◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2009/12/16 http://dndi.jp/

鳩山政権試練の90日、日本疲れと鳩山不況

 ・『編集手帳』の醍醐味、〈イッタカキタカ内閣〉
 ・大宅壮一氏の『匿名評論とジャーナリズム』
 ・文筆に命刻む杉山平助、康之助父子の矜持
 ・橋本正洋氏の『サイエンス・コモンズ(その2)』
 ・張輝氏の『自己点検か、明日に向けての奔走へ』
 ・山城宗久氏の『レッツ ピクニック』の巻。

DNDメディア局の出口です。この不況感は政権交代の代償ですか。この寒空を抱えてめっきり仕事が途絶え、しばらく寝ずに考えてみたが、やむなく社員らに退職を促したり、解雇を告げたりと苦渋の決断を迫られる経営者が少なくないらしい。周辺をみれば、働き盛りの40代が失業にあって身悶えし、事業仕分けで断罪された事業の末端では、糊口をしのいできた研究者らでさえ、突然の契約打ち切り通告で途方に暮れている。崖っぷちの雇用環境、この先、いったいどうなっていくのでしょう。せめて無事平穏にお正月が迎えられることを願うのみです。


考えてみてください。「子ども手当」で年間31万円を家計に入れても親が失業していたら、この手当ては生活費に回ります。また、この手当てを中学卒業まで続け高校の授業料を無償にしたところで、この子らの働き口が約束できなかったら元の木阿弥じゃないかしら。子ども手当や高校の授業料の無償化を否定しているのではありません。公共事業の復活も含め、景気の緊急対策を急いでやるべきではないか。そして、何より我が国の将来への指針となるべき経済の成長戦略を示すべきではないか。マニフェスト不況が、深刻さを増していませんか。


"鳩山不況"とも揶揄されています。そんな風評に鳩山さんら閣僚の面々は、それは前自公政権のツケであり、こんなに踏ん張っているのに…と、納得がいかないかもしれません。鳩山新政権発足から、ちょうど3カ月。いわば、なんでも大目に見過ごすハネムーン期間は今日限りでおしまいです。生暖かいフォローからアゲインストの寒風が吹いてきます。政権交代の高揚感で浮足立つ鳩山新内閣は、新政権から「新」の字が消え、メディアや多くの国民から厳しい批判にさらされることを覚悟しなければなりません。


さて、新聞を見ていたら、読売新聞2面トップに「日本疲れ」の文字が見出しとなっていました。どういう意味なのだろうか。記事は、日本とつきあっても、連立政権維持などの国内事情で問題処理能力が低いため、「できればかかわりたくない」となる敬遠ムードが、ワシントン周辺で静かに流行している、というのです。普天間移設問題の先送りという迷走ぶりは、「日本疲れ」を加速させ、日本の存在感低下へと波及していきそうだ、と伝える読売の記事は、これはある種警告であり、重く受け止めないといけない。


鳩山さんは、15日夕刻の記者会見で、「問題の先送りではないか」との質問に、「そうは思わない」と言い切って、(記者の指摘通り、誰が見ても先送り以外の何物でもないのに)「日米合意の重さ、沖縄の県民の強い思い、両方を同時に考えた時、いますぐ結論をだせば、必ず壊れる」と、そんなこったずっと以前から承知しているべきなのに、続けて「私は結果を出して壊す無責任なことはやりたくない」という。
その先送りが最も無責任であることに気付いていないのでしょうか。どう考えても、これは単に連立維持のための詭弁にしか聞こえない。つまり、多くの識者が指摘するように、その調整力と説得力が首相のリーダーシップであるはずで、何を優先するかの決断を放棄していながら、「無責任なことはやりたくない」というのですから、よく言えばその言葉の裏に、「誰からも嫌われたくない」という"友愛精神"がにじんでいるように感じられます。が、これでは八方美人的な処世にしかすぎず、やがてそれでは「誰からも相手にされない」ということになりかねない。


このところ、朝日新聞から記事を多く拾ったので、少し読売新聞に目を向けてみましょう。朝刊の名物コラム『編集手帳』は、筆が冴えてヒットを連発中です。読んで面白いが、そのリアリティが逆にシニカルで笑っていられません、ホント、鳩山さん、大丈夫かしら。  まず、こんなのから抜粋しましょう。


