◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2011/06/16 http://dndi.jp/

岩手・山田南小、佐賀敏子校長の気構え

 ・被災地からの報告余話、最終回
 ・EM草分け、相沢悦郎さんの無念
 ・被災地での一期一会、忘れえぬ方々
 ・みちのくや夢淡く逝く走馬灯 俊楽
〜コラム&連載〜
 ・黒川 清氏「信用回復の一手:政治は何をしているのか」
 ・石黒憲彦氏「イノベーティブなシステム産業を創出する」
 ・橋本正洋氏「安全学のすすめ−放射能と原発のリスク」
 ・比嘉照夫氏「EM技術による東日本復興計画への提案2」
 ・北澤 仁氏「思いつき原発対策による全国的電力不足問題」


一本の奇跡の松、7万本の松林が消えた中で残った:高田松原で


DNDメディア局の出口です。もう少し、被災地の報告を続けます。岩手県の宮古から三陸海岸沿いに南下しながら仙台に至る4泊5日の現地報告は、これまで4回にわたった。それぞれ多くの行数を連ねました。ずいぶんと書き込んだつもりだが、それでもまだ書き足りない。どこかに仕舞い込んだ記憶の断片をいくつか紹介して、このシリーズを終わりたいと思います。


 取材の先々で意識したことは、書かれる側の微妙な心の動きを捉えることでした。外から傍観するのではなく、その内側から描けないだろうか、と。相手に寄り添うようにすれば、その琴線に触れられるはずだ。相手の痛みを自分の痛みと感じられるか、どうかだ、と肝に銘じて臨んだつもりだ。が、言うは易く行なうは難し、最初の取材で躓いてしまった。親身になるつもりが、構えて威圧したかもしれない。ペンと手帳、それにカメラを出したのがいけない。いかにも取材するぞ、という青い新聞記者のいやらしさが出ていたかもしれない。それで記事にしないでほしい、と釘をさされた。これにはそんな背景がありました。


 岩手・下閉伊郡山田町。リアス式海岸の山田湾に沿って広がるカキの養殖と海水浴、それに科学館がある捕鯨の町です。夕刻、その奥まった高台にある町立南小学校に出向いた。津波の被害をぎりぎり免れた数少ない施設でした。体育館や離れの道場が避難所になっていた。自衛隊がテントを張ってお風呂を提供する。廊下には、東京や横浜の小学生からの寄せ書きやイラスト付きの応援メッセージが張られていた。


 壁に全国からの激励のメッセージがよせられた。


 山田南小学校の体育館が、避難所に。


 



 町の職員が出張し、職員室前で義捐金の手続きに避難住民と向かい合っていた。校門の裏口には避難所で残ったお弁当を目当てに近隣の住民が大勢列をなしていた。避難所に足を運んだがカメラは向けられなかった。被災地の大変さが、この校舎に凝縮しているように見えた。その校長先生に会うことになっていた。


 案内役は、地元の環境衛生組合連合会の会長で、学校の評議員という後藤嘉男さん(74)でした。長年、学校のトイレやプールの浄化にEM(有用微生物群)の提供や指導に尽力し、今回の震災対応でもEMが活躍した。児童の登下校を見守ってきた優しい人柄が、柔和な表情ににじんでいます。校長の佐賀敏子さんを訪ねられたのは後藤さんの紹介でした。


 校長室で佐賀さんと向かいました。取材であることも伝えたし、ノートをだしボールペンを走らせていた。800万画素のカメラ、iPhoneのそれで写真も撮った。新聞の切り抜きや地図をコピーしてもらった。


 山田南小学校の佐賀校長と、後藤嘉男さん(左側)


 佐賀さんは、聞くとはなしに当時の様子を語り始めました。


 昼からですね、卒業を控えた6年生、全員の54人が校舎2階の図書室で、私たち教員に対する感謝の会を準備していたのです。彩りの花飾りを用意し、サンドイッチを作ってくれていた。教員は臨時の方も含めて35人、私たちも午後3時半からの会を楽しみにしていたのです。その準備がすべて整った矢先の出来事でした。


