DNDメディア局の出口です。白い空はどんより沈んで、いまにも泣きだしそうです。雨の日なら紫陽花が似合うのだが、街路の植え込みは赤いツツジがやっと花を開きました。ツツジの花がもたつくから、もう紫陽花が追いついてしまった。
思いきり愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、あじさいの花
俵万智
下町の路地裏では、猫がいて確か、小手毬のような紫陽花を咲かせていることでしょう。その店の周辺もそうでした。女将さん、いつも変わらぬ優しさで接してくれるから、つい甘えてしまう。情けないことに酒呑みは、自らの都合で店を選び、さんざん通った挙句、パタリと理由もなしに足が途絶え、しばらく遠ざかって忘れていたら、ふらっと亡霊のように再び現れる。あらっ、生きていらっしゃったの?そんな皮肉を言われるのは、これまで数知れない。
振り返ってみれば、勝手ばかりで申し訳ない気がしてきます。そんな自責の念にかられながら、この10日で店を畳む東京・浅草の猿之助横町にある居酒屋「かいば屋」の話を始めましょうか。
「かいば屋」の女将さん、熊谷栄子さんは、先月、店じまいのハガキを常連客に出しました。75歳になって足の不調がもう限界らしく、「ご迷惑のかからぬうちにと10日をもって閉店の決心をしました」と綴り、この短い文面に、少し残念そうな思いをにじませる。
閉店の6月10日は、熊谷さんの亡夫、幸吉さんが開店した日と重なります。そのハガキの裏にパステルで描いたイラストが印刷されていました。幸吉さんと交遊のあったイラストレーター、黒田征太郎さんの筆になるものでした。1975年(昭和50年)の開店から35年、この店に通い始めてから20年、僕たちはその店で大きな顔をさせていただいているが、その伝説的な幸吉さんのことは伝聞でしか知らない。
店を閉める、と聞いてそわそわと落ち着かない。間口一軒、入ってすぐのカウンターの席に7−8人、4人がけのテーブル席がひとつ。注文は、いつもの焼酎のグレープフルーツ割です。すぐに旧知の朝日記者の小林伸行さんに電話を入れたら、さっきまで居たと言って再び、姿を見せてくれました。聞き流していたが、酔った勢いで昔話を暴露する。この店と小林さんの関わりも因縁深い。その夜は、なぜか切ないくらいに華やいで妙な繁盛ぶりでした。
そこへひとかかえもある花束を持ってきたのは妙齢な女性二人、宝塚出身らしい、と誰かがささやくから、じゃあ、タカラジェンヌがベルサイユの薔薇なら、中年のメタボの僕たちは「Lサイズの腹」といったところか、と無邪気に笑い声を上げた。
その笑いが静まった時、カウンターの右奥から風格ある老紳士が席を立って、帰ろうとする。が、酔っているらしく足元が不確かでした。めざとく動いたのが小林さんで、「ええっ、大丈夫ですか」と腕を抱えて店から大通りに出て最寄りの駅まで送ると言って、一緒にタクシーに乗り込みました。やさしい奴です。「すぐそこまでなので送りますから、大丈夫です」という小林さんの必死の声が聞こえてきました。しばらくして小林さんが、戻ってきた。
その紳士は、わざわざ世田谷の自宅から、閉店の知らせを聞いて店に来たのだという。確かめると、語学が堪能でサンスクリット研究などで著名なインド学者だという。
この店は不思議です。この狭く地味な店構えだが、興味深く探ると、文人墨客の名前が次から次に出てくる。「かいば屋」の看板の文字は、俳優でエッセイストの殿山泰司さんというのは聞いていたが、それがどんな関係かは詳しくはわからない。そのところを客としてじゃなく記者として、小林さんが記事にしていました。これは私には、お礼奉公のようなものに見えるし、ここで書かなかったら生涯悔いが残ったことのようにも思えました。
「かいば屋」10日閉店、「文化と焼酎の香に幕」という記事を小林さんは朝日新聞の6日付東京版に載せました。店内でひとしきり話題になっていました。ご主人の「クマさん」こと熊谷幸吉さんに付随することが大半でした。熊谷さんは、早稲田大学で国文学を学び、落語研究会に所属します。大学を中退したのち、一時、4歳上の作家、野坂昭如さん(79)の家に居候する。野坂さんが結成した、よろず好事家の集まり「酔狂連」に参加し、作家、吉村平吉さんらと交流。熊谷さんは、その酒好きが高じ、やがて自ら居酒屋を開業、店主の話を肴に飲むという経営方針の店は繁盛し、著名人が通った‐ことなどが紹介されていました。