冒頭、「日銀総裁の一万田尚登氏は言い違えが多かった人で…」として、いくつか例に挙げます。〈一鳥二石の名案〉、〈ロード公団〉、〈プラトン輸出〉と。そして、続く本文は、こんな調子です。  ◆自民党の元副総裁、金丸信氏の言葉も忘れがたい。「タイムリミット」(制限時間)を間違えて〈タイムメリット〉と言ったことがある。無理に訳せは、時間がもたらす利益、だろう◆「普天間」の年内決着を断念するという鳩山首相は、金丸造語にならえば〈タイム"デ"メリット〉(時間がもたらす不利益)を覚悟しなくてはならない。日米首脳会談では「私を信じて」とオバマ大統領に気を持たせ、沖縄県民には県外移設もあるかのように気を持たせてきた◆米政府が手にした期待の石と、沖縄の人々が手にした期待の石は、時がたつにつれて大きくなる。裏切られたときに飛んでくる二石に身がすくんだか、優柔不断をきめこむ一鳥_鳩の了見がわからない。【12月5日付】


で、本日16日付の『編集手帳』。普天間移設問題の先送りというタイミングで、どんな切れ味をみせてくれるか。ここが書き手の腕の見せ所です。いやあ、期待以上に凄かった。


昔、ある遊女のもとに七兵衛、七郎右衛門という二人の男が通い詰めた。女は「七さま命」と彫った腕の入れ墨をみせて両人をたぶらかしたと、劇作家、高田保が著書「ブラリひょうたん」で手練手管を紹介している◆政府が「普天間」の結論を先送りし移設先を選定し直すことを決めた。鳩山首相の腕に"七さま"ならぬ、「O(オー)さま命」と彫ってあるかどうかは知らない◆沖縄の人には「オキナワの頭文字です」と匂わす。日米合意の現行計画を白紙に戻し、県外移設も含めて再検討するのだから、と。米国には「オバマ大統領の頭文字です」と匂わす。現行計画も選択肢には残り、関連予算も計上するのだから、と◆あっちに気を持たせ、こっちに気を持たせ、とりあえずの時間稼ぎと映るのも仕方ないだろう…(略)。
もう、この辺でこのコラムのオチは、お気づきでしょうか。


◆首相の一番大切な「Oさま」は、オキナワでもオバマでもない、その人かも知れない。
うまい!座布団3枚のノリでした。まあ、個人差があって笑える人もいれば笑えない人もいるでしょう。が、実際、現実問題はユーモアを飛び越えて笑っていられない。


いやあ、新聞って本当に凄いね。さて、オマケにもう一遍。


東北地方の独立国を舞台にした井上ひさしさんの小説「吉里吉里人」に、頭の二つある犬が登場する。名前を〈イッタカキタカ号〉という。◆(略)2匹の犬から作り出したもので、しっぽがあるべき側にも頭がある。前後どちらにも歩くことができ、あちらへ行ったかと思えば、そのままこちらに来ることがあり、名前もそこに由来する◆そういう犬が実際にいれば、どこに向かうのか、何をしようというのか見当がつかず、見ていて神経がまいるだろう。「普天間」の鳩山内閣がそうである◆きのう午前、首相は東京の公邸前で「日米合意を前提にしない」と語った。同じ日の昼、岡田外相は那覇市内で記者会見し、「日米合意はある程度、前提にせざるを得ない」と語った。東京と那覇にそれぞれ別個の頭をもつ胴体の長〜い犬をみているかのようである。迷走と呼ぶのはおそらく褒めすぎだろう。迷走は少なくても動きが目で追える。現在は迷走以前である◆〈イッタカキタカ内閣〉というのは、あまり名誉な愛称ではない。 【11月17日付】


作家の井上ひさしさんといえば、肺がんで治療中と記事にありました。妻のユリさんによれば、井上さんは新作戯曲「組曲虐殺」を書き上げた直後の10月末に肺がんと診断された、という。11月から抗がん剤治療を続けている。当面は、治療と静養に専念され、来春には自身の劇団「こまつ座」の新作の執筆に取りかかりたい考えだ、と記事は伝えていました。闘病中でも、なお、その創作意欲は壮絶なまで旺盛なのですね。


◇          ◇         ◇

さて、年の瀬を控えてはや、オフィスの大掃除です。いつか役に立つ、と思ってファイルにため込んだ相当の切り抜きや資料が、そのままです。一向に、その日は訪れません。もう不要と決めてどんどん捨てることにしました。