人口19,000人、死者・行方不明者900人を超えた。家屋の倒壊数は2983軒に及んだ。海岸沿いの家屋は津波で流され、JR駅中心部は地震直後の火災で焼け落ちた。山田町の惨状は、当初、ラジオで何も伝えられなかった。瓦礫が、町の道路をふさいだ。


 その夕方、町の長崎、八幡方面の個人宅から火の手がふたつ上がった。石油ストーブが倒れた。ポーッと小さな火だった。が、みるみる広がった。手を振って助けを求める町民が、騒いでいた。校舎の高台からもはっきり見えた。教員が携帯カメラで撮っていた。瓦礫が、町の道路をふさいだ。消防車が入れない。動かない。津波で流れた車のガソリンに引火し、火が黒煙を上げて海水の上を走った。流れてきたプロパンガスが相次いで爆発した。消防車が放水に向かったが、やはりたどり着けない。火は町全体に広がっていった。火は、まる2日燃え続けた。町は、焼け野原になってしまった。その様子も報道されなかった。取り残された町は、孤立状態だった。


 安否確認に追われた。児童はどうか、家は、その両親は、悪夢を見ているようだった。近隣から続々、校舎のある高台に避難してきた。児童たちは、夜になってさすがにお腹がすいたらしい。給食用の米で炊き出しする間にまだ時間がかかる。あまりの事態に動転して気が回らなかったが、2階の図書館にサンドイッチ、紅茶があることを思い出した。子供たちを連れて席に着かせた。自分たちが作ったサンドイッチだが、これがせめての慰めとなった。楽しいはずの感謝の会は、一瞬に暗転した。児童は、怯えていた。家族の事がきになる。教員が声をかけて激励した。が、震えながら無言で、サンドイッチを口にしていた。なんだか、悔しくて涙が止まらなかった。校舎は寒い。泊まり込むことになったが、灯油がないので裏手の山田道路から豊間根地区の消防車に灯油を運んでもらって、暖を確保した。電気も水もない。それから我慢の日々が続いた。


 その2日前の9日にも下校時に地震があった。子供を守んなきゃ、と言い聞かせた。全員を避難させたとき、守れたと思った。その時、児童みんなに、これからまた何かあるかわからないから、何かあったら、すぐに学校に戻んなね、と言った。それが子供の脳裏に残っていたと思う。


 全員無事でしたか?
 ……。


 佐賀さんは、困ったような表情をした。


 児童は、何人いるのですか?
 当時は、304人でした。現在は248人です。両親が被災したり、家が流されたりと、すでに50人近くが内陸方面に転校していった。体育館や武徳殿の避難所などには280人が暮らしています。


 子供の犠牲は?
 この問いに佐賀さんの口は重かった。地元新聞や、一緒した関係者の話を総合すると、山田町川向町に住む公務員(36)宅の5年生と1年生の兄弟が学校に通っていた。地震直後、病院勤務の母親(35)が車で二人の兄弟を学校に迎えにきた。二人を連れて自宅に戻り、愛犬を助けるなどしているうちに津波にのまれた。自宅で片付けものをしていた母親は行方不明になったが、4月に入って遺体でみつかった。兄弟は、車ごと2−300m流された。弟は、破れた窓ガラスから脱出し、逃げ延びた。額や顔に傷が残った。兄は、見つかっていない。泳ぎのうまい兄だったが、愛犬を抱いていたから…と、弟は兄を思いやるのだという。


 全校の児童の中で、たったひとり行方が分からない。弟が、その現場に立って手を合わせている姿が目撃されていた。あんちゃんは、きっとどこかで生きている、と一縷の望みを抱いている限り、具体的なことに触れるのは控えたいのですが、お願いできないでしょうか。


 おおよそ取材を終え、メモ帳をしまって帰る間際に、佐賀さんからそう釘をさされてしまった。僕のメルマガはどれくらい影響があるかわからないが、それが弟の目に触れることはないと思う。そういう次元の問題じゃないらしい。


