DNDメディア局の出口です。頭が八つに尾も八つ、濁った赤い目をして腹は 毒々しい血で染まる〜こんなオドロオドロした大蛇ヤマタノオロチ退治の伝説 や弥生時代に遡る製鉄文化の幻影が息をひそめるという、その神話の里、島根 県奥出雲町。少しでも古代の追憶に耳を傾けてみよう、と、心躍る未踏の魔界 に足を踏み入れてきました。
が、そこはのどかな癒しの里でした。深い森を背景に、錆朱色(さびしゅい ろ)の石州瓦の家並が点在し、朱のトタン屋根をてっぺんにのせた萱葺きの渋 い古民家が、色どりを添えています。淡いピンクの合歓の木が清流の川筋にそ って群れて咲き、むせかえるような甘い香りを放っていました。目線をあげれ ば、薄紫の稜線が幾重にも連なる。その豊かな落ち着きは、悠久のゆるやかな 時間の流れと関係しているのだろうか。
奥出雲町の中心、三成地区。夕刻、船通山のその麓を源流とする斐伊川(ひ いかわ)沿いに佇むと、東の空にまばゆいほどの虹が太く垂直に現れました。 魅惑的なプリズムのモニュメントのようです。何枚か写真を撮りその写り具合 を確かめ、そして振り返ると、ひと筋の雲が差し込んでその瞬間、パッと消え た〜。
:太く鮮やかな虹の塔、手前が斐伊川
う〜む、その初日から、こんな鮮やかな光景に遭遇するとは、この伝説の土
地に何か不思議なエネルギーが潜んでいるかもしれない〜という予感がしてき
ました。そして、この里に興味が湧いてくるではありませんか。
奥出雲への誘いは、温度と湿度の制御機器メーカー(株)ニッポー(本社・ 埼玉県川口市)の社長の若槻憲一さんからでした。ぜひ、島根にあるわが社の 工場をみてください、という。創業45年、工場進出から20年、それは先代社長 でご尊父の故・若槻徳長(のりなが)さんの肝いりだったようです。聞けば、 お父様の徳長さん、そしてお母様のよりこさん、両親いずれの生まれも奥出雲 町で、合併前の旧仁多郡横田町だったという。
:ニッポー島根工場の入口で、若槻社長と。
若槻さんのお父様が、故郷に錦を飾ったということでしょうか。当時、従業
員23人の小さな工場が現在は、83人を抱えるまでに成長し、地元にとって雇用
の大きな受け皿となっているようです。調べると、ニッポーの島根工場のよう
に他県から奥出雲町に工場を移転させた企業は、名古屋に本社がある業務用冷
蔵庫などのホシザキ電機、足利に本社がある靴のアキレス島根、グンゼの系列
の横田アパレル、ドライバーの先端などを製造するベッセル島根、鋳物の東洋
製鉄などがありました。製鉄文化発祥の土地柄にモノづくりの原点が透けてみ
えてくるようです。
空気がきれいで、環境がいい。地元の県や町役場が誘致に一所懸命なのでし ょう。それに誠実で有能な人材が確保できる、というメリットが大きいのでは ないか、などと考えてしまいます。山陰は、いつも暗いイメージがついて回る。 が、それはいつの時代のことでしょう。戦前戦後、つい最近までニッポン各地 はみんな暗い表情をしていました。あえていえば、島根県民が地味な印象を与 えているのは、勤勉で実直、そのもの悲しいくらい人の心を読む、というやさ しい気配りの裏返しかもしれません。
さて、その日、中国地方に梅雨明けが伝えられました。朝7時半、羽田空港 で若槻さんと待ち合わせて、8時半フライトのJALに乗り込みました。出雲空港 までは約1時間20分、細かい気遣いをみせる若槻さん、41 歳。広島の大学で工 学系を専攻し卒業後は、修学ビザで渡米、2年間、コンピューターサイエンスを学んで帰国し、その後は容赦なく奥出雲町の工場の一従業員として就職、人里離れた工場内の休憩室で寝泊まりしていたそうです。
工場では、はんだ付けから梱包作業、それに営業と一通りこなしてきました。 現場でのこの経験が、いまとても役に立っている、と述懐していました。父親 の急逝に伴って社長業を引き継ぐことになるわけですが、後継者としてまず、 最初に覚悟させられたのは、会社の借入金の個人保証の扱いでした。その書面 にサインする時は、さすがに顔がこわばり、手の震えが止まらなかったという。
