DNDメディア局の出口です。夕闇迫る、関東平野。その地平線に向かって埼 玉県北部の国道を突っ切ると、車窓に街路のケヤキ並木が次々と現れては消え ていきます。冬枯れの広い風景はその寂寥感からでしょうか、なぜか切なく胸 を締め付けてきます。薄日の中をもう少し走れば、その街の一角に彼の家があ る筈です。
あれから30余年、再び会えるのなら、きっと夢の続きを見せてくれるに違い ありません。地方記者が輝いていた時代の、ともかく夢中でちょっぴりセンチ メンタルな、あの日の自慢話をどこから始めますか、澤井さん。
朝日記者の澤井武次さんは、疎ましいほど潔癖な記者でした。新聞社の地方 支局のその最前線で身近な読者の息遣いを伝える、通信局駐在でその多くの記 者生活を過ごしました。その赴任の先々で、平凡な庶民の営みを慈しむのに、 なぜ、そこまで接待や施しを拒絶し嫌ったのか、記者仲間に波風が立って、朝 日らしいとの風評が嫌味にさえ聞こえていました。眼を閉じると、その時々の 記憶が鮮烈に甦ってきます。
澤井さんとの出会いは、栃木県の日光通信部時代の昭和52年秋にさかのぼり ます。1社1人制の仕事場が、家族との住まいをも兼ねる通信局、産経新聞など は通信部と呼んで私の初任地でした。澤井さんはそれまで何箇所も地方都市を 転戦してきたベテランでしたね。今から思えば、澤井さんは40歳ちょっと前で した。そのほぼ3年余り、一緒に充実した時間を過ごしていたのです。
社が違えばライバルか、といえば案外そうじゃない面もあって、それだから といって慣れ合ってつるむわけではありません。気心が知れて親しくさせてい ただきました。記者の心得や取材のヒントなどをアドバイスしてくれました。 記者は、他社の先輩から教えを乞うことが多いのです。よく仕事をし、その勢 いで酒もよく飲んだものです。
浜っ子(横浜生まれ)で、そのダンディーぶりには定評があり、いつも身ぎ れいにしていました。長身で筋肉質、髪型は短めの裕次郎カットでした。それ で、嵐を呼ぶ男じゃありませんが、ともかく曲がったことが大嫌いで、すり寄 る誘惑の魔の手を諫め、利権に群がる欲深な連中を心底嫌って、席を同じくし ませんでした。菓子1折、ウイスキー1本、どんな理由があっても受け取りませ ん。温泉場での接待はもっての他で、宴会やただ酒はご免こうむりたい、とい う態度でした。
頑固で融通がきかない、だから朝日はえらぶるし、気位が高いのだ、と記者 仲間から陰口をたたかれていました。届け物はなんでもみんな突っ返すから、 最初のうちは誤解も生んでいたようです。これっぽっちの利得をも警戒してい たのでしょうか。そこまでしなくてもと、誰もが思う。が、そこは絶対に譲り ませんでした。
一度、その真意を探ると、「うち(朝日)は、ご法度よ」と言葉少なにいう。 しかし、同じ朝日でも後任者が、まったく逆張りというケースは、ままあるこ とですので澤井さんの場合、何か別の理由があるのではないか、と私自身いぶ かったくらいです。
さて、澤井さん宅に、いきなり訪ねて驚かせては迷惑ですし、そうは言って もあんまり前もって訪問日を伝えて身構えてもらうのも気が引けます。この辺 の間が難しい。そこでご自宅まで30数分という距離で、電話を入れると、奥様 の昌代さんから、あらっ!長らくご無沙汰でございました。ご活躍をお聞きし ております。お忙しいのに、わざわざすみません、それではお待ちしておりま す、という落ち着いた声が返ってきました。用件は、もう伝える必要はありま せんでした。
