DNDメディア局の出口です。逮捕から17年半ぶりに自由の身に…。これが無 実であるなら、その忌まわしい冤罪の汚名や奪われた長い歳月を、どう償われ るのか。「捜査が間違った」ではすまされないし、いくら謝罪の文言を並べて も、失われた時間は、決して取り戻すことはできないのですから。科学捜査の名目で捜査現場に導入された当時のDNA型鑑定への過信が、これまで多くの悲劇を生んできたに違いありません。そして、その乱用によってどんな誤った「自白」が強いられたことか。いくつかの教訓を示唆した「足利事件」の再審請求めぐって、「ここを解明しなければ、この事件は終わらない」‐という弁護士の魂の叫びは胸にズシンと重いものがありました。
その日以降、菅家さんは笑顔でテレビ各局に生出演し、逮捕から17年半に及 ぶ、その苦衷の胸の内をとつとつと語り始めました。逮捕のショックで逝った 父親、2年前に亡くなった母親に話しが及ぶと、「狂いそうになった。許せない」と表情を曇らせる一幕もあり、今日まで頑張れたのは支援者らの励ましのお陰で、それがきっかけでウソの「自白」を覆して「『やっていない』と言ってこられた」と、「自白」から「無実」へと供述転換のきっかけも明らかにしていました。
「足利事件」に強い関心を持っていたのは、足利が私の2度目の赴任地で、8 4年11月に起こった5歳女児の殺害事件を取材し、菅家さんが逮捕されてまもなく、過去に起きた同様の女児殺害の2件の未解決事件をも自供したというニュースを聞いて驚いていたからです。それは、後に不起訴や事件性なし、となるのですが、そのことにも当初から、「この捜査はおかしい」という印象をもっていました。その辺は、後で詳述しますが、さて、逮捕当時、新聞各紙がどんな報道をしてきたか、ちょっとふれましょう。
足利通信部は、宇都宮支局の支店のようなもので1社1記者が常駐する、街の駐在員です。勿論、この手の事件となれば、警察取材や近所の聞き込みなどにも走り回り、写真を撮り、記事も送る、というスタイルです。が、この地方記者の悲哀は、いきなり東京管内の特ダネ競争に翻弄されてしまうことです。
聞くと、菅家さんの逮捕のケースもそうでした。菅家さんは事件翌年の91年12月1日朝早く、足利警察の署員に自宅アパートに踏み込まれ、足利警察署に任意同行されました。そして、その夜に、女児殺害、死体遺棄を自供してしまいます。その翌2日の朝刊に「幼稚園バスの運転手逮捕へ」の記事がスクープとして、毎日新聞社会面に大きく載り、読売、朝日の各紙には1面に急きょ突っ込んだ感じで掲載されていたのです。紙面の記事の扱いや、どの配達地域に掲載されていたか、などで情報キャッチの速さが見てとれます。
先行していたのは毎日で、栃木県エリアに配られる新聞に、名前は特定していませんがきっちりその犯人逮捕への記事が載っていた、という。読売や朝日は、各紙で慣例となっている早版交換、それが特ダネか何か重要な記事が掲載されている場合、あえて早版の交換を停止する、そういう協定を結んでいるのですが、1日夜の日、毎日新聞はその新聞を交換停止する旨を各社にアナウンスしていたようです。そのため、「毎日新聞が特ダネを打っている」ことを察し、その内容を掴むために各担当に指示して現場を走らせて、そして締め切り時間、ぎりぎりの最終版に滑り込ませたらしいのです。読売と朝日は、締め切り時間が最も遅い東京エリアに配られる新聞だけに、この情報が掲載されていました。つまり、これが「足利事件」の発端なのです。情報のネタ元は、霞が関の警察庁といわれています。地元の県警や足利警察署周辺には、その「リーク情報」はもたらされていなかったようです。栃木県警に強い取材網を張り巡らす地元新聞は、いつもこのやり方で出し抜かれるのです。地元新聞は、夕刊がないので記事は2日遅れになってしまいます。
それが12月2日の事件報道、続いてその暮れ近くになって、今度は、過去の 未解決事件ふたつ、79年の渡良瀬川の河川敷で見つかった当時5歳の女児の殺 害事件と84年の私が担当した時期にあたる、女児の殺害事件につい ても菅家さんが犯行を認め、自供したーというニュースが警察庁情報で流され るのです。その確認に足利の幹部に宅に訪ねると、「そんなことは前からわか っていることだべなぁ」と一喝された、とかつての同僚から聞いていました。
