DNDメディア局の出口です。現場からの報告余話は、釜石の続編その2です。いくつものシーンが記憶の深いところから繰り返し甦ってきます。ふと、気を許すとすぐに現場に引き戻されそうです。夢にまで見る。これはどうしたものか。実際、その被災地の取材は、想像以上に痛くこたえているらしい。大概の事では驚かない鈍感な私でさえ、これほど滅入ってしまったのだから。
どこまでも延々と、それも無残な姿を少しずつ変える被災現場、その多くは焼き焦がれた黒い廃墟だった。カメラ2台で交互に写した。締め切り時間があるわけじゃないのに夢中で必死で撮った。
近く足元に寄ると湾岸の遠くがかすむ。望遠を利かせると今度は現実味が失せてしまう。前に後ろに右に左に。どうレンズを向けたらその実像に迫れるのだろうか。それは無理、と諦めたら力が抜けた。被写体が巨大だ。
思い起こせば、若い記者時代に多く現場に走らされた。殺人や自殺の現場、災害やバスや電車の横転事故、それにヘリや旅客機の墜落、温泉宿の大火災、それと写真部の研修の時、丸の内の三菱重工爆破事件に遭遇した…が、それらの現場を束にしたとしても及ぶものではない。東日本大震災、この現実はまさにこれまで経験した数千万倍のスケールだろうと。うろうろ亡霊のようにさまよった。歩き回ってシャッターを押すことが精いっぱい。そして、とうとう瓦礫の中でへたり込んでしまった。
地震、そして津波が襲ったらその直後街が猛火に包まれたという下閉伊郡山田町は、不思議に鎮まりかえっていた。浜辺からの風が無情に吹き抜けていくのですね。その道端に、ドラえもんとくまのプーさんが落ちていた。埃にまみれていたが、ちょっと前まで子供が手にしていたような感じに見えた。持ち主の安否を気にしたら、不覚にも胸が詰まった。
街の住民200人が逃げ込んで160人余りが犠牲になった釜石市北部の鵜住居(うのすまい)地区の防災センターに行った。つい数日前までは車でここに入れなかった。瓦礫が周囲を覆う。道はぬかるんでいた。防災センターは大震災の少し前に新装オープンしたばかりだった。周辺の建物は跡形もなく流されているのに、そのセンターの白い壁が奇妙に真新しく傍から浮いて見えた。 その日、ここなら大丈夫と、津波警報を聞いた地元の人たちが我先にと逃げ込んで2階に避難した。防災センターというから避難所と勘違いしたらしいが、地元と行政の間でその解釈をめぐってひと悶着おきていた。大津波は、その2階をも大量の泥と土砂と巻き込んで流れ、一瞬のうちに窓や壁を突き抜けた。何人が駆け込んで何人が犠牲になったか、行方不明者を含めてそのところがいまだ判然としない。
そんな話を聞いていたから、ぜひ、連れて行って、と佐々木さんに頼んだ。前の日の11日朝も、この近くまできて地形が変わった海岸沿いや、壊滅的な被害の根浜地区にも足を延ばしていた。
「いけるかなあ〜おっ、行けるかも、が、車の底が塩水に浸かる…」と言いつつのろのろ運転で瓦礫と海水でぬかるんだ細い道を分け入った。センター前の駐車場には、ペシャンコになった車が山積みされていた。車を降りてセンターの玄関口に行った。入り口に献花台が置かれ菊の花が手向けられていた。佐々木さんと並んで手を合わせた。並べられたカゴに遺品と思われる品々や数多くのアルバムが集められていた。どれも泥で汚れていた。のぞいてみたら、結婚式や誕生日のアルバム、それに浴衣姿の宴会風景だからどこか温泉旅行にいった時の記念なのだろう、笑顔が、よけいに悲しみを誘う。
そこに中年の男性が自転車でやってきた。早朝6時前というのに。すると、カゴの中から顔を出していたクマの縫いぐるみを見つけて、あっ!と小さく声をあげた。すぐに抱きあげて埃を手でほろう。「帰ったら洗ってあげるから…」とつぶやいた。偶然、そばで見ていた。そして、聞いてみた。
「ご主人のクマさんですか」