「夫 武次儀 去る二月七日午後十五時五十九分 心不全のため享年七十歳 にて急逝いたしました。葬送の儀につきましては故人の遺志に従い近親者のみ にて執り行いました。早速のご通知を差し控えておりましたが…」
あの元気な澤井さんが亡くなった。「日光に今度、ご一緒しましょう」と電 話でやりとりしてから、気がつけばもう4−5年も経っている。今年こそ連絡し なくては、と強く意識していた矢先の訃報でした。無念でなりません。どうし よう、すぐに電話する方がいいのか、急いで自宅に伺った方がいいのか。誰に 相談したらいいのだろうか。日付を確認すると、ハガキが届いた日は初七日に あたっている。取り込んでいらっしゃるのではないか。でも、このままじっと してはいられない。「挨拶に伺う」と決めるその日まで、実はパニック状態で、 毎日毎晩、電話しようか、どうしようか、とオロオロしていたのです。
そのご自宅周辺一帯は、国宝の鉄剣が出土した稲荷山古墳があり、「さいた ま」の名の発祥の地でもある、静かな佇まいの古代文化の里でした。着いたら、 もうとっぷり日が暮れていました。玄関先ですぐにお暇するつもりでしたが、 いざ実際に訪ねてみれば、次から次とリアルな回想がめぐって、身動きがとれ ませんでした。
整理の行き届いたその隅の床の間から、線香が揺らいでいました。真新しい 祭壇は、いくつもの花籠で埋め尽くされていました。正座してゆっくり顔を上 げると、そのすぐ目の先に、微かに表情が緩んだ柔和な澤井さんが、こちらに 視線を合わせていました。ロウソクの灯がその遺影を照らし、そのわずかな陰 影で澤井さんの口が少し動いたように見えました。
〜いやあ、会いたいと思って、家内に出口君はどうしているかなあ、会いた いなあ、って言ったことがあったのは、ほんとうさあ。もっと早く知らせれば、 あれこれ懐かしい話ができたけど、なんたって医者が嫌いだし、気がついたら 糖尿病で、もう酒が飲める状態じゃないし、すっかり出不精になっちゃってさ あ、出口君も忙しいから、どうしてる?って、電話したところで何か特別用件 があるわけじゃないし、そっちも迷惑だろうしね、こっちは隠居の身だし、ま あ、ちょっと遠慮するわけよ。いやあ、しかし、ひどいのも変なのもいたけれ ど、楽しかったなあ、ふたりはよく仕事をしたねぇ…。
そんなべらんめい調の澤井さんの声がはっきり聞こえました。日光通信局は、 世界遺産の東照宮など二社一寺の年中行事が目白押しで年中忙しい。鬼怒川温 泉の藤原町、県境の栗山村、それにお隣の今市市に、群馬寄りの足尾町の二市 二町一村を範囲とし、そのエリアは県内の4分の1の広さでした。今は、それ らが日光市に統合されていますが、事件や事故から、戦場ケ原の初氷、男体山 の初冠雪、初雪、初積雪などお天気記事が写真付きで求められます。
うっかり寝坊すると、太陽が昇って初氷が解けてしまうし、記事写真の多く は夕刊対応なので、前夜キーンと冷え込むと午前3時過ぎからスタンバイし、 奥日光戦場ケ原の茶屋に確認するのです。
GWや紅葉シーズンの観光情報も大事です。夏の高校野球県予選の事前取材か ら市議選や首長の選挙も担当します。そこに日光東照宮と輪王寺の七堂塔の所 有をめぐる宗教100年戦争の和解勧告に伴う交渉の取材、戦後最悪のホテル 火災となって防火適マーク導入のきっかけをつくった川治プリンスホテル火災 の大惨事の取材や捜査の進展など新聞の一面を飾るニュースも飛び込んできま す。特に陽明門など国宝級の建造物がひしめく日光東照宮周辺の火災は、最も 警戒する取材のひとつでした。