そんな折り、書棚を片付けがてら何気なく全集の一冊を抜いてページをめくっていると、その中にどこか見覚えのある名前に、ふと胸騒ぎを覚えました。ウム、ひょっとして、あれかも知れないぞ〜と。片付けの手を休めて、その名前の確認に、また書棚をあれこれひっくり返す始末です。


手元に引っぱり出したのは、評論家、大宅壮一氏の『大宅壮一選集』(筑摩書房)の第7巻「マス・コミ」でした。昭和34年8月の発行と古く、その背表紙はもう褐色に変色しています。それと、こちらは昭和55年11月発行の『大宅壮一全集』(蒼洋社)の第3巻。その名前が載った評論のタイトルは、選集・全集のいずれにも収録されている「匿名評論とジャーナリズム」でした。


書かれた年代を調べると、昭和10年と分かります。もう70年以上も過ぎている。購入したり手に入れたりしたのは、私が大学を卒業して間もないことですから、35年は経っています。どうして、今頃になってその評論で見た名前を調べる気になったのか、私にもその理由がよくわかりません。


胸騒ぎがしたのは、きっと、毎日新聞の記者で生涯独身を通し、名文家と言われながら若くして不慮の死を遂げた杉山康之助さんの事が、心のどこかでずっとわだかまっていたのかも知れません。憧れの人でしたから。康之助さんに関する事は、あとで触れます。


さて、大宅壮一氏の評論に話を戻しましょう。当時、といっても昭和10年代、文壇は著者の名前を伏せる"匿名"時代が横行しており、大宅氏はそれらの傾向やら、その功罪やらをあれこれ論じていました。


大宅氏は、その中で「もちろん」と断った上で、すべての評論は、堂々と名乗りを上げてなさるべきであり、いかなる場合も覆面の闇討ちは卑怯であって、さまざまな弊害を伴うものである、としながら、「匿名評論が盛んで"暴威を逞しくしている"ようにさえ見られるにいたったのは、それだけの必然性があってのことで、どんなに顰蹙してみたところで、この大勢はどうにもなるものではない」と認識し、そして、近頃は、「匿名評論の方が指定席を占め、裏木戸がいつの間にか玄関になってしまった形である」として、新聞や文芸誌に新設された匿名評論のコーナーを具体的に書きとめていました。


大宅氏によると、匿名評論のまず第一人者が、杉山平助氏という人物で、「すでにあまねく知られていてその点でもはや匿名性すら失っている」と論じ、東京朝日新聞の「豆戦艦」が杉山平助氏というのは疑う余地がない、というのです。
その辺の文章を読みながら、私がひらめいたのは、ここで登場する杉山平助氏は、毎日新聞記者の杉山康之助さんと、何か関係があるのだろうか、ひょっとして、それは「父と子」かも知れない、ということでした。すぐにピーンときて、それが確信に変わるのにそれほど時間はかかりませんでした。杉山康之助さんの遺稿集『御意見無用』を開けばいいわけですから。


しかし、不思議なのは、このジャーナリズムの匿名評論は、前出の二つの全集で何回か読んでいるのに、なぜ今まで気付かなかったのか。数十年ぶりで、泥沼から咲きだした蓮の花を見つけたような、うれしさ半分驚き半分の奇妙な感覚にとらわれているのです。


大宅氏の記述から杉山平助氏に関するところを引用しましょう。


杉山氏は、この数年、本名を隠して時に「氷川烈」、「横川丑之助」、そしてある時は「大伴女鳥」という風に名前を変え、その都度、評論の形式をいろいろと違えているという困難な操作を続けてきたのは、「ひとつの驚異である」、大宅氏は論じています。
杉山氏が匿名評論家として異常な成功をしたのは、「時に応じ気に臨んでなんでも分析し批判して、一応は割り切った形で読者の前にひとつの『答』を出してみせてくれるが、彼自身の思想的立場や、彼の属する文学的流派についてほとんど語らない。従ってボロを出す機会が少ない。それが匿名評論家の重要な資格の一つだともいえるであろう」と鋭く分析を加えているのです。いずれにしても彼は現代匿名評論界の第一人者で、杉山氏がこの風潮(匿名評論)を作り出した、といって悪ければ、この風潮の波に乗って現れた男である、と断じているのです。


