で売っていた。露店と言えば、山から採った木の実を売っている人もいた。チベット仏教の坊さんもシックな色合いのそろいの衣装を身にまとっていた。豚肉がバラされて吊るされていた。トウモロコシが簾のように幾段にも並んでいた。あれやこれや、この街は、観光用とはいえ、よくバランスが取れているわ。広場には、そのシンボルとなる吊脚楼の古建築がどしっと構える。
歴史的英雄らを模した人形を露店で売る、
買ってくればよかったなあ〜。
こういう人、明るく元気なのね。
露店で生計を営んでいるようだ。
トウモロコシが幾段にも吊るされていた。越冬の食糧になるのだろうか。
これも手作りなんだろうなあ、明るい色の子供服が売られていた。道すがら、通りすがりの方達にもカメラを向けた。
ご姉妹のように似ていらっしゃる。
買い物ですね。肌がきれいです。
かけがえのないもの、それは笑顔かもしれない。笑顔がね、きっと共通の確かなメッセージになるのでしょうね。だって、死んじゃったら笑顔がつくれないもの。笑顔、それはまた生きていることの証じゃないか、と、またそんなことを考えていた。しかし、笑顔は、人の笑顔ってこんなに静かだっただろうか。ファインダーからなぜか、人の笑い声が聞こえてこないのである。
これは城壁だろうか、街の至る所に舞台装置のような建物が目立つ。
とうとうご一行と離れてしまった。迷子になってしまいそうになった。そこへ通訳の鄭さんが現れて、こちらです、とにこやかにケアしてくれました。広場に大きな武術家の銅像があり、勇ましい出立ではある。追いつくと、その前で白鳥令先生らが、ポーズをとっていた。ファインダーをのぞいて息を止めて、1枚撮ったら、明るい声が歓声のようなざわめきとなって耳に響いてきた。
みんなでポーズ、白鳥先生はなにやってもさまになります。後ろは、レストランにホテルみたいね。
◆一押し情報
■ 東京工科大学25周年記念フォーラム(10月7日)
日 時:10月7日(金)10:00〜17:30(その後懇親会)
場 所:東京工科大学蒲田キャンパス(JR蒲田駅徒歩2分)
テーマ:「安心・安全に貢献する新しい技術」
参加費:懇親会とも無料
http://www.teu.ac.jp/karl/25thforum/
■「風評被害対策セミナー 〜震災・原発事故の風評被害にどう対応するか?〜」(9月22日)
講義内容:
・風評被害とは?
・風評被害に対するコンプライアンス、CSRの位置づけ
・正確な情報の重要性と情報提供の方法
・過去の類似事例とその打開策の分析・その他
開催日時 : 平成 23 年 9 月 22日( 木 ) 18:30〜20:30
会 場?: いわき産業創造館 会議室1 (LATOV6階)
主 催:(社)いわき産学官ネットワーク協会
後 援: いわき市
参 加 費 : 無 料
定 員: 30名
http://www.iwaki-sangakukan.com/2011/09/23-4.html
■ イノベーション・ジャパン2011‐大学見本市
会 期 2011年9月21日(水)〜22日(木)
[9月21日(水)9:30〜17:30]
[9月22日(木)10:00〜17:00]
会 場 東京国際フォーラム(東京・有楽町)
入場料 無料
主 催 JST、NEDO
共 催 文部科学省、経済産業省、内閣府
https://www.innovation-japan.jp/