澤井さんと初めて飲んだ時でした。店に入ってくる客が「みぞれまじりの雨 だ」といった言葉に澤井さんの目がつり上がり、突然、「初雪になる、行こ う」と酔いも吹っ飛んでタクシーを呼び、自宅にカメラを取りに戻って、いろ は坂のゲート付近を目指しました。みぞれは、古河精銅所の清滝周辺で雪に変 わり、いろは坂近くでは吹雪いていました。降りしきる雪の写真をどう撮るの か、と興味深くみていると、フラッシュの光が雪を浮き上がらせる効果がある のです。その一部始終をそばで拝見したのが、52年12月2日の夜の事でした。
北海道生まれの私が、雪がニュースになるとは驚きでした。ここは関東の西 の端、冬の便りが最も早く、それを伝えるのが日光通信局の役割です。だから 男体山の標高は2484m(にしはし)という。ふ〜む。
「出口君、ふたりはよく仕事をするね、休ませてくれないネ」という言葉を澤 井さんが口にしたのは、昭和54年6月10日深夜2時に発生した火事取材を終えた あとでした。
サイレンが街中にけたたましく響いて、眠い目をこすって警察に問い合わせ ると、火の手は東照宮境内の東観荘に近い禅智院の別棟からだという。スワッ とカメラにストロボを持参し、大谷川沿いを車で急いだのです。境内周辺はポ ンプ車や警察車両がひしめいて混乱、車を乗り捨てて走って現場に着いたら、 そこに澤井さんがもう取材を始めていました。火事はその別棟の台所を焼いて 消し止め、家の中から借主の独身の酔っ払い男性を無事救出して落着した様子 でした。原因は、やかんを火にかけたまま寝てしまったコンロの過熱でした。
まあ、単なるボヤなのです。各社の姿は誰ひとりみえません。が、周辺を取 材していくと、第一発見者は、輪王寺の住職で、門跡というトップのご子息の 柴田立史さんでした。ひと目を避けて深夜、密教の修行の最中で、偶然そこを 早足に通ったのだという。修行の住職が仲間の住職と協力して消火に、という お手柄の記事は、翌11日の朝刊栃木版の写真付きのトップで大きく掲載されま した。
朝日と産経の特ダネでした。輪王寺の執事長の鈴木常俊さんから「いい記事 を書いてくれて若い彼らの励みになりました。あちこちから電話があって…」 とのお礼の電話が入りました−と、その経緯が、当時の私の日記に書かれてい ました。こんな風に記事1本、談話ひとつが敏感に読者から反応が届くのです。
春と秋の日光東照宮の大祭の華やかな呼び物は、なんといっても大鳥居から 境内の表参道を練り歩く千人武者行列でした。沿道に5万人の観光客が繰り出 します。その当日の数日前、澤井さんとおしゃべりしている時でした。
それにしても「豪壮な武者行列」と長年、同じように繰り返し書いているけ れど、お年寄りばかりが目につくし、それもみんな小柄でヨタヨタして敗残兵 みたいですよね、って言うと、しょうがないんだよ、なんたってあの鎧兜は、 江戸時代の昔から連綿と使いまわしされているもので、今の若者の体にはサイ ズが合わないわけさ、と澤井さん。
う〜む、なるほど、って感心している場合じゃない。それってニュースじゃ ないの?お互い顔を見合わせて急ぎその足で取材に。てっきり東照宮の社務所 にいくのかなあ、と思ったら、東照宮の奉仕団体の産子会の会長宅へ伺ったの です。翌日、大きく紙面を飾ったことも記憶として残っています。
あの時、東照宮の社務所に向かわないところが、キャリアなんですね。澤井 さんによると、いやあ、そんなこったあ、あるわけないでしょう、と否定され てしまうのがオチだし、東照宮にふたり一緒行ったら、すぐ他社に漏れてしま うだろう、という。人を手配する産子会の会長は、過疎で年々人が減るでしょ う、若者がいても神輿に回さねばならないので、鎧や鉄砲、それに槍の隊列に は、隠居の高齢者が多く、「あれじゃ、戦いにならねぇ」といわれてもごもっ となことです、と実情を打ち明けてくれたのです。