小林さんは、熊谷さんと交遊のあった著名人に関する書物を調べたり、直接取材をしたりしていました。そのいくつかを本文から引用しましょう。
〜作家、田中小実昌さんはいつも酎ハイを飲んだ。田中さんのエッセイによると、料金は「変動相場制」で、田中さんの娘さんの場合、いくら飲んでも2千円だった。推理作家、都筑道夫さんはウイスキー、俳優の殿山泰司さんはカンパリソーダ、映画監督の浦山桐郎さんは何を飲んだかよくわからない。早大時代から親交のある、元文芸雑誌編集長の大村彦次郎さん(76)は、「文学的な雰囲気のある人だった。文壇には自分の位置を作りえたし、当時の文壇はそれだけの余裕があった。野坂さんは、熊谷さんに弟のような心情の相似形を感じたのではないかと思う」。イラストレーターの黒田征太郎さん(71)はなじみ客では最も若手の世代。「僕の先生でありアニキである野坂昭如さんとクマさんの関係が素晴らしかった。人情、友情、兄弟分というような一口で説明できないつながりがあって、オレも大人になったらあんなふうに人と付き合いたいと感じていました」と振り返る〜。
この記事の見出しの通り、クマさんの人柄や人脈に支えられて長らく文化と 焼酎の香が漂う特異な居酒屋として繁盛していたのですね。しかし、1988年に熊谷さんが肝臓を患って亡くなると、妻の栄子さんがそれ以来、ひとり店を引き継いできた。思えば、ご主人のクマさんが店に立ったのは13年、栄子さんは22年にもなる。栄子さんの方がずっと長いのに、「かいば屋」といえば、いまだにクマさんの思い出語りが中心になってしまいます。
栄子さんは、「やっと肩の荷を下ろせます。ほっとしました」と記事で語っていました。いつも変わらぬ栄子さんは気がつけばすっかり髪は白くなってしまった。あの時は、ちょうど今の僕の年齢と同じ歳だったのですね。その夜の事は、いまだに記憶に鮮明です。20年前のことでした。
確か、この辺じゃないか。新人記者3人を引き連れていた時でした。午前零時近い時間です。店の看板の灯りは消えて、いま玄関のノレンを下ろそうとしていたのが、栄子さんでした。ここが「かいば屋」ですよね、ええ、でももう看板ですから、でもちょっとだけなら、と再び店に戻り、灯りをつけて招き入れてくれたのです。栄子さんの足元に野良猫が数匹まとわりついていました。そんなこともしっかり憶えている。
1991年の7月、私は産経新聞社会部の都庁担当から下町支局のデスクに着任し、そこに居合わせた3人の新人記者の一人が、小林伸行さんでした。もともとは私の部下でした。だから、つい最近まで、彼は私を「デスク」と呼んでいました。
なぜ、「かいば屋」を探していたか、といえば、下町版で連載企画を始めることを指示し、小林さんに「浅草」、宮脇広久さんに「上野」、米沢秀明さんに「葛飾」という宿題を出していたのです。宮脇さん、米沢さんは夕刊フジのスポーツ記者で活躍中です。どこの新聞社も下町エリアは、事件や事故が無いかわりに歴史的なエピソードの宝庫ですので、それぞれ連載に力を入れます。
何度も引き合いに出して恐縮ですが、毎日新聞の杉山康之助記者が書いた連載「浅草」にぞっこんでしたので、なんとか現代版の「浅草」をモノにできないか、とひそかに仕込んでいました。その書き手に選んだのが新人の小林さんでした。本当は私がやりたかった。
周囲から、新人にはちょっと無理な企画じゃないか、という後ろ向きの声がありました。が、新人時代は、なんでも経験が一番の教育です。私も支局時代、先輩デスクの堀内浩一郎さんからそういう風に育てられました。今度は、私がやる番です。
小林記者の連載「浅草」は十数回に及びました。そのスタートの第1回目が「かいば屋」でした。料亭「一松」とか、「花やしき」とか、おかみさん会とか、を題材にした記憶があります。あの時の新聞記事、スクラップして持っているかい?って、小林さんに聞きました。「さあ〜支局?っていっても、もうないですよね。本社の調査部には…なさそうですね。はい、じゃあ、お母さんに聞いて見て返事します」と小林さんは、すぐ動いてくれました。自分が書いた最初の連載ぐらいちゃんと保存しておくべきじゃないか、と小言を言うつもりでしたが、余計なお世話と思って、止めた。過去を振り返らない、というも記者の流儀でもあるから。
