DNDメディア局の出口です。雨はすぐ止んだが、少しの雨でも乾いた心を潤してくれるらしい。予報は雷雨というから、朝、花木に水を撒く必要があるか、どうか、この辺の見極めが難しい。水撒き3年と言われるゆえんだろうか。ホースを持つと、ついよかれと水を多めに撒いてしまう。遠くから、少々水のやり過ぎじゃないか、と父の声が聞こえてきそうだ。あれから1年、思えばあの時も暑かったが原稿書きに呻吟していた。
ひさびさのメルマガ原稿ですね。原稿が嫌で、少し心の旅に出ていました。やっとその気分になれたのは今朝降った雨のアシストが少し、その多くは昨日午後、東京・六本木の研究室に黒川清先生を訪ねたお蔭です。スランプの時は、人に会うべし、とは至言です。20分程度のつもりだったが、気が付いたら2時間近くになっていた。
昨年の今頃、週刊『アエラ』からの依頼で私はマイケルジャクソンと黒川先生の秘話を題材に原稿を書いていた。先生は東大医学部卒後、そんなに間をおかずして渡米して研さんを重ね、ついに名門UCLA医学部内科の正教授に就任する。そんな有能な日本人は滅多にいない。正教授就任は偉業、と、作家の城山三郎氏が若き日の黒川先生を取材し、本に残した。これはあんまり知られていない。エンシノという高級住宅街にあるスーパーで、黒川先生がマイケルとご近所の関係でした。そんな秘話です。」
この数年の黒川先生は、ご存じのように日本学術会議会長、内閣特別顧問(科学技術、イノベーション担当)の重責を歴任し、3代の総理に仕えた。現在は、東大名誉教授、政策研究大学院大学教授、医療関係のNPO理事長、大学発バイオベンチャー協会会長、最近はMITのMedia Labの特別研究員に乞われた。黒川先生といえば、ダボス会議の常連でグローバルにネットワークを広げる国際派で、講演では歯に衣着せぬ物言いに定評があり、執筆、対談、講演、研究、それに海外出張と、ブログを拝見する限り分刻みのハードなスケジュールが続く。
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■黒川清先生との至福の2時間
が、忙しいそぶりは微塵もなく、ゆったりと迎い入れてくださった。忙しいなんていう言葉は口にしない。どこか風景の美しい山荘でくつろいでいらっしゃるような余裕すら感じられた。会話は、インテリジェンスにあふれ、グローバル時代の有り様はとても示唆に富んでいた。時折、浅田次郎著の張作霖爆破事件を題材にしたミステリー『マンチュリアン・リポート』のページを開いて、マーカー部分を読んで聞かせてくれた。
「う〜む、うまいね。構成が巧みだ」と論じ、深刻でいびつな日本の状況をとらえて、「嫌になっちゃうよね、バカヤローと言いたい」など、先生のバカヤロー発言がひんぱんに飛び出した。いつもバカヤローというから、誰も驚かない、とジョークぽっいのだが、ご本人はいたってメランコリックなのだ。う〜む、それらの言動や仕草のなにもかもが、私にとっては強烈な刺激となった。先生は、いまの社会状況の全般に心を痛めていた、と思った。それも前向きに、明るく、ね。私みたいに心を閉ざし世界を狭くはしない。
帰り際、そのスマートな長身を少し折るようにしながら胸に手をあわせて、「出口さん、おひさしぶりでした。じゃあ、また〜」と、にこやかな笑みを浮かべていらっしゃった。いつもそうなのだが別れた後も、黒川Smileがしばらく脳裏から消えない。これが人柄の妙なのだろうか、人間力のなせる技なのか。どんな状況であれ、人ときちんと向かい合うことの大切さを教えられた。
そして…今何がどう動いているか、その時代の危うい断面を浮き彫りにしていかなければならないし、見えにくい課題を引っぱりだし、その時々に繰り返し英語でメッセージを発信していくべきでしょう、と、またそっと背中を押された気がした。
