DNDメディア局の出口です。12月1日、今日から師走、この激烈な1年の仕上げに入りました。オフィスのベランダ越しにスカイツリーが目に飛び込んできます。一気に511bという、その空前の容姿に見とれてしまいます。メルマガは9年目で本日の号が399回を数えます。見下ろすと、すでにそのスタート時点が霞んで見えにくい。もう誰も読み返せないのではないか、と、その圧倒的なボリュームに思わず息をのむほどです。
さて、凍てつく雪の札幌は、兄貴と慕う40年らいの友人、原田裕さんから、皮のまま蒸してもホクホクという名寄産のキタアカリがドサッと届いた。やわらかな黒い土壌が育むキタアカリという希望に満ちた響きがなんともいいじゃないですか。
記者1年目の駆け出しの時から世話になっている奥日光小西ホテルの令子女将からは、数えてもう4度目という風花の便りが寄せられた。空は鈍色、キーンと冷えると遥か上空からチラチラ舞う粉雪を風花(かざはな)と呼んでいる。ここのホテルの寛ぎは、白濁した源泉かけ流しのたっぷりのお湯と、薄暗いロビーの奥でパチッと生木が爆ぜる暖炉でしょうか。赤々と燃える炎をみていると不思議と心が鎮まってきます。加えて、和服姿の女将の真心のおもてなしは、格別です。しばらく顔をお見せしていませんね、どうぞ、いろは坂を上ってきてくださいーという。新年は、スキーにお邪魔しましょう。
信州・長野のりんご農家に嫁いだ、大学の同級生からご実家で獲れたフレッシュなりんごが届きました。ご尊父の仏前にお供えください、とお優しい心遣いについホロっとしてしまった。みずみずしく甘いりんごの品種は、ふじでした。我が家は、昔、夕張・真谷地の寒村でりんご屋でした。だから、りんごにまつわる思い出はたくさんあります。
そして、足利の里の旅荘で数多くの文人墨客が蟄居した格式の「巌華園」(がんかえん)のご隠居さんで、こちらも長いお付き合い中島粂雄さんから、「まちおこし」のご指南書2冊をご送付いただいた。もともと映画人だが、故郷の要請で地元に戻り、商工会議所の専務理事を30年務めた。秘策やアイディアが豊富で、メディアの使い方も出色でした。生来プロデューサーの資質が色濃いのでしょう。詩も書けば、文筆も冴える。舞台裏に徹しながら数々の実績を積み重ねた。NHK大河ドラマを誘致し、それをまちおこしにつなげる先鞭をつけて全国を講演行脚したこともありました。「地域力は、発信力」という言葉の体現者は、間違いなく中島さんが代表選手でした。
足利尊氏公を宣揚し、その確かな史実を引さげて逆賊の汚名をはらさんとした。自らシャーロキアンを自認し、地元の難問に取り組んだ。破綻のあおりで存続が危ぶまれた足利銀行本店の大理石で彩られた重厚な館の存続に一役かった。そこに映画館を常設し、シネマパラダイスやローマの休日などを上映した。うつむき加減の市民らの表情が明るくなった。いまや世界的なワイナリーとの評判をとる、ココ・ファーム・ワイナリーの設立時から、惜しみないエールを送り続けるなど、地域に希望を発信し続けた類まれなイノベーターでもあります。いまだに地域に信頼されているのは、私利私欲が微塵もないからだと思います。こんなクリーンな人は、そんなにいない。
わが国で一番古い学校とされる足利学校の、その真裏に創建が鎌倉時代という名刹の、足利家ゆかりの「ばんな寺」がある。真四角の敷地にめぐらされたお堀の一角に、確か、「旅の味」という名の秋田料理の店がありました。新聞社の先輩の奥村茂さんからの引き継ぎノートに記された店の中の一軒でした。先輩から後輩へ、大切にしないといけない人脈やニュースソース、それに飲み屋さんも重要事項になっていた。
その店の看板の銘酒は、樽に入った新政でした。のれんをくぐって中央が囲炉裏、その奥が上がり座敷、左がカウンターでした。常連が集まるカウンターで、中島さんと初めてお会いした。足利高校時代の剣道部の仲間が集まって、古老の恩師のお祝いをどうするか、練っていた。
