◆ DND大学発ベンチャー支援情報 ◆ 2009/10/07 http://dndi.jp/

カタオカザクラ秘話、日光植物園70年の邂逅

 ・サクラ博士、久保田家の敬虔な人々
 ・信州・塩尻のサクラ公園の実現を!
 ・のり夫君のクレヨンの不思議
 ・DND新企画「最先端の技術・製品群のDB構築」へ
 ・服部健一氏の「時勢が決めた2016年の五輪開催国」
 ・塩沢文朗氏の「90年比25%削減」

DNDメディア局の出口です。霧雨の日光。広大な敷地を誇る植物園の一角で 、信州生まれのそのサクラはやや小ぶりで、ひっそりと慎ましやかに佇んで いました。気をつけていないと、うっかり見過ごしそうです。控えめで質素 にみえるその老木に、人の魂を揺さぶるドラマが秘められているとは、園内 の管理人とて、気付いていないかもしれない。


 
写真:苔が幹を覆うカタオカザクラの老木と山下正和さん


近づいて見れば、樹齢を重ねているとはいえ、褐色にくすんだ幹に緑色のペ ンキを垂らしたような苔や、伸び放題の雑草が枝先から生えて満身創痍の風 体は、もう誰からも忘れ去られたかのようで、やや痛々しいほどでした。が 、その歳月を思うと、その風雪に耐えながら春になって花をつける姿は、気 丈なご老人の凛とした品格を感じさせるではありませんか。


さて、その樹の名前を示すプレートの「カタオカザクラ」の文字と、「Nori oi」のラテン語から、どんなメッセージが読み取れるでしょうか。


戦前に信州で最初に確認されたこのサクラのルーツを求めて、なぜ今頃にな ってこの日光植物園にわざわざ信州から人が訪れるのか。サクラの発見から7 0年余り、幻の桜と呼ばれ、幾度も絶滅の危機を越えられたのは、ひとり"サ クラ博士"の家族の絆に加え、もうひとつ人智を超えた何かが働いたではな いか、と思わざるを得ません。


カタオカザクラ、なんの変哲もないこの平凡な名前とは裏腹に、その来歴を 調べると、サクラの命運と発見者の家族の不思議なドラマにぶち当たってし まいました。塩尻市教委の発刊で、はまみつを氏の「カタオカザクラ物語」や 、ゆかりの人が残した資料などによると、そもそもの発端は、信州・塩尻市 の片丘小学校の教職にあった植物研究家の久保田秀夫さんが、植物の採集の ために出かけた庫裏平(くりだいら)の学有林の草原で、偶然、その小さな サクラの樹を見つけたことでした。コブシの白い花が咲く1938年の5月のこ とだった、という。


珍しいのは、高さ50センチに満たない細い木の枝なのに、いくつかの愛らし い花をつけていたのです。その時、これまで調べた文献から久保田さんの脳裏 をめぐったのは、"ワカキノサクラ"でした。ワカキノサクラは、若木の サクラ、または稚木のサクラとも綴ります。発芽して2歳の翌年には、もう 花をつけるというくらい早熟で、著名な植物学者の牧野富太郎氏が、郷里、 高知県佐川町の尾川城址付近で1890年に発見した新種でした。


高知から遠く離れたここ信州・塩尻の片丘の近辺に、ワカキノサクラがあろ うハズがない。また、この周辺にはカスミザクラの大木が多いので、これは カスミザクラの幼木かもしれない。が、いくらなんでもこんな幼い木に花を つけるとは珍しい。ひょっとして、植物の世界の大発見となる新しいサクラ かもしれないと、胸を躍らせていたのです。久保田さんは、このサクラの葉 や花を顕微鏡でのぞいて細かく書き写し、研究に調査に時間を割いて資料作り に励んでいました。


ちょうどこの時期でした。待望の長男、詔夫(のりお)さんが産まれたの です。サクラの発見とのり夫君の誕生は、どこか因縁めいたような予感が最初 からついて回っていたのです。


久保田さんは、信州・松本で生まれました。松本第2中から長野県師範学 校(信州大学教育学部)に進み1933年(昭和8年)の卒業です。最初の赴任 地は、下伊那郡大鹿村鹿塩小でした。その教職のスタート時から、例えば山 梨に通じる三伏峠で、サンプクリンドウ、コヒナリンドウなど新種のリンド ウを発見し、学会で発表するほど、植物がなにより好きだったのです。