日記によると、うち(産経)は60行、澤井さんは90行の力作でトップ記事扱 いでした。あの時も、いい酒が飲めましたね。澤井さん、他社は、何をぼんや りしているのだろう、ね、と上機嫌でした。
しかし、いいことばかりじゃありませんでした。
この頃の"日光記者裏事件簿"といえば、朝日記者、澤井さんの日光記者クラ
ブ除名騒動でした。澤井さんが、こともあろうに記者仲間から除名処分の緊急
動議が提案されたのです。
理由は、その冬、国宝の神橋周辺の取材で偶然居合わせたY紙記者が、澤井 さんから暴力を受けたと訴えたのです。問題のネックは、各社持ち回りとなっ ている記者クラブの幹事役が、たまたまY紙記者になると、記者発表の連絡を 忘れたり、発表時間を間違うなどが背景にありました。事実の断片をつなげる と、澤井さんが「きちんとやることやれよ、先日も時間が違ったではないか、 何回やれば気が済むのか〜」と一喝して詰め寄ったのだそうだ。すると、Y紙 記者が床の段差に足をひっかけて転びそうになってしまったらしい。しかし、 これを問題にしたのが、Y紙記者と仲の良い地元S紙記者でした。
臨時クラブ総会が数日後、市役所の記者クラブで開催されました。朝日の澤 井さんを抜きにした欠席裁判でした。澤井さんの釈明も聞かず、弁明の余地も 与えませんでした。Y紙記者の訴えを地元S紙記者が代弁し、朝日は「胸ぐらを つかんで足蹴りを加えた。今度やったらこれじゃすまないぞ」と脅した、とい うのです。そのため、気の弱いY紙記者が精神的に苦痛を受けて取材が困難に なった、とその"暴行"の顛末を述べるのです。
その直後、T紙の長老が、黒板にクラブ員の名前を書いて、その横に除名の 採決で「賛成」なら○「反対」なら×として、順番に聞いて書き込もうとして いるので、オイオイ、オイ、とは口に出しませんが、ちょっと待ってください。 いきなりじゃ、いくらなんでも問題でしょう、と異議を表明して、「暴行や脅 しというのは事実と違うのではないか。澤井さんからも事情を聴いて確認しな いと、あと後問題になりますよ」と指摘すると、裁定役の長老が、「余計なこ と言わんでもよろしい」と口封じし、除名の採決を続行、除名に反対と分かる と私をその場から「退場処分」にするじゃありませんか。「退場」に従わない と、今度はそれを理由に「除名する」と迫るのです。
普段は温厚な長老が血相を変えて「君は何様だ!」と怒鳴るではありません か。除名処分の決定は、クラブ加盟社の全員の賛成じゃないと認められないと いう決まりがあるので、とりあえず私を「退場処分」にした後で、全員除名に 賛成という既定事実を作ったのでした。いやはや…。
澤井さんは、当時、支局にこの事実を報告していたらしく、その推移を冷静 に見守るのです。ただ、気にされていたのは「毎日新聞」の動きでした。支局 サイドから「毎日はどうなのか」と聞いてきた、という。この問題を「朝日」 との販売代理戦争と捉えていた節があるのです。そこで、中立的な「毎日」は どう判断するか、に関心が集まったものと思います。しかし、若い彼は呑気に 「除名」に賛成してしまうのです。私からすれば、彼は澤井さんに恩義がある のになぜ、除名に賛成したのか、理解に苦しむところでした。これには、流石 の澤井さんもショックを隠しきれない様子でした。
澤井さんの「除名包囲網」がどういう経緯で張り巡らされたか、そしてなぜ、 嫌われたのか。当時、日光は東照宮派VS輪王寺派に分裂し、記者クラブの勢力 を二分していた時期があるのです。