「とても嫁にはいえる話じゃありませんが、逃げ出すわけにはいかない」と、 いまでこそ苦笑いで済むが、30代半ばの大きな決断だったようです。経営の数 字は頭に叩き込んでしっかり将来を展望しています。ほんと、技術系の人は、 几帳面で感心させられることが多い。若槻さんは、とても家族思いです。その お嫁さんの陽子さんは、若槻さんが学生時代ひと目惚れした徳島出身の医者の 家系のご令嬢で、なんどもアタックし実家にも足を運んでのゴールインでした。 楚々とした素敵な奥様です。
この3 月期の決算では、会社の体質がより強化されて自己資本比率が目標の 33 %を達成し、先月の株主総会では創業来の経常利益ベースでの連続黒字を 継続していくと宣言し、具体的な行動計画を示しました。なかなかたいしたも のじゃありませんか。収益構造をどう変えるか、戦略的広報とは、なんて知っ たかぶりで高見からモノを言っていますが、川口市の本社を含めて総勢118人 の社員、その家族を守り、株主への配当を怠らないとする、若くも経営者の覚 悟のその深さは、傍からはうかがい知れないものがあるようです。
そんな話をしているうちに、定刻通り出雲空港に到着しました。快晴、白い 夏雲が走る。なんと空が高いのでしょう。周辺を風が吹きぬけていきます。
出迎えは、ニッポー島根工場の取締役工場長の内田博隆さん、心優しい技術 者の50歳。島根の松江高専から東京の大手機械(制御機器)メーカーに就職し、 家の事情でUターン、たまたま地元で工場を設立したてのニッポーに再就職し た、という経緯があります。面接は、若槻さんのお父さんの徳長さんでした。 結婚がやや遅れて、いま9歳の長男を筆頭に2男2女の子煩悩な父親でもある。 休日は田畑を耕している、という。趣味は渓流釣り、4人のわが子を慈しむよ うに育てている様子がその言動から伺うことができました。
内田さんは、あの辺は、もうすぐ宍道湖です、と指をさしました。
地図を広げると、この空港が宍道湖西端の湖面に突き出ているではありませ んか。そのわずか北側に、その斐伊川の河口がある。源流の船通山の麓から河 口までの153キロに及ぶ流域に、古く弥生時代からの出雲国の神話や伝説、そ れに技術、砂鉄による製法の野天タタラから、神(鉄)穴流し、そして炉の設 備による和鉄の発展の歴史に加え、朝鮮からの製鉄法の伝来など鉄をめぐる新 技術の変遷などの史実が、刻み込まれているらしい。
以下は受け売りですが、詩人で評論家の高内壮介さんの名著「古代幻想と自 然」(工作舎)を久しぶりにひも解くとその辺の歴史が、見事に描かれている。 本の出版はもう23年前のものですが、栃木県鹿沼市在住の高内さんを訪ねての 取材でした。
ヤマタノオロチ神話は、斐伊川沿いにあったと思う、と記述し、古事記に伝 わる「肥の河」であると断定しています。しかし、本当のヤマタノオロチ神話 の原型は、怪物退治などではなくて、オオヤマズミという産鉄族に新しい鉄生 産技術を教え込んだ新しい蛇神ヤマタノオロチに仕える巫女物語だったのであ る、と解説していました。
まあ、一般的にスサノオが流れてきてヤマタノオロチを退治し、ヤマタノオ ロチの尾から得た「天叢雲剣」(あまのむらくものつるぎ)が三種の神器のひ とつでそれを天照大神に献上したとされる。熱田神宮のご神体になっている、 という神話をめぐって、その意味するところの歴史的論議がいまだに盛んなの は、大変興味深い。
内田さん運転のワゴン車は、一路、山陰自動車道を走りひたすら東へ。美し い大山(だいせん)が見えてくる。そして岡山県境を越えて津山市へ入り、そ こでひとつ要件を無事終えて、今度は西へ戻り、東城町経由で314号線 を北上し、ダムを超え、谷を抜けて奥出雲町を目指しました。途中、JR木次線 の亀嵩(かめだけ)駅は、松本清張の名作「砂の器」の捜査の重要なカギを握 る設定の駅名でした。映画のロケは、もうひとつ離れた駅で撮影した、と内田 さんは説明してくれました。