久保田さんに植物研究や観察の面白さを教えたのは、中学時代の恩師、河野 齢蔵先生でした。『日本高山植物図説』を著され、白馬岳の高山植物を初め て学会に発表された方でした。久保田さんも、身近な生活周辺にあって食べ られる植物を調査してまとめた『食用植物』−片丘村を中心とせる野生植物 −という実用的な著作を一早く表わしていました。


久保田さんの当時の教え子らは、いまそれらを思い起こして、こう綴ってい ました。


「私たちも、ナズナ、フキノトウ、オコゲ、セリ、タラノメと、食べられる ものは知っていたのですが、まさかアカザやトテコッコ、それにタンポポや ケヤキ、ネムノキの葉まで食べられるとは思いもよりませんでした。先生は 、お弁当に入れてきたアザミやギシギシ、カキドオシやスベラヒユの油炒め やてんぷらを、ひとりひとりの掌に分けてくれました」(はまみつをさん)


はまさんは、久保田さんの教え子のひとりです。当時を述懐して、ノコギリ ソウから始まって、ワラビにいたるまで219種もある食用植物の数の多さに まず圧倒され、続いて、薬草についても説明を聞いて、人間と植物との深い 結びつきに新鮮な感動を憶えていたようです。


胃には、キハダ、センブリ、リンドウ。下痢には、ゲンノショウコ、ワレモ コウ。熱には、アジサイ、ウメ、クズ。皮膚には、ギシギシ、カラスウリ。 止血には、ヨモギ、チガヤ、ユキノシタ。せきには、オオバコ、アンズ、ナ ンテン‐など、私たちは植物によって生かされていることを教えられた、と 述べて「この世には花という美しい世界があり、どの種もその植物にしかな い特性をもってこの大地に根づいている」ということを強く意識させられた 、と語っているのです。


花を生徒ひとりひとりに置き換えてみれば、どんな花にもかけがえのない役 割や個性がある、と解釈できます。ほんとうに、随分と、しっかりした実践 的教育だったのですね。さすがは、教育立県の伝統が息づいているような素 敵なエピソードでした。


ところで、植物観察といえば、昨秋に私が参加した信州大学と松本市の「健 光ツーリズム」(今年は10月22日から24日、現在、市では参加者を募集中で すhttp://www.city.matsumoto.nagano.jp/kanko/event/kenko/index.html) で、散策の案内役を買って出た「野麦峠自然学校」の会長・古畑富清さん( 71)は、やはり地元の地理や植生を知悉する生き字引で、植物博士のようでした。 それもこれも若い時に、きちんと自然や植物などの教育をうけていた、とい うことでしょうか。草の根一本、木の葉一枚、赤い実ひとつ、そのすべてに 名前があり、古畑さんは、それを全部そらんじていました。


さて、戦後を迎えて、久保田さん一家は、転任のため塩尻から松本市に引 越します。その際、庫裏平の珍種のサクラ2株をその後の研究のために鉢植 えにして持っていくことにしました。それからまもなくの1947年、久保田さん に思いがけない転職の話が舞い込んできたのです。植物研究のグループ雑誌を 通じて懇意にしていた日光植物園の主任からの口利きによる日光植物園への誘 いでした。


日光植物園の歴史は古く、東大理学部附属小石川植物園の分園として1902 年(明治35年)に開設されました。日光の高山植物の研究が目的でした。また 、小石川植物園のその淵源は、江戸時代までさかのぼります。日光の史家の 説明では、三代将軍の家光公は江戸城の北と南に薬園を開き、本草学の研究 に力を注いだという。これを5代将軍の綱吉公は小石川白山に移設し、小石 川薬園と呼んでいました。そして、江戸時代から植物にめぐまれていた日光は 、薬草採取の条件が整っていたといえるのです。東照宮周辺では朝鮮人参が 栽培されていました。


少し横道にそれてしまいました。久保田さんが日光に着任した時、のり夫君 は4歳に。塩尻から持ち帰ったサクラの鉢は、ひとつは枯れ、最後のひと鉢を日光植 物園に移すことにしました。が、困った事に植物好きの、のり夫君が、鉢を抱 えて離さないのです。のり夫君への説得は、「このサクラはのり夫君と同じ 時に生まれていながら、いまだ名前がない。可哀そうなので、大学の先生に 見てもらって早く名前をつけてあげたいから、植物園に移すんだよ」と説得 したという。のり夫君は、植物園の官舎から、毎日その桜を見に行っては、 クレヨンで絵を描くのが日課となっていました。