そんな中で澤井さんは、そのいずれも組みしませんでした。加えて、ゴルフ の接待、料亭や寿司屋の飲食代をつけ回す、そういう連中を軽蔑していたので す。そのため、恒例の市役所や観光協会などは例外として、東照宮、輪王寺、 東京電力、東武鉄道などの接待や宴会についてはたとえ幹事だったとしても、 「わしゃ、行かないよ。冗談じゃない」という拒絶の態度が、周辺から疎まし く思われていたのです。
こんなことがありましたね。鬼怒川温泉で開かれた東照宮主催の泊まりがけ の忘年会の席で、突然、NHKの年配記者が大声で喚き散らしたのです。人を遇 するその精神がなっていない、とお膳をひっくり返して席を蹴って出ていこう、 とする。それを東照宮の職員が謝り、クラブの仲間が制止しても聞きません。 誰かが、いつものことだから構う事はない、所詮、輪王寺派だもんな…という 冷やかしの声も上がっていました。よせばいいのに、職員がそこで紙袋の土産 を持たせようとするから、「なんだ、こんなもの!」と袋を引き裂いて中のせ んべいを畳の上にたたきつけたのです。「猫」の可愛い絵柄の、日光名物、甚 五郎煎餅が散って無残でした。こんな場外乱闘は日常茶飯事でした。凄いこと やっていましたね。
クラブを除名されても澤井さんは、一向に懲りた様子がないので、あれこれ と策謀を巡らすのです。そして、除名の波紋は、思わぬところに飛び火するこ とになります。その春の統一地方選挙、幹事のT紙長老は、市議選の開票に伴 う専用電話の引き込みを7本と決め、朝日を排除しようと企てていたのです。 明らかな取材妨害です。選挙の開票速報は、開票場に設営された臨時の記者ク ラブに届けられます。電話引き込みは役所の予算でした。
その当時のいきさつを日記にこう書いていました。
【4月11日】
明日12日は市議選の告示。立候補が予定されているのは今市で28人、日光で
29人前後、定数はいずれも26人。開票は22日。T紙長老がその臨時クラブに設
置の電話で朝日を除く7本を申し込んだという。あてつけのような意地悪な処
遇がまたひとつ。なんと卑劣なことをするのか。
【4月18日】
記者クラブ総会開く。泊明けで急いで日光へ。市の選管が幹事社の長老に伝
えた。報道室は日光記者クラブ専用じゃない、と。地元S紙記者とY紙記者が、
これに反発し「つい立を設けろ」、「(朝日を)別の部屋に押し込めろ」とい
う意見を長老にいい含めて選管に申し入れるのだが、選管の回答は「NO!」。
まったく時間の無駄というか、バカバカしいーと。
日記は、その日々の動静を細かく綴っていました。読み返すと、澤井さんが、 あらゆる悪辣な妨害をうけているのです。ある記者は、「朝日はクラブ除名に なったので取材ができなくなるし、役所も取材拒否だ」という流言を触れまわ っていたのです。
窮地の澤井さん、と思えば、そんなことはないのです。もともと群れること をよしとしないのですから、嫌な付き合いが減って清々した気分だったようで した。情報源のネットワークは、相当広く広げていましたから、取材に困るこ とは何一つありませんでした。私が気掛かりだったのは、朝日本社や支局から、 どんな風に思われていたか、でした。この場合、除名こそ記者の勲章といえる かもしれません。
まさに疾風怒涛。新米の私は、見るもの聞くものすべてが驚きの連続でした。 入社2年ちょっと、これが新聞世界の実態なのか、と思うと情けない気持ちに なりました。それを救ってくれたのが、他でもない澤井さんの存在でした。 この時期は、表の取材より記者クラブの騒動に振り回されていた気がします。 さらにこれには、後日談があって、記者の送別会で信じられないことが起こっ てしまうのです。昭和55年3月の寒い日の事でした。
