DNDメディア局の出口です。白く、淡い花びらが宙に舞う。いくつもの行燈に浮かび上がる夜桜。なんと妖しげな世界を現出するのでしょう。しかし、暴風と記録的な雨、関東近県を襲った春の嵐は、散り際のサクラにとってあまりに無情だったかもしれません。また西から滝のような大雨の警報が伝わってきました。どんなに過酷な花散らしが吹き荒れても、サクラ前線は山を駆け上がって北上し、全国津々浦々、列島縦断の花見行脚はさらに続くのですね。
いま、そこでぼんやり見惚れているうちに次々とサクラが散って、たちまち 遠くへ飛んで消えてしまう、と思っていたのですが、すぐ足もとで、サクラの 花が重なり合って積もっていました。縁石付近の石畳の吹きだまりで散って一 層色を増し、薄紅の花を微かに震わせていました。
その散ったばかりのサクラの感触を憶えていますか。やわらかでしっとり、 シルキーというより繊細な綿の天然素材のようでもあり、なんともなまめかし い。花びら一枚一枚にまだ生命を宿しているらしく、微かなぬくもりすら伝わ ってきます。
惜しむらくは、それらの花を両手でそっと掬い上げ、遠くに飛ばしてあげた ら、どうでしょう。サクラは散って、その少しの間呼吸を整えたら、その後も 光を浴び風に吹かれながら、わずかな余生の終の棲家を探す旅にでるのかもし れない、ですね。
爛漫の4月4日は、研修会兼春の宴。満開となったソメイヨシノを船から堪能 しようという趣向でした。知人のアイディアで酒やつまみを持ち込んで定期船 に乗り込めば、リッチだがリーズナブルな宴席になる、という。さっそく、東 京の浜松町駅に近い日の出桟橋から墨田川を下って浅草までの花見遊覧を企画 し、親しい知人らにメールでお誘いしました。
ざっと20人で、天気にも恵まれました。飲むほどに陽気に、みんな笑って しゃべって、時には真剣に、あるいは蘊蓄を傾けつつヤジも飛び交って、とて も愉快な集まりとなりました。が、楽しみは後からもやってくる。その数日後 の事でした。
「DNDメディア塾」の1期生で、温度、湿度それに環境の制御技術で群を抜 く電子機器メーカーの4代目の若社長のWさんが、その花見に参加していたの ですが、なんとデジカメで撮った写真のデータと、その様子を綴ったルポ風の 文章を添えてメールで送ってくれたのです。何事にも几帳面な性格で、その辺 の整理は抜群なのでそれほど珍しくもないのだが、驚いたのはその文章力、ま だ熟達とは言えないものの、文章術のツボをしっかり抑えているじゃないです か〜。
宿題でもないし指示した覚えもない。が、さらりとその時の情景をリアルに 描いていました。写真をグーグルのサービスのGmailで一覧にし、雷門を背景 に撮った集合写真をメーンに据えて、文章はそれらを囲むようにあしらわれて いました。
〜もはやメデイアは、インターネットをはじめ、ブログ、SNSなどすでに 身近な存在となり、読む側から発信する側への転換が進んでいます。では、ど のような媒体を使うにしろ、伝えたいこと、訴えたいこと、宣伝したいこと、 聞いて欲しいこと、そして歴史に残したいことの数々を効果的に洗練された文 章で書くにはどうしたらいいのか、その秘策を公開する理論と実践の講座です 〜。
これはDNDメディア塾の開設趣旨の一文です。本日からDNDサイトで募集を開 始しましたが、これまで約半年間、内々に数人を対象に進めてきました。Wさ んは、その1期生なのです。やれば短期間で文章力は上達する、というのが実 感で、そのうれしさのあまり一般への公開に踏み切ることにしました。
地域力は、情報の発信力というのが私の持論ですが、それは個人にも言える ことで、企業のレベルでも大切な教訓と思います。ご興味のある方は、どうぞ ご一報ください。メディア志望の大学生に限り、文章力アップのご相談は無料 で行う予定です。
さて、そのWさんの文章はタイトルが「DND 花見遊覧」でした。
〜桜花爛漫の4月4日の金曜日、恒例の「DND 花見遊覧」が、潮の香り漂う 墨田川を舞台に開催されました…という書き出しの400字程度のものでした。 が、これまで文章がどうしても苦手で、なんとかしたい―という気持ちが強か ったようです。作文の課題を月に2題程度与えて宿題とし、それを添削するだ けではなく、その塾生の生活や仕事環境に応じたテーマを別に設定してきまし た。それが時流にかなったものであれば、必ず別の機会に生かされる、と確信 するからです。
