◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2010/09/14 http://dndi.jp/

「この夏の終わりに」

 ・週刊「アエラ」の取材メモ
 ・袋小路からの脱出:「Cul de Sacの教訓
 ・名門UCLA正教授就任は、黒川家の矜持
〜連載〜
 ・塩沢文朗氏「もっと知るべき中国の朝鮮族」
 ・橋本正洋氏「社会人博士の取り方」(実践編1)
一押し情報
 ・24日開幕:UNITT2010「産学連携実務者ネット」

DNDメディア局の出口です。DNDのフィールドにまさか、あのMichael・Jacksonが登場するとはねぇ、驚きました。簡潔ながら、三者三様の物語に興味を惹かれ、吸い込まれるように一気に読んでしまった。そこで、どんなに行き詰ったとしても人生諦めちゃいけない、という「Cul de Sacの教訓」に勇気づけられました〜。


こんな感想を読者からもらって、こちらの意図が伝わっていたことに大変うれしく思いました。9月6日号の週刊『アエラ』に載った「マイケル・ジャクソンの隣人だった日本人」の記事で、読んだよ、とか、買ったぞ、とかというメールをいただき、しばらく周辺が湧き立っていました。


が、出口さんの(書いた)記事がアエラにでる、という事前の情報を取り違えて、僕が記事に出る、と思ってしまった知人らから「どのページ?」という問い合わせも続出でした。そうじゃないのよ、Michael・Jackson一周忌の記事ですよ、と言ってもすぐには通じない。さらにややこしいのは、せっかくアエラを手にしながら、MichaelとDNDの接点を捉えきれずに戸惑いながら、なんで出口さんがMichael?との指摘もありました。「ハッハッ」と、これは笑い飛ばすしかないのだが、この発売日の8月30日を迎えて、なんだかやっと肩の荷が下りたという気分でした。栃木に住む、義父は、「俊さんの記事で、この雑誌の格調が高くなったのではないでしょうか」とひいき目に持ち上げてくれていました。外では、蝉しぐれが耳をつんざくようでした。


この記事は、前日本学術会議会長の黒川清氏がご自身のブログで紹介したMichaelの一周忌の追悼をフォローしたものでした。ロサンゼルス郊外の高級スーパーで買い物をする普段着のマイケルと意外にもご近所同士だった、という黒川氏。私のインタビューで「マイケルは、いつもひとりで、気の毒なくらい消え入りそうな声で話していた。自宅にでも誘えばよかった…」と、その当時を振り返ってくれていました。黒川氏の取材後、時代背景や、彼らの状況を丹念に調べていくと、マイケル、黒川氏、それに作家の故・城山三郎氏までもが例外なく「Cul de Sac」の状況にあり、いわば「袋小路」からの脱出を試みていた時期と重なるのです。そして、素性も生き方も職業も際立つこの三者が、しかし奇妙なことにある偶然でつながっていることに驚かされました。


それが、冒頭の「Cul de Sacの教訓」でした。どんなに困難な袋小路に迷い込んでも、前を向いて歩いていけば、やがて脱出の処方を掴んで必ず羽ばたいていくものだ。これが「アエラ」が記事のトップの見出しに据えた「飛翔への交錯」の真意だったわけです。しかし、その肝心の「アエラ」の記事を読んでいなきゃ、さっぱり分からん‐ということになるから、このメルマガの末尾に「アエラ」の記事を載せています。ご安心ください。


さて、マイケルが住んでいたロサンゼルス西部の丘陵地にある高級住宅街・エンシノに、邸宅を購入して家族で引っ越した黒川氏は当時、41歳。マイケルは、悩み深い20歳そこそこでした。車で2−3分の隣近所の関係になるのに、そんなに時間はかからなかったようです。近所の高級スーパー「ゲルソンズ」でしばしば顔を合わせていた、という。そんな時期に、なんと作家の城山氏が編集者と一緒に黒川邸を訪れてくる。時代は、ベトナム戦争終結(1975年)の直後で、全米にしばらく滅失感が漂っていた頃でした。その底流には、いわば「Cul de Sac」に陥る諦観ムードが漂っていたのかもしれません。マイケル、黒川氏、それに城山氏らが、この時期、人生の岐路に立たされていた、という設定なのですが、アエラの原稿のスペース枠では、ちょっと物足りなかったかもしれません。いかにして彼らがこの窮地から這い出たか、そんな3人のストーリーを織り交ぜながらそのマイケル一周忌の追憶秘話を書き綴ったのだが、この試みはある意味欲張りすぎでした。そのため、ご近所さんの"マイケル秘話"が霞んでしまった印象が付きまといました。