警察庁が威信をかけた科学警察研究所のDNA型鑑定。その信ぴょう性への疑 問も持たず、検証する間もなく、ただリークされるままに"特ダネ"に興じるメ ディアのあり方も、この辺で一区切りした方がよいのではないか。もう誰が犯人かとか、いつ逮捕かと いった、あんまりインテリジェンスが感じられないものには、いつも危うさが ついて回ります。警察、検察情報のみに頼らざるを得ない この手のニュースは、読者にとって1日早いかどうかはそれほど重要ではないハズです。求められてい るのは、数日遅れても事実をきちんと書くことです。そうしなければ、第2、第3の 「足利事件」を助長する恐れがあるからです。
事件記者として自戒を込めての主張です。実際、そういう現場を踏んできた から、身にしみているのです。時間と労力のムダです。そんな、人の不幸を扱 った特ダネで昇進したり、左遷させられたり、新聞協会賞にノミネートされた りと、なんだか変じゃありませんか。「足利事件」の戒めを思うと、警察、検 察、裁判所ばかりか、新聞メディアもその責任の一端はあると思います。新聞 は、自分たちがどんな記事でミスリードしてきたか「足利事件」を参考に、古 いDNA型鑑定が決め手となって実刑となった過去の事件をもう一度検証し、事 件取材のあり方を見直すべき時期にあると思います。もうすでに取りかかって いる社もあるでしょう。この秋の新聞大会にも期待しましょう。
少し長くなりましたが、さて、菅家さんが出演するテレビで、ギクリとした 場面がありました。7日(日曜)午前10時のテレビ朝日「サンデープロジェク ト」でした。司会者の田原総一郎さんの巧なインタビューで、菅家さんは、 逮捕当時を回想し、女児殺害に至る「自白」の全容を、その手振り身振りを交 えて生々しく再現したのです。
田原さんの質問は、ポイントを外しません。
「12月1日朝、いきなりひっ捕らえられた。その時、ドーンと肘鉄をくらった。警察に連れていかれて、その晩に自白されたのですか?」、そして「自白」調書の一部を書き写したクリップボードを示しながら、「なんにもしていないのに、こんなストーリーが、なぜ出てくるのですか?」。
その質問に菅家さんは、「こんなストーリーが、なぜ出てくるのか」という質問趣旨を理解しないまま、誘拐し、殺害にいたる事件の核心部分を語り出すのです。
「マミちゃんという子を、自転車を使って連れ出した、と。パチンコの駐輪場ですか。そこから私の自転車を使って両替所までいって、で、両替を済ませて…マミちゃんがしゃがんでいたんですよ。両替所の前で。マミちゃんの座っている姿を見まして、声をかけまして、自転車に乗るかい、と誘って、それからマミちゃんを後ろに乗せて、土手の方面へ誘っていったんですよ。土手から自転車で下っていったんですよ。野球場の後ろにネットがあるんですよ。そこを通って河川敷まで行きまして、自転車を置いて、マミちゃんを下ろして、それでなんというか、マミちゃんの首ですか、シメ…」
「首を絞め…」の個所では、両手を自らの首にそえて絞めるマネをしているところで、田原さんが思わず口をはさんでしまうのです。
「いま、おっしゃっているのは、菅家さんがやったんじゃなくて…」(田原さん)、「じゃなくて」(菅家さん)、「おまわりが、そういう風に言っているわけですね。やったんだぞ!」(田原さん)。
そこで同席の弁護士、佐藤博史さんが、その説明に入ることになるのです。
「お聞きになって誤解されるのですけれど、そういう風にしゃべったというのです、彼は」(佐藤弁護士)。「(彼というのは)おまわりがね」(田原さん)。「違うんですよ、それが。自分(菅家さん)でね、懸命に考えてね」(佐藤弁護士)。 「ストーリーを作らされたんですよ」(ジャーナリストの大谷昭宏さん)。「そうです。そのストーリーをちゃんと(菅家さんが)憶えていて…」(佐藤弁護士)。
佐藤弁護士は、そこから菅家さんの話を聞いている人は、自分の体験を話し ているように思ってしまう。自転車に乗っていた、というところは事実ですが、 法廷でもですよ、よーく聞かないと、自分が体験を話しているように聞こえま せんか?