例えば、コンプライアンスなど経営者が踏まえておかなければならないテー マのひとつ「リスク管理」や「地球温暖化対策」といった今日的な課題を持ち 込むことで、資料を集め、関係のデータや事実を勉強しながら文章を作る、と いうことに取り組むわけですから、文章の創作が社会への視野を広め、即自ら のブラッシュアップに通じるわけです。
また、社長という立場のWさんですから、自社の社員研修時の挨拶文や各種 スピーチも原稿を書いて事前に繰り返し準備をし、そしてスピーチ本番に臨む という手法もとりいれました。ずいぶん、意識も向上し文章もスピーチもメキ メキ上達してきました。
そういう塾を通じて浮かび上がってきたのが、文章の苦手意識を克服する、 いくつかの処方でした。いま、「教えることは学ぶこと」「教育とは引きだす こと、何を?その人の才能や能力、個性を」というその意味をしみじみ実感し ています。
さて、「文は人なり」といいます。が、メディア塾では、「文は時なり」が 基本です。時、つまり時の流れ、時間軸を意味します。かつて誰もがどこかで 耳にしたことがある、文章作法の定義や要諦、例えば5W1Hはそのひとつです。 いつ、どこで、だれが、なにを…ということですね。それを英語に置き換えれ ば、What、When、Who、Where、Whyの5つ5W、それに、「どのように?」のHow、 1Hを加えて成り立ちます。が、この基本原理は、新聞ニュースなど単発の情報 には当てはまりますが、それ以外の文章では役に立ちません。まず、この呪縛 から逃れることです。
これは、皆さんよくご存知の通り、もうひとつの条件が「起承転結」です。 これも結果的にそうなるのであって、書き出しからそんなパズルのような難解 な芸当はできません。しかし、こんな条件を念頭に文章を書けといわれたら、 きっと自由な発想の文章は生まれないでしょう。それだけで嫌気がさしてきま す。文章を書くという創作の世界は、「嫌気がさす」というのと対極にある筈 です。楽しいというのとは違いますが、無から有を紡ぐ、という一点でクリエ ィティブな意欲と情熱、それを掴み取ることができるものと思っています。
とはいっても、原稿用紙を前に、今はパソコンに向かって、う〜むと呻吟す ることは新聞記者を何年経験しても変わりません。毎回、スラスラ書けるなん てありえないのです。
では具体的にどうするか、そんな魔法のような処方は期待しない方がよろし いのですが、第一は、その前段で触れた時間軸ということです。時間には始ま りと終わりがついて回ります。人の一生はその分かりやすい一例です。過去、 現在、未来へと続く普遍的なベクトルもあります。歴史は常に時間のベクトル で整理されていくものです。映画もドラマも、小説も、そしてどんな文章にも そこには時間の概念がいつも支配していることに気がつけばいいのです。
例えば、螺旋階段をイメージしてください。書くべき素材が、その階段だと します。2階建ての木賃アパートもあれば、東京タワーや60階の超高層もある かもしれません。入口から最上階まで上る、それをその素材の時間軸とすれば、 その中のどの部分を切り抜いて引き出すか、入口から最上階まで年表のように 並べても長くなるだけで面白みが欠けますから、その時間の中の、どこからは じめて、どこへ立ち寄って、そしてどこへ向かって、あるいは出口を探しだし ていこうとするのか、ここを念入りに思考することが重要です。
事例をいくつか紹介しましょう。
司会者でエッセイストのスレンダーな楠田枝里子さんが、こんなコラムを日 経新聞夕刊1面「あすへの話題」に書いていました。題名が「ペルセウス座流 星群」。こういう書き出しでした。
「暑い夏の日に、湘南に住む知人の家を訪ねたことがある。ひとしきり話に 花を咲かせ、夕食を済ませると、私たちは海辺へと出て、砂の上にごろりと寝 転んだ。ちょうどペルセウス座流星群が極大に近くなっていた。天を仰ぎみれ ば、ペルセウス座を中心として、夥しい数の流星が、四方八方に流れ飛ぶ。そ れはもう、大自然の静かな花火のごとく壮大で美しい眺めだった」