どうもこれは編集者の、それにライターの偏屈な性のようなもので、初めて聞いて面白いと信じたのは、その関係でした。わが国のアカデミアのトップで、世界的にネットワークを広げる学術界の黒川氏が、KING OF POPという不動のエンターテナーの地位を持つMichael Jacksonと、実は、隣近所の関係だったというのは結構、新鮮で真新しいニュースでもある。が、一度、耳にして原稿を読むと、次なる刺激を追い求めたくなる、という編集者の癖がにじみ出るものなのです。ひと事で言えば、無いものねだりというのでしょうか。次々と新味のあるネタを要求する。まあ、それらが取材力であり、編集の原動力になるのですから、一概に否定はできません。私もそういう病的なところを持ちあわせているから、よく理解できるのです。


さて、私は黒川邸の位置する、どんづまり、いわゆる「Cul de Sac」にヒントを得て、それぞれがその苦悩からいかにして脱出し飛翔していくか、という筋立てで原稿をまとめていくうちに、今度はこの私自身が大きな壁にぶちあたってしまった。「袋小路」に迷い込んでしまう。要介護の父が緊急に入院し、一ケ月少々の闘病の末、8月に入ってまもなく息を引き取ったのです。このどさくさの中で気になる「アエラ」の原稿は、7月中の掲載予定が延び延びになったままで、8月に入ってもまだ掲載日が確定しない。家内は、看護の疲れを引きずりながら葬儀の手配に追われ、遺された荷物の片づけは家族全員で汗まみれになりながら根気のいる作業をしいられました。一軒家まるごとの整理に家族総出で、一週間余の時間を要しました。炎天下、汗が滝のように流れ、心身の疲れは限界にきていました。作業は、頼もしい知人らの協力があって助けられた。そんな最中、原稿の追加取材が容赦なく飛び込んできました。


まあ、その甲斐あって「アエラ」の掲載は、カラーで2ページ見開きで期待通りの扱いでした。見出しは、専門の整理マンが考え抜いたのでしょう。『マイケル招いた「飛翔への交錯」』のコピーが鮮やかな赤で彩られていました。少し懲りすぎという印象を持たれた方がいるかもしれない。が、私はこれ以上のコピーはない、と唸った。


3人がロサンゼルスの高級住宅街、エンシノの地で、わずかに擦れ違う偶然なのだが、その「袋小路」から脱出し、その後、それぞれが目を見張るような活動を再開していく。その奇縁はもう2度と訪れることはない。その意味でこの「飛翔への交錯」という見出しは、書き手の狙いを的確につかんでくれているように感じました。


が、黒川氏が指摘していました。惜しむらくは、この文脈のキーワードとなる「Cul de Sac」の文字をどこかに浮かび上がらせて欲しかった、と。そこで筆者の意地で、このメルマガで「Cul de Sac」を強調しているのです。辞書によると、この語源はフランス語で「どんづまり」、「袋小路」、医学用語で「盲腸」の意味もある。


思えば、この暑い夏は、生涯忘れえぬ夏でした。そして、この短い原稿に、さて、どれほどの時間を割いたことでしょうか。マイケルの遺作となった「This is it」のDVDを注意深く繰り返し見ました。この映画は感動でした。Michaelのリハーサルのステージで、これはVentureです、というメッセージに痛く心を揺さぶられたものです。


リハーサルシーンで他のダンサーらに振り付けの指導にあたるマイケルのステップを無謀にもまねる虚に出てみた。可笑しいでしょう。こっそり、人気のないオフィスでDVDの映像を再生しながら、ステップを踏む。いやいや、ドタバタ足は絡まって動いてくれない。手と足がバラバラで、首や肩はまるで案山子が盆踊りをやっているような滑稽なものでした。見苦しい姿を想像させてしまいましたね。しかし、あんな風にダンスができたら、気分がいいでしょうね。スクールに通うかしら、と少し本気です。マイケルの気分に浸りたい、と念じてしまうのです。


マイケル関連の本も数冊調べながら、マイケルの生涯を年代別にフォローしました。ポイントとなる、エンシノでのエピソードを探しました。『マイケル・ジャクソン全記録1958―2009』(エイドリアン・グラント著、吉岡正晴訳・監修)を参考にしました。マイケルが母親の実家であるエンシノに移り、そしてそこを去る時期に間違いはないか、その年代を特定しなければならない。黒川氏との接点で、その年代にずれがあっては記事の信ぴょう性が失われ、その狙いそのものが揺らいでしまうからです。その苦労がアエラの原稿にほんの少しだけ反映されています。


