◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2010/05/19 http://dndi.jp/

白寿で逝った鈴木俊一氏を偲ぶ

 ・越智毅氏の『鈴木俊一氏の挑戦』
 ・伊豆大島での全島民避難の決断
 ・知事が語る"あんこ椿秘話"
 ・高等文官と内務省入省面談顛末
 ・財政再建、地方自治、都市再生

写真:鈴木俊一都知事と敦子夫人
※都庁OBの集まりで、鈴木知事ご夫妻に挨拶する機会があった時のスナップです。

DNDメディア局の出口です。芽吹きの緑がまぶしい5月の日光、この季節が一 番好きかも知れない。早朝の散策から戻ってホテルのロビーに備え付けの新聞 を手に取って、一瞬、息をのんでしまった。その1面は、鈴木俊一さんが亡く なったことを伝えていたからでした。温和で泰然とした飾らない鈴木さんの写 真が添えられていました。


享年99歳、元東京都知事。地方自治制度の生みの親で、東京五輪や大阪万博 を切りまわすなど戦後の日本の骨格を築いた、との評。いやあ、お悔やみ以外 に申し述べる言葉が見つかりません。心からご冥福をお祈りいたします。


振り返ると、鈴木俊一都知事は、これまでの私の取材経験のなかで忘れられ ない方のお一人でした。記者時代の習いで不謹慎ながら、あらかじめ資料を取 りそろえていたのですが、いざ、その訃報に接してみると、どうにも筆が進み ません。新都庁舎建設の秘話や臨海副都心開発計画との関わり、それに中止と なった都市博覧会の余波など、鈴木都政を担当した4年間の出来事が次から次 と溢れ返り、あれこれ浮かんでは消える。


「マイタウン東京」を掲げて都知事に初当選した時が68歳でした。在職は4 期16年に及び勇退時は84歳に。が、衰えの片鱗もなく激務をこなし続けました。 高齢、多選の批判はあったが、特筆すべきは慢性的危機状況の都財政を再建し たことであり、一極集中やごみ問題など大都市の課題を解決したことなどが挙 げられます。が、鈴木さんは、慎重で決断が早い。一見、矛盾するが、それこ そ現場の指揮にあたって危機管理の能力をいかんなく発揮したということに尽 きます。


いまの政権もそうだが、巷間、依然として官僚批判を是とする風潮が根強い。 まあ、中には世評通りの小役人もいるでしょう。が、私が敢えてそれをそのま ま受け入れない理由は、志高い官僚を多く知っているということもそうだが、 やはり鈴木俊一という偉大な官僚の存在を知ってしまったためだと思います。


当時、土光臨調の第4部会長で慶応大学教授の加藤寛さん(現在、嘉悦大学 学長)が、ある本で鈴木氏の資質に関連して官僚についてこう論じていました。 ご参考のために、少し引用します。


国の行政改革がもし成し得ないとすれば、それは、政権担当者が官僚を知悉 していないということにある。世上、しばしば官僚は、自己権限の擁護に走り、 土光臨調にもこうした代表者として過去官僚が入り込んで改革を妨害している という見方がある。確かに過去官僚と現在官僚が同じ主張を繰り返すことはあ る。私は、「前例がない」とか、「法になじまない」とか、旧い法律を繰り返 すことしかしない官庁を、九官鳥と呼ぶことにしているが、それはこうした見 方を裏付けているといえなくもない。 


ところがそうした官僚の中に、自らの欠陥を知悉し、その改革に意欲を燃や す正義の士も決して少なくない。そして自己主張を繰り返していても、公正と か公平とは何かがわかってくると、理解者に変わってくれるというのが、日本 の官僚の優秀性である、と。


引用の本は昭和57年に刊行した『鈴木俊一の挑戦‐東京を甦らせた行革と自 治』(サンケイ出版、)で、著者は産経新聞OBで元都庁担当記者のベテラン、 越智毅さんです。私のずっと上の先輩です。将来を嘱望されながらひとり三役 の激務の末に病に倒れ一線を退かざるを得ませんでした。鈴木都政というより、 鈴木俊一氏に肉薄した数少ない記者でした。


