DNDメディア局の出口です。悲しみの深さが違って見えるのは、加藤和彦さ んの音楽デビューから、同時期をリアルタイムに過ごした影響からでしょうか。 これまでどれほど落ち着いた気分にさせてもらったか。幾つもの悲しみを忘れ させてくれたのもきっと、その時々の歌の力の賜物でした。
あの日に戻ったような気分で今も歌い継いでいるのだから、その与える影響 は大きいと思います。その訃報に言葉を失いました。繊細だから傷つきやすく、 上っ面ばかりの世相にもう嫌気がさしていたのか、どうか。その封印が解かれ て、悲しみが昔の切ない思いと一緒に溢れてくるようです。
いま聴いても新鮮で、ささやくようなソフトな歌声が心に響いてきます。そ れが逆に痛々しい。歌詞のリフレンが壊れたテープレコーダーのように頭の中 でぐるぐる回って止まりません。
悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。白い雲は流れ流れて今日も夢は もつれ…と、哀調を帯びた旋律の『悲しくてやりきれない』を聴くと、明日に 不安を抱いて悶々としたあの日にすぐ引き戻されてしまそうです。
〜あの時、ずっと夕焼けを追いかけていった二人の、と夜も更けるのも忘れ て合唱した『あの素晴らしい愛をもう一度』は、僕らの晴れやかな失恋賛歌で した。
クラスの休み時間に「おらは死んじまっただ〜」と、人を食ったような歌詞 の早回しのテープの電子音に、笑い転げながら口ずさんだ『帰ってきたヨッパ ライ』は、寒い師走の孤独を紛らわせてくれました。
そして私をシベリア鉄道に乗せてヨーロッパの放浪にかき立てた『青年は荒 野をめざす』は、常に耳元で音楽が鳴って旅の途中の先々で勇気づけられたも のでした。軽やかなデュエット曲の『白い色は恋人の色』といえば、リズムを 取ってハモる相棒の顔が浮び、いつの間にか知らないうちに熱いものが込み上 げてきます。
作曲者が、どこまでもナイーブだったからこそ、このような透明感のある曲 に人の機微をすくって見せられたのではないか、と思います。あれから40年、 そのメロディーの数々は、いつも胸ポケットにしまい込み、いざという時の魔 法のようなものでした。
■ニッポン放送が「緊急特別番組 加藤和彦さんを偲んで」
夜、久々にラジオでニッポン放送にチューナーを合わせて、ひとり部屋の明 かりを消して、その番組が始まる午後10時を待っていました。野球中継の延長 で放送時間がずれ込みましたが、その「オールナイトニッポンGOLD緊急特別番 組 加藤和彦さんを偲んで」は、冒頭から凄くて、最近収録した加藤さんのイ ンタビューが紹介され、リクエストにリスナーからのメッセージの紹介もあり、 なかなか充実した番組でした。「愛」を「歌」に変えて「あの素晴らしい歌を もう一度!」と語る、いつも軽妙なDJの小林克也さんの進行は、やや神妙なが らそつがありませんでした。
加藤さんのつぶやくような追憶が始まりました。
高校時代は音楽に興味がなかったことから始まって、東京から故郷・京都の 大学に入ったが友達がいないのでメンズクラブの雑誌に音楽仲間の呼び掛けを 投稿したら次号に掲載され、それで最初に来たのが京大の学生だった北山修で、 彼が妹のチャリンコに乗っていた―ことなどを楽しそうに語り、お互い183セ ンチの長身ということもあって、「背が大きいからやろうか!」という調子で、 その動機はとても単純でした。
参加者は最初8人いた。次々減って3人になって、あのフォークバンド「ザ・ フォーク・クルセダーズ」を結成したことや、音楽活動は、主に北山邸の応接 間を借りた。ある時、北山のお父さんが、これで活動を最後にするなら、と35 万円を貸してくれることになった。今でいう自主製作のインディーズの走りで、 曲の数が足りないため、応接間にあった妹の英語学習用のオープンリールの テープレコーダーをいじりながら、たまたま逆回転させて遊んでいるうちに出 来たのが『帰ってきたヨッパライ』でした。
