DNDメディア局の出口です。新しい年のスタートに、今年こそ、というようなご決意をされた方も多いのではないか。その元日の日記に、「人の悪口は言うまい」と、自らを諌めた知人がいました。が、それも凡夫の習いで3日坊主で終わったらしい。皆様は、どんなご決意をされたでしょうか。
さて、私の場合、心ひそかに誓ったのが、テレビを見ないこと、脱テレビ宣言でした。なんだぁ、そんな事かい、といぶかる方もおられるでしょう。が、テレビ放送開始の昭和28年生まれで、娯楽や情報の源泉はまぎれもなくテレビでした。テレビの進化と一緒に大きくなった。小市民的ないわば、元祖テレビっ子世代なのですから、この一見とりとめない決断は、わたし的には長年連れ添った妻と別れ別れになるくらい、一世一代の覚悟を迫られるわけです。
家に独り、そしてテレビは流れない。茶の間から、テレビの音が消えたら、急に静まりかえって、あれこれ考える余裕が持てるような気分になっていた。これから自分を見つめ直すことができるかもしれない。が、なんとも言えない気の抜けたような孤独感に襲われそうになる。独りだとね。だから、お年寄りは、気を紛らすためにお笑いやドラマを見るとはなしに、テレビをつけっぱなしにするのかもしれない。
意識するしないにかかわらず、情報が、次から次と洪水のように押し寄せてくる。日々、溺れそうになる。本当に必要な情報って、何なのだろうか。いまメディア環境が激変しています。情報を得ることより、あえて言えば、情報を自らの眼で選ぶ、つまり時には情報の蛇口を閉めることも必要なのでしょうか。新聞や雑誌、ウェブやメルマガ、とくにメルマガは、こういってはなんですが気を許すといつの間にか土足で入り込んでくる。いやあ、年の暮れからは、某トラベル、新聞社系、それに証券大手系からのメルマガ攻勢には、いささか参った。某トラベルは、日に7〜8通も送られてくる。ファイナンスのPR勧誘が多いのが気になった。これには少々手間取ったがバルブを閉めた。
さて、大晦日から元旦の夜まで、わが家は喪中なのでお節も用意しておらず、質素な孤食でしのぎました。妻や子供らは温泉場へ。と、言ってもゆっくりくつろぐ遊びじゃなく、お仕事です。粉雪がちらつく厳寒の山あいでの徹夜作業に専念していました。昨年秋から、心も体も温まるお客相手の商売を始めているのです。どうか無事にと、祈らざるを得ません。うまく軌道にのったら、折をみて報告しましょう。
車を燃費のよいプリウスに買い替えて、毎朝早く薄暗い中をいざ北西へ向けて走ります。仲良く、あれこれ知恵を出し、寒さと睡魔に耐えながらの新規ビジネスへの挑戦です。周辺の方々が、とってもやさしくしてくれるらしい。他人の温かさを実感しているようです。
お正月は、初詣に家族で出かけたり、家でおとそ気分にひたったりするのもいい。お正月なのですから。が、お正月に働いている人もいっぱいいる。そんなこともこれまで気に留めなかった。そんな事情で、ぬくぬくとひとり、お正月番組に暇をつぶしていいわけがありません。わたしの脱テレビ宣言の裏にはこんな事情があったわけです。
しかし、テレビ離れというけれど、そんなに珍しいことでもないらしい。うちの30代のスタッフの家にこの10年、ずっとテレビがない。その動機は、見たくないから、とあっさり。周辺を見れば、脱テレビ化が意外と進んでいることに気付かされた。
先日、会ったテレビ局の友人でさえ、テレビを見ていない、と聞いて驚いた。お笑い系番組はうっとおしい。ご近所の名前より、お笑い系の名前や家族の事をより詳しいのは、どうみても変よね、と。が、お前さんの生業は、テレビ局じゃないの、と言おうとしたが、突っ込まなかった。仕事としては見るのでしょう。家に帰ってまで、テレビと付き合うことはない。仕事としての"テレビ"を家に持ち込まない主義らしい。
また、知人の中学生の娘さんらにもテレビ離れが加速し、興味ある番組はスマホでYouTubeから再生して楽しんでいるという。
「やれやれ、ことしも福袋で年が明けた」との書き出しで始まる天野祐吉さんの、新年早々の新聞コラム「CM天気図」はいつもながら秀逸でした。妙に納得がいった。何気ない日常の光景から、人の心理を鋭くえぐってみせる、その目の付けどころが小気味いい。