が、私が都庁のキャップを引き継いだ後に、何やら都庁内を動き回るので、 記者クラブ員でもない越智さんにたびたび苦言をいって口論になったこともあ りましたね。越智さんは、時に「1面トップを何本書いた」などと子供じみた 意地悪を言う。ある時は、血相を変えて「(都庁に)お前が残るか、俺が残る か、勝負するか〜」と怒鳴る。新聞社の官庁担当には暗黙のルールがあり、ク ラブ担当以外の記者が、当該クラブに要件がある場合は、そのクラブ詰めのキ ャップに了解をとる、というのが習わしです。


いやはや、越智さんも血気盛んで、当時、誰彼お構いなしに威圧的な態度に でていました。そういうのが体調を壊す原因にもなったのかも知れません。い まなら、もっとお互いに上手にやれたのに、ある程度年齢を重ねないと気が付 かないことがいっぱいあるんですね。私も30代半ば、道半ば、若気の至りでし た。


憶えていますか。1986年(昭和61年)11月21日夕刻、伊豆大島の三原山が20 9年ぶりに大爆発を起こし、噴煙が上空8000mにも達し、騒然となりました。溶 岩流が大島町の中心街、元町に流れ込んで住民に危険が迫ってきました。ここ で鈴木さんは、冷静かつ的確に大英断をします。どこかの国の総理や大臣のよ うに問題の火種を拡散させるヘマはしない。


その全島民の島外避難に先立って、お年寄りや子供らがいち早く静岡などへ の避難を始めていました。この状況を見て鈴木さんは「大島町民も東京都民で ある」、「家族は一緒にいなければならない」と言い切り、1万人にも及ぶ未 曾有の"東京疎開"の受け入れの指揮に当たったのです。知事のこの言葉に島民 の多くは胸を打たれました。この大爆発のテレビ中継に日本列島はまさにくぎ 付け状態でした。


その日は金曜日の大安吉日、鈴木知事が翌年春の知事選に向けて3選出馬を 表明するため、都内のホテルで自民の竹下登幹事長ほか、公明、民主の党幹部 に囲まれていました。夕刻には、その足で都政記者クラブに戻って記者会見が 予定されていた。が、鈴木さんから笑顔が消え、会見場では防災服姿でした。


それからの行動はスピーディーでした。鈴木さんは、大爆発の1週間後には 噴煙が吹き上がる現地の視察を強行します。そこで「終息に向かう静けさを感 じた」と述べ周囲を驚かせました。その翌日には、「1世帯1人」という条件付 きながら一時帰島を決め、「まだ危険」との主張を譲らない火山予知連絡会の 反発はあったものの、鈴木さんは全員の年内帰島の方針を打ち出し、その通り 実行に移したのです。ところが全員帰島が始まる前日の12月18日は、久しぶり に三原山で山頂噴火がありましたが、この時も知事は落ち着き払って「この程 度の噴火なら大丈夫」とびくともしませんでした。


鈴木さんの決断とその一連の措置について、メディアや各界から称賛の声が 上がっていました。トップの危機管理は、その現場の状況をつぶさに観察する ところから始まる。そして、現場の動向に絶えず目配りし、絶えず何らかのメ ッセージを発し、関係住民を安心させる。そして素早い決断を下す、というこ となのですね。


鈴木さんは、その当時を振り返って「役人(内務省)時代に、警察も含めて あらゆるポストを経験しましたから、事務総長をやった大阪万博の時なんかは、 定員の何倍ものお客さんが入ったこともありました。これらのことは言ってみ ればみんな一種の"危機管理"なんですよ」と笑ってこともなげに言う。越智毅 さんはその本でそう紹介していました。


それから4年後の1990年(平成2年)の夏の事でした。鈴木さんは伊豆大島の 噴火災害の修復状況視察や火山博物館の落成のため、再び大島町を訪れました。 地元町長や都議会議員、副知事ら関係幹部を伴っていました。我々記者も同行 取材のため自衛隊のヘリに便乗しました。町は夏の観光シーズンを迎えてにぎ わいを取り戻していました。取材を終え原稿を本社に送ったその夜に記者らの 懇親会が、郷土料理「駒」で開かれました。伊豆大島は潮騒に満天の星、周辺 の断崖から海風が吹き上げていました。