嫌になりませんか、このところの気分は、まさにその一言に尽きます。こんな日本じゃなかったはずが、本当に気が滅入る。やると言ってやらない、辞めると言って条件をつける。世間が、深刻な事態に追い込まれているのに、ひとり無軌道に気炎を吐く。なんとも総理大臣という座の名誉を汚す卑怯な行き様ですなあ。
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■「首相が辞めればそれで済むのか」
朝日新聞は、この政治状況を「現実が見えぬ政治の惨状」と憂い、「新代表速やかに選べ」と鼓舞し、「首相は潔くあれ」と退陣を迫った。今朝の朝日紙面審議会のやり取りで、この一連の記事を評価しながら、さて、それでは「首相が辞めればそれで済むのか」と東大教授が問う。それに対して朝日の政治担当は、菅さんが掲げる政策はいいのだが、「やり遂げる力がない」、「結果として政策の芽をつぶしているが最大の問題だ」とバッサリ切り捨てていた。菅さんは、政策の芽をつぶす、とな。それは意図的なのだろうか。日本をつぶす、そう聞こえる。
そういう朝日新聞はどうか。まあ、メディアがさっぱり機能していない裏返しじゃないか、と思わないだろうか。紙面審議というなら、2009年夏の政権交代で民主党を持ち上げてきた責任はないか。忘れられないのは、当時、9月17日付の「新首相の船出」と題したページのコラムでは、民社国政政権発足との見出しで、平和護憲への期待は、それはひとつの見識だが、その欄でコラムニストが、2000年夏の沖縄サミットで嘉手納基地を囲んだ「人間の鎖」に参加した社民党の福島瑞穂さん、辻本清美さんをとらえてこう書いていた。
「炎天下の野外で叫んでいた人たちが、これからは政府を動かし、国家を担う。人々の一票が選手交代を命じた。民主主義ってなんておもしろいんだ!」と。その逆噴射の瑞穂さん、裏交渉の辻本忍者の粘り勝ちだったはずが、はからずもそれが仇になってしまった。
政治が死んだ。民主主義がどん底に喘いでいるではないか。透けて見えてくる政党の危うさ、閣僚らの言葉の軽さ、なぜ、そこに注意を払えなかったのか、という疑問がついて回る。
民主党の誕生を支持し、その後の政権にコミットし続けたメディアは多い。この私といえば、その真逆の中で、その体制の危うさを含め、財源の見えないマニフェストの実現性などについて当初から厳しく論じてきた。周辺に、やはり今になって手のひらを返したような論評をすまし顔でやっている輩も少なくない。毀誉褒貶のご都合メディアを嘆いているのではない。どうあれ、あの時、僕はこんな風に繰り返し正しい警告をしていた、と胸をはってもそれがなんになろう〜。とても虚しくおもえてならない。何をいっても変わらない、という脱力感に襲われるのである。
菅さんが、赤ずきんちゃんのオオカミのようにそのチャンスをうかがって、政権発足当時から柱の陰に隠れて国家戦略なんたら、と称した部署で、じっとして何もしてこなかったのは、次の座を狙っているからだ、ということはうすうす感じていた。混乱する鳩山政権を上目使いで眺めていた。総理になったのは、小沢一郎さんを梃に自らがクリーンでオープンであることを強調しただけにすぎない。小沢一郎さんをダーティーの死の海に追い込んだ。ずるいよね、いやらしい、しまつにおえない人だなあ、とは、ずっと以前からの印象でした。加えて、この人ほど周辺を不幸に陥れる人物も少ない、と感じていたが、国家の存亡すら危うくしている。暴君とか、独裁とか、そんなイメージとは程遠い、市民派を装った暴君なのかもしれない。その加虐性は、いつも誰かを懲らしめていないと気が済まない。小沢一郎さんの次は、海江田万里さん、東電は解体しようとしているし、続いて原子力安全・保安院、次に経済産業省…。昔から、単に嫌いなのだろうね。