「えぇ…」
「家は、この近くでしたか?」
「あっちのあの辺にあたったのですが…」
「流された?」
「えぇ…」
「奥様は?」
「ここ(防災センター)で津波にのまれた」
「そうでしたか、お辛いですね。その時、ご主人は?」
「あたしは勤め先の釜石市内にいて、何とか命拾いしました」
「その縫いぐるみは?」
「茶の間に、長く置いてあったものです」
「お子さんのですか?」
「いえ、子供はいなかったので…」
「…………………」
「ご夫妻でかわいがっていたのですね?」
「えぇ、そんなところですか、(買ったのは)結婚してまもなくでしたから」
「いやあ、なんとも…奥様が、とっさに抱いて走ったのではないですか?」
「えぇ、きっと、そうだと思います」
いやあ、辛いなあ、それ以上、聞く勇気がない。その場からすぐ立ち去った方がよさそうだ。案内してくれた佐々木雪雄さんをせかして移動した。デコボコ道で車の上下が激しい。バックミラーからその男性の姿が見えた。
「まだ、何かを探しているよ。腰をまげて…。いやあ、あのクマさんは子供がわりなんだよね、きっと。涙、出てきちゃうよねぇ、いやあ、俺たちいなかったら、あのクマさん見つけて、わっと泣くところだよ」と、佐々木さんに話したら「いや、もう涙も枯れちゃったかもしんねぇさぁ」と言う。
「ほら、まだ探しているよ。腰まげて…」
どこをいってもそんな連続でした。その揺らぐ気をどう取り戻すか、皆様の励ましのお蔭です。facebookでリアルに発信する一方、サイトでもドキュメントとして伝えた。先週19日配信のメルマガでは、岩手県釜石・両石町の佐々木雪雄さん、さか子さん夫妻の震災奮闘記、『東北有情・芝桜とミミズクの伝言』を紹介しました。どんな時でもまず、ひと声かけようじゃないの、不機嫌な顔で周辺に気を使わせる愚はやめよう、人の痛みに寄り添うことがどれほど大切かを教えられました。
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さて、報告余話を続けましょう。岩手県の災害対策本部の集計(5月5日現在)によると、家屋倒壊数のうち全壊がもっとも多いのが宮古市で3,669棟(全壊、大規模半壊、半壊、一部損壊の合計が4,851棟)、次いで大船渡市で全壊および半壊が3,629棟、陸前高田市が3,159棟、(同3,368棟)、釜石市が3,118棟(同3,843棟)となっていました。集計数字が、一応ではなく、町内全域で被害が甚大だった大槌町は家屋被害多数としか、表記されていません。隣の山田町も全壊2,638棟、大規模半壊206棟とほぼ壊滅状態だった。宮古市から南下して釜石市までの途中、山田町、大槌町に寄って現場を歩いた。この数字だけでは表しきれない惨状の裏にどんな話が詰まっていることか。それでも復旧の動きに向けて懸命の取り組みが行われていました。
地元の岩手日報は11日付の朝刊で、避難生活者の500人アンケート調査の結果をまとめ、「生活に不安94%」と大見出しでそれも1面トップで伝えていた。県内の沿岸12市町村で3万7,482人が避難生活を強いられている。高齢化率も震災前で30%を超え、釜石市は34.3%に達していた。
さてその集計結果を見ると、避難生活者の不安の一番が「住宅確保」(20.4%)というものでした。次に「生活資金」(17.5%)、そして「仕事の先行き」と答えた人が16.4%と続いた。避難生活者の声を拾うと、「住宅の方向性が定まらない」、「漁業再開に相当の費用がかかる」、「今後の生活は年金頼み」など住宅と資金、それに仕事の3つが切実であることを浮き彫りにした。
この不安を解消する手立てとして、「復興ビジョンの早期策定」を挙げた人が17.4%と最も多く、「住宅再建への支援充実」の15.4%、「仮設住宅の早期建設」14%と続いた。全体的には住宅整備への手厚い支援を要望する声が多かった。