その「福袋の先へ」というコラムは、百貨店に前夜から並んで福袋を買う、その客の心理を読んで、こういうのです。
福袋に集まる人たちの多くは、とくに欲しいものがあるわけじゃない、だからこそ、中身の見えないものを買うスリルを買っているんだろう、と前置きして、「買い物を楽しんでいるというよりも、何かにせきたてられているように見えてくる」と、まあ、そんな指摘でした。
つまり、いまのこの国が、とくに欲しいものがないという「満たされた社会」ではなく、欲しいものがわからなくなっている「満たされない社会」なんじゃないかと思えてくるのだ‐と。そして、福袋ブームとテレビショッピングには直接的な関係はない、としながら、何か買わないと、酸欠状態になってしまいそうな、そんな気分に人を追い込んでいる、と憂慮しているのです。
この季節になると、取り立て欲しいものがないのに、バーゲンと聞けば条件反射のように足を運んでしまうーとは、産経新聞のコラム「from Editor」でした。巷間、テレビのCMや番組にやや踊らされているのではないか、と思う節が、たくさん目にします。
浅草といえば雷門付近、お正月が終わって例年なら、冬枯れの下町風情で人の波が引いて行くころなのだが、この数日前、ごった返えしていた。隅田川にかかる浅草の言問橋周辺には、アサヒビールの黄金のオブジェと、東京スカイツリーが一緒に視界に入るとあって、家族連れ、カメラを向けるカップル、人力車の列と客、それに遊覧船の乗降客らであふれかえっていました。スカイツリー人気は想像以上のものがあるようです。ね。これもそれもテレビの影響でしょうか。
これは、ある著名な評論家の論評です。その人は、誰だか分かりますか。
テレビの影響は、その眼で見るという特性から、当然まず"興味"で人を釣ることを考えた。激しいチャンネル争奪、視聴率競争は、そのまま放っておけば、興味の質を考える暇がなく、もっぱら度の強さを競うことになる。刺激が過剰になり、刺激の度をますます強くしなければいけない状態が続けば、その刺激のない平常の時間に、人はボンヤリとしてしまう。それは痴呆化するということである―と。
「刺激のない平常の時間に、人はボンヤリとしてしまう。それを痴呆化するという」−その意味から、これはテレビの普及を指して"一億総白痴化"と命名した、評論家の大宅壮一氏が、昭和33年4月に書いた「"一億総白痴化"命名始末記」の一文です。
それから50数年経っているのに、大宅さんのご託宣はいまだ鮮度を失わないばかりか、テレビの特性を見事に言い当てているように思えるのです。放送、とくにテレビを指して"一億総白痴化"と命名したのは、昭和32年初めの東京新聞紙上でした。この言葉は、"よろめき"と並んで、いまでいう流行語大賞になっていました。
「一億総白痴化」といえば、昔の「朝まで生テレビ」映像をYouTubeで見ていたら、なんと若き日の菅直人さんがその番組を称して「一億総白痴化」と言い放っていたではありませんか。それで司会の田原総一郎さんと激論になっているシーンがあり、田原さんは血気盛んで、「一億総白痴化」なんて呼ぶのは、万年野党で与党になれない腹いせだ! そんなこと言っているから与党になれないのだ!と、菅さんをこきおろしていた。菅さんも腕まくり状態で、負けてはいません。こういうケンカには滅法強い。この番組を第1回から出ているから、田原さんのやり口や挑発は承知しているつもりだが、一億総白痴化と言って何が問題か、それが真実じゃないかーと押しまくっていました。
やれやれ、いまその菅さんが総理大臣ですものね。田原さんは、「そんなこと言っているから、与党になれないのさ」とこき下ろしていたのですから、歴史とは皮肉なものです。そして、こう見ていくと過去の記録映像には面白いものがたくさんあるということです。
大晦日から正月をはさんでテレビを消した。さ〜て、脱テレビ宣言のスタートです。が、YouTubeで「朝生」を検索した勢い、というか、つい、うっかりというか、テレ朝の正月スペシャル「朝まで生テレビ」をつけてしまった。脱テレビ宣言から、わずか数時間、その舌の根も乾かぬうち、というのはこのことかも知れません。やれやれ!