数日後、小林さんから封書が届いた。「永らくのご無沙汰で、誠に恐れ入ります。件の記事を同封しました。電話で話した通り、このところかいば屋さんは妙な繁盛ぶりで複雑な気持ちがしております」との手紙と一緒に、記事のコピーが同封されていました。記事は、今読むと、まあ、なんとも複雑な気持ちですね。
記事は、北海道から電話が入り、その男性が昔、渡世の世界から足を洗って望んでした「普通の生き方」ができるようになったのは、かいば屋の"お母さん"のお陰という人情話が紹介されています。そして、お店ではクマさんの同級生が集まっている。その話を"お母さん"は静に聞いている、店にいればご主人と一緒の気持ちになれるのか、どうか、と結んでいました。
短い原稿に、あれこれ盛り込みすぎでした。これはデスクの責任かもしれません。が、栄子さんを中心に書いた、ストーリー性のあるいい原稿です。クマさんの死亡年齢が52歳とあり、1歳違う。
記事と同じくらいのスペースの写真があり、同級生らの様子が大きく載っていました。左上に栄子さんが小さく映っています。見出しは、「"男たち"をそっと見守るお母さん」となっていました。私のデスクはわずか1年足らずで、 すぐにフジサンケイグループ事務局に派遣になりました。当時38歳、そこで記 者人生にピリオドを打つことになりました。
小林さんは、朝日に移籍してから社会部や立川支局を経て、一時週刊朝日のグラビアを担当し、現在は夕刊編集部に所属するベテラン記者で、野菜栽培のコツを教える「週末農業」の取材を担当するが、人物を書かせても巧い。もう40歳をはるかに超えている。ふさふさの髪や顔を覆う黒い髭は、いや味なくらいうっとうしいが、あまたいる記者の中では物腰がやわらかで、そしてよく気が回る。
記憶を呼び戻すと、あの渋く響く声での取材は丁寧なので取材先からは結構好かれていました。下町支局勤務はわずか半年程度で、すぐ本社社会部から召し上げられてしまいました。当時の稲田幸男社会部長から、「小林をもらっていいか」というので、ご本人の出世のためならと二つ返事で「よろしくお願いします」と了解した。が、要領よくなんでもこなす器用な小林さんを手放してから、デスクは紙面作りに困ることが多かった。
部下の昇進を願うのが上司の役目。が、その小林さんはしばらくして結婚して朝日に行っちゃった。取材先で人気があったから、小林さんの転籍に伴って産経から朝日に購読を切り替える読者も少なくなかった。だから、「かいば 屋」の常連客に朝日のファンが多い。
小林さんの新人時代の、いまでも忘れられないエピソードをひとつ。浅草のすしや通りを入ったそば店「十和田」の隣に炭火でせんべいを焼いている職人がいる。ギラギラした暑い夏の日のことです。写真を撮って、その写真にふさわしい記事を書くように指示した時のことです。その日の最高気温や例年との比較のデータをおりまぜながら、記事をつくる。「う〜む」と呻吟している風でした。小林さんが、「デスク、これでどうでしょう」と原稿を差し出しました。
まあ、記事というより、写真のキャプションのような短い文章ですから、さらっと書けばいい。その原稿の書き出しに、「いやあ、暑いですなあ!」と一行、手を入れた。すると、「えへっ!」と目を白黒させながら、「まんま、ですね。こんなものでいいんですか?」と素っ頓狂な声を上げた。それにしても「こんなもの…」という言い方は、ないじゃないか。
記事なんて難しく考える必要はない。子どもやお取りおり寄りが読むのですから。まあ、こんなやり取りを繰り返しながら記者は現場から学んでいくものなのです。グレープフルーツ割をお代わりしながら、そんなことを思い出していました。