この作品をあっちこっちのラジオ局に持ち込んだら、『帰ってきたヨッパラ イ』と、『イムジン河』にリクエストが殺到した、という。バンド解散記念に 出したアルバムが爆発的に売れ、無名の学生らが一躍スターになった瞬間でし た。
加藤さんは、このヒットで手にした資金でアメリカに旅行したり、ロンドン に渡ったりしながら、音楽とファッションの結びつきを意識した、という。そ の体験が、新しいポップミュージックを創りだす加藤さんの源泉となったよう です。その後、帰国して音楽プロデューサーとして、泉谷しげるさんの『春夏 秋冬』、吉田拓郎さんの『結婚しようよ』などといった代表的な作品を世に送 りだしました。パートナーとなる作詞家、安井かずみさんとのコラボで、数々 のヒットを生む。『家をつくるなら』や、竹内まりやさんの『戻っておいで・ 私の時間』、松任谷由美さんの『黄色いロールスロイス』などは、その代表作 でした。
また市川猿之助さんのスーパー歌舞伎では音楽プロデュースを、映画「パッ チギ」では音楽監督をそれぞれ務め、映画では毎日映画コンクールで音楽賞を 受賞しました。昨年からは大腸がん撲滅キャンペーンに参加するなど、表に裏 に、その創作活動の範囲を広げて、その才能をいかんなく発揮していました。
夕刊フジは、19日発行の追悼特集で、9月28日に行った加藤さんのインタビ ューを掲載していました。そこで加藤さんは、当時の反戦フォークの全盛につ いて、「米国にはベトナム戦争があった。でも、日本で、安保反対と歌っても 説得力がない。そこに違和感を覚えた。政治スタイルではなく普遍的なテーマ を歌うべきと思った」と述懐し、反戦フォークの代表のように言われたことが ある『イムジン河』の曲については、「特別な政治意図はなく、単純にいい曲 と思った」と述べて、こう続けていました。
:ゆったりと流れる、望郷の「イムジン河」:筆者写す
「北朝鮮の歌とは知りませんでした。もともとは友人の松山猛君が中学時代 に朝鮮学校で聴いていた歌で、日本語の詞は、彼に書いてもらった。舞台は、 朝鮮半島ですが、僕はそれだけがテーマじゃないと思う。『イムジン河』は、 どこにも流れている。国と国、上司と部下、男と女。人と人の間にできる 『溝』ととらえることができる」。
加藤さんの歌の中でとても鮮烈なのが、この『イムジン河』でした。個人的 な感想で恐縮なのですが、この歌が好きです。
「イムジン河水清く とうとうと流る 水鳥自由にむらがり飛びかうよ 我 が祖国南の地 おもいははるか イムジン河水清く とうとうと流る〜」
朝鮮半島を分断するイムジン河を自由に飛ぶ水鳥に祖国の統一を託した曲で、 その松山さんの手になるオリジナルの日本語の詩が素晴らしい。発売当初の19 68年、北朝鮮の作詞・作曲名が明らかにされていなかったことが問題となって 発売禁止に。発売されたのが、それから34年後の2002年といういわくつきの曲 です。この歌を聴いたのは確か、高校に入った頃でした。オールナイトニッポ ンやTBSのパックインミュージックなど深夜放送が全盛で、ラジオからその曲 が流れていました。また、フォーク音楽の専門誌には、その音符と歌詞を掲載 していました。私といえば、それらを見ながら憶えたてのギターでコード譜を なぞって口ずさんでいました。いくらやっても上達はしませんでしたが…。
それでも、イムジン河への思い入れは強く、それ以来ずっと、つい最近まで その思いを引きずっていました。イムジン河ってどんな河なのか、と。そのチ ャンスがめぐってきたのは、2007年10月、DND連載コラム「学術の風」の筆者 で、前日本学術会議会長の黒川清先生からお誘いを受けたソウル訪問の時でし た。その翌日の14日朝早く、みんなと別行動をとり、観光のオプショナルツ アーのワゴン車に家人と乗り込みました。すると、そこで思わぬ出来事が待ち 受けていたのです。