津波による被害を再び繰り返さないための処方として今後、どこに住みたいかという設問は大変興味深い。「被災前に住んでいたところ」が41.6%で、「災害前の同じ市町村の高台」が41.2%とほぼ並んだ。これまで住み慣れた場所、あるいは近くの高台という声が圧倒していた。「海から離れた市町村」、「雇用の多い市町村」がそれぞれ5.8%、4%でした。
津波に強いまちづくりに必要な対策についての設問では、「高台への集団移転」が27%、「高い防潮堤の建設」が23%、「高台への避難路整備」が22.7%の順で、個々人の希望と政策的な要望に微妙なズレがありました。ここのところは注目したい。
岩手日報は、2面で少々解説を加えていました。あれから2ケ月、被災者は発生当初と比べるとある程度落ち着きを取り戻しつつある半面、生活再建への焦りや不安にさいなまされながら、避難所生活に疲れを感じ始めている、という。
「被災者の不安解消、復興への歩みを進めるための課題は山積し、浸水地域の国による買い上げ補償、生活資金の支援など自治体は早期に(具体的な)方針を示してほしい」と、蟻崎真澄記者はそう結んでいました。
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釜石市内の中心部にある「シープラザ釜石」に、市の災害対策本部が設置されていました。5月11日午前11時15分、その2階に市長の野田武則さんを訪ね、小一時間ほど取材する機会を得ました。まず名刺交換です。私は、金沢工業大学の客員教授の名刺とデジタルニューディール研究所代表のそれを渡し、上場企業である省エネECOの桧家住宅の社外役員であることを伝えました。用意した弊社のリーフレットを市長は、興味深そうに眺めていました。
北澤仁さまからご紹介された地元の岩切潤氏、
釜石市芸術文化協会会長さん、素晴らしい。
この会見は、釜石に縁が深い元新日鉄釜石ラグビー部部長、北澤仁さんのツテで釜石市芸術文化協会の岩切潤会長がご尽力してくださいました。岩切さんも同席しました。地元の顔役で、おだやかな人柄ながら存在感があります。
さて、あれからちょうど2ケ月、午後2時46分には、野田市長はどんな思いでその時を迎えますか? そんな質問に野田市長は、「被災者の悔しさ、無念さ、悲しさのひとつひとつを心から共有し、この被害を防げなかった不甲斐なさを反省し、そして後世にこの教訓を残すことをお誓いする瞬間にしたい」と、語っていました。
野田市長と単独インタヴューは、シープラザ釜石の災害対策本部で
以下は、主な野田市長との一問一答です。
編集長‐いやあ、凄まじいですね。
市 長‐震災当初は、全容がわかりませんでした。ものすごい瓦礫です。津波で壊れた家屋、ビル、車の残骸と、それに遺体と。誰も動くこともできない状況でした。今、やっと道路も車で行き来できる状況になりましたけれども、誰かが、地獄だと言ったけど、まさにその通りですね。
編集長‐えらい時に市長になりましたね。天命ですかね。
市 長−天命というか、宿命というか、運命なのでしょうね。
編集長‐市長は、穏やかな顔立ちなので市長は、その笑顔でも大いに元気づけられますよ。
市 長−いや、このごろやっと笑えるようになりました。最初は笑うどころか、ずっと孤立していましたから。我々も市役所の中で三日間ほど暗闇の中でろうそく1本の灯りを頼りに孤立状態でした。
編集長‐いやあ、釜石が元気なら、岩手が元気だし、釜石がしっかり復旧復興の歩みを進めれば、東日本は大丈夫だと。岩手と宮城の中間地点で、港湾、物流の拠点ですし、人と物のクロスポイントとなる釜石は、大変重要な役割があると思います。市長として優先順位を付けるとすれば、長期・短期ありますが、どういう順番になりますか?