ある日のことでした。のり夫君のクレヨンが1本も無くなっていることに 久保田さんが気付くのです。やんわりたずねると、サクラの木の下にクレヨ ンを埋めたという。クレヨンを埋めると、パステルの色がサクラに移って、 いまにきっと、黄色や赤や緑色の花をつけたサクラが生まれてくる、と思った という。ふ〜む、幼い子の想像する力とは、どこまで広く大きいのでしょう。


久保田さんは、植物園内に高山植物を植栽するための築山、ロックガーデ ンの増設工事に追われていました。そのガーデンは、やがてシラネアオイ、 コマクサ、ウサギギク、ゴゼンタチバナ、イワギキョウ、ガンコウラン、キン ロウバイなど百種をこえる植物が咲き乱れるようになるのです。広大な園内 の庁舎付近にある築山は、いまなお健在で花の数を増やしています。


日光に引っ越した久保田さんの生活は多忙を極めてきました。一日として 気を抜くことをよしとしない久保田さんが欠かさなかったのが、日曜毎の礼 拝でした。官舎から歩いて約20分、家族そろってキリスト教会に通うのが、な によりのやすらぎだったようです。長野市の師範学校時代から教会に通い、 久保田さんはパウロという教徒の名前をいただいていました。


最初の試練は、そんな折のことでした。のり夫君が急逝したのです。日光 にきて2年、わずか5歳と8ケ月の短い人生でした。のり夫君は、大好きなサク ラの名前を知らぬまま逝ってしまったのです。 が、そのサクラがまったく新しいサクラの新種と判明するのは、それから3年 後のことで、塩尻の片丘で発見されてから9年目に入っていました。日光植物 園に、サクラの調査で訪れていた国立科学博物館・植物分類学者の大井次三郎 教授に、この研究の成果を報告したのです。このサクラは発芽して2−3年で花 を咲かせるし、花をつけている部分、花柄(かへい)の苞(ほう)からも葉が でてくるのも極めて珍しい。また若い枝をとりまくうっすらした白色の毛は、 他のサクラには見られない特徴となっているーことを強調しました。これを受 けて、大井教授は、「これは新品種に間違いない。大発見です」とその場で太 鼓判を押し、学会での発表を約束してくれたのです。


新種であることが証明されました。久保田さんは、そこでサクラの和名を 考えなければなりません。サクラ発見の地名から「カタオカザクラにしてほし い」旨を伝えました。すると、今度は教授の方から、もうひとつの学名、世界 共通の名前は、「私にまかせていただけないか?」と申し出られたと言う。 1952年5月『植物研究雑誌』に発表された学名は、なんと…。
Kataoka-zakura 片丘桜 'Prunus verecunda Koehne f. Norioi Ohwi,
詔夫(のりお)さんの名前が学名につけられていたのです。ラテン語でNorioi とは、ノリオの、という意味で「ノリオのサクラ」という風に解釈でます。 この新しいサクラ、可憐で楚々とした「カタオカザクラ」の発見は、大き な反響を呼びました。でも、塩尻の地元ではさほど話題にはなりませんでした 。が、久保田さんは、その功績で植物研究者としての名声を得ることになるの です。やがて、植物のご研究にご熱心な昭和天皇のご観察の案内役をおおせつ かるほどになっていったのでした。



写真:学名が表示されたプレート。「norioi」の文字


が、絶頂の久保田さんに災難がふりかかりました。ある年の暮れ、実験室からの失 火で、大学時代からの多数の書籍、文献、実験器具、丹念に集めてきた植物 標本や自らが写生した植物図譜の大半を焼失してしまった。「花びら一枚、メ シベ・オシベのひとつひとつを顕微鏡でのぞき、丹念に画き写した貴重な原 図」だった、という。唯一残ったのが、日本最初の洋風植物画といわれる五 百城文哉(いおき・ぶんさい、1863−1906)著の『日本山草図譜』でした。