顔ぶれは多士済々、冷凍エビ卸し旦那、タウン誌の編集長、美容室の"センセイ"らに囲まれながら、その真ん中にいるのが中島さんでした。冷凍エビ卸しの屈強な御仁が、「こちらが先日、赴任したばかりのサンケイさんです」と、紹介すると、中島さんが「なんで知ってるん?」って、語尾があがる足利弁で不思議がった。そして照れながら、「奥ちゃん(奥村さん)から引き継ぎをうけていたよ。後任は若い出口さんがくるって…」と、席を立って挨拶されていたことを憶えています。
しかし、冷凍エビの卸しの旦那が、なんでサンケイさんを知ってるん?と、再び首をひねり、再びこだわった。実は、その前日に私が店に顔を出し、そこで最初に知り合ったのが、冷凍エビ卸の旦那と妙齢な"センセイ"でした。どうしてこんなこと思い出すのでしょうか。懐かしくて、もう一度、あの頃に戻りたいのだろうか。師走に入ると、なぜか人恋しいものです。楽しい人は暮れに向かって幸せが加速する。悲しい立場の人は、賑やかなクリスマスや年末年始が、逆にいっそう切なさが身にしみるものです。
本題に入りましょう。中島さんから届いた本は、昨年上梓した『足利まちおこし事件簿-シャーロック・ホームズ先生に捧ぐ』と、それ以前に出版されていた『まちおこし大変記』でした。
手元にあった1990年10月発刊の処女作『小さな風のまちおこし、ういんどみる物語』と合わせて、これで中島さんの「まちおこし三部作」が、私の書棚に揃うことになりました。またこれまで保存してきたもので、中島さんのご尊父の生涯を描いた『快男児 中島粂象伝』(宇賀神利夫著、新日本政治経済研究所刊)を並べて読むと、そこに烈々たる中島家の矜持が伺い知れる、というものです。
粂象伝は、粂象氏の33回忌に際して郷土史家の宇賀神氏が筆を執って昭和58年に発刊した。その冒頭の「刊行に寄せて」というくだりで、中島さんは、こういう風に父親を偲んでいました。
≪(略)父もまたある意味で「近代」の人だった。私が物心ついた時、父は病床にあったし、私自身父が64歳の時の子供である。私にとって父は、歴史上の人物である。今回父の書類や書簡に目を通して見ると近頃の映画やテレビドラマにみる浜口雄幸、若槻礼次郎、井上準之助、頭山満、山本五十六らとの親交があり、明治・大正・昭和の政治経済の奔流の中にある父の姿を垣間見たような気がした≫
≪美術に志し、大望を抱き単身、明治時代に米国に渡り帰国しては美術館の建設、兜町に身を投じ銀行を興し実業界に船出、満州・朝鮮に渡り鉱山に手をつける。その間レコード界や映画界とも関係し、最近話題の露艦ナヒモフ号の金塊引き上げを画するなど、波乱万丈の時を過ごす≫
う〜む。父を語る中島さんの思い入れは、これは決して誇張でなくむしろ控え目すぎるくらい筆を抑えている。「渡米して修学」の章を見ると、野口英世医師に遅れること10ケ月、明治34年10月に北米桑港、それに紐育に向けて横浜港を出航した。桑港はサンフランシスコ、紐育はニューヨークの意味です。 公開中の「レオニー」が評判だが、この頃はイサム・ノグチの父、ヨネ・ノグチや、津田梅子が米国留学した時期と重なります。いまから100年前に多くの若者が船で海を渡ったのですね。ともかく西海岸では、蔵前工高卒の資格でカリフォルニア州のハッパキンス美術学校に入学し、油絵実技に入る前にデッサン、用器画、構図法を学び、英語も学習して4年間の修学で「美術の奥儀を極めた」という。
そして、その後の身の処し方が尋常ではない。次に志望したのが、スタンフォード大学の経済学科でした。こんなエピソードが紹介されています。1903年10月の事でした。入学の口頭試験でまず、聞かれたのが「美術学校を出ながら、なぜ、本学の経済学科を志望したのか?」という設問でした。
これに対する中島粂象の答えがふるっていました。
「絵画というものは、たとえ描いたとしてもそれが必ず1枚いくらで売れるというものではありません。その着想の如何、それはどんな言葉でも言い表わせない秘訣があるのではないでしょうか。例えば、戦争でも起きてしまうと、極度に生活に困ってしまうのが、世界の共通のことでそれが美術の弱点なのだと思う。従って、経済学科を選んで勉強したい」旨を答えたという。が、通常の英語のほかに、経済の専門用語を覚えねばならず往生したらしい。選択した科目は、経済原論経済史、会計学財政学、銀行論取引論、商工業政策など8科目で、それらを修了した。