そろそろ帰ります。「かいば屋」の店を出て連れの二人と並んで仁丹塔付近まで歩いて来た時に、ハタと、6日付の朝日新聞を店に忘れたのを思い出しました。タクシーに乗り込んで再び店に行ったら、お店はもう静まり返って、お母さんがひとりで洗いものをしていた。僕らが店を出てまもなく、ひとりふたりと席を立ったようです。さっきまでのにぎやかさがウソのような寂しさが漂っていました。それまで聞こえていなかった皿を洗う音、水が流れる音…なんだかぎゅっと胸が締め付けられるような孤独な光景をみてしまった。それを見て見ぬふりをして、勢い元気な声で、小林さんの記事を忘れたので…と言ったが、なぜか、お母さんと目を合わせるのが辛かった。せっかくだからコピーじゃなくて本物の新聞をお持ちください、といって新聞を持たせてくれた。じゃあ、お母さん、お疲れ様、さびしくなるけどこれまでのことはみんな忘れないよ、って言いかけたが、まだ閉店まで3日あると思って、「お疲れ様」はいえなかった。
お母さんは、「かいば屋」を引き継いで22年間、どんな思いで後片付けをしてきたのだろうか。台風や雨の日でお茶を引く日だってあったかもしれません。そんな行方知らずの渡り鳥を相手にするのだから、さぞ、しんどい時もあったことでしょう。しかし、嫌な顔一つ見せたことがありません。お母さんの対応が、これまで少しも変わらないから、あれから20年もたっていたとは、まったく気づきませんでした。「閉店」なんて、やはり信じられない。今夜も足が向いてしまいそうです。
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◇黒川清氏「目覚める若者たち」
【コラム】黒川清氏の『学術の風』は、「目覚める若者たち、世界に出て自力で始めたプロジェクト」。先生が強く訴える、大学を休学して海外へ行こう―の呼びかけが着々と実現しています。「自分たちで現地に向かい、国内でも活動をアッピールしながら、問題解決を模索し、企画し、活動しながら、とうとう「Grameen銀行」内では初めての日本人発ソーシャルビジネスを始めます、として、早稲田大学の税所くん (資料1) の「E Education Project」、同じ仲間の早稲田大学の三好君 も今年は大学を休学してBangladeshへという最新のうれしい動きを伝えてくれています。朝日新聞もこれに呼応して、以下のような記事を載せました。その一部を紹介します。
貧しい農村の子に配信 早大生・税所さん考案 バングラディッシュ版「ドラゴン桜」
貧しい農村の子どもにインターネットで授業を配信し、大学に進んでもらおう――。アジアの最貧国の一つ、バングラデシュの小さな農村で、こんなプロジェクトが進んでいる。考案したのは早稲田大教育学部の税所篤快(さい・しょ・あつ・よし)さん(21)だ。地元の人が「革命」と呼ぶ授業が間もなく始まる。(山本奈朱香)
詳細は、http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000001006010001
◇比嘉照夫氏の「EM技術による災害対策の成功例」
【連載】比嘉照夫氏の緊急提言『食と健康と地球環境』の第28回「EM技術による気象災害対策(1)」.では、まず口蹄疫の感染拡大が止まったえびの市へのEMの初動対応が奏功した点に触れて、「本件を含め、現在宮崎県で行なわれているEMのボランティア活動は、農林水産省と宮崎県の関係者にもすべて報告されており、EMの活用が国や県の方針に反するものでないことも確認済みである」ことを説明しています。
さて、本題へ。この春の低温や日照不足による野菜の不作について、先の報道ステーションの番組が取り上げた北海道の三笠市での冷夏対策の成功事例言及し、「生ごみをEMで発酵させたEM堆肥(ボカシ肥)であり、地温の上昇効果が3〜4℃もあるという説明もついていた。今年の気象変動は30年前の昭和55年に類似しているといわれている。その当時にEMはほぼ完成し、実用試験に入ったばかりで、今のような展開は予想だにしていなかった時代である」と喝破しています。また自然農法国際研究開発センターの協力で進めているEM活用の全国の事例を紹介し、「EMが低温、日照不足対策に決定的な力を持っていることが確認された」と述べ、その代表格が地域全体の殆んどの農家がEMを活用している札幌郊外の新篠津村であり、三笠市の取り組みである旨を強調しています。現場をもつことはなによりの強みですね。