そして、思わぬ変報が日光の家にもたらされました。あのカタオカザクラ の発祥の地、塩尻の片丘周辺にある庫裏平一帯の山が、山火事に見舞われ、 すっかり焼け野原と化してしまったのです。山火事は、猛威をふるい半日燃え 続けました。記録によると、10ヘクタールに及ぶマツ・カラマツを焼き尽く し、貴重なカタオカザクラもすっかり焼かれしまい、根断(ねだ)やしになっ てしまった。塩尻を離れる時、サクラの鉢を置き去りにしていたら、2鉢とも 枯れていたら・・・久保田さんは、数奇なサクラの運命に思いをはせるのでした


これらの災難を契機に、久保田さんの感心は、高山植物から野生のサクラへ と移り、研究の方向も様変わりすることになりました。その結果、宇都宮で 発見した、なんとも華やかな「雨情しだれザクラ」、高岡市での「フタガミ ザクラ」、四国の石鎚山系では「イシヅチザクラ」、さらに、のり夫君を埋 葬した修道院の庭のサクラ3粒の種から芽生えた1本が新種の「思川ザクラ」 になるなど、全国を行脚し、その行った先々で新しい桜を次々に発見したの です。それで、その数50種に及んで野生のヤマザクラ研究の第一人者となって いきました。やはり人柄なのでしょう。新種のサクラの命名にクボタの文字が 見当たらないのです。


当時、新米記者の私は、日光在任中、「奥日光戦場ケ原賛歌」というタイト ルの連載で、写真家の秋山庄太郎さんら10人のゆかりの人物を取り上げました 。そのシリーズで、自然保護に生きる久保田さんにも登場していただきました。 私が25〜26歳の頃でした。ご一緒に奥日光の湿原を歩いた時のスナップ写真です。




写真:連載の取材で写真家の秋山庄太郎氏と若い頃の私=奥日光戦場ヶ原で


さて、久保田さんは、サクラを探して全国の山々を歩くうち、ダムや護岸工事 、道路舗装などによって次々と自然が荒らされる悲しい現実に向き合うこと になります。このため、1970年(昭和45年)に日光に「日光の自然を守る会 」を発足させ、奥日光の「戦場ケ原・鬼怒沼湿原の保護に関する調査」に乗 り出しました。現在でも活動は、引き継がれて続けられています。また 、サクラ愛好者からの問い合わせや、その調査や確認のために、それまで以 上に多忙な日々が続いた、と資料は記述していました。


全国でたった1本、日光にしか存在しなくなったカタオカザクラ。この1本が 枯れたら、幻のサクラになってしまう危惧が拭いきれません。あの山火事以来 、カタオカザクラは絶滅してしまったと、地元の多くの人はそう思いこんで いました。当時、片丘の教育委員長だった古沢源七さんが、なんとかカタオ カザクラを再び甦らせようと立ちあがり、焼け野原を歩いて自生のカタオカ ザクラを探してまわりました。しかし、見つかりません。そこで、古沢さんは 、一縷の望みを久保田さんに繋いで、再生のためのアドバイスをもらおうと 手紙を書いたのです。それで、日光植物園に最後の1本が生存していることを 知らされるのでした。


カタオカザクラを復活させよう―久保田さんは、日本花の会の結城農場に協 力を依頼し、日光植物園の老木の新芽を接ぎ木して苗木を育てようと試みた のです。カタオカザクラといえる苗木3本をなんとか取り寄せることができ たのは、それから5年後のことでした。久保田さんが、塩尻の片丘から2株の 鉢を持ち帰って40年の歳月が流れていましたした。里帰りしたタカオカザクラは、塩尻市 庁舎の庭に植えられました。


久保田さんが、地元の招きで片丘の地を再び訪れたのは1991年6月、サクラ 発祥の庫裏平に「片丘ざくら之碑」が建立された時でした。翌年、市民参加 による「片丘ざくら保存会」が誕生し、カタオカザクラの増殖、育成の講習 会が開かれ、原木からの挿し木も成功し、カタオカザクラの2世があっちこ っちで誕生し始めたのです。市政50周年、地元の片丘小の代表が市内全域の 児童、生徒700人の前で、郷里のカタオカザクラの研究報告を行ったという。
 やがて、そんな遠くない先に、カタオカザクラ の公園が整備され、春に開かれるサクラ祭りは、ひそやかで清々とした風情 のある祭りになるに違いない。