 児童を守る教員のひとりとして学校全体をマネージメントする立場から発した言葉なのだなあ、と理解した。次へ向かう車のそばまで佐賀さんは見送ってくれた。そして、その時になったら、書いてもいい時がきたら、連絡いたします、とにこやかに言葉をつないだ。


 そのため、こんな事情で山田南小学校のことを書かなかった。約束だからね。取材の狙いは当初、ひとりの犠牲者という見出しが浮かんでいた。が、これはこちらの書く側の都合と知った。いま再び、パソコンに向かった。児童ひとりの心の傷に触れまい、あるいは触れさせまいする佐賀先生の教師としての気構えに心打たれたのです。


 あれから1ケ月余り、学校に電話して佐賀さんにつないでもらった。


 あの時の出口さんですね。こちらから連絡するといったお約束は忘れてはいません。今月の26日合同葬が町で開催されます。その日が、一応の区切りと思っていました。町は復旧に向けて10店の仮設店舗がオープンし、役場の近くにスーパーも店開きしました。子供たちは、土日にはユニセフの活動で内陸での楽しいイベントに参加したり、先日は、スポーツ大会をグランドで開いたりしました。避難住民の方々も応援合戦でひと時を楽しく過ごしました、という。


 ただ、ただね、課題も多いのよ。仮設住宅の抽選に当選しても電気、ガス、水道、それに食糧も自炊になるわけですが、まったく職がない。ここで本当に生活ができるのだろうか。将来が見えていないので、仮設住宅より食事が用意される避難所がいい、という理由で当選を辞退する方々が少なくありません。そして、子供…。


 家庭事情も複雑で、転校生も多く友達と離れ離れになった。身内を亡くした子もいる。家が流されて何もかも失ってしまった。ふとした瞬間に、落ち込んだり、ふさぎ込んだり、そして泣いたり…いまごろになって精神的な動揺がでてきた。臨床心理専門の先生が常駐して、子供の心のケアにあたっています。私たちもいままで以上に児童に向かいあっています。


 あの子は?


 先日、ご自宅に拝みに行ってきました。が、あんまり多くは語りたくないのは変わりありません。ずいぶん、お待たせして申し訳ありませんでした。出口さんが、書かれるというのであれば、その辺の事情をお察ししてお書きください。なんとか、町の復興も含めて夢と希望を持たせてくださるような方向性を示していただきたいと、切にお願いいたします。いまの状況では、なんにもゴールが見えてきません。せめて子供たちに元気をだしてもらえるような将来のビジョンを期待したいと思います。


 佐賀さんは、盛岡出身で盛岡の家族を離れて昨年4月、人事異動に伴って、山田町に単身赴任した。震災から3ケ月、電話では勢い気丈ぶりを装うが、本当のところ相当、精神的にもお疲れ気味だったのではないか、と心配しました。子供のケアは、第一優先事だが、こういった校長さんらのサポートも必要でしょうね。ゴールの見えないマラソン走者のような日常を強いられているのですから。避難住民の世話、自衛隊、町の職員の対応、そして児童や教員といった本来の業務…このような激務が続いている。一時でも代わってあげられないものか。盛岡の家族のところへ帰るための休みを考えてあげてください。いま校舎そのものが、町の重要な機能を果たしている。早急に現場の実態を点検し、資金や人材の援助といった追加の措置が急がれます。公的サービスが、その領域を超えた個人の献身に頼り続けるのにも限界がある。佐賀さんのような学校関係者が最前線で精いっぱいの踏ん張りを見せているのだろうね。


 「一国の王にならむよりも、一人の人を救済するは大なる事業なり」と叫んだのは詩人、石川啄木でした。心優しい佐賀さんに、このメッセージを捧げたい、と思います。


□               □                 □


■旅先での忘れえぬ方々


 釜石の佐々木雪雄さん宅で

東北で出会った人たち、この5回のシリーズでじっくり取り上げました。外から眺めるのではなく、そっとそばに近づいてその心の奥をとらえることができただろうか。お蔭様で多くの読者の方々から激励や反響をいただきました。うれしい限りで、その声は、数知れません。この場を借りて心から御礼申し上げます。