朝日の「豆戦艦」のみでなく、『文藝春秋』の文藝春秋欄がずっと以前から彼の筆になることは、一読直ちに諒解できるものだ、という。『中央公論』の「街の人物評論」は、杉山氏と阿部真之助氏の筆である、と記述し、その勢いでついでに、都(新聞)の「大波小波」は、青野李吉、新居格、尾崎士郎、岡田三郎、高田保、杉山平助、舟橋聖一、新たに戸坂潤等の諸氏が書いている、と暴露していました。

その他、あれこれ政治、経済の雑誌のコラムと匿名評論家の名前を指摘し、もっと変わったところでは、『ダイヤモンド』で辛辣な財界批評をやった「文久銭老人」というものは、実は、福沢桃介氏だったということである、とその正体を明らかにしていました。
つまり今では、朝日の『天声人語』や、読売の『編集手帳』なるコラムは、そのすべてが新聞社に所属する記者が書いているわけだが、その当時は、文筆を生業にする作家や評論家らがそれぞれ担当していたのですね。今でいえば、フリーライターの走りのようです。


余談ですが、福沢桃介氏は、「日本の電力王」と呼ばれた実業家で、後に政治家となりました。また、日本初の女優、川上貞奴と愛人関係にあったことでも知られ、慶応義塾大学在学中に福沢諭吉の養子となり、諭吉の次女、房と結婚、1888年に渡米しペンシルベニア鉄道の見習いをしていた、ということなどウイキペディアで確認できました。


さて、その杉山平助氏なる人物は、どういう人か。つまりこのメルマガの狙いもそこにすべてがあるわけです。この名前を目にして、しばし考えあぐね、何か見てはいけないものを見てしまったような気になって、おそるおそる、そばにおいて長年大切にしている一書、飾らない名文家と言われた杉山康之助さんの遺稿集『御意見無用』を取り出してみたのです。


この本の中に康之助さんの家族の写真があるはずです。それを調べればいい。そのページに、幼少の康之助さんと、兄の平三さんがそろって父親の腕に抱きかかえられているスナップがありました。父親の名前が、「平助」と確認できました。職業が、文筆業となっていました。撮影が昭和14年3月とあるので、康之助さんが3歳のころの写真でした。やはり杉山平助さんは、杉山康之助さんの父親だったのですね。


このメルマガで何回か、毎日新聞記者、杉山康之助さんの『御意見無用』のことに触れていました。Vol.167「御意見無用のレクイエム」では、こんな風に書いています。


「御意見無用」の杉山康之助氏。なんだか、『毎日新聞社会部』を読んでいながら気がつけば、ずっと杉山康之助の名を探していたようです。あれは、僕が産経新聞に入社して、栃木県日光通信部に赴任しているときでした。昭和54年秋、遺稿集「御意見無用」(杉山康之助著、毎日新聞社会部記者と日比谷高校OB編)の社告を毎日新聞で見つけて、申し込みました。非売品でした。
 杉山さんの文章に触れて体に衝撃が走ったことをいまだに鮮明に覚えています。読んで、書き写して〜を何度も繰り返していましたから、ミュンヘン五輪の記事は、もう諳んじるほどでした。杉山さんのような記事が書きたい‐って思って念じて、ずっと社会部遊軍を志望していましたが、警視庁やら都庁キャップやらで、ついにその機会は訪れませんでした。
 が、その本をコピーして何人もの後輩記者に譲りました。686ページのボリュームですから、それも大変で終には同じ名前の記者にその本を挙げてしまいました。今となっては、とても残念で、いますぐ行って取り戻したい心境です。もう一度、杉山さんの、透明感のある、やわらかで静かな文章に浸ってみたい。いまだからこそ、いっそうそういう思いが強い。
 最終章の12章「田中角栄崩壊」には、杉山さんが不慮の事故で亡くなった状況が、同僚、上司らの追悼文とともに3ページ半にわたって書かれていました。
 〜1979年3月15日夜10時すぎ〜「杉山、何をしたんだ」と私(山本さん)は怒っていた。「杉山、人生今からじゃないか。お前の文章はこれからが勝負なんだ。それなのに死ぬなんて」と私の怒りは朝刊勤務の間中続いた。(中略)。きびしさとやさしさの同居したひとなつこさは同じだった。
 いやあ、享年42歳。なんとも鮮烈です。毎年、彼の命日の3月20日には、神奈川県平塚市の要法寺で、昭和36年入社の同期生で労働組合委員長だった大住広人さんが世話役となって彼の遺徳を偲んでいました。そこには、毎日新聞社会部記者と日比谷高校OBが集まり、それはもう27年も続いている、という。
 ネットで検索すると、元毎日新聞編集局長の牧内節男さんがホームページ「銀座一丁目新聞」のコラム「追悼録」(5年前の3月20日号)で、「ご意見無用は杉山君の口癖であり、生活態度でもあった。どこかニヒルで孤高の名文家にふさわしい言葉である」と語り、その野武士のような風情に20歳の女性がほれて、先輩らがお膳立てをしたが実らず、結婚の相手について「母親と似た人がいい」といってかたくなに独身を通した‐というエピソードを紹介していました。