◇              ◇            ◇

『日光植物園を訪ねました』


ほんのり色づき始めた日光植物園


この6日のお昼ごろ、紅葉に少し早い日光の、その植物園に私も久々に足を 運んできました。百聞は一見に如かず、の諺通り、まず現場へ。そこの正式 な名称は、国立大学法人東京大学大学院理学系附属植物園日光分園です。略 して"日光植物園"。うっそうたる木々が覆う広大な敷地のゲート前に、20分 早く到着すると、「日光の自然を守る会」の事務局長で、久保田秀夫さんを 師匠と仰ぐ、山下正和さんが、塩尻からのお客様をお連れして待機していま した。

こちらを確認して「本当にきなさった!」と、いつもの柔和な顔を向けてく れました。ご存知でしょうか、DNDメディア塾の夏合宿を日光で開催した時 の日光古道の案内役が山下さんでした。その折、カタオカザクラの由来をお 聞きして感動し、塩尻から保存会の方々がカタオカザクラの原木を見に日光 に来られる時は、お声かけください、と頼んでいたのです。


信州・塩尻市からのお客様は、元JA塩尻の横山加(いさお)さん(83)、桜 井胤男さん(83)、百瀬栄子さん、それに塩尻市立片丘小の校長、青木正治 さん(56)の4人でした。地元日光からは山下さん、そして現在日光真光教会管理 人の久保田智さん、という顔ぶれでした。塩尻からのご一行は、「片丘ざく ら保存会」(会長・小沢謙吾さん)の方々で、桜井さんと百瀬さんは副会長 でした。久保田さんは、久保田秀夫さんのご次男で、詔夫さんの弟になります。

さっそく、表のゲートから舗装のない砂利道を下って、サクラの場所を目 指しました。ここは、なんと3万1千坪の敷地に亜寒帯に生育する植物ざっと2 200種類が植栽されているのです。日光駐在当時は、ちょくちょく訪れては 、季節の花だよりを記事にしました。2月下旬の定番は、黄色の花をつける マンサク、まず咲く、という語呂からマンサクなのだそうで、日光に春、と いう記事をこの花の開花に合わせて書くのだが、花は咲いても2月は厳寒。 やや季節外れの記事だったかもしれません。日光の高山植物が咲いて、春の 到来を実感するのは5月下旬ごろですから。



色の濃いマムシグサ


さて、私の追憶はさておいて、先を急ぎましょう。歩けば、東にアス ナロ林、西側の道に沿って背丈の高いシャクナゲの群生が広がっていました 。木々や草花の脇に名前が書かれたプレートが、一本一本きちんと立てられ ていました。途中、枝ぶりいい高野槇が天を突くようにそびえています。見 事でした。そこから少し行くと、赤や緑の色がちょっと毒々しいマムシグサ が目に飛び込んできました。一緒に歩いていた久保田さんが、そのマムシグ サで思い出したように語りかけてきました。


写真:見事な枝ぶりの高野槇


父(秀夫さん)が亡くなったのは2002年の11月14日、享年89歳でした。病 床に伏していたというか、検査のために病院に入り、亡くなるまでの18日間の 、そのある日のことでした。枕元で父が、珍しくこんなことを告げるのでした 。実は、いままでいろんな新種の花を発見しては名前を付けたが、たったひ とつだけ、「クボタ」の名前を付けた花がある。それが、クボタテンナンシ ョウだという。テンナンショウは、天南星とも書く。テンナンショウは、マ ムシグサの仲間だったのですね。

 

そんなこと初めて聞きました。父は、何をどうした、とか、あれはこうだ った、とか、そんな昔語りを一切しない寡黙な人でしたから、今更ながら、 なぜあの時、おもむろにそんな説明をし、「クボタ」の秘密を明らかにした のか、伝えておきたかったのでしょうね、と述懐していました。


智さんは、ご尊父と似て控え目で、人の心を読み取るような静かな雰囲気を 醸し出していらっしゃる。優しさが表情や仕草に溢れていました。聞くと、 ご母堂、秀夫さんの愛妻、いちよさんは、どういう人だったかというと健気に 秀夫さんを陰で尽くしきった母親だったという。秀夫さんが逝って、 1年もたたない間に、まるで秀夫さんの後を追うように翌年の8月4日に87歳の 生涯を終えました。


さて、日光植物園に話を戻しましょう。数分後、その現場に着きました。 やや下り坂の左斜面に、高さ2mほどの古木がひっそりと息をひそめているよ うでした。その隣に、接ぎ 木から植栽したカタオカザクラの2世が、一歩下がって控えるように植えら れていました。こちらの樹皮は、灰褐色で艶があり、やはりまだ若い。 が、木の枝先に苔が覆い始めているのが、気がかりでした。