 さて、ファインダーに残った人々、ずいぶんと大勢の方々と会いしたのですね。忘れえぬ人々、感謝の気持ちをこめてご紹介したいと思います。

EMいわての高橋比奈子さん、左、事務局の黒田聡子さん、クルマで釜石市まで案内してくる外山一則さんらと。ありがたや。

盛岡から宮古経由で釜石に向かう。運転は、外山則さん(35)、車リレーの第一走者となります。八幡平の畜産農家の出身で、自民党岩手県連の高橋比奈子さんの事務所に務める。純朴で、頑張り屋さん。盛岡は何回目ですか、普段、何をやっているのですか…気軽によく質問してくる。道すがら、私のカメラで撮影してもらうのだが、私からダメだしされてもへこたれない。何度もトライしていました。「カメラ面白いですね。もっと習いたい。」と前向きなところが、頼もしい。



 宮古漁協で、佐藤智之さんと。

宮古では、宮古漁協に急いだ。すると、底引き網の船が港に入ってきた。岸壁で船を待っていたのが佐藤智之さん、僕と同じ年の58歳。初対面。まあ、外山さんも含めて大半が初対面です。

豊漁ですか?

いやあ、値段が付かない。半値ならいい方だ。加工場がやられてどうにもならない、という。背後の、漁協組合の加工場は、無惨にも廃墟と化していた。


 船は流された。被害は甚大。岩手県内の24漁協にあった1万4,200隻の漁船のうち、残ったのはわずか500隻、宮古市など4市町村の7漁協でも5,700隻のうち、100隻程度だという。宮古湾の藤原埠頭周辺は、県内有数の合板製造の集積地、これが津波にやられた。1,000人の雇用が失われた。林業や関連業種への影響ははかりしれない。電気設備、鉄工所、漁業に欠かせない製氷機能もダメージをうけた。なんと、なんと、でした。もう復旧は進んだだろうか。


 宮古から山田町へ。海岸線の被害状況は、さらに激しくなった。どこを写したらいいか、そもそも…と、頭を抱えてしまった。地震、津波、そして三日三晩、街が火の海と化した山田町、駅前の惨状に立ち尽くしてしまった。


 

山田南小学校から山田中学へ。そこも体育館は避難所に。避難所で生活しながら仮設トイレの清掃や土砂の清掃にEM資材を使う、池田壽和さんには頭が下がった。80歳すぎてなお元気でした。中学近くの町民グラウンドそばで建設が急がれる仮設住宅現場まで案内いただいた。多謝。

中学の正門まえの坂道を全速力で走っていたのが、陸上部で中学3年の武藤博則君でした。震災で地区大会が免除され県大会の800m競争とリレーに出場する。なんとか最後の全国大会に、と。かわいがってくれたおじいちゃんのためにもメダルがほしい、という。じいいちゃんは、老人ホームに入居中で津波に流されて死んだ、という。悲しいけど、武藤君の笑顔でこちらが救われた気分だ。


 三陸海岸沿いをさらに南下すると、浪板海岸を抜けて吉里吉里へ。ここも壊滅的な被害を受けた上閉伊郡大槌町です。夕暮れ時、付近に車を止めて、写真を撮っていると、地元の中学生らとすれ違った。


 学校どこ? 吉里吉里中…


 部活?   ええ、そう。


 野球部かな? ん、そう。


 名前は?  えっ!名前ですか?…。


 写真撮らせて? 並んで?