市 長−今ひとつは仮設住宅の建設を急ぐこと、次は雇用、そして、地域づくり。地域づくりというのは、仮設から次の復興計画、ビジョン作り。そういった格好になると思います。とりあえずは、短期でいえば、仮設住宅にはいって、生活のリズムを取り戻す。生活のリズムを取り戻すには雇用が必要です。雇用が必要ということは産業、新たな産業が求められますね。そうした中で、次の街づくりのビジョンを見出していくという形になります。どうぞ、力を貸してください。
編集長‐いやあ、それは大いに。復旧というレベルでいえば、仮設住宅も2年という期間制限がある、と言われますね。
市 長−原則は2年ですけども5年でも10年でもいいという流れです。2年以降は、仮設住宅を市が買い取ればいい話で、あくまでも県の事業として2年ということです。この期間を伸ばすのなら伸ばすということですし、それが無理なら家を貰い受けてそれから市が貸すという考えもあります。
編集長‐あくまで仮設住宅は、生活のリズムを取り戻すまでですね。
市 長‐ですから、2年というのにはこだわることはないです。
編集長‐6月下旬といわれている復興計画の将来ビジョンの作り込み、そのプロセスで、まず、現地の生の声をよく聞けとよく言われますが、市町村単位、それに県単位で個別にやっていたのでは、東日本、日本全体の構想がバラバラになってしまう懸念が生じます。個人的には、首都機能の一部を東北に分散して、復興にかける国の意気込みを含め、岩手、宮城、福島の3県に限定せず、青森から東京にいたる、首都圏を巻き込む格好でその中心的な役割を担う東北、東日本であるべきという、とらえ方ができないか。現場からの積み重ねでモザイク状態にするよりは、もちろんそれも大事ですが、それらの要望を取り入れて提示された構想ビジョンに対して、地元からさらに具体的にこうしたい、こうはできないか、という具体的な提案や修正を入れ込んでいくという方が、分かりやすいと思うんですが、どうでしょう。
市 長‐確かにね、我々も、それに期待しているわけです。一つは先ず、地域ごとの被害の状況や地域の地形等の違いがありますので、先ほど言った復興計画には、住宅を高台に移せばいいという話もありますし、いろんな形があるんですが、そうしたことを一方的に国から言われても困る。地域の雇用をまとめながら、我々が地域としてどういう理想として地域づくりをしていきたいのだというビジョンは出したいと思っています。その上で、国のほうでそれを受け止めてもらいながら、国として専門的な見地からあるいは、先ほどおっしゃったようなもっと国家的なプロジェクトの中でこの三陸沿岸をどうするのかといった観点から、それをまたアレンジしてもらってそこに予算を付けるという形が必要不可欠だと思います。一方通行ではなかなか現実的には難しい部分があります。相互通行の中で、最終的なビジョンを作って頂きたい。
編集長‐例えば、釜石市の将来の復興ビジョンといっても、今こういう被災現場で、瓦礫の除去や住宅問題、また、雇用問題、さらに被害状況の復旧等々に全精力を奪われる状況下にあって、果たして将来に向けたビジョンの策定は、やっていけるのでしょうか。そんな余裕があるんですか?