そうしたら、番組司会の田原総一郎さんが、若手の論客、東浩紀さんをやっつけていた。皇室問題や差別問題など、タブーに挑んできたこの番組を否定するのか、かぁ〜!と、息巻く。東さんは、ツイッターを番組に取りいれるなら、画面に一般の人のつぶやきを誘うハッシュタグ機能をつけることを主張し、それらをこの番組から始めればいい。それをやらないこの番組はもはや意味がない‐とツイッター導入の方法を解いていただけなのに、田原さんは興奮気味でした。東さんの言っていることをよく理解できていなかったのではないか。わたしは、東さんは早口でやや落ち着きを欠いているが、言っていることは理解できるし、ごもっともと思うところが多かった。新聞の論評も面白いから、彼を田原さんの後任の司会者に据えると、賛否はあろうが、注目度が一気にヒートするに違いない、と感じた。
メディアが劇的に、それも急速に変わっているのに、日本のメディアの多くのプレイヤーの顔ぶれは、古い順番から変化しない。ずっと居座るつもりだろうか。まあ、これらがメディアの自殺行為というものかもしれない。いくらメディアの再編を口にしても、このゆでガエル状態が続くのは、おぞましい。
さて、このやりとりを読み解くと、この田原さんの怒りはどうも胸のつかえとなってこれまで潜在的にひっかかっていたものかもしれないことに気づいた。わたしには、その憤懣は、日曜朝の「サンデープロジェクト」という報道生番組から田原さんを降ろしたテレ朝の局幹部に向けられていたのではないか。これまでテレビの討論番組の道を開いたのは誰か、テレビの生番組をプロデュースしてきたのは誰か、俺じゃないか、それを疎んじて、番組から外すとは言語道断!という怨念に似た怒りが、ひとり東さんに向けられたのだと、思った。
それにしても、田原さんは、いつも人を挑発する。その中から、その人間の本質を見ようというのかしら。これも視聴率至上の演出と思えば納得がいくが、ジャーナリストという職業は、なんと品性に欠けていることか。わたしもそのひとりなのです。古いジャーナリズムと新しいジャーナリズムがあるとすれば、猛者の代表格が田原さんなら気鋭の論客が東さんと言えるかもしれない。いずれにしても、お年寄りは、ちゃんと人の話を聞かなくてはいけない。人間は、耳がふたつで口がひとつ、その意味は、そういうことです。まあ、東さんの話を途中で遮って、まったく別次元の異なる横道にズレた自慢話を大きい声で怒鳴る。公共の電波なのだから、視聴者という聴く側の立場を考えてみてください。これも、やれやれ!