:「砂の器」の舞台となったJR木次線の「亀嵩駅」で、若槻さんと記念のショット。
余談ですが、奥出雲から戻って、DVDで注意深く観察し、原作を読み直して
みました。流れるメロディーは、まだ耳に微かに響いてきます。それを「運
命」と呼ぶのでしょう、悲しく切ない親子のいくつも重なる不幸の連鎖に涙が
とまりません。
出雲地方の言葉は、東北弁によく似て独特の訛りがある、というのがこのス トーリーの大事な場面で、そこから捜査が急転回し、舞台はこの奥出雲に移る わけです。出雲弁がズーズ弁とは知らなかった。映画では、刑事役の丹波哲郎 が、案内の奥出雲の地元警察署の署長に、「全く、言葉に訛りがありませんな あ」というと、「東京の人だからですよ。気を使っているんですよ。地元の人 同士の話を聞いたらチンプンカンプンですよ」と署長は答えていました。
面白いことに、ワゴン車を運転する内田さんに僕が、「地元の人は言葉に訛 りがありませんね」と聞くと、「東京から来た人には、気を使って標準語を話 します。しかし、地元の人の会話を聞いたらたぶん、意味がわからないでしょ う。言葉、そのものが違いますから」というのです。ふ〜む、まったく同じプ ロットに、改めてDVDを見て思わず吹き出してしまいました。
小説では、わざとこちらの言葉を使わない、その理由について、この地方の 人は田舎訛りに気恥ずかしさを持っており、劣等感を持っている。よほどの山 奥か、年寄りじゃないとそんな言葉は使っていないようです、と書かれていま した。でも、不思議ですね、東北以外で、東北弁が使われる数少ない土地が、 奥出雲だというのですから。
駅は無人駅でした。駅舎に、そばの店が開業しています。若槻さんらと記念 撮影し、ホームに入って、左右に伸びる茶褐色の錆びた線路をしばし眺めてい ました。東南に出雲横田駅、北西に出雲三成駅、横田、三成は合併前の町名で した。どこにもある田舎の駅には変わりありません。
宿は、第3セクターが経営する真新しい温泉施設が完備したホテルでした。 露天風呂で汗を流し、そして向かった先が、斐伊川沿いの古めかしい料理屋 「みち栄」でした。その店のすぐ手前で、鮮やかな虹の塔を見たのでした。料理は、手作りのごま豆腐、お刺身、アユの塩焼き、とっても美味しいのは、 牛肉の陶板焼きでした。地元の仁多和牛だという。
この斐伊川は、昔、宍道湖の河口から舟が上ってきて、すぐこの店の近くに 船着き場があった、という。内田さんが、祖父が牛を飼っていて子牛を神戸の 業者らに売って、売った札束を腹巻きに突っ込んで、ちょくちょくこのお店に 通っていたようだ、という。
その夜、若い営業担当がワゴンを運転して僕らを迎えに来てくれました。街 の灯がどんどん遠くなる。山道に入り込んで、狭い農道をくだったり上ったり …外は漆黒の闇、手探り状態で歩いていくと、周辺に勢いのある清流の音、そ こで最初に声を上げたのが、内田さんでした。
いた、いた!あそこ〜。ホタルが草むらの陰で微かな光を放っている。もっ と上流にいけばもっといるかもしれない、というので再び、車に乗り込んで山 道を進んでいきました。北側は険しい崖、そこにホタルが、そして小さな橋の 脇にもホタルが飛んでいました。内田さんが器用にも手のひらにホタルをのせ て僕のところに見せに来てくれました。写真をパシャリ、ふ〜む。ホタルの数 より僕らの数が多い。
:内田さんの掌で光る、ホタル
もう時期がとっくに過ぎていました。もう1週間早ければ、夥しいホタルの
乱舞が見られたようです。周辺は、夏草の匂いとあの合歓の木の甘い香りが漂
っていました。酔いにまかせて、暗闇の農道を夢中で走ってみました。ひょっ
としたら、このまま宙に浮いて飛べるのじゃないかなあ、と錯覚するほどでし
た。気がつけば、うっそうとした森に迷い込んでいました。ふわっと、浮き上
がってひとりどこを旅しているのでしょう、お尻から背中にかけて明かりが灯
っている〜。幻想とロマン、奥出雲の夜は艶めかしいほどでした。
この闇のあな柔かに蛍かな 虚子
:光あふれる山里の朝、野鳥のさえずりが響きます。