市 長‐それは余裕があるとかないとかに関わらず、地域の存亡にかかわりますので、地域がこれから生き延びていくことができるのか、廃れていくかというまさに瀬戸際です。余裕云々ではなくて、なんとしても作らなくてはならないという前提で覚悟しています。
それでも、我々はまだいいほうだと思っていまして、隣の大槌町とか、陸前高田市などでは、市街地のほぼ99%、いや100%近く全滅ですから、そういうところは本当に、本当に大変だと思います。要はその地域ごとに状況が違いますので、自分達でそういう計画を作れる地域と、どうしようもない地域があるわけですから、そこは県とか国の大幅な力添えが必要だと思います。いずれにしても、復旧、復興に向けたビジョンは早く作っていかなければならない。行政に余裕があるか、どうかの問題ではないのです。
編集長‐よくわかりました。余裕があるか、どうかというのは愚問でした。ご健闘を期待しています。私たちも可能な限り応援していきます。さて、今日は、大震災からちょうど2ヶ月ですね。僕も午後2時46分には釜石港で鎮魂の祈りをささげたいと思うんですが、野田市長はどんな思いでその時を迎えますか?
市 長‐正直言って、820数名の方々が亡くなり、いまだに行方のわからない方が530人もいるのです。正直なところ、復興の話しを、今されていましたけども、地域によっては復興どころでない所もあるんですよ。集落では。そういう状況なもんですから、そういった方々の想いとかですね。そういった被災者の悔しさとか、無念さ、悲しさのひとつひとつを心から共有していかなければならない、それから、同時にこうした津波災害の教訓ですね。我々としてもこの被害を防げなかった不甲斐なさを反省し、また検証しながら教訓を後世に遺していかなければいけない。その使命があるとそういう風に思っています。それらをお誓いする瞬間にしたい、と思っています。
編集長‐後世に二度とこういう災難を起こさせない。それを防ぐような強い都市づくりを誓う瞬間になりますかね。
市 長‐そうですね。これを逃してはだめだと思います。過去も同じ事繰り返してきたわけですよ。
編集長‐釜石市北部の水海(みずうみ)海岸の防潮堤ですが、津波の第一波で流れ込んで溢れ、堤防の外側、民家のある方向が若干下り斜面になって左右に広がっていました。そこで防潮堤を超えた水が逆に防潮堤のために引き戻れない。ダム状態になって。そこに10m級の第2波が凄い勢いで押し寄せてくるから防潮堤によって水が陸に広がるダム湖の役割をはたしてしまった。高くすれば安心と思っていた防潮堤そのものに、何か根本的なとらえ方の変更を迫っているように思えてなりません。
市 長‐我々としては先ほど言った反省、検証ですが、宮城県沖地震を念頭において対策してきたんですが、それにとらわれすぎたんですね。例えば6mの津波が来た時はこうするんだとかいう話だったのですが、今回は想定外、つまり、我々の教訓というのは想定外の津波が来るということを想定しなくてはいけないということですね。そこが足りなかったと思います。ただ、現実問題として、それをやっちゃうとどこにも住む所がないので、やはり、ある程度の根拠、つまり3mの津波の時はこのくらいの防潮堤が必要だ、6mのときはこうだと。これはこれで大事にしていかなくてはいけないと思います。もしそれがないとなると釜石市内のほぼ半分は住めない地域になってしまいます。安全対策というのはある程度の想定の中で進めなくてはいけませんし、今言った想定外ということも考えながら、ハード、ソフト両面合わせて最小限の被害に食い止めるというところに、これから進めて行かなくてはいけない課題があると思います。
編集長‐いやあ、ご多忙のところ、貴重な意見と市長の覚悟の一端に触れることができました。ありがとうございました。どうぞ、市長もお体を大事にしないといけません。これは長期戦ですから。
市 長‐幸い、体だけは丈夫ですので、いやいや、こちらこそ、いろいろご意見賜りました。どうぞ、この先もお気をつけて取材を続けてください。また釜石にどうぞ、お出でくださいよ。