Y紙記者の転勤で、その送別会の幹事役を買って出たのが、地元S紙記者でし た。市内の料亭の2階は、市長や県会議員、観光協会会長や旅館組合長、警察 署長、二社一寺の長職、ロータリークラブや商工会幹部ら町の名士が顔を揃え ていました。やっぱり記者は特別扱いなのです。
世話好きで人のいい地元S紙記者が挨拶に立ち、Y紙記者の在任中の数々の功 績を披瀝し、「これも転勤族の宿命、新しい勤務先でのご活躍を祈りたい」と のエールを送り、そして乾杯の音頭に高齢の東照宮の権宮司を指名して、僕の 隣の席に戻りはじめたのです。
え〜と、それではご指名ですので…と権宮司が話始めた時でした。席に座っ た途端、S紙記者が突然、後ろに転倒したのです。何が起こったのか俄かに信 じられませんでした。瞬間の出来事で、もうどうすることも出来ません。あわ てて救急車を呼びに急がせながら、居合わせた医師に診てもらい、とりあえず マイクを持ってこの場のお開きを告げていると、階下から着物姿の酌婦が大勢 上がってくるし、権宮司は挨拶の途中でマイクを持ったままぼう然とし、主役 のY紙記者はうつ伏せになって泣きじゃくっていました。お膳に料理が手つか ずのままでした。なんということなのでしょう。
まもなく駆けつけた救急車で近くの病院に運ばれましたが、手当の甲斐なく まもなく逝去が告げられました。心筋梗塞でした。32歳、記者職10年の若さで した。将来を期待された記者で、仲間らがその後、遺稿集を発刊することにな ります。書棚にいまでもあるのですが、その表紙をめくると、幼い3人の子供 との短い時間の楽しげなショットが、悲しいほどで涙を誘うようでした。
澤井さんはすでに、その1月に日光通信局4年5カ月の在任を終えて、東京 本社に栄転されていました。後日、その話を伝えたら、「残念だが、虚しいな あ。なんなのだろうね、記者ってさあ」と言葉少なでそれ以上語ろうとしませ んでした。
ところで澤井さんの送別会は、クラブ主催ではなく、地味に、ひそかに地元 のカメラ屋のご主人、親しい議員や職員、行きつけの飲み屋のご夫妻、そば屋 の夫婦らが参加して開かれました。本人は嫌だよ、挨拶するのかい、そこで、 よしてくれ、というのを私が声をかけて設定したのでした。スナックのオー ナーらが花束を持ってきました。なんだか葬式みたいで花は嫌いだ、と言うの が口癖でした。照れているのかなあ、と思ったら、どうもそれも冗談じゃなか ったようです。行った先々の店で、会費を払う、といって聞きません。会費を 受け取らないなら帰る、と強情でした。しまいには、ポケットから万札を投げ てよこすじゃないですか。でも、陽気でした。とてもうれしかったようです。
その三次会の席で、澤井さんは「特ダネは警察の事件ばかりじゃない」とい って、「誰かが書かなければ永遠に葬り去られてしまう、そういうものを公に する、というね、そういうのが本当の特ダネと思う。それには、大きいネタも あれば、小さなベタ記事だって在るハズだろう」と語気を強めていました。
そして、これから出口君は東京に行って活躍する場面もあるだろうが、日光 でつかんだ名もない市民の息遣いを忘れるなよ、そしてどんなに偉くなっても、 今のままの出口君でいてくれよなーと。オレが電話してさあ、「澤井ですが …」といって、「誰ですか?どちらの澤井ですか、なんて言ったら承知しない ぞ。朝日の澤井だ、と乗り込んでいくからなあ」と笑い飛ばしていました。そ んなことあろうはずがないじゃないですか、ね。