 写真見る?  わっ、すげぇ、(笑い)


 じゃーね、試合頑張って! ハイッ‐。


 

なれなれしく話しかけてしまった。いつものことだが…。写真の左後方は、家並みが津波で壊滅され火災で焦土と化していた。背後の山は、鯨山です。さて、この子らの家は、家族は、友達は、どうだったのだろうか。表情がどこか寂しげでした。それ以上は…聞けないよね。



 岩切潤氏。

釜石駅で朝早く待ち合わせた岩切潤さん。釜石市芸術文化協会会長で、地元の顔役です。知人の北澤仁さんの紹介でした。釜石市長の野田武則さんの面会の労をとっていただいた。岩切さんは、さらに古巣の岩手県水産技術センターを訪ね、井ノ口伸幸さんを紹介してくれた。つくり、育てる漁業の水産王国、岩手の要でもある。あの日、調査船など2隻をとっさの判断で沖に避難させて無事だった。








 井ノ口伸幸氏と。

現場のニーズに合わせた調査、研究、そして技術の提供が主な仕事、今やれることを各自で、と現場にはっぱをかけている。北海道美唄出身、北大から岩手県庁に。同郷と知って親近感を覚えた。岩手に骨を埋める覚悟だ、という。美唄か…。












佐々木さんの運転で釜石市両石町に向かう途中、地元の坂下利夫さんと路上ですれ違う。いやあ、波が後ろから追ってきた。走った、走った。間一髪で高台へあがったーと当時を振り返った。あの時、どうして生き延びたか、それがあいさつ代わりになっているみたいだ。




両石町か鵜住居(うのすまい)へ、そして砂浜が広がる根浜地区に行った。地盤沈下が2メートル、砂浜が消え、海になっていた。根浜地区はほとんどの家屋が流された。地元で人気の旅館、蓬莱館が残った。隣の家屋が旅館の軒を押し上げていた。震災当時、87人が避難していた。が、残ったのが根浜地区に住んでいた中年の兄弟2人でした。その兄と言葉を交わした。


 

防災無線は、地震といったきりプツリと切れた。窓から外を眺めると、海岸の堤防に白波が立って、堤防が打ち破られたのが見えた。急いで、弟と山に逃げた。背中を波がかすめて九死に一生を得た。一瞬だった。以来、この旅館に世話になった。いまも電気も水道もない。食糧も少ない。



 義捐金の申請は?
 まだ。


 釜石市内で受け付けているよ?
 ……


 車は?
 ない。


 生活費は?
 ……


 ご飯食べてますか?
 ウン。

なんだか、気の毒でした。義捐金を申請するにも車がないから、動けないのだ。電気も水道もないところで、まる2ケ月、どんな思いで暮らしてきたのだろうか。見捨てられているように見えた。自分で声を上げて動けばいいじゃないか、と声が出そうになった。そんな力がないのかもしれない。ふ〜む。


 佐々木さんと。

そのすぐ後に今度は、軽トラックに乗った梅島三雄さんにあった。佐々木さんの旧知の間柄で、佐々木さんをみて車を止めた。ややあ〜とのやり取りをそばで聞いていた。梅島さんは、この先の白浜地区で潜水夫の仕事をしている。潜水夫といっても護岸工事を専門に請け負うから漁師ではない。聞くと、津波で弟夫婦が死んだ。5月に入って今度は、母親が死んだ。葬式ばかりだ。舟は流された。また舟を買った。


 開口一番、梅島さんはこう言った。
 なんだか、おかしくなっているぅ。最初は、気が張っていたからなんとも思わなかったが、だんだんにおかしくなってるぅ。


 高台へ移る?
 どうやって、高台さ家たてる?1メートル掘ったらもう岩盤、それが固いんだべさ。思うようにいがねぇ。簡単に高台へ移動すればいい、というが、よくみてくださいよ。あのとんがった石山ですよ。いげったって、移れるわけがないのさ。家も畑も、そんで仕事もないし…。


 がれき撤去の仕事でも回してもらえば、どうだろうか?
 そんな気持ちになれないのさ。心が折れたというか、働く気力がない。何もかも、しどい。地獄だ、地獄!。


 精神的に参った感じですか?
 先がないから。ローン抱えているし。これからだんだん、自殺が多くなるんじゃないか。だいたいはぁ、希望というものがない。漁師をやっている方たちは、今回の津波ばかりじゃないから。養殖やっている人は、毎年毎年だからね。


 毎年って?
 ここ3、4年、被害こうむっている。台風来たり、冬の低気圧だったり、漁場がやられてるのさ。しどい。借金してさ、無利子ったって元金を返せねばなんねさ。漁師をやめる人がふえるんじゃないかなあ。とってもやっていけね。