いやあ、何とも笑顔が素敵な頼もしい市長さんでした。が、震災から不眠不休の涙ぐましい奮闘が続いています。市長室といっても長机にパイプ椅子を並べた簡易なもので勿論、個室なんかない。テーブルの上には地図や資料が拡げられていました。私の会見の直前、民主党の代議士で前総務大臣の原口一博さんらが時間ぎりぎりまで打ち合わせをしていました。
さて、一日も早い復旧と将来に向けた復興が適いますよう、心からお祈りする次第でございます。この数日の滞在で思いが深まった釜石は、この辺で締めます。次は、さらに南下して宮城県へ。気仙沼市、石巻市、女川町などからの報告余話となります。
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〜連載〜
■氏家豊氏の『大学発ベンチャーの底力』第14回「産業クラスター発展の2つの要」です。今回はシリコンバレーからの投稿でした。冒頭を引用しましょう。
≪米国では、いまだにTsunamiそしてNuclear Power Plant Accidentは繰り返し特集報道されています。また、「あの時私も日本にいました」、そして「先日現地に行ってきました」という人まで結構多く、シリコンバレーは確かに日本、日本経済と近いとつくづく思います。同時に、その「現地に行ってきた」という人物など、被災地地元の私からみても不思議なくらいわが事の様に真剣に話し続ける。確かに、グローバルに世間をみているということか。当地企業の行動パターンの一端を象徴している面も感じます。
その東北地方は、その全域が一体になって、エレクトロニクス系のいわゆる優良ハイテク新興・中小企業振興に取り組んできました。東北大学を中核としたレベルの高い大学発ベンチャーも多い。そして、今回の大震災の結果、この企業群が提供してきた部材供給が滞り、日本そして海外において、電子機器系中心に生産が大きく影響を受けたことは報道のとおりです。以下、東北地方そして日本の他地域も念頭に、地域産業振興、その流れでシリコンバレーの最近の一面にも触れます。当面の復興対策というには中期的な内容ですが、産業クラスターの地域内・国内展開と、対外・グローバル展開とで整理します。≫
〜一押しイベント〜
●〜講義と実地研修で学ぶ6日間の農トレワーク〜農業体験塾
日時:2011年6月9日(木) 開場9:00 開演9:30〜
会場:名古屋市:日本陶磁器センター4F
研修実施機関:株式会社タナトス わくわくワーク事務局
参加費:無料
●講演内容
午前の部:
株式会社「新」 代表取締役 宮澤敏夫氏
「農商工連携の意義と役割、研修の狙い」
岩澤信夫氏(日本不耕起栽培普及会会長)
「耕さない田んぼは生き物がいっぱい」
午後の部:
(株)デジタルニューディール研究所代表
金沢工業大学客員教授、(株)桧家住宅取締役、出口俊一氏
「産学官連携と起業。新農業の可能性」
(株)エクステリア東洋代表取締役社長 吉田和雄氏
「KY(簡単、高収益)農業システムを生かす」
●受講生募集:詳細は http://thanatos.tv/workshop/
≪読者の皆様へ:事務所移転のお知らせとご案内≫
DNDの事務所は、今月いっぱいで東京を引き払います。
7階で、耐震が心配な老朽ビルはやはり気がかりでした。
引っ越し先は、埼玉県越谷市の東武線蒲生駅の西口です。
2004年4月から7年お世話になりました。
住所は埼玉県越谷市蒲生茜町30-13フェルベロイテ30 305
(株)デジタルニューディール研究所です。
メールアドレス等に変更はございません。
電話は、後日お知らせします。
いま引っ越しと同時進行でわたわたしております。
また今回の移転に伴って、サイトのリニュアルし、サービスの一部を停止します。スタート当初からご利用の電子会議室は、SNSのmixiやfacebookの充実した機能の登場で、すでにその役割を終えたと判断しました。
またデータベースについてもほぼ10年あまりサービスを継続してきましたが、運用メンテナンスにコストがかるうえ、新規の掲載依頼がここ数年、ほとんどありません。これも見直す段階にある、と判断しました。
移転等に伴い、システムの変更等でご不便をおかけするかもしれませんが、どうぞ、ご理解賜りますようお願い申し上げます。