■イムジン河の畔から北朝鮮を遠望
:ソウル市内から一路西へ。
収穫を控えた田園にこっけいなかかしが並ぶ。
ソウルの中心部を流れる漢江(ハンガン)を左手に見ながらワゴン車は一路 西へ。約1時間、行き着いた先が、朝鮮戦争で捕虜の引き渡しが行われた自由 の橋でした。38度線の境界を隔てて、そこから先は統制区域で行き止まりです。 広い原っぱに、近在の田畑も見え隠れしています。周辺に張り巡らされた鉄条 網がなければ、一見、どこと変わらないのどかな田舎の風景でした。ここが緊 張感漂う、南北の国境でした。
:イムジン河に手前の建物から北朝鮮の対岸まで最短の3.2キロ。
そこから再び、来た道を戻って烏頭山の高台にそびえる統一展望台にむかい ました。売店には、北朝鮮産の品々が展示即売されているのも奇妙な印象でし た。が、ガイドに案内されて屋外の階段から通じる展望室に上がって望遠鏡を のぞいてみました。ここからの遠望が圧巻でした。
:統一展望台に表示されていた模型パネル。
イムジン河をはさんで対岸エリアの詳細を表示。
望遠鏡からまず飛び込んできたのは、なんとものどかな水辺の風景で、河は
霞の中でゆったりしていました。干潮時らしく中洲付近におびただしい数の水
鳥が群れていました。北朝鮮の対岸まで3・2キロ、河に地雷が埋まる危険地帯
だというのに、その餌をついばむ水鳥の姿は穏やかでした。欠伸がでそうなく
らい平穏な息遣いが感じられました。
:半島の地図
これが半島を二つに分ける、悲劇のイムジン河だ。あの歌詞の3番に「河よ、 思いを伝えておくれ、ふるさとをいつまでも、忘れはしない」と歌われたよう に、この場に立ってみれば、なるほどそうか、祖国の統一を願う切々としたイ ムジン河の歌詞の意味が納得できました。松山さんが詩に託した心情が、伝わ ってくるようでした。歌が、この情景に溶け込んでいました。
思わず、そこでイムジン河の歌を口ずさんでいると、中年の韓国の男性が、 私に近づいてくるので、少し警戒して身構えていると、望遠鏡用のコインをく れる、という。コインをひと握り手渡すと、さっと去っていきました。
:展望台から望む
今度は、もらったコインを入れ、望遠鏡の方角を水辺から対岸に移すと、は げ山の斜面に不釣り合いな3−5階建てのさっぱりした白いアパート群が見えて きました。初めて目にする北朝鮮の街でした。イムジン河に沿って田園風景が 広がり、ちょうど実りの収穫期を迎えているようでした。道路を歩いていく人 の姿が確認できました。列をつくってお昼にアパートに帰って行く姿がのぞき 見えるのです。
ここが北朝鮮の宣伝村だという。ガイドの説明では、この国境のイムジン河 の北側に4000人が住み、そのうち軍人さんが6割という。北朝鮮では"豪奢"な アパートが完備されてこんなに豊かな生活を与えられていることを誇示してい るのだという。ふ〜む。だから宣伝村というのか、住民はいわば映画のエキス トラなのだろうか。なんの悪戯か、戦後からずっと長く移り住んで、ここで人 生の終末を迎える人もいるのだろうか、と思うと、なんだか遠い昔の冷戦の犠 牲を強いられているようで胸が締め付けられそうでした。
この山の斜面で精悍な顔つきの若者が白い牛を追いかけている、顔にしわを 刻んだような老人が数人、陽のあたる坂道をゆっくり歩いている、女性の一群 がアパートを出たり入ったりしている…。音のない光景に生活の臭いが感じら れませんでした。
どのくらい眺めていたでしょうか。そろそろコインも尽きる頃、突然のこと でした。耳に懐かしいメロディーが響いてきました。メロディーは、先ほど私 が口ずさんでいた懐かしいあの『イムジン河』でした。なぜ、ここであの歌が、 と一瞬、わが耳を疑うほどでした。幻聴ではありません。韓国女性の、のびや かなハングルの歌声がスピーカーから流れてきたのです。いやあ、驚きました。 なぜ、ここで?じゃなく、この地だから『イムジン河』なのですね。願っても ない演出だと思いました。イムジン河で、この歌を聴くとは…。