 ふーう。気が重くなってきた。


すぐ海岸に接した根浜地区。湾曲な入り江に沿って町が開けていた。防潮堤が破られたらひとたまりもない地形だ。夏は、海水浴でにぎわう美しい砂浜が広がる。が、一面、凄まじい勢いで津波がきたのだろう。なんにもない。白亜のレストランが海側に傾いていた。写真を撮っていたら、ダンプの運転手が車からジャージ姿ででてきた。瓦礫処理にあたっていた。早朝7時半、盛岡から仕事にきている吉田実さん(48)がいう。

いやさね、盛岡からトラックにのってきたのよ。地元の業者に呼ばれてね。何人か声をかけてきた。盛岡から8台つれてきた。4月2日からきた。もっと早くと思ったが、油がないのさ。いま協会から割り当てさ。ローリーで。それでも現場が多いから、トラックたりねぇ。1週間に1回は盛岡の家族の下へ帰る。風呂は、自衛隊のところへ行って借りる。ガソリンが高いから、車で寝泊まりしている。夕方、弁当屋に行って3つ買って…。日曜に洗濯物もって盛岡へ、月曜の朝、戻ってくる。


 結構、大変?
 大変さ。まず砂をとんなけばねべ。海岸のやつ、全部みんなこっちさきて防波堤まで水きてる。コンクリートも。


 この位牌は?
 見つけたらかごに入れて置くさ。アルバムとか、仏像とか、ずいぶん見つけた。


 どのくらいかかる?
 いやあ、当分、片付けだけで2年はかかるさ。


 復旧っていっても簡単じゃないね?
 いやあ、別の場所だけど、政府の偉い人が来てさあ、30分しかいねがった。なんていったと思う。大変ですね、だって。みんな心で笑ってた。大変っていう騒ぎじゃないべさ。みんな疲れているさ。休みなしだもさ。油も高いし。


 瓦礫はどこに?
 あの東中学校の校庭のわきさもっていぐ。あの防災センター付近は、まだ遺体がでる。片付けたって行方不明者の捜索と同じだ。何人も流されて死んだ。防災センターなのによぉ。


 

この後、根浜からその鵜住居地区の悲劇の防災センターに行きました。あたりは瓦礫の山だった。すると、その狭い道を自転車でくる若者がいた。声をかけた。塗装屋の及川洋さん(32)。


 線路上の高台にアパートがあったため、妻、子供二人は守られた。震災当時、両石町のパチンコ「ユニオン」にいた。地震で飛び出した。みんな逃げた。換金している間はなかったさ。後で聞いたが、店の人も全員無事だ。車で、家まで15分、家に着いたら10分で津波が襲った。足元寸前まで海水が押し寄せた。次から次と家が流されてきた。間一髪だった。波をしのいだ。よかった、とおもったのはその時だけ。電気がとまった。断水。寒く心細い。車で外出もできない。瓦礫で道路が埋まった。10日以上、車の中で過ごした。避難所からおにぎりもらった。1日1個ていど。


 アパートが壊れていないから被災者扱いされない。が、どっこもいけない。仕事なんかないわけさ。塗装の道具は、実家に預けていたが、大槌町なので流された。まずね、物資が届かないし、義捐金ももらえない。避難所を回っておにぎりをもらうしかなかった。


 おかしいね?
 ですよね。


 これからどうするの?
 ……。


 釜石市から気仙沼へ。
 佐々木雪雄さん夫妻から足利英俊さんにリレー。

釜石で2泊世話になり釜石から気仙沼まで送ってくれた佐々木さん夫妻、右、別れはさびしい。左手は、気仙沼を案内し、宿泊させてくれる三陸EM研究会、理想産業代表の足利英紀さん。