そのそばで、経済評論家で獨協大学教授の森永卓郎さんと、元NHKで上武大学教授の池田信夫さんが、激しいやり取りを繰り返していた。獨協VS上武はエキサイトしていました。まあ、池田さんが、勢いよく森永さんに咬みついて、機関銃のように罵声を浴びせていた。何をやり取りしているのか、視聴者にはさっぱり意味が伝わらなかった。これも演出ならば、八百長のプロレス興業のような場外乱闘と思えばいいのかもしれない。が、これではテレ朝に相当、苦情が舞い込んだに違いない。
いやあ、テレビなんか、つけるのではなかった。スマホでテレビ音声を小刻みに録音し、数回聴いた。お陰で、そのつまらないやり取りを脳の奥に深く刻み込んで、なかなか抜けきらない不幸な事態に陥ってしまった。テレビには魔物が棲んでいるのかもしれない。
ヒトの感覚器官は、いったいどのくらいの情報量を受け取っているか、というと毎秒4億ビットだという。雨の音、雨がやむと虫が鳴く。犬の遠吠え、隣のご主人が車で帰宅した。目の端に時計が見えている。テレビは、プロ野球ニュースをやる時間だ。階下で子供がラーメンを作っている。包丁の音や醤油の匂い。頭がかゆい。足の先で水虫が騒いでいる。座りにくい椅子だ…こういった情報が1秒ごとに4億ビットも入ってくるらしい。
が、この4億ビットの情報量は、脳で知覚イメージに変えられるとき、幸か、不幸か、これらの情報は毎秒15ビット前後まで振り払われる。4億ビットの情報が、ストレートに入って留まったら、きっと頭がうわんうわんとなるだけで、仕事も何もできやしないから、ヒトは情報の大部分を捨ててしまうらしい。
漢字の識別には、1文字に400ビットの情報量がいる。4億ビットの情報量を漢字の識別に換算すると、逆にざっと100万文字となる。漢字でお経のように原稿用紙に書き連ねて2500枚の分量というから恐ろしい。毎秒ですよ。これほどの情報が知らぬ間に五感に攻勢をかけてくるのですから、脳はきっとへとへとに疲れているに違いない。しかし、脳に残るのは、たった15ビット程度で、それが脳に10秒間保存されるのだそうだ。これは、漢字1文字を識別する情報量にも満たない。今年の干支の「兎」の字の「、」、その程度のものでしょうか。
これは、作家の井上ひさしさんが、『私家版「日本語文法」(新潮社刊)で指摘していた言語翻訳機の性能に関する記述で、アルファベットに比べて漢字の処理能力に要するコンピュータのこなすべきビット量がいかに大きなものかを解説しながら、実は同音意義語が多く識別が難しい国語国字の問題は、そっくり言語翻訳機の性能にまで及んでいることを裏付けているのです。これは余談かもしれないが、自然の森に入り、野鳥のさえずりを聞き、木々や植物を眺めながら深呼吸をすることは、どれほど脳に安らぎを与えるか知れない。温泉にひたって、リラックスすることがやっぱり大事なことなのですね。
情報をどう選択するか。わたしの結論は、脱テレビ宣言とも関係するのですが、いわば映像はYouTubeなどの動画サイトから検索する、という視聴スタイルをスマホで適える、ということに尽きます。スマホとは、iPhoneやAndroidなど爆発的な勢いで普及しているスマートホンの事です。だから、用意されたメニューからチャンネルを選ぶのではなく、見たいもの、欲しいものにこだわることにするのです。地デジ対応のため、あたふたとテレビを買い替えない。じっとGoogleテレビの動向を待つことにします。
メディア環境の変化の本質は、スマホやタブレット型携帯端末の登場と、それらがインタラクティブな関係でつながり、受け手一方だった視聴者個人が、多数への発信者にもなりえるという現実の凄味なのです。個人の存在をあっという間に世界羽ばたかせる新しいメディアツールの誕生と普及を素直に歓迎したい。目立ってきたのは、ここ1年ぐらいの動きです。家にいて、テレビの前で情報を得る、毎朝新聞受けに新聞を取るというスタイルは、やがて消え失せていく運命にあり、江戸時代末期のちょんまげ姿のように薄れていくのも時間の問題かもしれません。まさにメディアの新しい現実、その開花期を迎えているのは確かです。