:展望台で望遠鏡を見る観光客ら。
そのメロディーに合わせて、私が日本語で歌い始め、続いて家人がそれに続 くと、そばにいた女性ガイドは目を白黒させていました。どうしてこの歌を知 っているか、と聞いてきました。この歌は、イムジン河という歌でその所以を 説明すると、やや表情を赤らめて「歌の事も、その話も知らない」という。韓 国の歌が日本人にポピュラーで、韓国の人にはなじみが薄いらしいのです。
今度は、私が驚く番でした。空高き秋晴れ、微風。展望台からは『イムジン 河』の歌のボリュームがひときわ大きく聴こえてくるようでした。帰りの坂道 には、ピンク、白色のコスモスが揺れていました。ワゴン車内では、連れの家 人がガイドさんにこの歌を教えていました。
:自由の橋から筆者。背後は北朝鮮に通じる陸橋
:国境を隔てる自由の橋。
:行き止まりの、鉄格子の間から、北朝鮮側を見る。
さて、それでね。東京・秋葉原のタワー・レコードなどのCDショップを回っ
てみました。若い男性の店員さんに「フォーク・クルセダーズか加藤和彦のCD
はどこにありますか?」と聞くと、「誰ッ、それ!」と、愛想がない。いやあ、
返す言葉がありませんでした。「新聞ぐらい読めよ、バカ!」と言ってやりた
いのを抑えて、「邦楽のコーナーはどこ?」と聞きなおしたくらいでした。
■【『「イムジン河−春』と『感謝』」
棚に、「加藤和彦・第1弾LP『ぼくのそばにおいでよ』」と、「『加藤和彦 ボレロ・カリフォルニア』(ニック・デ・カロ全面参加、名作集。安井かず み遺作)」のCDが2枚あったので買いました。どれも、軽やかで素直な癒しの 加藤サウンドが満載でした。随分と古い初期のころの作品らしい。
その足で、もう1店舗に別のショップに入り、そこで見つけたのが『ザ・フ ォーク・クルセダーズ、新結成記念解散音楽會』と題した2002年11月17日にNH Kホールでのライブを収録したCDでした。その日のために新結成し、そしてそ の日限りで解散という貴重なライブの模様でした。加藤さんは勿論、北山修さ ん、坂崎幸之助さんらメンバーに加え、泉谷しげるさん、佐野史郎さん、中島 啓江さんら、そして冒頭の口上を務めた市川猿之助さんら豪華ゲストが登場し ていました。歌は、コキリコの唄、戦争は知らない子供たち、花、悲しくてや りきれない、イムジン河、あの素晴らしい愛をもう一度などを披露していまし た。そこに、『イムジン河―春』という新しいバージョンが付け加えられてい ました。「イムジン河春の日に 岸辺に花香り 雪解け水を得て北と南結ぶ ふるさとの歌声よ 渡る風となれ イムジン河とうとうと 青き海に還る」と いう詩でした。花香る春の再訪を楽しみにしましょう。
※『イムジン河』は、作詞:朴世永さん、作曲:高宗漢さんとありましたの でご参考までに付記します。
このメルマガは、このCDを聴きながら打っているのですが、その中に、とっ ても切ない曲を見つけてしまいました。作詞が北山修さん、作曲が加藤さんで、 加藤さんがあの甘いやさしい声で歌い上げていました。ご存知の方も多いと思 います。LFの追悼番組でもリクエストされていた『感謝』という曲です。
これは、帰らぬ人への感謝の意を伝えるレクイエムであり、今思えば、それ がなんだか、さらば愛しき者よ、と加藤さん自らの覚悟を暗示しているように 思えてなりませんでした。
僕らの思春期と重なる歌を多く遺してくれたからでしょうか。加藤和彦さん の訃報は、時間を追うごとに哀しみが深くなってきます。これらの曲のすべて が、炭鉱町で育った私にとっては、未知なる都会のメロディーであり、初めて 感じる風だったのかもしれません。ありがとうございました。
もう手遅れかもしれませんが、その「感謝」の言葉を加藤さんの元へ届けさ せてください。心からご冥福をお祈りいたします。
