DNDメディア局の出口です。見知らぬ街で中学生くらいの少女に、目で合図しながら無遠慮にカメラを向けると、どうでしょう、大陸的な大らかさなのか、僕の風貌が変わっているからなのか、ファインダーの少女は少し照れくさそうに笑みを浮かべていた。小さな枠の中からこぼれ落ちそうな笑顔は、屈託がない。その控えめな表情をそっと望遠で拡大していくと、くっきり焦点を捉えているはずなのに、なぜかだんだんと霞んでくるではありませんか。
あのペンを握った女子学生は、年頃、12、13歳に違いない。袖口に三本のステッチ、そこにリアリティがある。その彼女、友達からなんて呼ばれていたのだろうか。将来、どんな夢を描いていたのだろうか。そんなこと考えながら、ふと、気を許すと、足元が揺らいできそうだ。
あの1枚の写真が、どうにもまぶたに焼き付いたまま離れない。だから、街ですれ違ったファインダーの中の少女の笑顔が、つい戸板の上に収容された女子生徒と重なってしまうのかもしれない。屈強な解放軍の兵士らが戸板に女子学生の遺体を載せて山を下りていくところなのだろうか。こぼれそうな微笑みはみんな一緒なのに、悲しみの深さはそれぞれ違った表情を見せるものらしい。
写真の力、そのリアリティを信じますか。何千、何万という文字を総動員したところで、たった1枚の写真の迫力に及ばないことだってある。その記憶に焼き付いた写真をご覧ください。この写真から何が見えますか。私は、息をのんだ瞬間、言葉を失ってしまった。今回のテーマは、「写真1枚のリアリティ」です。
多数の犠牲を生んだ中国・四川大地震から3年余り、その現地視察のため、先週、四川省の成都に足を運びました。成都から車で北西に1時間半、震源地に近い都江堰市に到着すると、都江堰市の幹部らが出迎えてくれた。そこは復興著しい中心街区に開設された「震災陳列館」でした。
地震発生の直後の惨状、涙ぐましい救援活動、復旧復興の目覚ましい再建の様子が、写真パネルや模型、それに15分の映像などで生々しく紹介されていました。あの地震で都江堰市の街は80%が損壊した。しかし、たちまち整備されていまは震災の爪痕がすっかり消え、説明にあたる担当者の表情も明るく自身に満ちていました。三年余りでこれほどまでに街が甦るものだろうか。人口は震災当時の63万人から65万人に増えた。子供を失った家族に出産を奨励していると、聞いた。つい最近まで産児制限に悩んでいたのではなかったか。震災で今度は、産めよ増やせよ、号令が下っているらしい。そんなに安易に国家統制でやれるものなのだろうか、と同行の識者から疑問の声が上がった。が、その重大性に気づいていないのか、気づかぬふりをしているのか、この辺は唯一、微妙な印象を受けた。
復興にあたっては、都市と農村を一括して計画し、農民の意向を組み入れながら個々の実情に合わせるように配慮した、と説明にある。政府や担当者らは、被災した農民の要望を聞いて復興に役立てた、と胸を張る。どんな風に農民の要望を反映させたのであろうか、元の場所に、つまり以前住んでいた場所に戻りたい、というのが数少ない要望らしいが、どこまでかなえられたのだろうか。この辺は当局の説明を拾いながら実際の暮らしぶりを拝見したり、インタビューをしたり、あるいは専門家の評価を入れたり、と、あれこれ分析を加えてまとめてみるのも一考かもしれない。
震災陳列館。エントランスから順番に、壁のパネルを見ながら中国女性の通訳による解説が続きます。手渡されたパンフレットには『「5・12」のブン川大地震』とあり、震災の救援活動などが細かく紹介されていました。近代的な住宅が一斉に立ち上がった。展示コーナーでは、緊急の避難者に向けた仮設住宅の模型が人目を引いていた。そこを少し通り過ぎたところで、その1枚のパネル写真の前で足が釘付けとなった。立ち尽くしたまま、言葉を失い、不覚にもしばらく熱いものが止まらなかった。
コンクリート製の4〜5階建ての学校が、次々に押し潰された。重いコンクリートや鉄の下敷きとなり、大勢の児童、生徒が犠牲になった。耐震補強がぜい弱で、鉄柱が細いあまり手抜きという指摘がでた。"おから工事"と非難を浴びた。
あの女子生徒もそういう瓦礫の下に巻き込まれたのだろうか。ご覧のように写真で見る限り、戸板の上の遺体は、右手しか写っていない。「一名子遺体拾出」の文字が見える。黒いジャンバーを着た担ぎ手の肩が、雨で濡れている。指が、手が、痛々しい。赤黒く変色し手の甲に砂が付着している。その手でまだペンを握っているなんて、なんとも健気というか、凄まじいというか、ほんとうに切ないほどです。その場から動けなくなってしまった。黄色いタオルが思わぬところで役にたった。