粂雄さんは、昭和54年6月に、日商の米国情報処理研究視察団に参加した時に、そのスタンフォード大学の門の前に立った。「その重厚な正門や校舎を見てこの若い国が自分たちの短い歴史をいかに大切に誇りにしているかを知ることができた」と「刊行に寄せて」の一文でその時の思いを吐露していました。そのスタンフォード大学の正門に立って粂雄さんは、何かきっと、若き日の父の面影を感じ取ったに違いない。
さて、『快男児 中島粂象伝』には、そのグラビアに粂象の若き日のポートレートが掲載されていました。彫の深いシャープな美男子です。粂雄さんのご子息の太郎さんによく似ていらっしゃる。ご子息の絵心は、祖父のDNAだったことがよくわかります。その他、粂象が描いた富士山の日本画、デッサン画、スケッチやノートが紹介されていました。
つい粂雄さんを紹介するつもりが、お父上の波乱万丈の人生に興味が惹かれて横道にそれてしまったようです。年譜に目をやると、25歳で合資会社「天海商社」を起業し、留学から帰ってから日光町に東照宮の宝物となる財団法人「日光美術館」を建設して専務理事に就任。また明愛貯金銀行取締役、その後頭取、また日本活動写真の取締役などに就任するなど戦前戦中の危うい時代の中を駆け抜けた快男児だったことは確かです。
ネットで、中島粂象を検索すると、日経の記事で「絵筆を持つ投機師、中島粂象氏」(09/8/3)にヒットした。「マスコミ好評、地場不評」との見出しで、
≪明治40年代の兜町で中島粂象は異彩を放っていた。突如兜町に中島株式商店を開いたかと思うと、悪評ふんぷんで廃業の危機に瀕していた沢印の看板を引き取り、東京株式取引所の仲買人となる。そのころ沢印の采配を振るっていたのは森戸ァ太郎という新聞記者上がりの変わり種で、世評はすこぶる悪かった≫などの記述が散見された。
長い寄り道になりました。が、ところで中島さんから届いた封書の中に、数日前に中島さんとの電話で盛り上がった『快侠冒険、「紅はこべ」』(高垣眸著、偕成社班)の表紙のコピーが添えられていました。
メモに走り書きで、≪本送ります。電話で話した「べにはこべ」です。昭和21年発行です。36円とは驚きました。では、また、≫とありました。その表紙の絵柄には、山高帽にハンチングコートを着たアイマスク姿の謎の男が、別の男から手渡された書類を見ていた。そばに何者かが倒れている…、これは事件かもしれない。
『紅はこべ』の本があることは知っていたが、実際に見るのは始めてでした。が、その昔といっても、インベーダーゲームが流行っていた昭和54年春のこと。今度は、私の個人的な記憶です。当時、高校野球春の甲子園大会の取材で兵庫県に出張し、宿がサンケイ新聞宝塚寮という都合から、雨で試合が順延になってOFFの時は、ちょこちょこタカラジェンヌを観に劇場に足を運んだ。その時の演目が、「紅はこべ」だったわけです。
「その岩の陰にいるのは、誰だぁ!」と叫ぶと、アッハハハハと高笑いの後に、歌が流れた。「ベェニーィ、は〜こべぇ〜」と。同僚が好きで、雨で試合が順延になると必ず宝塚に通って団体のおばちゃんらと繰り返し同じ舞台を見たかもしれない。
この頃、昔の事をあれこれ思い出します。過去を振り返るのは、年齢のせいなのかなぁ。それならそれでいいのかもしれない。素直に昔語りができればいいと思う。書棚を整理していたら、自費出版や遺稿集のような、あんまり世に出なかった著作が随分あることに気付いた。記者という職業の特権は、取材ついでにそういう類の本を数多くいただく機会に恵まれます。
著者のことを知っている本というものは、実は有名作家の単行本と違って、引越しの度に本を手にするのだがなかなか捨てられるものではなかった。捨てないでよかったと思うのは、表紙を眺めながら本を手にしているだけで、すでに物故者が多いのだが、そのご本人とひざ詰で向かい合っているような気になってしまうのです。本をめくると、著者のサインがあったり、本のおしまいのページに紙切れや手紙が挟まっていたりすることも少なくない。