 気仙沼の足利さんから高橋比奈子さんらに再びリレーし、
 石巻市へ。


 気仙沼の足利さんから、次に盛岡から迎えのEMいわての高橋比奈子さん、高橋さんのお知り合いの蒲田さん、そして竹田さんらと合流し、石巻へ向かった。







石巻の道の駅・上品の郷にいました。盛岡の高橋さんらから、宮城・石巻在住の斎藤義樹さんに運転を交代します。斎藤さんは、若いイケメンで、天津神大龍神宮の宮司という。






 被害は?
 神社は大丈夫でしたが、岩盤の上にあるので…が、鳥居にひびがはいった。自宅がひどい、半壊した。が、まだ住めるだけましです。


 水は?
 幸い、津波はこなかったですよ。


 いや、水道は?
 水道は、電気も復旧しているので。ガスはプロパン。


 友達は、どうした?
 友達というか、知人で私にEMを教えてくれた方が亡くなった。


 あらっ、なんていう人?
 相沢さんといいます。相沢悦郎さんです。


 相沢さんは、自宅ごと流されたの?
 行ってみたら、後ろ側の建屋は残っていたが、道路に面したところは基礎しかなかった。


 家族は?
 奥さんや子供は無事に避難しています。


 どうして彼だけ逃げなかったの?
 その辺は、私も詳しいことは聞いていないが、大丈夫と思ったのか、どうか。


じゃ、まず相沢さんの自宅へ行って、せめて手を合わせてこようよ。
 ハイ、行きますか。湊小学校に行く途中ですから。湊小学校周辺は津波で浸水した。そのヘドロをEMで浄化し、臭いを消した。プールに車が3台突っ込んだままだった。プールにもEM活性液を流し込んだ。いま学校は避難所になっていた。隣のお寺は、津波で流された車が20台ほど、墓地の墓石の上に乗っていた。奇妙な光景だ。


 


 恩師、相沢さん宅で手を合わせる斉藤さん。

※私と斉藤さんは、その現場で黙とうし、冥福を祈った。石巻のエリアではEMを普及した草創期の方で、川の浄化や学校の清掃等で先頭に立って地域の環境に頑張ってこられたのだという。が、どうも合点がいかない。なぜ、相沢さんが亡くなったのか。メルマガで取り上げなかった。が、やはり相沢さんの事が気になった。調べて、相沢さんの奥様に連絡した。


 相沢久代さん(54)、相沢さんの奥さんと電話で話した。


 なぜ、相沢さんは逃げなかったのですか?
 あの時、茶の間で夫と、娘らと4人でいた。地震が来て、津波警報が鳴り、避難しようとしたら、夫が、大丈夫だから2階で待っている、と言った。私たちは、道路反対側の館山という高台に避難した。うちは、昔米屋で最近はEMの原料や資材や化粧品などを売る、お店でした。避難した先に高齢のお客様がいる。鈴木富巳枝さんが、相沢さん、どうぞ中へ入りなさい、というので上がらせてもらった。その晩から40日近く世話になった。


 次の日、長男、俊(28)が自宅を見に行った。道路は、ヘドロとがれきで歩ける状況でなかった。ぬかるんだ道路を超えていったら家の半分が流されていた。わずかに後方の2階部分が残った。息子が、2階に上がったら、夫が血だらけで死んでいた。息子は、夫に毛布をかけて引き返した。街中は騒然としていた。電気もない電話も通じない。私が、夫に会ったのはその3日後でした。


 どんな状況だったのですか?
 近所の方の目撃や状況によると、夫は2階で外をみていたら津波に流されておぼれそうになっている女性がいた。外に出てその女性を救出した。女性を避難させた後、胸までずぶぬれになったので、いったん家に戻り、シャツを着替えようとしていた矢先に、流れてきた斜向かいの家が我が家のお店にぶつかった。その衝撃で、2階のサッシの窓が破れ、飛び散ったガラスが夫の背中に刺さった。それが致命傷になったらしい。


 う〜む、どうして逃げなかったのかなあ?
 それは昨年にチリ地震があり、津波警報があったので夫は海面の上昇を見に行った。津波は数十センチ程度だった。夫は、今度もその程度と甘く見ていたと思います。