山下さんが、この苔をそぎ落としてやらないと、やがて枯れてしまう心 配がある、と眉をひそめていました。なんだかパーマネントを掛けたような 印象だね、と百瀬さん。もう、かれこれ70年になるのに、まだこのくらいの 低木で、しかも幹も細い、と観察が鋭い。




山下さんを囲んで、接ぎ木談義に花が咲きました。山下さんが解説し ます。接ぎ木のコツは、新芽の出る6月ごろが最適で、使う土といえば…と いうところで「鹿沼土!」と答えたのは横山さんでした。山下さんは、それも いいが黒土です。山から採った水捌(みずは)けのいい黒土を使うのだ、という 。ところが、水捌けがいいということは、乾燥が早く日当たりがいいところを 選ぶと枯れやすい難点がある、という。なるほど、参考になりますね。


さて、そんな話をしながら、校長の青木さんも、久保田さんも、横山さんも 、桜井さんも、紅一点の百瀬さんもみんなその命を繋いだ老木に近寄って、 枝などにはびこった苔や雑草を素手で取り除いていました。植物園の管理は、 どうなっているのか、という疑問の声があがっていました。いやあ、それをや れる手間暇はない、というか、自然のままを尊重している感じがある、と山下さん。 どなたかが、年に1回でもこの原点のカタオカザクラの苔除去を やりにくれば、と提案していました。シャッターを押しながら話を聞いていると なんだか、みんなで先祖の墓を掃除しているような感じに見えました。こんなに 汚れて気の毒、悲しくなっちゃうなあ、とは横山さん、でした。


写真:カタオカザクラを囲んで、参加者の記念撮影


清々として慎ましやかに立ちつくすカタオカザクラの老木。確かに、樹齢 が70年以上ですから、朽ち果てる寸前の憂いを漂わせていました。しかし、 節くれ立った黒い幹を眺めていると、最後まで諦めない、 というような勇気を感じさせてくれました。

ファインダーをのぞいていると、その存在がひとりの偉大な植物学者の生き ざまと重なります。紅葉は、もうすぐ。少し色づき始めたカタオカザクラの 枝や葉の間から、久保田さん一家は、懐かしい故郷・信州の青い空が透けていたかも知れません。この 木の根付近から不思議なことに新たな生命が宿り、すくっと50センチくらい の枝を伸ばし始めているのを山下さんは、見逃しませんでした。これをそこ から上手に離して植え替えれば、もうひとつ原木から脈々とつながる確かな カタオカザクラが誕生するはずだ、という。


この樹の下に、のり夫君がかつてクレヨンを埋めたのを憶えていま すか。あれから70年の邂逅。周辺の木々が揺れて、卵型をした小さな葉っぱ が数枚、ハラリと散りました。拾いあげて手に取ると、その葉の表にクレヨン で縁取ったようなギザギザの線が浮いていました。黄色、赤、それに緑の色、 小さな手で無心で描く姿が見えたような気がしました。



写真:山下さん(中央)、久保田さん(右)そして私


以上


◇              ◇         ◇

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DNDでは、技術者・研究開発者に向けた新製品・新技術情報誌日工フォーラ ム(深田晋爾編集長)との連動で、今回から特設のDNDinnプロダクツを開設し 、順次、製品や技術の紹介に努めていきます。日工フォーラム誌の無料購読 の申し込みも可能になります。またローコストでのメルマガ広告、新製品の 掲載を受け付けることになりましたので、お気軽にご相談ください。円高や 景気低迷の影響で、企業の経営環境の悪化が取りざたされています。いまこそ 、ネットを活用し、自社の優れた技術を発信してください。  ※お問い合わせ先:DNDプロダクツ係、03−5822−9820担当:出口


深田編集長は、連動企画の開始に当たり、次のようなコメントを寄せて います。


「金融危機の後遺症で日本のものづくりの現場、特に中小企業は引き続き厳 しい状況が続いています。独自の技術を持ち寄って共同受注の工夫をしたり 、仕事が減って空いた時間で自社製品の研究開発に取り組んだり、不況だか らこそできることにチャレンジしている前向きな企業もあるわけです。 『日工フォーラム』は、そうした前向きなものづくり企業を応援する生産財 情報誌です。そこでこの10月の秋季特大号の計測機器メーカーのユニパルス 、特殊ポンプエーカーの伏虎金属工業、表示灯メーカーのパトライトなど、 厳しい中でも元気な企業の新製品や新技術を数多く紹介しています。わが国 最強の大学発ベンチャー起業支援サイトのDNDとの連携をご期待ください」と。