都庁のキャップ時代、記者として東京都知事選を控えたある日、ポスト鈴木都知事をめぐる議論の中で、次の都知事選候補について、菅さんの盟友、北海道知事だった横路孝弘さんに聞いたら、「東京には菅直人がいるじゃないか」と漏らす。私がそういっていたと、会ったら本人に伝えてくれよ、と言った。菅さんに会う機会をとらえて、横路さんの気持ちを伝えた。菅さんは、そわそわと歩きだしながら、「えっ、横路がそういったの?つまりねえ、なんにもいいことないじゃないか」と一発かまし、今の東京は、一極集中による地価の高騰・高物価、交通渋滞、ごみ問題の三重苦に喘ぐ、こんな時に知事をやるという貧乏くじを引くことはありえない、という意味のことを言った。世間の苦しみは、自分の問題じゃない無慈悲な人なんだ、と思った。いやいや、菅さんから貧乏くじという言葉が飛び出すとは思わなかった。その時の印象から、菅直人という人物に疑惑の目を向けてきた。そして、オオカミの化けの皮が、いつ剥がれるか、と、とずっと注視してきた。それをついに、鳩山由紀夫さんがペテン師と断じた。前総理から、公然とそう呼ばれた。
人間のもつ運、不運の星が、それが個人なら家族や周辺に及ぶが、一国の宰相となれば、国民の幸・不幸に影響する。宰相不幸社会とは、民主党の控室に書かれた落書だが、菅さんは東北を、日本を不幸のどん底に陥れていないか。経済産業省を目の敵にし、一面突破全面展開の全共闘の古い兵法を試みる。お役人だって好きでその部署に就いているわけじゃない。原子力安全・保安院が、原発事故を招いた極悪人のように菅さんは、叩いて封じ込めるが、問題の本質はそこではないはずだ。
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■被害拡散の元凶は、放射線物質の放出量の公表の遅れ
原発事故のいまの不幸は、1号機の水素爆発から3日間の爆発の連鎖と放射線飛散の状況を甘くみたこと、メルトダウンという深刻な事態を隠ぺいしたこと、科学的見識の確かな専門家が不在だったことなどが遠因となっている、と思う。東電が、事実をごまかした。大爆発後の会見でも、副社長は「白煙がのぼった」としらじらしくいいのけた。ドッカーン、ドッカーンと大音響とともに茶褐色の黒煙が100m以上も噴き上げていたじゃないですか。この東電が、内閣ではは官房長官が、爆発事故による放射の漏れで、直ちに健康に影響はない、安心してください、と繰り返し言い続けた。この現実の認識と発表の誤謬が、すべての元凶なのだ。国家犯罪の臭いすらしてくる。
例えば、津波で電源が落ち、注水が止まったために炉内の圧力が急上昇し、やるべきはずの注水、並びにベントのタイミングが遅れた。加えて、あろうことか現場でのケアレスミスが相次いだ。その先ですよ、肝心なのは。ベントによって放射能が空中にまき散らされ、風の流れで数百キロ先まで飛散する可能性はある、と予測できた。が、その備えを怠った。水素爆発のよって放射線量がどのくらい放出されるから、どんな備えが必要か、それを知らなかったのか、知っていて口をつぐんだのか、いずれにしてもその予測をはぐらかし、実際の数字を隠し続けた。汚染牛の混乱は、その辺の対応の手抜かりが原因だ。この罪は軽くはない。福島原発事故のその後の被害、風評は、国家犯罪なのである、と思う。
25年前のチェルノブイリ原発事故は、その放射能が約2000キロ以上離れた英国のウェールズ地方の農場に降りそそいだ。周知の事実です。その放射能がいまでも牧草に残り、約20万頭の羊が管理下に置かれている。いったん、放射能が降りそそいだら、もうそこは数十年単位で管理下に置かれる宿命にあることを教えているではないか。原発の爆発事故、メルトダウンによって飛散した高濃度の放射性物質の影響がどこまで及ぶか、肝心のここの厳密な科学的議論の形跡が見られない。政府が、世論を気にするあまり安全、安心を訴えるにとどまり、打つ手が遅れたツケが今頃になって現れる。汚染された稲わら、腐葉土、列島が過剰なほど放射能パニックに陥っているのだ。