僕がメルマガで紹介すれば、DNDサーバーが動いている限り、何年でも長く検索でいつでも瞬時に画面に表れてくる。そんな魔法のランプのようなものなのですから、その人の事をみんなが忘れたとしても名前検索でたちまち甦るわけです。そのために、僕がすれ違った人たちの本を紹介するのはとても大事なような気がしているのですが、いかがでしょうか。本の紹介は、苦手でそれこそ避けて通りたいテーマであることを告白したばかりなのに、懲りずに本の紹介をしてしまう。本を触っていると、本の方から、紹介してよ!って催促の声がするのです。
一冊一冊、その本の紹介と、著者との一期一会のエピソードを書き残す必要を痛切に感じています。その人の一時の断章か、ある人生の墓標か、切ない鎮魂歌か、華やかな舞台か―その執筆のターゲットになるであろう、候補作品や遺稿集をとりあえず、今回は、この場を借りてリスト化するだけに留めます。写真も必要かと思うので後日、本の写真をアップします。
ネットに依拠しながら、電子書籍ブームなんか、気にしない!というのも奇妙な言いがかりだが、やはり実際の本が好きです。ページをめくる指の感触が、その実、キーワードとなる活字の位置を不思議と記憶する。本の最初の右のページの上段とか、見開いたページの真ん中辺の下とか。装丁やデザイン、紙の質感やその感触、書物が醸し出す書物でしか味わえない魅力は普遍です。いくら電子書籍が巧みに機能したとしても、それはそれで受け入れながら、そんなさらなる活字文化を昇華させようと、本の記憶を記録する作業に今から取り組まなければならないようです。うれしいやら、かなしいやら、またひとつ仕事を見つけてしまった。
◇ ◇
懐かしい本を手にすると、その著者が目の前に現れて話かけてきそうです。渾身の一書は、元毎日新聞の地方記者による『八甲田 死の雪中行軍 真実を追う』(三上悦雄著 河北信奉出版センター刊、2004年)です。三上さんとの思い出は尽きません。日光で一緒でした。ライフワークともいえる、この本を書き終えて、じゃあ、後は見出しだね、ちょっと休むから、と書斎に入ってまもなくそのまま、帰らぬ人となりました。夢で、厳寒の雪の中に埋もれていく連隊の兵士らの姿が、彼の目にも見えたのだろうか。
記者クラブのみんなが、お父さん、オトウと呼んで慕われていました。短歌を好み日本の魂を受け継ぐことを生きざまの第一に据えていた、地方記者の大先輩の荒川さんの『反骨記者』(荒川敏雄著 アポロン社刊、1965年)、散るように逝った日に駆けつけました。足利で記者をしていた時代の、私の師匠でした。数々の逸話があるけれど、お酒を飲む姿勢に侍を観ました。
日光に赴任して初めての取材した本で、日光東照宮の文庫長の職にあり、郷土史家だった柴田氏の『近世日光・下野刀剣考 柴田豊久著作集』(柴田豊久著 柴田豊久著作集刊行会刊)、温厚な人柄が思い浮かびます。この本の巻末に日光東照宮の創建以来の年表と古地図がセットになっています。日光東照宮は、当初、日光社と呼ばれた。柴田さんのご子息が現在、東照宮に勤務されています。
やはり日光時代の地元、下野新聞の記者だった沼尾さんの遺稿集『若き新聞人の断章(沼尾兼良が残したペンと心)』(沼尾兼良遺稿集刊行会)で、メルマガ「地方記者の誉れ、朝日の澤井武次記者」で触れました。32歳で急逝した。この遺稿集の表紙に3人の坊ちゃんとのスナップが涙を誘います。32歳じゃ、若過ぎますよね。http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm090304.html
まあ、こんなテンポで書いていったら、日が暮れてしまいます。しかし、遺稿集や書籍などの取材余話というか、私が知る数々を記憶が風化しないうちに、それら1本1本を書いてみたい、と思います。以下は、タイトルと著者名でご容赦ください。