7月のある日曜夜、マリオンで「マイケルの素顔」という映画をやっていると知って飛んで行って見た。秘蔵映像という触れ込みだが、内容は単調で物足りませんでした。購入したパンフレットはにわか作りで、ほとんどが粗雑な印刷のハガキでした。便乗商法にやられた、と映画を見た後味が悪かった。が、唯一参考になったのは、行く先々にファンが大勢押し寄せていたし、パパラッチの追っかけも凄まじいものがありました。マイケルの行くところ、これは"襲撃"に近い騒然とした状態になっていたのです。が、黒川氏がマイケルを出会ったスーパーでの状態は、とても静かでごく普通のご近所さん同士というものでした。マイケルが普通の一般人として扱われていた、ごく稀な時期に黒川氏は遭遇していたのです。


城山三郎の米国への旅も関連の書籍から追跡しました。加藤仁氏著の『筆に限りなし』というタイトルの城山三郎伝によると、城山がエンシノの邸宅に黒川氏を訪ねていた頃が、人生で最悪でした。精神的に落ち込んで創作意欲がさっぱりという時期であることに気付かされた。米国在住の黒川氏を城山氏がどう描いたのか、そこをひも解かないとこのストーリーは完結しない、と欲張って、ネットでその本を購入し、黒川氏が描かれている部分を丹念に拾い読みしました。


その著書『アメリカ生きがいの旅』(文集文庫)で城山氏は、「緑の中の美邸にシャープな感じの長身の黒川氏はよく似合った」と紹介していました。確かに、当時の写真を見せてもらうと、イケメンといっては失礼だが、長い髪にスレンダーな長身、垢抜けしたセンスが伝わってきました。


城山は、そこで多数の人が日本から渡米するが一流大学で正教授になっている例は、数えるほどしかない、と述べ、それは、その競争が熾烈で多くの日本人には耐えられないからである、と書く。そして、黒川氏が、難解な臨床医の国家試験にパスし、専門医になり、腎臓の機能と代謝に関する論文を次々と書き一流の科学雑誌「ネイチャー」にも掲載されるようになった。また大学の隣りにある復員兵用の病院の医長の一人である―ことなどを紹介し、エンシノの家については、「大自然が残っている斜面に、大きな家が点在する。空は青く、風はさわやか。庭にはプール、そして秋田犬が二頭」とスケッチしていました。


その本にぜひ引用したい素敵な記述が随所に目立った。が、アエラの記事にはほんの数行程度しか紹介できなかった。書いては削り、削っては読んで、さらに手を加えていました。ざっと行数を抑えて書き流してみたら行数制限の、3倍ものボリュームに膨らんでいた。削除は、バッサバッサとはいかない。心を鎮めながら、1行1行削除するものなのです。


そんな最中、入院中の父の容体が急を告げる。24時間体制の看護を強いられながら、会社で原稿に赤字を入れたその足で病院に向かったことも何度かありました。家内は車で通うので、私はバスか、あるいはアシスト電動自転車でした。猛暑の中、汗をかきながらペダルを漕いでいました。


ある時、泊まり番の病室でアエラの下書き原稿を眺めている私に父が目を向けてひと言、「相変わらず本が好きだなあ」という。本ばかり読んでいないで、少しはこちらの容態を気にしたらどうかね、という不満らしかった。しかし、父は、そんな原稿のいきさつを聞いて、「それは楽しみだわ」と目を細めていたが、ついにその雑誌を目にすることはなかった。父が逝ったのが8月5日でした。雑誌はその月の30日の発行でした。刷り上がった雑誌は、ページを開いて仏前にそえた。父の遺影の前に置かれたアエラは、マイケルの一周忌の追悼記事なので少しも違和感がなかった。


記事の入稿から掲載までほぼ1ケ月半、そこに父の入院、看護、死去、葬儀等とあわただしい時間が同時に進行していました。あれこれ気をもみながら、この炎暑をまたいで神経が擦り切れそうでした。


嬉しいのは、黒川氏の対応でした。黒川氏がご自身のブログで、このアエラの記事に触れてくれました。黒川氏のブログでのメッセージは、なによりの励みとなりました。


「人生には、多くの人の出会いがあり、何が起こるかわからない。だからいつも前向きに、人が見ていてもいなくても、真剣に考え、まじめに自分の考えをすすめていくことが大事だと思います」と。


「アエラ」と格闘した私の暑い夏がやっとエンディングを迎えました。


【取材余話1】「飛翔するマイケル」
 マイケルが袋小路から抜け出る、そのチャンスは、たぶんクインシー・ジョーンズという大物プロデューサーとの運命的な出会いがありました。「ショート・フィルム」という映像手法によって、マイケルが、プリンス・オブ・ポップへ、そして一気にキング・オブ・ポップへの階段をかけ上ったことは確かです。