どれだけの放射性物質が降りそそいだのか、ここがポイントじゃないか。そんな疑問を抱きながらニュースをみていると、政府もさすがにフクシマ原発事故発生の初期の放射線量分布マップをウェブ上で公開した。さっそくサイトをのぞいたが、600枚の画像がその証拠といわんばかりの紹介だ。その疑問には答えきれていない。見てわかる人いるのだろうか。なぜ、このマップを作製したかというと、事故の発生当時、停電や避難指示で放射線量の測定が十分でなかった、と釈明する。訂正するなら、事故発生当時、どのような不正確な測定データに基づいて見通しの甘い発表をしたのか、そこを明らかにすべきだと思うのだが、そういうことはやらない。これで、事故発生当時の数値は出したよ、というアリバイづくりのようなものだ。
繰り返すが、フクシマ原発の爆発連鎖の影響によって放射性物質が一体どの範囲にどれだけ飛散したのか、内部被ばく等の健康の影響はあるのか、野山の自然や河川にどのくらい蓄積しているのか。海に放出した大量の汚染水による危険はないのか―。
この懸念をいち早く対処すべきだった。水素爆発の後、政府は、放射能汚染の測定値が最大1ミリシーベルトで、それが数時間後にはさらに減少傾向となったことを明らかにし、爆発による放射能の影響は見られない、と断じた。しかし、爆発の煙は100m以上舞い上がり、東の海上へ、また北へ、西へ、時には南へ数十キロ地点まで大量飛散していた。爆発後、原発の建屋の玄関口付近で測定してもそれほどの数値は出るはずもない。高い濃度の測定個所を微妙に外していた疑いがある。遠くに飛んでいるのに飛んだ先を調べず、放射能が少ない建屋付近のデータだけで、遠くの住民に対して安全だという。
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■2000兆ベクレルの理解と恐怖!原発事故発生初期の放出量
2000兆ベクレル!さて、この数値をどう解釈しますか。ひょんな数字がでてくるものだ。この17日で原子力事故の収束に向けた工程表の発表から3ケ月が経ち、工程表のステップ1は、急場しのぎの「薄氷の達成」と新聞は手厳しい。が、東京電力が工程表で明らかにした外部への放射性物質の放出量は、事故直後に比べて測定時点(6月末)200万分の1に減少、と朝日。しかし、200万分の1がいくらの値か、事故直後の200万倍とはどんな規模か、この記事から判然としない。加えて、200万分の1という数値には、事故後に放出された大量の放射性物質が飛び散っているが、それは考慮に入れない、というから、なんとも理解に苦しむ措置だ。じゃあ、いったい200万分の1に減る以前の200万倍の数値とは、いくらなのか‐読売がしっかり書き込んでいた。
≪政府と東京電力は7月19 日、福島第一原子力発電所の事故収束に向けた工程表の最初の3か月(ステップ1)がほぼ達成できたとして、最終目標の「冷温停止状態」を目指す来年1月までの新工程表を発表した。
放射性物質の放出量は、事故直後の200万分の1に減少、当初目標の「放射線量の着実な減少」は達成したとの見方を示した。
東電が発電所内で採取した大気中の放射性物質の量をもとに計算した暫定評価によると、福島第一原発からの放射性物質の放出量は現在、毎時10億ベクレルで、3月15日時点の放出量(毎時約2000兆ベクレル)の200万分の1。敷地境界での年間被曝(ひばく)線量に換算すると1.7ミリシーベルトとなる。
今後、来年1月までの最長半年間を想定した新工程表(ステップ2)では、この線量を年間1ミリシーベルト以下に抑えることを目指す。汚染水を処理し原子炉の冷却水に再利用する「循環注水冷却」を継続し、原子炉が安定に停止する冷温停止状態を達成する。