■ ■ ■
■『御意見無用 杉山康之助』※元毎日新聞社会部記者
( 杉山康之助遺稿集編纂委員会1980年)
■『戊辰秘話 日光山麓の戦い』
(田辺昇吉著、1977年)
■『栗原浩之遺稿・追悼集 -帰りなん いざ-』
(栗原浩之遺稿・追悼文集編集委員会 栗原浩之君を偲ぶ会刊、1983年)
■『記事にならなかった話』元下野新聞両毛支社長
(三浦千里著 足利文林会刊、1985年)
■『神社本庁"崩壊の危機"』
(諸沢達朗著、1985年)
■『クールちゃん アトリエ随想』※小山在住の画家
(岡田昌寿著 朝日出版社刊、1985年)
■『思い出をキャンバスに』※日光の写真館元経営者
(植田春著 講談社出版サービスセンター刊、1995年)
■『太平記の里』
(清水惣七著 講談社出版サービスセンター刊、1985年)
■『ありがとうございました−稲田幸男の56年を支えて頂いた皆様へ』
(2004年)※元産経新聞取締役、社会部長
■『水島裕の74年間を回顧して -医師・科学者・実業家・政治家・音楽家として-』※前大学発バイオベンチャー協会会長、参院議員、LTTバイオファーマー創立者
(株式会社水島コーポレーション刊、2008年)
■『わが父北澤直吉 母北澤桂子の関係資料集 "波瀾萬丈" 北澤桂子一年祭に際して』(1994年)
■『街を綴る 本郷界隈』※元産経新聞
(熊田忠雄著、1993年)
■『古代幻想と自然 −縄文から湯川秀樹まで』
(高内壮介著 工作舎刊、1985年)
■『渡良瀬川の畔で』
(尾崎良著 みにむ編集室刊、2002年)
■『青木彰追悼集』※元産経新聞編集局長、筑波大学教授
(青木塾刊、2004年)
■『戦中・戦後、そして今』
(植田新也著、2007年)※元産経新聞社長
■『快男児 中島粂象伝』
(宇賀神利夫著、新日本政治経済研究会、1983年)
■『小さな風のまちおこし』
(中島粂雄著、両毛新聞社出版センター、1990年)
■『大河ドラマがもたらしたもの「まちおこし大変記」』
(中島粂雄著、月刊みにむ、1992年)
■『足利まちおこし事件簿-シャーロック・ホームズ先生に捧ぐ』
(中島粂雄著、下野新聞、2009年)
中 島 粂 雄(なかじま・くめお)氏
昭和13(1938)年足利市生まれ。35(1960)年明治大学政治経済学部卒業後、東映株式会社に入社。43(1968)年足利商工会議所事務局長に就任、53(1978)年同専務理事に選任。63(1988)年中小企業庁中小企業近代化審議会指導部会委員、平成2(1990)年足利工業大学評議員、4(1992)年国土庁地域振興アドバイザーに就任、10(1998)年黄綬褒章受章。平成19(2007)年11月足利商工会議所専務理事10期(30年)を退任、同常任顧問に就任。社会福祉法人こころみる会理事・評議委員、栃木県現代詩人会会員、日本シャーロック・ホームズ会会員、地域総合文芸誌「足利分林」主催。
◇ ◇ ◇
◇中国の「万里の長城知財戦略」その3
【連載】東京大学教授、渡部俊也氏の『新興国の知財戦略』は第3回「中国の『万里の長城知財戦略(Great Wall Patent Strategy)』 続編」です。中国のライセンス契約が急増し、そのライセンサーの属性の分析からその3分の2は個人からのライセンスであった-という前回のレポートをベースにしながらその個人帰属の要因に言及しています。
「ハイテク企業認定管理弁法」という制度の施行と密接な関係があることを突き止めています。その新味のある調査結果は、本文からどうぞ。
また、この制度にどのような意義が見出せるか、外国企業にとってどんな意味があるかーなどにも触れています。中国企業同士のライセンス契約、大学からのライセンス契約、そのいずれも急増している実態も興味深いものがあります。記者の目からすれば、この事実ひとつでもニュースになる価値があります。
◇モンゴルの大統領が東大で講演
【連載】東京大学産学連携本部副本部長、山城宗久氏の『一隅を照らすの記』は第32回「第3の隣国」です。