 EMの草分け的存在だったのですか?
 まあ、石巻では一番はやかった。ぼかし肥料で、生ごみの処理や汚泥と悪臭の河川の浄化などを進めていました。あっちこっちへ出かけて講習会や勉強会を開いた。地元の湊小学校の佐々木史二校長先生に乞われて、積極的なボランティア活動が始まっていたところでした。残念でなりません。でも私自身、その遺志は継ごうと思います。幸い、斉藤さんが一所懸命やってくれるから心強い限りです。


 葬儀は?
 火葬だけです。ちょうど6月18日が100日にあたるので百日祭を牧山神社で行います。


 思い出は?
 蛇田地区の貞山堀の臭いが大変で、川の浄化に近隣の住民と一緒になってEMだんごを投げ入れた。月に一回、コメのとぎ汁で発酵液の作り方を教えたりした。夫は生き生きしていました。すると、ヘドロがなくなった。魚が戻った。真っ黒なイトミミズが繁殖していた。数年前、比嘉先生が仙台に来られた時、報告したらこんなイトミミズは見たことがない、と驚かれていた。夫は、それが自慢でした。いまは息子の知人のツテで市内のアパートに暮らしていますが、仮設住宅があたるまでの辛抱です。が、EMの活動は再開します。夫だったら、どうするだろうか、夫だったらこうするかもしれない、と夫の言葉を思い浮かべながら取り組んでいます。


 う〜む。惜しいですね。相沢さんのご冥福を心からお祈りしたいと思います。

斎藤義樹さんから、次は、EMみやぎの会の安斎かずえさん、窪田正子さんにバトンタッチします。そして女川町へとむかいました。地震直前の9日、安斎さんらは相沢さんを先頭に、女川町でのEM講習会に参加していたのでした。それが、相沢さんの最後の舞台になった。急きょ、予定を変えて女川へ。


 

その女川町の高台では…。

Japan TSUNAMI Disaster 2011 Expeditionary Humanitaran Assistance Team のGerald Scott Flintさん、California State Lands CommissionのAlex Augustinさん、それに港湾空港技術研究所の特別研究員の菅野高弘さんと会いました。安斎さんもご自慢の英語で会話をしていました。彼らは、これまで幾多の津波震災現場を視察し、知見を積み重ねてきたという。


 女川を仙台に向けて出発したら日は暮れかけていました。なんだか、疲れましたね。


 名取市の花卉栽培農家の庭で


 おさらいです。足。移動手段。


 東京〜新幹線〜盛岡、EM岩手の外山さん運転で、宮古、山田、大槌、釜石市へ。釜石の佐々木さんで2泊、佐々木さんの運転で釜石市の鵜住居地区へ3回、根浜地区3回、両石海岸6回、釜石市内4回、大船渡市、高田松原、竹駒地区、そして気仙沼へ。



 


 気仙沼市(EM足利さん宅1泊)、足利さん運転で気仙沼市内、EM岩手の高橋さん関係者の運転で石巻市へ。EM石巻の斎藤さん運転で石巻市内、EMみやぎの安斎さん運転で石巻、女川町、仙台市へ仙台でホテル1泊、EMみやぎ代表の小林康雄さんと合流し、仙台市宮城野区の鈴木有機農園へ、名取市の高橋恵美子宅へ訪問取材をお願いしました。運転は大谷光義さんでした。


 いやあ、盛岡から仙台までの被災地取材は7人もの皆様の運転リレーに支えられ、最終日は小林康雄さんに仙台の新幹線のホームまで見送っていただきました。




 青葉よし杜の都や夏の色


 みちのくや夢淡く逝く走馬灯


 そら走れ右に左に夏の雲


                俊楽


 帰りの新幹線の車窓から


 新幹線で、みちのくの夢が走馬灯のように…


 被災地からの報告余話は5回、これで完結です。連載は終わりましたが、私の心の旅は終わりません。旅先で知り合った方々とは、親しくメールや電話での交流が始まったばかりです。数々の配慮や激励に感謝いたします。


 たった1本の希望のポプラ 、三陸町越喜来付近で


                             編集長   出口俊一





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