スマホでやっていること。産経新聞で日々のニュースを、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ日本版)で海外のトピックスやコラムを、それに英語の視聴も。ラジオならぬradikoでニッポン放送やTokyo FMもクリアにon air、番組表も一覧できるし、流れている曲名もひと目でわかる。見えるラジオなのです。タイマー付きで、寝ながら聞いても安心です。ラジ男に対してラジ子、というのもふるっている。無料でダウンロードできます。スケジュールや名刺の管理も使い勝手がいい。GPS機能も便利。勿論、メールに電話、写真や動画も撮れるし、送れる。朗読も音楽も英語も適えてくれるし、購入すれば電子書籍も読める。持ち運びが可能な、手のひらサイズの書斎であり、ドラえもんの4次元ポケットみたいなものかも知れない。
また、ブロガーらの投稿が毎月4000万件というHuffington postにアクセスし世界でいま何が起きているか、その世間の関心事と、それに対する書き込みをフォローしていると、先般、父島で地震があり、津波警報が流れた時は、ゴジラが津波を食い止めるだろう、というものも含めた書き込みが100件近くあり、津波への関心の高さをうかがわせた。海はひとつだものね。
その別の日のニュース欄で、告発サイト「ウィキリークス」の代表のジュリアン・アサンジュ氏が、facebookの創設者、マーク・ザッカーバーグ氏を称して、その目的が「TIME誌」の表紙を飾ることか、金か、と痛烈に批判しているコメントが掲載された。
これらをみていると、まったく違う次元のホット・ニュースが、新鮮な湧水のように感じられます。その一方で日本のメディアはどうか、にわかに目立ったと思ったら出ずっぱりの戦場カメラマン、人気があるからとこちらも引っ張りだこの元NHKの解説委員、たけしにさんまといった人気者が、どのチャンネルをひねっても、同じ顔ぶれがとっかえひっかえ登場する画一的な"異様"さに疑問を感じた。もっと、他にやることあるでしょうに。
メディアを変えたその要因に推定6億人といわれる世界的SNSの「facebook」の存在があります。この登場もおおきい。これはわたしのスマホとつながっている。昨年秋頃に、知人の弁護士、中町昭人さんからのお誘いでした。すれすれで、時流に乗り遅れずにすんだ思いがして肝を冷やしたというのが実感です。
そこでスマホで、行った先々で撮った動画をアップした。日々の関心のあるテーマを書き込んでいる。メモ代わりにもなるし、個人史のライブラリー代わりにもなっている。さて、この仕組みの10年後に、どれほどの個人データが蓄積されるか、考えれば楽しみだが、空恐ろしい。
放送と通信の融合が劇的に進む。いや、多くの識者が指摘しているように、前出の東さんも繰り返し言っているが、個人個人の威力が、メディア機器の充実で放送のマスメディアを超える発信力を持ち始めたのです。尖閣ビデオの流出や、ジュリアン・アサンジュ氏が創設し、NYタイムズや欧州の4紙がモニタリングの協力を惜しまない内部告発サイト「ウィキリークス」の公電暴露の衝撃、そのいずれも個人の"仕業"を容易にしたウェブとメディアの統合という現実は、メディア環境の劇的イノベーションが始まっていることを裏付けているように思えます。
朝日の「ザ・コラム」で外岡秀俊編集委員は、連日数件から数十件公開するWLの暴露は、「スローモーションの雪崩」(米誌ニューズウィーク)と紹介し、「動きは緩慢に見える。だがその規模と影響の度合いは巨大な雪崩そのものだ」と捉えていました。うまく表現するものです。
それによってやがて消えていくのは、どのメディア媒体か、行政の縦割りを批判しながらしっかり部署ごとに縦割りになっている新聞社、経済を看板に大手証券会社とつるむことにためらいを感じない新聞社もある。独断と偏見だが、ウェブへの取り組みや勇気ある正論と筋を通す産経新聞には期待したい。また、娯楽をいいことに芸人のトーク番組をもっぱら無造作に垂れ流しているテレビ、その悲しい結末がくっきり見えてきませんか。