政府・東電統合対策室は、冷温停止の条件として、〈1〉圧力容器底部が100度以下〈2〉格納容器からの放出量を管理し、被曝線量を大幅に抑制する――との見解を初めて設定した。≫
いみじくも200万分の1という数字の母数に、事故発生時の放出量2000兆ベクレルが浮かんだ格好だ。兆はテラ換算で、2000テラベクレルとなるが、朝日が米国の原子力規制委員会(NRC)のデータで試算した放射性物質の放出量の推定値では、水への放出量が、ヨウ素31がそれぞれ4万テラベクレル、大気への放出量が3万〜11万テレベクレル、核種セシウム137の場合では、水への放出量が1万2000テラベクレルで、大気への放出量については、「広い範囲で降下物を検出」とのみ記述し、具体的な放出量は出ていなかった。
さて、この2000兆ベクレルという数値、どう思いますか。200万分の1に減少したとされる現在の放出量が10億ベクレルの数値とあわせて考えると、どうもこれらの数値は、私たちの理解をはるかに超えている"未体験ゾーン"なのである。。
3月15日時点での放出量2000兆ベクレルは、その前後、そのような推移で減少したのかも知りたい。累計でどこの地点がワーストなのか、その量は…。原発20キロ圏内で、避難した先が異常に高い数値を示すホットスポットだった、というとんでもない事態が後々発覚した。緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムが30年以上も前に100億円を投じて開発され、風や地形の影響をうけながら拡散していく放射性物質の放出量を「迅速に」に国民に知らせるシステムだ。政府関係者が閲覧しながら、国民には知らせなかった―とは今月の別冊「宝島」の告発記事でした。枝野官房長官は、「データが官邸に報告されていなかった」と釈明し、細野豪志原発大臣(当時、首相補佐官)は、「国民がパニックになることを懸念した」と述べていた、という。
事故の初期段階での対応が、リスク管理の命綱と心得えなければならない。。1号機の爆発で、東京電力は、ポンと音がして白い煙があがった、と当初、会見で述べ3号機は、前に述べた通り、そこでも白い煙といった。100mの黒煙をもうもうと噴き上げているのに、ごまかす、嘘をつく―という隠ぺい体質が、被害を拡大し取り返しのつかない事態を招く。1号機の爆発で記者会見に4度臨んだ枝野官房長官は、その都度、放射能による影響はない、と安全宣言ともうけとれる会見をしていた。なぜ、事実と違う会見が行われたのか、情報の伝達ルート、情報の解析と会見の要旨の判断、記者にというより、それは多くは国民へのメッセージになるわけだから、なぜ、そういう危険極まりない事態が進行しているのに、安全宣言で国民を欺く結果になったのか、そこを解明すべきでしょう。ちゃんとやっていれば、放射線セシウムに汚染された稲わらを牛に食べさせることは防げたに違いない。原発事故は、東電の責任だが、二次被害ともいうべき汚染牛の出荷停止、全頭検査、買い取り等の責任は、その情報伝達の状況次第では、東電じゃなく政府が責任を負わねばならないし、それは政府というよりその要職にあった閣僚の責任問題となるべき性格のものだ。責任をあいまいにしてはいけない。
またチェルノブイリの例を持ち出すが、25年前の4月26日未明に起きた事故で、チェルノブイリ原子力発電所から北西2.5キロに位置する人口5万人のプリピャチ市は、翌27日午後1時半にラジオ放送が流れた。「放射能少し高くなったので3日分の着替えと食料をもって避難するように」と。事故から36時間が経過していたが、4号炉の爆発についての説明はなかった。5万人の市民が午後3時に1000台のバスで他の村々に移送された。その後、プリピャチの自宅に戻ることはなかった。強制移住により、事故前に比べて多くの人の生活レベルは半分以下に落ちた。放射線の被ばくによる病気や身体の不安を抱え、すでに医療や補償の特典はソ連崩壊とともに効力を失った‐との渾身のレポートは産経新聞「チェルノブイリ20年、終わりなき大事故」(長辻象平記者)からの引用です。