重い足取りで、仲間一行の後を追った。出口付近で救援活動を紹介した何気にパンフレットをめくったら、その中にもう1枚、女子生徒の右手の写真を見てしまった。そこで再び、驚いた。女子生徒の指に、大人の指がからんでいた。いや、冷たくなった指をいたわるように手を添えている。ひょっとしたら、それまでペンを握っていたあの女子生徒じゃないだろうか。そう確信すると、急いで、もと来た通路を戻りそのペンを握った女子生徒のパネル写真の前に走った。その前に立って、注意深く見比べた。写真に写る手の角度に違いはあるが、曲げた手の形が一緒でした。確かに…。
痛々しい女子生徒の指からペンを外し、
女性の指がいたわるように触れる。
この2枚の写真は、同じ女子生徒を写している。指を添えているのは指の印象から大人の女性みたいだ。母親なのだろうか。ノック式のシャープペンを握る右手から、そっとペンを抜いたのだろうね。相当、時間がたったのではないか、指先が青黒く変わっている。言葉をかけてあげるとするなら、どう言葉を選びますか。
「大変だったね、ペンは最後まで離さなかったのね。でも、いいのよ、もう勉強は十分したから、ゆっくりおやすみ」。
その無念さが、伝わってきた。祈りの声となって耳に響いたような気がした。ペンを最後まで離さなかった女子生徒は、友達からなんて呼ばれていたのだろうか、将来、どんな夢を描いていたのだろうか。同じことをなんども繰り返してしまう。
写真を見ているうちに、女子生徒の指が微かに開いたのは、錯覚だったのだろうか。しばらくそこで写真パネルをながめ続けていたら、JTBの日本語ガイドの鄭丹さんが息せき切って飛んできた。どうしましたか?
目にいっぱい涙をためている僕をみて、鄭さんは、言葉を失っていた。「その前に立ってごらん…」と、理由は言わず、そのパネルの前で鄭さんの写真を撮りました。帰りのバスの中で、僕はiPhoneでささやくように歌う手嶌葵さんの「虹」を聴いていた。黄色いタオルが渇く暇がない。
かけがえのないもの、それは笑顔かもしれない。笑顔がね、きっと共通の確かなメッセージになるのでしょうね。だって、死んじゃったら笑顔がつくれないもの。笑顔、それはまた生きていることの証じゃないか、とそんなことをずっと考えていた。
■四川大地震政策研究、白鳥令先生のプロジェクトに参加
恩師で政治学者の白鳥令先生を団長とする日本政治総合研究所が主催した「中国四川大地震政策研究」のプロジェクトに参加してきました。先月22日から27日まで、中国・四川省の成都を中心に訪問し、四川大地震のその後の復興の状況を視察してきました。いやあ、大いに考えさせられました。中国、内陸部は緑豊かな別天地でした。
ツアーは、政府要人や共産党青年団幹部らとの交流や意見交換が、きめ細かく準備されていました。復興の理念や手法、あるいは課題や問題が浮き彫りになり、とても得難い経験となりました。それらは随時報告しようと議事録を整理しているところです。
四川省政府による復興対策の概要説明やら、発展改革委員会や地震局訪問、さらに冒頭紹介した都江堰市の広大な高層住宅街、多様性を生かした農民の居住エリアは驚きでした。実際に民家の隅々を拝見したし、震源地から20数キロ付近に造られた水磨県のチャン族の木造の居住地区にも足を踏み入れた。
白鳥先生とはマルタに続いての旅で、道中、先生の知識人としての矜持を垣間見ました。その辺も報告できればいいな、と思います。成田空港に戻って、フェイスブックにこんなことを書きました。
「笑顔がね、きっと共通の確かなメッセージになるのでしょうね。四川料理は格別、パンダ愉快です。我眉山登攀、川劇の奥義に感服…語り尽くせませぬ!」と。これから四川省の核心に触れていきます。
■四川大地震の復興計画94・7%完成
まず、四川大地震の概略をざっと、おさらいをすると、2008年5月12日午後2時28分、震源地は、四川省ぶん川県映秀鎮で、M8の巨大地震が襲った。M7クラスの余震も連続した。被害者4624万人、死者6万9227人、行方不明者1万7923人、重傷者37万4463人、そして救助された人数8万7000人、避難者の数1510万人という桁外れの災害でした。被害損額は、8452億元と事前の調査で知った。が、四川省民生局や発展改革員会での説明では、7717億元と言った。いずれにしての日本円で10兆円近い規模ではある。