新聞協会賞の事件スクープの多くは、当局のリーク情報がもっぱらです。戦後65年、果たして外交機密のリークがいくつあったか、毎日新聞の西山太吉さんのスクープを含めて5本?6本?そのぐらいかもしれない。が、WLは、ざっと25万件、わが国に関する機密は5000本以上というから、その破壊力のすさまじさは、これまでの経験では捉えきれないボリュームです。巨大な雪崩とは、よくいったものです。
メディア関係の友人で、経済専門誌のY氏からWLについて感想をお聞きしたら、次のようなコメントが返ってきました。的確でストレートなコメントに感心した。
「ウィキリークスの事件は、メディア終焉の象徴だと思います。あれはスクープです。スクープの本質はリークです。権力が隠すことを暴くこうとすることでメディア(ジャーナリズム)は君臨してきました。だからこそ第4の権力なのです。権力のサポートをするのは政府広報でしかありえません。日本の記者クラブが批判されてきたのもそれゆえです。ウィキリークスは、全身リークです。報道が求めてきたある種の理想像かもしれない。
しかし、私がウォッチする限り、世界のメディアの3分の2が反ウィキリークスです。それはウィキがWebの住民だからです。これがハードコピーの世界の住人ならば、世界中のメディアが擁護したのではないかと思います。ハードコピーのビジネスモデルに囚われ、自らの本質を見失うほど、既存メディアのアルツハイマー化は進んでいるということだと思います」と。
さて、お終いに学生だったマーク・ザッカーバーグ氏の苦悩と成功を描いた映画「ソーシャル・ネットワーク」が、この15日に封切りとなります。弱冠26歳で、昨年「TIME」誌の表紙を飾り、すでに6000億円近い資産を手に入れています。やっぱ、アメリカはベンチャー立国なのですね。Googleもそうでしたが、アントレプレヌールというか、起業環境が充実していることを思い知らされます。起業から、あっという間の出来事でした。M&Aや投資、その誘いやささやきが連続します。
Webの主流は、検索の時代からSNSへと変化し、PCからスマホやタブレット式携帯端末に移行している。やがて、ポータルサイトとか、ホームページという形態も少しづつ影をひそめていくかもしれません。DNDメディア局もここはしっかり周辺の変化を見据えながら、生き残りをかけた存在意義を突き詰めていかなくてはならない、と自らに言い聞かせています。
◇ ◇ ◇
新年最初のメルマガで、やっぱ力みがでてしまった。もっと、肩の力を抜かなきゃいけない、と知人から言われています。さて、懸念の左脚大腿部のしこりは、MRI検査の結果、特別な影は見当たらなかったーとの診断でした。ほっと一息です。大腿部に軟部腫瘍ができる症例は獨協医科大学で40数例あるというから、決して珍しいことではないようです。
そこで、思いついたのがダイエット機器の「ジョウバ」の利用です。またがったり、足を大きく投げて座席の振動を当てたりしていると、コリコリした筋肉が徐々にほぐれていくのがわかります。だいぶ、楽になりました。
が、やはりこんな風にメルマガを書くために長時間いすに座っていると、大腿部がまたぞろ悲鳴を上げ始めてきます。それでもひとまず原因がわかったので安心です。ご心配おかけしました。皆様の温かい励ましをとてもうれしく思いました。この場を借りて御礼申し上げます。
◇ ◇ ◇
■【一押しイベント】未来を拓く「横浜国大VBL成果報告会」
横浜国立大学ベンチャー・ビジネス・ラボラトリー成果報告会
日時:1月20日午後17時から19時30分
場所:横浜市開港記念会館2階9号
主なプログラム
◇VBL 活動概要報告
「起業家型人材育成モデル事業の成果」:
・修士課程学生、荒井貴裕さんの活動報告
・VBL 博士学生研究員、武川祐子さん、西岡隆暢さんから活動報告
・ポスドク・アントレプレナー、笹倉由貴江さん、佐藤哲さん、水井涼太
さんらが活動報告します。
なお、成果報告に先立って、わたしが「大学発ベンチャーの新しい現実」をテーマにお話をさせていただきます。産学連携本部の石塚辰美教授のご紹介で、これまで下打ち合わせをしてきました。楽しみです。横浜国大は、昨年12月20日に、日産と連携した未来フォーラム「カルロス・ゴーンとマネージメントを語る」を開催し、大入りの大盛況でした。勢いがありますね。