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■原発事故による避難指示の経緯と住民の混乱
ひるがえって、今回、我が国ではどうだったか。以下は新聞記事からの引用です。
≪3月11日午後9時23分、菅直人首相は1、2号機の冷却機能喪失を受け、避難指示を出した。枝野幸男官房長官は直後の記者会見で「念のための措置。放射能は外に漏れていない」と繰り返した。首相官邸は混乱していた。「周辺の住民を避難させるように」。午後7時3分に原子力緊急事態宣言を発令した首相はこう求めた。
当初想定した避難範囲は半径10キロ、原子力安全委員会の防災指針による判断だった。これを聞いた東京電力は「そこまでは必要ありません」と伝え、首相の心の内にも「電源車が順調に到着すれば事態は収まる」との期待があった。
決断の遅れに業を煮やした福島県は11日午後8時50分、独自に半径2キロ圏内の住民に避難を呼び掛けた。結局、政府は福島県に続く形で3キロ圏内に避難指示を出すことになる。
翌12日午前1時20分、1号機の圧力が上昇。同1時半、海江田万里経済産業相は東電に気体を外部に放出するベントを指示した。ベント指示、中断指示等の混乱あり、官邸はいら立つ。避難区域の見直しは後回しとなり、半径10キロ圏内への拡大はベント指示から約4時間後の午前5時44分だった。避難区域はなお拡大する。12日午後には1号機が水素爆発し、政府は避難範囲を半径20キロ圏内に。15日午前11時には、2号機で水を通さないドライベントの実施に絡み、半径20〜30キロ圏内で屋内退避を指示した。
「屋内退避で大丈夫なのか」。半径20〜30キロ圏内では不安が広がり、独断で避難する住民が増えた。15日のドライベント以降、30キロ圏外でも飯舘村で高い放射線量を計測。16日には米政府が半径80キロ圏内の米国人に避難を勧告した。不安の声に押されて政府は25日、20〜30キロ圏内に「自主避難」を勧告した。
官邸内で避難問題を担うのは枝野長官と福山哲郎官房副長官だ。関係者は「水素爆発などへの対処に追われ、避難の話で官僚が会うのは難しい。会えても判断をためらった」と振り返る。もともと、10キロ以上に防災指針はない。仮に米国並みに80キロに拡大すれば、いわき市全域や福島、郡山両市など大都市の一部や、東北新幹線、東北自動車道も巻き込む。経済への影響が大きく「政治決断」は難しかった。
4月11日、政府は20キロ圏外で積算放射線量の高い地域を「計画的避難区域」とした。決断を避けている間に積算放射線量が国際機関の定める基準、年間20ミリシーベルトを上回る地域が出ていた。計画的避難区域以外の20〜30キロ圏は「緊急時避難準備区域」に指定。22日午前0時には半径20キロ圏内への立ち入りを原則禁止する「警戒区域」に変えた。計画的避難区域や緊急時避難準備区域との概念は法にない。新たな事故の発生もない中での避難区域の拡大は「従来の判断と整合性をとるため」との見方が強い≫と。
これが今回、避難指示の経過とその時々の政府の判断です。東電の将来は分からないし、政権だってどこへいくか先行きがみえない。いったい誰がこの後始末をし、責任を果たしていくのだろうか。
放射線セシウムの稲わらを食べた汚染牛肉の報道で、幼い女の子が、「なんか怖い」と怯えていた。そのテレビで専門家と称される科学者が、放射線セシウムに汚染した肉を毎日1キロずつ120日食べても心配はない、我が国は安全基準を厳しく設定してあるのだから、と言っていた。他の専門家らも、安心、安全を訴える。たぶん、専門家のいうところの方が正しいと思う。風評被害というか、ややパニックに陥っている印象もぬぐえないが、稲わらに続いて今度は腐葉土汚染、こう次々重なると一般の庶民感覚と専門の科学者らの発認識に、相当な開きがでてきていることは確かだ。