聞くと、その復興計画の94.7%が完成した、という。陳列館がある都江堰市は街の8割が損壊した。陳列館があるここ壱街区と呼ばれる中心エリアには1万8000戸を数える高層のマンション群が並び、被災者に無料で提供されていた。完成後日が浅いので一部、未入居のマンションも相当数目立った。病院、警察署、商店街、生鮮のスーパー、青年の広場といわれるオープンスペース、創業支援のインキュベーション施設まで完備され、近代的な街づくりが大変な勢いで仕上がっているのを目の当たりにした。
救援や復興に党中央、省政府、省市の委員会が全力であたった。中央政府の号令を受けた上海市が、都江堰市に重機や建設会社を総動員して一気にやった。上海市は、年間予算の1%を投じた。これはいわば「対口支援」と呼ばれる中国独自の支援救済活動で、政府の指示で被災地に中国国内の18省市がそれぞれマンツーマンで被災地支援に動き高い成果を上げたといわれる。この手の支援は、震災前から行われています。
もうひとつ驚いたのは、トップの覚悟というか、気構えですね。震災発生時間が午後2時28分なのに北京から温家宝さんがいち早く現地入りし、夕方5時過ぎには矢継ぎ早に救出、支援、避難民の救済等に指示を出した。震災記録や陳列館にその当時の写真が紹介されているが、温家宝さんの顔が歪んでいた。悲しみを自分の胸の内でとらえている、と思いました。
通訳ガイドで、親身に対応してくれた
鄭さんもパネルの前で撮影。
「悲壮から豪邁に向かう…」、悲しみをこえて逞しく進もう、
という叫びだろうか。
真新しいマンションが次々と完成、
被災者のために無料で提供されていた=都江堰市で。
■「日本からみたインド、インドからみた日本」
このたびNEDOニューデリー所長としてインドに赴任した経済産業省の宮本岩男さんが、随時、現地からの報告をします。変りゆく激烈なインド、その内実に迫ってくれるものと期待をしております。がんばってください、宮本さ〜ん。
■〜一押し情報〜
『震災と鉄道』の全記録、AERAムックが発刊
◇中国から帰国すると、アエラから『震災と鉄道 全記録 鉄路よ熱く甦れ』というタイトルのムックが送られていました。
東日本大震災を、「鉄道」という視点から記録した、という独特の視点によるもので、北は八戸線から南は常磐線まで、東北から関東にかけて沿岸部を走る鉄道路線を中心に、震災前、震災直後、そして復興に向けた現在の写真や、詳細な路線図、データ、歴史資料、そして関係者の証言を交えて、綴っています。よくやるもんだ。何回か足を運んだ山田町の陸中山田駅の震災前の貴重な写真がすぐ目に留まりました。
その中で、注目したいのは「鉄道と震災全史」という特集です。今回と同じ被災地に、大きな津波被害をもたらした明治・昭和三陸大津波や、ペルー地震津波、さらに関東大震災など明治以降の13件の大地震と鉄道被害を当時の朝日新聞やアサヒグラフの復刻記事で綴る企画ですが、明治・昭和三陸地震の当時の記事や写真を見て驚きました。
今回の東日本大震災とそっくりな光景がそこには広がっているのです。「水田の塩害対策」「復興税」など、記事の見出しも今回と同じようなものが並んでいます。ないのは「原発」だけなんですね。
私たちは、歴史の教訓から何を学んだのか、大いに考えさせられる企画です。ちなみに、この特集には、ほかに濃尾地震、北丹後地震、昭和東南海地震、昭和南海地震、福井地震、新潟地震、十勝沖地震、日本海中部地震、阪神大震災の鉄道被害を伝える当時の記事のほか、「番外編」として、伊勢湾台風も掲載されていました。
■【訃報】
独立行政法人工業所有権情報・研修館理事長 清 水 勇様(72歳)におかれては、病気療養中のところ平成23年9月1日(木)にご逝去されました。
誠に哀悼にたえません。ここに謹んでお知らせ申し上げます。
なお、通夜並びに告別式につきましては、下記により執り行われます。
記
通 夜 9月8日(木)18時〜19時
告別式 9月9日(金)11時30分〜12時30分
場 所 メモワールホール
神奈川県横浜市南区高砂町2−21
TEL:045−251−5631
喪 主 清水(しみず) 陽子(ようこ)(御令室)
なお、本件に関するお問い合わせ等は、下記宛お願い申し上げます。
独立行政法人工業所有権情報・研修館
理事 多 田 昌 司 様
総務部長代理 平 尾 正 樹 様 (電話:03-3592-2918
hirao-masaki@inpit.jpo.go.jp )