マイケルの足跡を追ってみると、幼い頃から歌やダンスに驚くべき才能を発揮し、兄妹らで結成したジャクソン5は、故郷のゲイリー記念講堂、シカゴのリーガル劇場、それにハーレムの伝統を担うアポロ劇場での勝ち抜きに出演して優勝しプロデビューのチャンスをつかむ。愛らしいのはマイケルで、可憐ながら透明感のあるビブラートを利かせた声は、当時から多くのファンを魅了してきました。


1968年7月、モータウンレコードとの専属契約によるメジャーデビューし、マイケルがリードボーカルを務めた「帰ってほしいの」(I want you back)がヒットチャート全米1位、その次のシングル「ABC」も1位、「小さな経験」(The Love You Save)、さらに「I'll Be There」も1位という具合にデビューから4曲連続で全米チャート1位を独占する快挙をなし遂げた。忘れられない曲ばかりです。


特筆すべきは、1979年8月、クインシー・ジョーンズを迎えて制作された「オフ・ザ・ウォール」(Off The Wall)がリリースされ、全米売上は700万枚、全世界での売上が2000万枚に達した。1982年以降では、世界を席巻した「Billie Jean」、「Beat It」、そして「Thriller」が連続的に空前のヒットを飛ばし、アルバム売上の世界記録を更新する一方で、これまでのミュージック・ビデオ作品の概念を一変させた。1983年には大ブレークし、名実ともにキング・オブ・ポップにのぼり詰めていくことになるのです。


【取材余話2】「黒川家の矜持」
 黒川氏といえば、代々医者の家系で、曾祖父が御典医、祖父は熊本病院の内科医長、父は東京帝大医学部卒後、東大の内科勤務や軍関係にも従事し、戦後は東京で開業医をしていた。黒川氏も略歴にあるように、東大医学部卒、東大医学部助手から武者修行に渡米、それから8年、エンシノに移り住んだ1977年には、ある正念場を迎えていました。その2年後に、晴れてUCLAの医学部の正教授に就任する。


ある時、母校の東大から推され第一内科の教授選の話が舞い込んで、日本への帰国に希望がでてきた。しかし、実績が抜きんでているのに3人の候補の1人に選ばれなかった。落選の憂き目をみたのである。東大教授としての帰国が閉ざされてしまった。城山氏は、黒川氏の心情に理解を示しながら、その残りの数行で、劇的にドラマ仕立てで描き切るのです。


―最終的には選に漏れたが、その直後、UCLAの医学部長が親書を送ってきた。「落選おめでとう。あなたがUCLAにとどまることになって、われわれは心よりよろこんでいる」と―。この辺のくだりは、アエラで書きました。


そて、その続きです。このレターを読んで、黒川氏はどんな思いだったか。東京・六本木の政策研究大学院大学の研究室には、学長直々のサインが入ったUCLAの正教授に授与される証書が飾ってあった。この一枚の証書に、代々医者の家系を継ぐ黒川家の矜持が込められているのではないか、と思いました。曾祖父から代々医者の家系だから東大教授じゃ先祖が納得しないのだろう、と。世界に飛んで、未踏の扉を開くという生き方が黒川氏には宿命づけられていたように思えてならない。誰もやったことのないベンチャラスな挑戦、それこそが黒川氏の真骨頂と思います。


記事はこちらから→週刊「アエラ」9月6日号のPDF
 http://dndi.jp/data/09065455mj.pdf


◇塩沢文朗氏「もっと知るべき中国の朝鮮族」
【連載】塩沢文朗氏の『原点回帰の旅』第69回は「中国の朝鮮族」です。冒頭に載せた展望台からの写真。ご本人の説明では、まさしく東アジアの辺境と呼ぶにふさわしい情景です。中国吉林省延辺(えんぺん)朝鮮族自治州の防川(ぼうせん)、河の向こうは、北朝鮮という。足もとの柵には、ロシア国境が迫っているらしい。調査とはいえ、塩沢さんは、ここに何を求めて旅をしてきたのだろうか。


うらやましい。常に、日々、旅に恋い焦がれてやまない小生としてみれば、実に、塩沢さんに先を越されてしまった、という気分にさせられてしまいます。地理的な理解が難しい、とケチをつけようかと思ったら、地図が用意されていました。そして、大きな地図をご覧くださいという。