◇橋本正洋氏の「MOTと若者」
【連載】橋本正洋氏の『イノベーション戦略と知財』は第22回「MOTと若者」です。金沢工業大学虎ノ門大学院・知的創造システム専攻の上條由紀子准教授から知らされた、との書きい出しは、なんでも、在京のMOTの学生が、MOTの向上のために、大学をまたがった交流を行っておられるとか。なんでも、在京のMOTの学生が、MOTの向上のために、大学をまたがった交流を行っておられるとか。かつてMOT新興の旗振り役を務めた橋本さんにとっては、感慨深い動向だったようで、さっそく上條さんと相談のうえ、特許庁にお招きしたという。
MOTの意味することと誕生の経緯について詳しく述べられておられます。ここは必読です。そこで橋本さんは、MOTの重要性を理解して経済産業政策への展開を考えたのは、筆者の前任者、堅尾初代大学連携推進課長でした。筆者はその後任で課長になるまではMOTの理解はほとんどありませんでしたが、堅尾課長を引き継いでMOT施策を進めるうちに、時代としてその重要性と必要性に気づき、当時の人財政策シフトに乗じて堅尾路線を文字通り飛躍的に拡大したのでした。その時の思いは、一橋ビジネスレビュー誌のMOT特集に寄稿した「MOTのすすめ」にもありますので古本屋で探してみてください、と力説します。MOTの目的、MOTの現在など、さすがMr.MOTと呼ばれるだけあって、熱いものを感じます。
なかでもMOTの狙いに3つの視点を紹介しています。そのひとつ、人材育成の観点からのアプローチを紹介します。
「当時から議論があった理工系学生の人材育成の観点です。理工系出身者は、ややもすれば『「技術バカ」といわれて経営音痴との批判がされることもあります。一方で製造業を中心に、理工系出身者が経営トップを担うことも多く見られますが、その場合でも、採用人数に比べれば経営層に占める理工系出身者の割合は低くなっています。また現在も解消されていませんが、エンジニアの処遇が海外に比べて良くないとの事情もあって理工系離れが当時から指摘されていました。この処方箋として、子供の時から理数離れを改善することなどを政策的に行っていますが 、エンジニアの卵や中堅どころにMOTを学んでもらい、経営でも戦える理工系出身者を作ることがひとつの方策だと気がついたのです。少なくとも、生意気な?コンサルタントが発する専門用語の意味を理解し、必要なときに反論できるエンジニアが育って欲しいとおもったからです』という。
そういう私も我が国のMOTを牽引する東京農工大学大学院技術経営研究科の客員としてその末席を汚しておりますが、その技術系の経営者らとお付き合いするにつれて、交渉術や文書管理、それに将来を見通すリスクマネージメントの等の必要性を強く身にしみてきます。
タイトルは「MOTと若者」ですが、MOT入門の手引きという分かりやすい内容となっています。
◇山城宗久氏の「なぜ歴史を学ぶのか」
【連載】は、山城宗久氏の『一隅を照らすの記』は第22回「金曜日の君たち」です。東京大学の駒場キャンパスで、金曜日の夜に開く高校生を対象にした「特別講座」、その日の演者は、山内昌之東京大学大学院総合文化研究科教授で、タイトルは、"なぜ歴史を学ぶのか 世界史と日本史を理解するために"でした。
山内教授からは、先人たちの珠玉の言葉が次々と紹介される。例えば、「事実や歴史に詳しいということは、交渉家が敏腕であるために大切な素養。なぜなら、理屈はしばしば不確かであるため、たいていの人間は前例に従って行動し、同じような場合にどうであったかを基準にして、決心をするものであるから。」という。
私が、う〜む、唸ったのは、地方の高校生からネット通じて出された「歴史から学ぶべきリアリズムとは何でしょうか?」という質問に対する、山内教授の答えでした。
「ある物事を達成するに当たっては、さまざまな条件、制約というものがあり、その中で、物事を達成してゆくプロセスを学ぶということではないか。理想や希望を叶えようとする思いは大切であるが、それだけでは、物事を達成することはできない。」と。