「(菅家さんの話を聞いていて)途中でね、こんなことをやっていたのか、と 思った、いま…」(田原さん)。「田原さんが助ける意味で、警察官が言った だろうと言ったでしょ。それがねぇ、(菅家さんに)聞くと、(警察官が言っ た)そうじゃなくて、自分が考えて言うんですって。どうですか、これをねぇ、 裁判官としてこの供述のウソを見抜くのは、なかなか難しいのでは…」(佐藤 弁護士)。
佐藤弁護士は言葉を続けて「警察官の言うことは正しいのですよ。本当の ことを言ってくれ、本当のことを言ってくれ、とずっと言い続けるのです。そ れで懸命に彼は考えたのです。これは強い誘導と思います。本当のことを言っ てくれ、ということは、それまでのことはウソということ、納得しないという ことなのですね。それで(菅家さんは)納得してもらうストーリーを懸命に考 えるのです」と菅家さんが自白に至る、心の葛藤をそう読み解くのでした。
そして、佐藤弁護士は「聞いている側(刑事ら)は、誘導をしていませんから、(菅家さんが考え抜いて創作したストーリーを聞いて)本当のことをとうとう言って(自白して)くれたと思ってしまうのですよ」と、説明していました。
う〜む。あくまで「自白」は、取り調べの刑事に強く迫られた挙句の創作ス トーリーという前提なのに、ご覧になった多くの視聴者がそうであったように、 さすがの田原さんも、キツネにつままれたような表情を浮かべて、繰り返し念 押しするのです。「いまおっしゃっているのは、菅家さんがやったんじゃなく て、刑事がそういう風に言っているわけですね」と。
この番組を見るまでは、菅家さんのいわゆる「自白」は、取り調べの刑事ら があらかじめ調書を作成し、その調書を読み上げる形で、「こうだな、ああだ な〜」という風に容疑者の頭に刷り込んで、供述調書を作ったのではないか、 と想像していたのです。が、どうも様子が違うようです。また、髪を引っ張っ たり足を蹴飛ばしたり、と取り調べの中で脅しがあったか、という質問に対し て、菅家さんは、「ありません」とその行為を否定していました。
また菅家さんはこの自白について、朝日記者のインタビューで、「『証拠があ る』といわれ、やっていないのに動揺した。自分でも訳がわからなくなった」 と話し、「その場から逃れたいと思った。刑事たちが怖くて…。『やっていな い』と言うと、怒鳴るんです。再現しないと何をされるかわからない。もう 『どうにでもなれ』ってなっていった」とその殺害までの経過をストーリーに 仕立てなければならない動機の一端を語っていました。
自白は、創作のストーリーだったのですね。それも17年以上も前のストー リーを鮮明に聞かせることができる、というのも少し気にはなりました。しか し、マミちゃんの首に両手をかける仕草をし、それをリアルにテレビの前で演 じながら動揺のかけらも感じさせなかった菅家さんは、やはり何か"台本"をそ らんじている、という風に私には映りました。
まあ、未解決事件の中でも、私が取材に関わった84年の5歳の女児の場合は、 同じ殺害とはいえ、その遺体の扱いに違いがあり、マミちゃんと79年のそれ は河川敷に無残に放置していたのに対して、それは、土手を掘って「遺体を安 置している風な扱いだった」と当時の取材メモに書き残っていました。思いだ して、もう80歳になる当時の足利警察署長に電話で聞いてみたのです。すると、 もう昔のことで大半は憶えていないが、あの事件は忘れようにも忘れられない。 確か、遺体に布がかぶせられていた」と話し、菅家さんが全面自供というニ ュースを聞いた時、「それは少し違う、同一犯とは考えられない」と直感で思 った、と話してくれました。