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■出色のドキュメント:NHKスペシャル「飯舘村・悲劇の100日」
先日のNHKスペシャル、「飯舘村・悲劇の100日、人間と放射能の全記録、汚染された美しい里山、国の迷走・村人の怒りー家族離散、涙の別れ、全村避難・故郷の崩壊、汚染の真相」のドキュメントは出色でした。が、怒りが込み上げてきた。これは事故じゃなく事件にちがいない、と確信した。
政府は、東電は、だまし、ごまかし、はぐらかして、村民を愚弄して路頭に迷わせた。自然を奪った。4月11日の全村避難とて、突然の通達を報道で知る。みんな泣いていた。避難の当てがない。アパート借りる余裕もない。この現実から目をそらしてはいけない。
シイタケもダメ、タラの芽もダメ、凍み大根はなんにも放射能がかっていないんだよ、でも売れない。悔しい、みじめと思わない?頑張ってくらしてきたんだよ、なんでこんな仕打ちをうけなきゃならない?そういって、主婦は慟哭した。
この目の前で苦しんでいる村民を政治は見捨てるのだろうか。
政治?この屋台骨がゆがんでしまった。飯舘村に、再び戻れるの?この素朴で当たり前の質問に答えない。国、県、東電を交えた村民対話集会の場面が映し出された。いつまで避難をすればいいのか?の質問に、現時点では申し上げることはできない、と冷たい。もっと、ご心配のむきは理解できますとか、なんとか言えないのかなあ。その現時点では、とか、直ちにとか、という逃げ口上はやめてほしい。1年か2年か、10年か15年か、そのメドを教えてほしい、と再三の質問にも答えない。知らんぷりだ。
ひどいもんだでぇ。
牛が、牛舎をでるのを嫌がっていた。売るしかない、泣いていた。農夫が、すすり泣いている。手袋で目頭を押さえて涙をぬぐう。どんなに辛いか、政治は、村人を不幸のどん底に追いやった。自然を、美しい牛を、みんな奪った。
政治家、もう彼らに何も期待しない、できない、というそんな声が巷間、日増しに高まっている。
飯舘村の全村避難は、今月末に完了する。いつになれば、村の汚染がなくなるのか、いつ元の生活がとりもどされるのか、この問いに誰もこたえることができない、とナレーターは、締めくくった。統括、丹野進氏、告発的な番組でした。パーフェクトだが、しかし、これで終わってはいけない。
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■なぜ、政治を論じるのか、恩師の著作から原点を探る
なぜ、政治を論じるのか、それは、自分と自分の子供たちと、それから日本の社会が、より良い未来をもってほしいからだ、というのは政治学者で日本政治総合研究所理事長の白鳥令氏の著作『日本政治の構造』の主題でした。大学時代の恩師、白鳥先生の昔の著作を引っ張り出しながら、政治とは、民主主義とは、の原点をもういちど探っている。
『ハゲタカ』の著者で社会派作家の真山仁氏の近著が『コラプティオ』(文藝春秋)で、ラテン語で「汚職・腐敗」を意味する。今読み始めたところだが、帯に「震災後の原子力政策をめぐって火花を散らす男たちが辿り着いた選択とは?」とあり、「政治とは約束」、「言葉とは力」のフレーズにそそられた。
まあ、誰もが感じている通り、政治がおかしいよね、菅さんをいくら追及してもカエルの面になんとかで、あの予算員会や集中質疑の意味は、どこにあるのだろうか、と首をかしげざるを得ない状況が続いている。メディアが集中攻撃を加えても世論の支持率が急落したとしても、菅さんはやめない。菅さん一人の問題でもなさそうだ。政治停滞がうんぬんというより、村人を救えない政治は、もはやソ連の独裁国家となんらかわらない。
日本の政治は、死んでいる。