【コラム】黒川清先生の『学術の風』は、『「外から見える日本」を理解する 努力』です。本文にもありますが、このところ「外から日本を見る」という視 点で問題提起されており、例えば、元SONY会長の出井さんが主催する「Asia I nnovation Forum」(9月14、15日、六本木ヒルズ)を紹介し、また月刊誌「GO ETHE」のインタビューに答えて、ご自身の体験から「日本を外から見ると、問 題点が気にするようになり、そして客観的に語れるようになる。それがビジネ スリーダーの要諦」という意味のことを指摘されています。黒川先生の世界を ひとまたぎする行動力と知力に、感服します。どうぞ、英語版もご覧になって ください。
【連載】特許庁審査業務部長、橋本正洋さんの『イノベーション戦略と知財』 の第7回「NEDOカレッジ〜イノベーションの参考書」です。橋本さんが、NEDO 在任中に始めた「ナショナルイノベーションシステム論と産業技術政策」の講 義全15回の最終講義の話題を取り上げています。対象は、若手職員と社会人と いうことです。特段の思い入れを感じさせています。この項では、イノベーシ ョンにかかる必読の参考書を紹介し、解説を加えています。どうぞ、皆様もご 参考にしてください。橋本さんは、08年に東京大学大学院工学系研究科の博士 後期課程修了し、ご専門のイノベーション論で晴れて博士(工学)となってい ますので、特に産業技術政策はお得意の分野かもしれません。
【連載】比嘉照夫氏の緊急提言『甦れ!食と健康と地球環境』の第15回は、い よいよそのターゲットを我が国の実証に移して、関心の高い『EMで甦った東 京・日本橋川』の第1回目です。EM技術による河川や湖沼の水質浄化は、京都 で開催の第2回水フォーラムでの参加者からの投票で、もっとも実用的で技術 として最高点を採ったのがEMでした。このことは、あまり知られていないので す。意図的に無視したような形跡がうかがえるというから、この国の妬み体質 といったら情けない。メディアも知らんぷりする。まあ、私がEMを全国紙で初 めて取り上げた時は、社内外からそれなりの圧力がありましたが、メディアな ら己の目で確かめて、それでかつ科学的な評価を加えて見てほしいものです。 風評を鵜呑みにする体質は改めるべきでしょう。
さて、比嘉先生のご報告は、京都の二条城のお堀も、大阪の道頓堀も悪臭が 消えています。そして、東京の名橋日本橋保存会が進めている橋を洗う活動に 際して、合成洗剤では逆に川を汚すのでは、という疑問からEMのシャボン玉石 鹸の存在を知り、EMの投入が始まったのです。平成17年のことです。その運動 に参加している千代田区や地元の関係者の顔ぶれの凄いこと、加えてどういう 仕組みで川のヘドロを浄化するか、そのEMの技術力をご確認ください。わずか 1年そこそこで、日本橋川が見事に甦っているのです。
なお、「EMサミット近畿in奈良」が11月22日(日)、なら100年会館を会場 に開催されます。天の橋立・阿蘇海の浄化や和歌山の農業・流通・食、三田市 のガーデニングなどの事例発表や、地元・奈良東大寺の池の浄化と松の蘇生、 海外事例などに続いて、比嘉先生が「EMが日本の未来を変える」と題して講演 します。交流会(参加費3000円)も用意されています。問い合わせは、奈良実 行委員会電話078−987−3330(萬谷さん)、0743-57-3133(後藤さん)、07 5-467-1878(吉彌さん)まで。
【連載】山城宗久氏の『一隅を照らすの記』の第3回「本場アイリッシュコー ヒーの巻」。アイルランドの新基本条約「リスボン条約」批准の話から、彼の 地、アイルランドの首都、ダブリンを訪れた15年前の体験に言及し、そこでの 興味深いエピソードを紹介しています。アイリッシュコーヒーはいかが?国際 通の山城さんらしいコラムのです。江戸落語でいえば、さしずめ、饅頭こわいかな!