79年の女児殺害、84年のそれ、そして90年のマミちゃん事件、3件のむごい 女児殺害事件の捜査は、再び振り出しに戻ってしまいました。足利の周辺では、 近在の群馬県太田、桐生でも女児殺害の事件が未解決のままなのです。行き過 ぎた県警の捜査は、その非難は免れようがありません。が、警察、検察を責め るだけでは問題解決の糸口は見えてこないと思います。メディアを含めて、こ こは真摯に、「なぜ、自白のウソを見抜けなかったか」、「自白はなぜつくら れたか」を様々な角度から検証すべきです。そして、もうひとつの問題が、DN A型鑑定という科学捜査でした。
菅家さん逮捕の決め手とされたのは、繰り返しになりますが、91年11月に出 した警察庁の科学警察研究所(科警研)のDNA型鑑定でした。栃木県警が導入 したばかりのDNA型鑑定で、女児の着衣に付着していた体液と菅谷さんの体液 が一致したとして、翌12月1日に殺人と死体遺棄の疑いで逮捕に踏み切った のです。DNA型鑑定が有罪認定の決定的な根拠とされたのですが、再審のドア を開いたのも結果的には、弁護側が02年12月に宇都宮地裁に再審請求に用意し た独自のDNA型鑑定の新証拠でした。その間、6年間その扱いを放置してきた挙 句、08年2月に再審請求を棄却した宇都宮地裁の対応には疑問がありますが、 再審請求の棄却を受けて弁護側は東京高裁に即時抗告し、その年の08年12月に 東京高裁がDNA型の再鑑定を決定し、そして本年5月、検察側が再鑑定の結果を 受け入れて再審が確定的になったのは、最新技術の進歩で鑑定の精度が飛躍的 に上がったという背景がありました。
菅家さん逮捕の決め手となった足利事件が、科警研が誇ったDNA型鑑定導入 の第1号というDNA型鑑定の黎明期で、その鑑定を覆し菅家さんの再審を可能に したのもDNA型鑑定というのも皮肉なことです。1991年当時の鑑定の精度は、1 85人に1人という確率で、足利市内で犯人と同じDNA型は220人存在する計算だと いうが、その同じDNA型鑑定の現在の精度は数兆に1人という天文学的な数字に なっているのですね。この20年余りの進歩で、科学捜査のフィールドが様変わ りです。が、その人の顔や表情、仕草から、犯人かどうか、その人の特質や印 象を感じとる力が大切じゃないかーと、佐藤弁護士が指摘する通りだと思いま す。再審の扉を開いたのは、菅家さんと同じ幼稚園の送迎バスの運転手をして いたことがある、足利市内に住む、主婦の眼力でした。この人は、そんなこと やれる人じゃない、と。現在まで、菅家さんを支援してきた西巻糸子さん(5 9)です。菅家さんは、釈放後の記者会見で、「(西巻さんらの)支援者のお 陰で、『やっていない』と頑張ってこられた」と御礼を述べていました。
また、西巻さんら支援者グループ、佐藤弁護士、真実に迫った著作があるジ ャーナリスト、日テレなどメディアの取材も含めて、菅家さん釈放の裏には、 数多くの人の正義の戦いがあったのですね。まだまだ我が国もまんざら捨てた もんじゃない、ということでしょうか。