地図や写真を眺めているうちに雄大な歴史小説の舞台を連想してしまいました。やはりこの塩沢さんが立つ国境付近は、清朝の時代にはロシア、さらにさかのぼれば、この地域は高句麗の一部だった。こういう大河ドラマ風のイントロは嫌いではないのだが、間違ってはいけないのは、このストーリーの結論を急いで明かしてしまうことです。しかし、いきいきした生活感が沁みる朝鮮族の暮らしって魅力的じゃありませんか。もっと理解する必要がある、という指摘は、その通りと思いました。どうぞ、じっくり、写真を眺めながら、原点回帰の塩沢ワールドをご堪能ください。


◇橋本正洋氏「社会人博士の取り方」(実践編その1)
【連載】特許庁審査業務部長の橋本正洋氏の『イノベーション戦略と知財』第30回は「社会人博士の取り方」です。この項は2回の続きものです。橋本さんが工学博士を取得するご体験をベースに、その極意を公開しよう、という試みで、私が強くお願いしていた内容です。


不思議な事があるものです。人の面倒見の良い橋本さんならではのとっておきのエピソードを紹介しています。


〜東京大学大学院工学系研究科環境海洋工学専攻後期博士課程に入学したのは、2004年10月、きっかけは、経済産業省で同期の平田竹男現早稲田大学教授 から、「学位を取りたいのだが良い教授を知らないか」との依頼が舞い込んだという。そして、「平田君には、当時、社会人学生を受け入れ、また友人の何人かが門下にいた松島克守東京大学工学系研究科教授を紹介することにしましたが、平田君の考えに触発され、昔の感慨がよみがえってきたのです」という。


昔の感慨とは、なんでしょうか。課長補佐時代にバイオ産業の担当で、OECDや国連の会議に交渉官として出席するが、交渉相手は、各国の官僚とそのアドバイザーの科学者でした。彼ら、特に米国代表団の官僚のほとんどがPh. D.か、さもなければ弁護士出身だった、という。


例えば、として橋本さんは、そのモチベーションに言及していきます。
 「生物多様性条約交渉の当時の最大の論点のひとつは、遺伝子組換え生物(GMO)の安全性の確保でした。彼らは科学者の世界での国際的なコンセンサスのある考え方に基づきGMOの安全性に関して適切なレベルの規制となるよう条文を修正する。日本政府は、同様に日本の科学界のコンセンサスを元に、米国と同じ立場をとって交渉を進めていました。しかし、こういう交渉過程において、科学的思考と経験を元に発言するPh.D.に対しては、我々マスター出は技術系出身ではありますが、それをリードするほどの発言力はなかった。こうしたこともあり、日本政府は、OECDの会議ではサイエンスアドバイザーとして分子生物学の権威で、日本の組換えDNA実験指針の策定を主導していただいた、故内田久雄東京大学名誉教授に出席をお願いし、委員会の副議長をしていただいて、何とか日本の存在感を示しました」という。


橋本さんの学位の取得は、必要に迫られた国際的な業務の一貫だったわけですが、大学連携推進課長に就任した時に、ポスドクや大学改革に関与した関係で、博士課程への興味が再燃した、と率直に述べておられました。ここまでがイントロで、そこからの本題へ。いわば「社会人博士の取り方」の入門編と扉が開いていきます。「大学院受験」、「職場の許諾と家族の支援」、「単位の取得」、「定期的な学会の発表」、「論文の投稿」と具体的な方策を解説しています。指導教官の松島先生の存在にも触れています。


大いに役に立つ原稿です。単純な私なんかすぐに、その気になってしまうから、恐ろしい〜。


■比嘉照夫氏の『緊急提言、甦れ!食と健康と地球環境』第32回「EM技術による建造文化財の保護」、張輝氏の『中国のイノベーション』第35回「中国の月探査衛星によるイノベーション計画」と古川勇二氏の『技術経営立国への指標』第9回「日本学術会議からの勧告をめぐる議論について」は、それぞれ次週の紹介となります。サイトでは原稿をアップしています。


【一押し情報】UNITT2010「産学連携実務者ネット」は24日から
 UNITT2010第7回「産学連携実務者ネットワーキング」は、今月24日から25 日、東京にある電気通信大学調布キャンパス講堂、B棟教室で開催されます。その趣旨について事務局では、今回のセミナーは、「オープンイノベーションと産学連携」、「安全保障貿易管理と大学文化−大学は外為法にどう対応すべきか?」、「進化するCOIとアカデミア・ガバナンス」などのテーマを取り上げるほか、法律改正や条約に関する政府当局者からのプレゼンも予定し、一般企業の方を含めて産学連携事業に携わる皆様の参加をお待ちしています、という。


お申し込みは、こちら→http://unitt.jp/


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