≪ある友人に、オタワに勤務することになったと言ったら、また北海道に行くのかと言われたことがありますが、それは、オタル。≫
その小樽は、私の母方の里ですが、書き出しでこんなジョークを飛ばす山城さん余裕のコラムは、ウランバートルからやってきたツァヒャー・エルベグドルジ大統領の東京大学安田講堂での講演会のほうこくです。
山城さんによると、大統領は47歳。鉱山技師として社会に出られ、旧ソ連の大学でジャーナリズムを学んだ後、モンゴル人民軍機関紙記者を経て、民主化運動の中核となり、1998年と2004年に首相に就任、昨年6月に大統領に就任したーという。講演のテーマは、開発と自然環境。数々の熱いメッセージが紹介されています。第3の隣国とは、中国、ロシアに次ぐ国が日本という意味でした。
◇比嘉照夫氏の「COP10で浮かび上がった現実的課題」
〜2日朝7時45分頃からNHKラジオに比嘉氏が出演します〜
【連載】名桜大学教授、比嘉照夫氏の『緊急提言、甦れ!食と健康と地球環境』の第35回は「生物多様性を守るためには:COP10を終えて」です。が、まず比嘉先生のラジオ出演のお知らせがあります。
≪番組≫「ラジオあさいちばん」(NHKラジオ第1放送、毎朝5時〜8時30分)のエコトピックスの中で、明日2日(木)朝7時45分頃から8分弱で比嘉先生のインタビューが放送される予定です。万が一、この時間に地震やビッグニュースが飛び込んでくると、予定がのびることがありますのでご留意ください。内容は、DNDで連載されているEM技術や環境問題がメーンです。
さて、本題に入りましょう。
タイトルに示したようにこの項の問題提起は、「COP10に限らず、世の中の大半の論議は問題が起こって、それを放置すると大変なことになるという状況に対し、対症療法的に禁止、保護、新たな技術的な対応がとられることに主眼が置かれ、その問題の発生の原因は固定されたままである」という痛烈な指摘です。COP10は終わりではなく始まりであり、COP10で問題が解決されてのではなく問題が具体的にクローズアップされたのである、という指摘でした。
そこで比嘉先生は、
≪その代表的なものがDNA万能主義である。生物学や生命の探求という観点から考えるとDNAに行き尽くことは当然のことであり、その組み換えに対しても神を冒とくするものではないことも理解する者であるが、本当にそれで良いのかという疑問は山積しているのである≫と声を強めているのです。
さらに具体的に突っ込んだ問題点を指摘します。そのいくつかを紹介しましょう。
≪近代農業の3種の神器は化学肥料と農薬と大型機械であり、農業技術の根幹を支えている。化学肥料を連用すると2〜3作後から土壌の砂漠化が認められるようになる。先ず土壌の生物相を支えている腐植が激減し土壌が硬化し通気性や保水性や透水性が著しく悪化する。同時に土壌の生態系が著しく貧弱になり、多様な窒素固定菌や光合成微生物やリン溶解菌やミネラルを可溶化する有用な微生物が機能しなくなる。(中略)化学肥料や農業で土壌の生物相や生態系が破壊され、砂漠化し始めている固化した土壌を大型機械で深く掘り起こすと土壌の生態系は壊滅的となり、土壌の保水性や透水性も貧弱になり、多少の気象変動でも洪水や多量の土壌流出や干ばつの被害が続出するようになる≫
また≪遺伝子組み換え技術は、生命の研究という観点から見れば重要な役割を持っているが、自己矛盾を抱える問題の解決には、一時しのぎは可能であっても、問題をさらに深刻化する危険性を有している≫など、次々にえぐりだされる比嘉先生の論述は、農業から健康、そして環境問題と派生して次に文明論にまで行きつく勢いを感じます。どうぞ、明日朝、NHKラジオで比嘉先生の生の声をお聞きください。ご感想もお待ちしています。
【ご了承ください】
※経済産業省、商務情報政策局長の石黒憲彦氏の『志本主義のススメ』の第155回「スマートフォンのもたらすもの」、氏家豊氏の『大学発ベンチャーの底力』の第8回「産学連携のフロンティア‐大学機能の新展開」はサイトにアップしますが、メルマガでの紹介は次回にいたしますのでご了承ください。