藁ぶき屋根の離れ座敷で、活きのいい海の幸を肴に開放的な気分で呑んでい たら、そこに鈴木俊一さんがこっそり姿を見せたのです。いやあ、楽しんでい らっしゃいますなぁ、と部屋に入って幹事役の私の前の席に着くなり、ビール でまず乾杯。すると、「やはりこの魚なら日本酒ですか」と言って次ぎの言葉 を待っている風でした。その間合いを捉えて「知事もいかがですか」と、地酒 を勧めると、温和な笑顔を浮かべながらも、なぜか遠慮がちに盃を手にしてい ました。穏やかに時間過ぎていきました。その和みの記憶がいま再び甦えって きました。


古風な厚手の一枚板には、島で獲れた新鮮な魚介類が並んでいました。ひと かかえもあるホラ貝のようなサザエには驚きました。海中、深く潜って人数分 をそろえるのは並大抵の苦労じゃなかったようです。その朱色に縁取られたサ ザエの刺身は格別でした。身が締まった天然の真鯛、これもうまかった。鈴木 さんは、地元の方々や都議会関係者らとの報告会を兼ねたレセプションを中座 し、いわば抜け出して我々の席にお忍びできたのです。


当時、鈴木さんは翌91年4月の知事選に出るかどうか、その4選出馬が取り沙 汰されていました。また丸の内から西新宿へ移転する新都庁舎の落成や臨海副 都心開発など案件が控えていた時期でした。


もっぱら我々の狙いも鈴木さんの4選出馬への感触を探ろうと必死でした。 が、こんな宴席でその確証をつかんでも書けないよね、というのが我々の正直 なところです。この1ケ月ほど前に鈴木さんは自民党本部に当時の幹事長の職 にあった小沢一郎氏に面会を求め、そこで次の知事候補に官房副長官の石原信 雄氏を、と申し入れしたという情報が流れ、スワッ、鈴木知事4選断念という うわさが瞬く間に広まっていました。が、それも定かじゃない。そこで目の前 の鈴木さんから、なんらかのシグナルをつかもうとしていた記者もいたようで す。私は、無邪気にのんでいました。


そこで鈴木さんが口にしたのは「生涯青春、生涯現役」という常日頃の口癖 でした。ふ〜む、これだけでは「4選出馬へ意欲」とは記事にできない。しか し、選挙には関係はないが、意外な発言が飛び出したのです。


鈴木さんは、その昔、伊豆大島に旅行に来たことが話題になりました。東京 から熱海に出て、そこから船で大島に。宿泊先の旅館に、うら若き娘さんがい た。鈴木さんは、唐突に「あの娘さん、どうしているかなあ」と、つぶやいた のです。鈴木俊一版、"伊豆の踊り子"とか、"あんこ椿の淡い恋"とか、なんと か言って、その場は大いに盛り上がりました。その後は、いくぶん妄想をかき たてられた記者らの冷やかしにまかせながら、ただ鈴木さんは、にこやかに盃 を重ねていました。堂々たる構えでしたね。


「知事、それはいつごろの話ですか」と聞くと、東京帝国大学法学部卒業直 後というから、いま思えば1933年(昭和8年)3月末のこと。学友との"卒業旅 行"でした。それからもう57年もさかのぼる。いやあ、「娘さん、と言っても …」と水を向けると、鈴木さんはニヤリ含み笑いをみせながら、「いい年齢に なっているでしょうな」と、それほどのことでもないという感じでした。いや あ、「もう相当なおばあちゃんじゃないですか」とは、誰も言わない。南の島 を舞台にしたサマセット・モームの短編「赤毛」を連想していました。が、こ れも口にしない。


鈴木さんにさらにお酒をすすめると、ポツリ、「家内に叱られるかなあ」と 言った。ふ〜む、叱られるのは、あれは量を超えて呑むお酒のことです。あん こ椿のことではありません。が、照れながら、令夫人のことを気にされる鈴木 さんの含み笑いが脳裏から離れません。