さて、僕の役割は、翌朝の社員研修の一環としてのお話をさせていただくこ
とでした。工場2階の会場には、ぎっしり80人を超える従業員が行儀よく椅子
に腰かけていました。平均年齢35歳。窓側に女性、通路側に男性陣がそれぞれ
分かれていました。奥出雲町の若者気質にちょっと触れることになります。そ
の結末は、どうなりましたでしょうか。
小一時間の講演を終えて、各テーブルを親しげに回ってみると、開発部の男 性が、同じ名前です!とこちらを向いて弾けるような笑顔をみせていました。 「えっ!出口?」、「いいえ、俊一です」という。もうひとりの俊ちゃんは、 童顔で健康的でした。奥でビデオを回している青年がいました。名札を見ると、 「杠」とある。「ゆずりは」と読む。この青年、先祖から数えて85代目、鎌倉 時代から続く由緒ある名前なのだという。窓際の女性陣、若いから皆さん20代 ですね、というと、20代も30代も、そして40代もいる、とか細く言って笑って いました。笑い声が、連鎖して会場が笑いの渦に。東京で面識のある総務部の 次長の阿合勝美さんも表情を崩していました。気だてのいい総務の藤原さんも ニコニコ顔でした。ほんとにみんな人がいい。なんだか、ひとりひとりに懐か しさを感じるから不思議です。
:講演終了後、参加者の中へ。
:製造現場で、取締役工場長の内田さんから説明を受ける。
そして、若槻さんらの案内で、工場の各セクションを見て回りました。あの
顔も、どの顔も真剣です。講演で、製造ラインを止めてしまっていたのは、気
が付きませんでした。もっと早く切り上げるべきでした。小一時間のロスが、
製品の出荷に遅れがでなければいいのですが…と思いながら、心の中で彼らの
踏ん張りを祈らざるをえませんでした。空港まで内田さんが見送ってくれまし
た。空に、てんてんと芋虫のような浮雲が、低く並んでいました。
:ユーモラスな浮雲の行進。
あの雲の下に、斐伊川が流れているのですーと内田さん。奥出雲の人たちは、
表に裏に常に斐伊川と一緒に時を刻んできたのかもしれませんね。
東京に戻ってすぐ、内田さん、若槻さんから丁寧なメールが届きました。そ して翌日の土曜の午後は、若槻さんが我が家まで、自分の畑で収穫したという、 ゴーヤ、キュウリ、タマネギ、ジャガイモ、そして黄色いトマトを持参してく れました。助手席から下りてこられたのは、お母様でした。お世話になった挙 句、暑いところ、ご丁寧に挨拶してくださり、申し訳なく思いました。この数 日、奥出雲の人たちの心のひだに触れさせてもらい、とても幸せな気分になり ました。
:若槻さんのお母様が丹精込めて作られた野菜をお皿に。
:若槻さんの畑で収穫したトマト、キュウリで僕が料理した冷やし中華。器は、友人で益子焼の佐藤巧さんの作品です。
□連載は、塩澤文朗さんの「原点回帰の旅」の第36回、テーマは「蛍のクリ
スマス・ツリーとリズムと自然の構造化」。その冒頭はこんな書き出しでした。
〜夢を見ているような風景でした。空の星がちょっと居場所を変えようと思 い立ったかのように、星に紛れていた光が急に動き出し、三日月の淡い光に照 らし出された田んぼの上を、音もなく緩やかに飛んでいきます。いつの間にか その光は数を増し、小さな群れとなってゆらりゆらりと揺れながら、私たちの 頭の上を通り過ぎて、星空に黒いシルエットを写しだしている背後の欅の木に 吸い込まれていきます〜もうひとつの幻想とロマン、とてもうらやましいほど のご体験をされたようです。どうぞ、暑い夏の頭のビタミンとして、お読みく ださい。
□サイトのトップに掲載してきました「イノベーション25戦略会議」の緊急 提言は、黒川清先生らDND連載執筆者の多くの皆様のご協力で中身の濃い、 論文が蓄積されました。長い間、大変ありがとうございました。一応、今回で 「過去の連載」に収容することにします。引き続き、イノベーション25に関す る提言は、そちらでアップしていきます。また、これにかわる、次の新しい時 代を開く先端的なテーマを検討しております。