◇AERA臨時増刊:復刻記事と秘蔵写真が満載の「昭和の鐵道と旅」
【一押し情報】
鉄道ブームなのだという。あの前原外相も鉄道ファンですね。朝日の知人がこれは一押しというからさっそく「昭和の鐵道と旅」を購入しました。手にしてみた。11月30日発売ですので、まだ出たばかりです。
いやあ、驚きました。鉄道ブームを反映して、書店には鉄道本が山と積んである。が、これまでの類書とはまったくつくりが違うのです。
「鉄道博物館などの未公開資料や朝日新聞社の秘蔵写真、そして懐かしい昭和の鉄道シーンの復刻記事を満載」と表紙にあり、興味深い昭和の鉄道関係の復刻記事が掲載されています。付録の昭和17年(1942年)発行の「科学朝日」鉄道特集号の復刻版です。昭和16年創刊の科学朝日は、戦前の日本で数少ない総合科学雑誌で、鉄道特集号の執筆者の顔ぶれもそうそうたるメンバーです。
巻頭の論文は、「新幹線の父」と呼ばれた故・島秀雄氏の「蒸気機関車の基本構造」が4ページ。島さんと言えば、戦後、国鉄の技師長を務めて、退職後は宇宙開発事業団の理事長にもなった生粋の技術屋さんですね。SLのD51の開発者としても有名です。
ほかにも、「鉄道信号」や「ポイント」,「ブレーキ」など当時の鉄道の最新技術と将来展望がよくわかる記事が合計11 本、ファンにはたまらない豪華版に仕上がっています。そにれしても黒光りした重厚なSLの雄姿には胸躍らされます。まさに技術屋のロマンをかきたたせてくれるのです。
個人的に面白いのは、「グラビア試験車は走る」でした。鉄道ファンではなくても、科学記事として読み応え十分です。表紙や目次も広告も当時のまま、というのも洒落ています。目次を見ると、何と、あの若き日の湯川秀樹博士が「物理学入門」という連載まである。復刻記事特集の2つ目は、昭和7年から40年までの、週刊朝日やアサヒグラフなどの鉄道特集の記事合計10本を完全再録しています。
その中には、あの忌わしい"怪事件"の「下山事件」の下山定則初代国鉄総裁が出席した座談会「鉄道の将来」(週刊朝日昭和17年10月11日号)という記事もあります。謎の死の7年前、当時、「技術院技師」という肩書きの下山が、戦時下という状況を踏まえながら、鉄道輸送の将来像を語っています。その予言が、結構当たっているのが興味深い。
また昭和の私鉄王そろい踏み・阪急小林と東急五島(週刊朝日昭和31年2月26日号)や「タンボの中の"政治駅"」(同34年12月6日号)などもあります。後者は、東海道新幹線のあの岐阜羽島駅とあの超大物政治家、大野伴睦氏の5ページに及ぶルポ記事です。
アサヒグラフの昭和23年3月17日号からは「女だけの車両にて」。実は、女性専用車両は、終戦直後にもあったんです。これを、新劇女優の杉村春子氏がルポしている、というのも凄い話です。今読んでも新鮮で驚きです。
「松本清張がいざなう昭和の鉄道・追跡の旅路」では、名作「砂の器」、「ゼロの焦点」、「遭難」、「点と線」に登場する全駅・全列車を、当時の時刻表にもとづいて完全再現しています。あの東北訛りで捜査が混乱する出雲の「亀高駅」も散見されます。
昭和初期の東京発シベリア鉄道経由欧州行き連絡列車を再現した「東京発巴里行き 大列車時代」では、昭和初期に発行された16枚綴り32ページの東京発ベルリン行き国際切符の「中身」を一挙公開しています。この切符は、日本語、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語等々の言語で国際色豊かに記述され、国境が変わるたびに1枚ずつクーポンのようにして使っていたようです。私は、かつて船で横浜からナホトカに向かいましたが、当時は敦賀からウラジオストク経由でシベリアに入ったのですね。ふ〜む。「2011年版全国廃線カレンダー」などの付録、特集記事、スクープ写真・資料がぎっしり。保存版でお買い得です。1680円で発売中です。