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【連載】塩沢文朗さんの『原点回帰の旅』の第57回「90年比25%削減」です 。このところ、環境問題に鋭く切り込んでいる塩沢さんの論説は、鳩山首相 の国連演説での公約について、各国から高く評価され、オバマ大統領から も「勇気ある発言」との賞讃を得たとの報道をベースにいくつか問題点を指摘 されています。


まあ、「勇気ある発言」の真意は、それはさておいて、と言いながら実は この辺に微妙な裏が見え隠れしているところを結びに突っ込んでおりますので 、それはお読みください。  で、論点の一つは、「そんなに大変な負担を日本国民にもたらす可能性の 大きい削減目標であるにもかかわらず、日本のCO2の排出量は世界の4%程 度に過ぎませんから、日本だけがCO2の排出を大幅に削減しても地球温暖化 対策としてはほとんど効果がありません。地球温暖化を食い止めるためには 、世界全体のCO2のおよそ半分を占めているにもかかわらず、現在の京都議 定書では何ら排出削減義務を負っていない米国、中国、インドなどの国々を 国際的な排出削減の枠組みに取り込み、さらに、今後、CO2排出量が大幅に 増加する新興国に排出削減に向けた努力を促すことが必要です」の文節で指 摘の米・中・インドの削減。


そして、その2が、


「中国やインドに一定の排出削減の努力を課し、そして、米国を新たな国際 的な枠組みに取り込むための鍵は、先進的省エネ技術や新エネ技術の移転を 中国、インド、その他の新興国に約束することなのです。したがって、今後 の国際交渉の大きな焦点は、技術移転を促進するための仕組みづくりとその ための資金の確保になっていくものと思われます」とする技術移転と資金。 その3は、 「前回の原稿で書いた『国際炭素市場構想』と排出削減量の公約の関係を考 えると、私は、今回の『90年25%削減』の公約が、日本の将来に禍根を残す ような気がする」という国家の懸念の表明です。どうぞ、考えるヒントとして 、要チェックです。


【連載】米国弁護士、服部健一さんの『日米特許最前線』の50回「時勢が決 めた2016年のオリンピック開催国」。タイムリーなテーマを間髪入れず、原 稿をまとめ上げられるところは、もはやジャーナリスト越えの力量と感心し ました。で、なにより、服部さんの原稿の人気の高さは、その英文の原文が 参考に添えられていて、日本語と英語の微妙なニュアンスの違いが手に取る ようにわかることです。英語の学習にもなる。 その冒頭、 〜ブラジルのルラ大統領は、「南米が一度も開催していないことは、とにか くアンフェアだ (Its simply unfair that South America has never hosted the games.)。 この不公平さを追求しなければならない時だ (It's time to address this imbalance.)。 とあたかも差別があったことをほのめかして訴えてきた。 IOC委員の多くは、発展途上国の委員であるから、これほど 強い説得力はない〜と、その裏事情を抑えたうえで、アメリカの負け方に惨 めさに言及していました。なぜ、アメリカが簡単に敗れたのか、自問し、そ の核心に迫ろうと試みているのです。 キーワードは、この時勢の波。「時勢の波に乗ってきたその2人が、世界の 全く別の次元の時勢に敗れたのは、余りに皮肉ではないか」という指摘です 。この2人とは何を指しているのか。謎解きのようにお読みください。 そして、司馬遼太郎の歴史観を披瀝しながら、重要なポイント突いているの です。この辺の展開は絶妙ですね。 結論を書いてしまうのは、映画の封切り前に結末をばらしてしまうような反 則行為だとするなら、どうするか。主語を外してしまえばいい。 「アメリカ型の野望は、何か時勢の本質を見誤ったずれが見られる」と。本 文をお読みになれば、その意味するところが手に取るようにわかるハズです。


※今回は、特許庁の審査業務部長、橋本正洋さんの『イノベーション戦略と 知財』の第6回「オバマのイノベーション戦略」、東大産学連携本部副本部 長の山城宗久さんの『一隅を照らすの記』の第2回「みちのく2人旅」は、サ イトにアップしますが、ご紹介は来週にいたします。今回は予告ということで 、失礼します。



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