これには後日談があって、杉山さんの元上司で編集局長だった牧内節男さんから、メルマガへの感想がメールで届き、その末尾に「『御意見無用』の本があるよ、差し上げます」とあって小躍りし、すぐに銀座にある牧内さんのオフィスを訪ねました。いま手元にある『御意見無用』は、牧内さんから贈呈されたものでした。


杉山康之助さんは、牧内さんが表現しているように、ニヒルで孤高の名文家でした。それは、どこから来るのか。そんな雰囲気を醸し出していたのは、父親、平助氏譲りじゃなかったか。匿名評論家の第一人者で、昭和10年という困難な時代背景にありながら、為政に迎合せず闊達な言論を挑んだ平助氏でしたから、ペンを持つ時、康之助さんの脳裏に机に向かう父親の姿が甦っていたのではないだろうか。そして、康之助さんの背中に宿る寂寥感は、その痛ましい家族の数奇な風景が、もたらしたのかも知れない。そんなことを改めて感じました。


平助氏は、昭和21年の12月1日、過労が重なって心臓を病み、病院で死去したのが53歳でした。その翌年22年の1月21日、今度は母、トミ子さんが看病疲れの上に肺炎を患い急逝したのです。享年45歳でした。康之助さんがまだ中学に上がる前のことでした。遺された康之助さんら幼い3人の兄弟は、どんな思いで両親の死と向かい合ったのか。
 同僚の一人で、とくに親しい間柄だった『毎日新聞社会部』の著者の山本祐司さんは、『御意見無用』の最初のページなどにこんなメッセージと寄せていました。


「彼はピーターパンのようだった」と告別式の夜、日比谷高校のクラスメートがいった。両親のいないピーターパンは、ウェンディたちをつれて冒険の旅に出た。終戦直後、10歳のときに著名なコラムニストだった父と母を相次いで失った杉山も年下の少年たちをひきつれ、ひたすら山に登った。(中略)。
 それが文章にも出た。ミュンヘン五輪でソ連に敗れた女子バレーボールチームについて彼は、さりげなく(書き出しで)「彼女たちには銀色のメダルがよく似合った」と書き、マラソンで5位に食い込んだ31歳の君原のゴールを「スタンドのあちこちを見上げ、だれかいないか、知ってる人はいないか、と探し求めているようだった」と書いた。
 それは、彼自身の投影ではなかったか、と思う。彼は飾らない名文を残したが、どれにも温かい目があった。それは、ギリギリと自分をさいなむ鬼気迫るような執筆態度からは想像すらできない。誇り高く、山と文章に命がけだった彼、独身のプロを自称し「3歳の少女のように毅然とした女の人なら‥」と言いながら、ついに男ばかりの世界で酒を飲みながら逝ってしまった〜涙が出て止まらなかった。


書物は、時計の針を巻き戻して、突如、甘酸っぱい追憶を語り出すものらしい。あれも、これもと関係する本を出し入れしていると、パソコンの周辺はいつの間にか、本の山に囲まれてしまいました。上手に抜き取らないと、山積みの本が今にも崩れ落ちてきそうです。


康之助さんは、昭和11年9月15日生まれでした。平助氏が文壇で華々しく活躍して時期と重なります。父親のDNAは、子に引き継がれるものなのだろうか。文筆に命を刻んだ父と子、そこに溢れる無言の思いが言葉以上に伝わってくるものがあり厳粛な気分にさせられます。


◆             ◆           ◆

【連載】は、橋本正洋氏の『イノベーション戦略と知財』の第10回「イノベーションの共通基盤、サイエンス・コモンズ(その2)」。
 【連載】は、張輝氏の『中国のイノベーション』の第30回「自己点検か、明日に向けての奔走へ」。
 【連載】は、山城宗久氏の『一隅を照らすの記』の第11回「レッツ ピクニック」の巻。


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