・問い合わせ先:電話045−339−4280まで。
■石黒憲彦氏「正念場を迎える日本」
【連載】経済産業省商務情報政策局長、石黒憲彦氏の『志本主義のススメ』は第157回「正念場を迎える日本」。新年初の原稿は先週に届いていました。やはり景気づけにと、緊急経済対策に盛り込んだ低炭素型雇用創出産業立地補助金の経済効果は直接的な設備投資額がその補助金の5倍の5300億円、波及効果は毎年1兆9千億円の需要と9万5000人の雇用を、それぞれ創出する、というから期待大です。
が、その先の不透明感は否めず、「ある種の焦燥感や不安をいつも感じている正月でした」と心情を吐露していました。長期と短期の経済の先行きに対する不透明感や外需依存による不安要因、低負担高福祉の懸念、日本の競争力のじり貧、そして次期通常国会の不安など、石黒氏の心模様は複雑なようです。
Just Do It!の掛け声は、ご自身へのエールと思いました。
■渡部俊也氏の「砂漠に知財拠点:アラビアのイノベーション戦略」
【連載】東京大学教授、渡部俊也氏の『新興国の知財戦略』は第5回「砂漠に知財創出拠点を生みだすアラビアのイノベーション戦略(前編)」です。今回も力作です。つまり、「新興国」の定義をこれほど丁寧に解説した記述は、これまでお目にかからなかった。
加えて、Middle East & North AfricaからMENAと呼ばれる、産業育成が期待される中東と北アフリカを合わせた特異な地域は振興国投資の対象として扱われているのだそうです。その現状と可能性を分析しながら、わかりやすく提示されているところも出色です。
具体的には、と論を進めて、関係国は、サウジアラビア、アラブ首長国連邦 (UAE) 、クウェート、カタール、オマーン、バーレーン、トルコ、イスラエル、ヨルダン、エジプト、モロッコなどが該当し、文化的環境が近いこれらの国の人口を総計すれば 2 億8,000 万人、市場は6,000 億ドル程度という。
渡部さんは、さらにこれらの国々を個々に見れば、それぞれ大きく国情が異なり、特に産油国で先進国並みの市場を持つ、サウジアラビア、アラブ首長国連邦 (UAE) 、クウェートなどは、現在の収入の柱である石油がいずれ枯渇に向かうという意味では、今後の急激な成長を臨むのはむしろ難しいようにも思える、と分析し、最近、際立った動きとして、新エネルギー開発やそれを用いた社会構築に対する積極的な投資が始まっている、という。
5万人程度のゼロエミッション都市を砂漠に建設する壮大なマスダール計画のアブダビ、世界貿易センターの高層ビルに巨大な風力発電が稼働しているバーレーン、2020年までに全発電量のうち20%を再生・自然エネルギー内12%を風力発電で賄う目標を掲げているエジプトなどの例を挙げています。
あんまり詳細に突っ込むと、読む楽しみが薄れるのでこの辺で締めますがMENAのGateway的存在のサウジアラビアのレポートは、王家や慣習、宗教、さらに特許動向や教育機関等に及び、全編圧巻でした。これは後半に続きます。う〜む、これまでくぐもっていた中東や北アフリカの地域の輪郭が浮かんですっきり見えてきました。
■氏家豊氏「企画・コンセプト競争の時代」
【連載】氏家豊氏の『大学発ベンチャーの底力』は、第9回「事業企画・コンセプト競争の時代 -1」です。大学発ベンチャーのより確かなイノベーション力(底力)を発揮するためには、企画・発想力やビジョン構築のスピードが条件となる、と指摘し、そのことを「事業企画・コンセプト競争の時代」と位置付け、これまでの議論の前段として分かりやすく整理されています。その要諦を本文からランダムに列記すると、「自分のアタマで考える」、「トップのリードを伴った『企画力』(Designing) 」というキラリ光るフレーズが目にとまりました。また、新興企業にとっては技術プラスの提案力であり、政策当局にとってはそのような形でのイノベーションシーズの厚みを増やすことである、というメッセージを添え、今後のイノベーションへの議論が活発化することに期待を寄せています。