この辺の事をいま一度確かめようと、都庁の広報担当で当時、同行していた 森口純さんに電話しました。すると、よく覚えていますよ、出口さんは上機嫌 で知事にしきりと「よん」、「よん」、「よん」となんだか呪文のように4選 を確かめるような口ぶりで迫っていたじゃないですか、という。


そんなこと知らない。記憶にない。いや、私の事じゃなくて、鈴木さんの 「あんこ椿」の一件でしょう、大事なのは…、というと森口さんは、そう、実 は知事周辺からあの時の旅館の娘さんの写真を入手していたので、その旅館を ヒントに島中をくまなく探しました。が、その手がかりはつかめませんでした、 という。森口さんとは、もう20年ぶり。広報と記者という関係を越えて同じ街 に住んでいる縁もあって、親しみやすくウマが合う。


それにしても、写真の件は初耳でした。旅館の玄関先で撮ったものらしい。 森口さん、よく記憶しているね、というと、あれは7月23日の夜でした。なぜ かというと、私の次男が翌24日に生まれたので忘れようがありません、という。 へぇー、そんなことがあったんだ。しかも、森口さんは、実は大島町の出身で 郷土料理の「駒」の予約も、大きなサザエの手配も森口さんのプロデュースだ ったのです。森口さんといえば、東京都教育庁の部長を経て現在都心の図書館 の館長を務めています。このメルマガが出たら、下町の居酒屋あたりで鈴木知 事を偲びながら、昔語りに花を咲かせましょうね。


さて、鈴木さんは、卒業旅行を終えて、伊豆大島の余韻を引きずりながら3 月31日に自宅に帰ってきました。すると、そこで大変なことが待ち構えていた のです。越智さんの本によると、高等文官試験行政科の成績は3番だった鈴木 さんは、特別の事がない限り、「どこの役所でも受け入れられる成績」でした。 どこの役所がいいか、俊一が意見を聞いたのは、大きな影響を受けた「南原 繁」(後の東大総長)ではなく、演習を受けていた蝋山政道でした。


「これからは、商工省(現在の経済産業省)が面白いかも知れない」と言っ た。当時は、試験日の前に事実上の内定をしているということはなく、あくま で希望者全員に対して試験が行われたそうです。鈴木さんが願書を出したのは、 "大本命"の内務省、大蔵省、そして商工省の3つ。なんといっても、内務省は、 "役所の中の役所"で、官僚志望の学生の人気も断然でした。


入省試験は、面接。大蔵省の試験官は、人事課長の大野龍太ら官房の3課長 だけで実に事務的でした。内務省は、次官、潮恵之輔以下局長が顔をそろえて いた。大蔵と内務は試験日が同じで、午前が大蔵で午後が内務。大蔵では、鈴 木さんは他の数人とともに大野から、「お前たちを全部採用することを決定し た」と通告される。午後は、内務省の試験がある。鈴木さんは困って大野に相 談すると、「内務省にいかんで、大蔵省に入れ、明日から出て来い」と高圧的 に告げられたという。


内務省の試験場に次官以下、なかなかの顔ぶれをみて鈴木さんはなんとなく 「内務省に入りたい」と思った。試験官の一人、神社局長の石田馨は、鈴木さ んが結婚することになる敦子さんの父であり、石田との出会いは、この入省試 験でした。


余談ですが、鈴木さんの岳父となる石田馨は、山口県徳山の出身で、鈴木さ んの東大時代の恩師、大内兵衛とは熊本の五高時代からの親友で、内務省の大 正2年組。鈴木さんの内務省入省のとき神社局長、結婚の時が神奈川県知事、 そして、11年3月の2・26事件直後に第40代警視総監に就任、翌12年1月に辞任 後は公職につかず、宮内省御用掛などを務めたが、主に弁護士として官選の仕 事だけをして余生を送った。実に円満で、温厚、清潔、ことに清潔な人でした、 という。