澤井さんの通信局は、警察署のすぐ裏手にあり、ちょくちょく顔をだしてい ました。ある時、机の上に社内報が置かれていました。社外秘扱いを承知で読 ませてもらうと、そこに天声人語の筆者だった編集委員の疋田桂一郎氏の署名 で、物故者を扱う「評伝」についての記述がありました。うろ覚えですが、お およそこんな感じでした。
取材記者も定年を迎えると、政治家でも文豪でもその人物に接した者が少な くなる、それを後輩にどう引き継ぐか、その「評伝」にこそ新聞社の力量が問 われる‐という意味のことが書かれていたのです。
いま、私は、澤井さんへの追悼文を書いているというより、その誇り高く生 きた澤井武次という朝日記者の名を後世に残すための、「評伝」を書いている ような気がしてきます。誰かが書かねば、永遠に葬り去られてしまう、という 教訓と符合してきます。
もうあれこれ1時間以上もおしゃべりしてしまいました。ご子息の正樹さん が、奥さんと4歳のお嬢さんを連れて顔をだしてくれました。38歳になるとい う。当時、6歳前後でしたね。ツーンと澄まし顔の賢い少年でした。立派な体 格で、柔和な人柄がにじみ出ていました。安心しました。
昌代さんが、主人と一緒でご迷惑じゃありませんでしたか、と聞く。とんで もありません、本当に澤井さんと会えてよかったとしみじみ思います。長い記 者生活のほんの数年なのですが、私にとっては大切な思い出です。その期間は、 まるでシネマパラダイスの様でした。嫌な思い出は、何一つありません。今で も、酔うと目を細めて笑って赤ら顔を手でなぜ回す癖が、浮かんできます。一 線を退いて、リタイア後の晩年の澤井さんの心情を思うと、切なさが込み上げ てきます。
すっかり燃焼してしまったのかもしれません。どこへいっても誰に会っても、 新聞記者は、名前の頭に社名が付けられて死んでも消えないのです。「朝日の 澤井さん」と呼ばれます。しかし、定年退職すると、その看板はもう使えませ ん。その寂しさが切なさに変わり、やがて虚無感にさいなまされることも珍し いことではないらしい。せめてその頃に、もう締め切り時間を気にせず、澤井 さんの追憶を聞いてあげたかった。
略歴を拝見すると、通信局や駐在勤務は、埼玉新聞時代や太田支局を含める と8道県15ケ所、その在任期間は30年以上に及びました。まあ、ほんとうに精 魂尽きるまで一線でペンをふるっていたのですね。いったいどれだけの人を紙 面に登場させたことでしょう。地味ですが、その功績の大きさは、はかり知れ ません。『記者風伝』で見落としたところがあったとするなら、地方記者の誉 れ、無冠の野武士、澤井武次記者かもしれませんね。
人から何かしてもらうことを嫌がった澤井さんが、逆に、どこに行っても庶 民の生活の営みに温かい視線を向けていました。そして、多くの人の輪に入っ て元気づけて地域を支えてきたのでしょう。もうひとつの新聞の役割、地域の 応援団に徹した澤井さんに、そして澤井さんを裏で支えた奥様の昌代さんに、 心から敬意を表したいと思います。天晴れでした。
なお、このメルマガを仕上げるのに、札幌の林秀起さん、広報の小境郁也さ ん、小山通信局長の古源さん、globeの池田伸壹さん、そして編集担当で東京 編集局長の粕谷卓志さんら朝日新聞の関係者にご協力いただきました。ありが とうございました。
※これまでメルマガを担当して、つくづく良かったと思いました。僕にとって 澤井武次氏の記者としての誇り高い生きざまを紹介することができたからです。 何か、大事な仕事をしたような充実した気持ちです。とってもうれしい、3月4 日は56回目のbirthdayです。