鈴木さんは、内務省の上司だった石田馨の家にたびたび招かれて、その訪問 の帰り道、母親から「敦子を嫁にもらっていただけないでしょうか」と見染め られたらしい。敦子さん、当時17歳でした。


横道にそれました。さて、鈴木さんが内務省の人事課長、狭間茂から墨で認 められた巻紙の封書を開いたのは、その伊豆大島から帰った3月31日でした。 文面は、「試験の前に会いたいから、30日に内務省秘書官官舎に来てほしい」 と書かれていた。が、その指定した期日は過ぎていた。


鈴木さんは、翌4月1日に、試験の前日に秘書官官舎に謝りに行った。狭間は、 試験日は明日だから、それをうけてくれればいい、と言ってくれたので、ホッ としたという。が、今度は、大蔵省と内務省で鈴木さんをめぐる綱引きがはじ まることになります。狭間が、「鈴木は、内務省で採用したい」というと、大 野は「こちらは次官の決裁もとってしまっているから駄目だ」と反対してきた。 狭間は、とっさに、「僕の方ももう大臣の決裁をとってしまっているから、ど うにもならない」と、「次官決裁」より強い切り札の「大臣決裁」というとっ さのウソが功を奏したことになったわけです。


内務官僚の条件について、狭間は、その1が健康であること、2が人と接して 非常に好感を持たれる人物であること、そして3つ目が学校の成績、高等文官 試験の成績がよいことを教えたという。その第1の条件の健康は、真向法など で鍛錬し、以後、ずっと留意されたことはご存じの通りです。


まあ、DNDの読者に、関係省庁の官僚の皆様も少なくありませんので、鈴木 俊一さんという人物が、どういうキャリアだったのか、その文脈から官僚の凄 味を感じとっていただければ幸いです。


都政に、都政専門の月刊誌「都政研究」があります。毎月、都政情報が満載 で、記者クラブの記者には座談会やら原稿依頼やらが順番で回ってきます。私 が都政に携わった4年間のほか、それ以後に寄せた原稿を掲載したバックナン バーは、大事に保存して取っています。それらのページをめくると、中でも19 94年12月号は、巻頭で都政研究の編集長が、「鈴木さんがついに引退すること になった」と鈴木さんの引退表明に触れて、鈴木都政4期16年を総括し、鈴木 さんの在任は長いという声があるが、問題は時間ではなく「その間にいったい どれだけ仕事をしたかにもっとスポットをあてられてもいいのではあるまい か」と鈴木さんに理解を示していました。


その数ページ後に、私の署名で「都知事候補の条件」と題した原稿が掲載さ れていました。詳しくは引用しませんが、東京オリンピック当時が副知事で、 大阪万博では事務総長をこなし、街が世界都市としてインフラ整備の面で十分 な機能を備え、いかに快適で安全な暮らしを確保するか、という命題に答えて きたのではないか。臨海副都心の計画もそういう考えの延長線上にあり、次の 青島知事の登場で潰えたが、世界都市博覧会の開催は、いわばオリンピック、 万博に次ぐ第3のイベントとして、都市の新たな再生を意図したものでした。


「財政再建」、「地方自治」、そして「都市再生」に手腕を発揮したという 風に捉えています。その考えは、いまも揺らぐものではありません。


盟友、丹下健三氏の設計になる新都庁舎が落成し、臨海副都心開発計画が動 き出しました。首尾よく分裂選挙で圧勝した鈴木さんの4選目に入ったことを 見定めて、私は異動になり、浅草を中心にした社会部下町支局のデスクに赴任 しました。37歳の夏でした。


後日、都庁キャップ退任の挨拶に鈴木さんを知事室に訪ねると、いやあ、と あの温和な笑みを浮かべながら出迎えていただき、そして、ご苦労様でしたな あ、とやはりその表情で見送っていただきました。私の心の中には、いつもや すらかな笑顔の鈴木さんが存在しています。


これはキャップさんには恒例のことで、と言葉を付け加えて、退任のお祝い にウォーターマンの万年筆をプレゼントしてくださいました。いまでも大事に 使わせていただいております。ありがとうございます。28日のお別れ会には、 この万年筆を胸に参列します。


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