ここまでが一つの文節です。知人の家を訪ねた、夕食を済ませた、海辺に出 た〜とまるでひとつのシーンが映像のように流れていきます。これが、時間軸 なのです。読んでいる方も、その時間の流れのまま、自然とその世界に引き込 まれてしまいます。決して、難しい文章ではないでしょう。これなら、誰でも 書くことができます。
そして、
「やがて空が白み始め、星々の瞬きも薄くなり、ふと気付くと、頭がやけに
重たくなっている。見れば、いつのまにか潮が満ちて、私の髪はぐっしょりと
濡れてしまっていた。なんてぼんやりしているのと、友人たちには笑われたが、
それほどまでに流星の姿に心を奪われていたのだった」
時間が動いて、その経過を素直に伝えつつ、そこに潮の満ち引きなどいくつ かのエピソードを織り交ぜて展開していることが分かります。とっておきのエ ピソードを散りばめることも効果的です。時間軸が、エピソードを串刺しにし ているのです。エピソードの挿入は、螺旋階段の踊り場に似ています。その踊 り場で、また新たな時の流れを演出する、ということもあります。
3つめの文節は、時間軸のそれがさらに鮮明になってきます。
「そしてまた、今年もペルセウス座流星群の季節がやってきた。 極大になるのは今月(8月)の13日の朝8時だから、太陽が顔を出す前、12日か ら13日にかけての夜が一番の見所となるだろう」
ここまででコラムの分量の約半分、第1の文節の書き出しが、「暑い夏の日 に、」として具体的にいつの年のことかをあえて伏せているところが文章の構 成の彩なのかもしれません。それで、3つ目の文節の「今年も…やってきた」 という場面展開が生きてくるのですね。
時間の流れ、そしてそれらにいくつかの要素を織り込んだ全体の構成が、実 にいやらしいほど巧みです。例えば、3つ目の文節から書き出してみても文章 としては成立するものですから、時間軸の流れは、過去→現在→未来というワ ンパターンではないということも理解してください。面白いでしょう。
映画「2001年宇宙の旅」。スターンリー・キューブリック監督不朽の名作と いわれる所以は、その冒頭のシーンにある、といわれています。画面右側から 腰をかがめた猿人が現れ、そして進化した原始人が人骨を高く放り投げると、 その骨がクルクル回転する、するとそれがなんと宇宙船になる、という見事な 場面展開だったのですね。この映画は、米国で1968年4月6日に初公開さ れました。ちょうど40年前のことです。つまり、一本の人骨を舞台回しに、 過去、現在、未来を瞬時に描いたと評判になっていたのです。
余談ですが、4月6日って、何の日かご存知ですか?「読む」、そうです、 新聞を読む日だそうです。若者の新聞離れは深刻で、それをどうする、という シンポジウムがあったようで、今朝の読売新聞にそのパネル討論の模様が紹介 されていました。朝日新聞編集担当の粕谷卓志さんは、その中で、新聞の双方 向性、伝える側と読者の関係について、「…その一番は、分かりやすく、やさ しい文章をいかに書くか。(粕谷氏が)デスクをしている時には、若い記者に 中学生に読んでもらって分かる文章を書きなさい、と言った。(若者が)ネッ トで知り得た情報を、さらに自分の知識として深くするために、新聞を利用す るというように早くもっていかなければならない」と話していました。分かり やすい、というのは、とても大事なことです。世の中、グローバル化の進展や 科学技術の進歩などで、だんだん本質が見えなくなってきているので、ぜひ、 その努力はし続けて欲しいものです。
しかし、本日の各紙1面トップは、どんな記事でしたか?混迷の政局、「日 銀人事3度目の不同意」。このような記事を若者は読むだろうか、読んで何を 理解すればいいのでしょう。3月7日の人事案を提出から丸1か月です。いさ さか、うんざりしてきませんか。
話を元に戻しましょう。目で追う、それら人の動きは、すべて時の流れなの だと思います。だから時間の経過が、文章の底辺に流れる普遍的な軸となるわ けです。書き出しの導入はいつごろに設定し、まとめとなるEXITにどの場面を 持ってこようか、そんなことを考えながら、繰り返し文章を練る、というのも 楽しいことです。文章術を磨いて、自分史を綴る、という人は増えてくるでし ょうね。
新聞を46、読む日はそれでいいのかもしれませんが、個人的な感想をあえ ていえば、書き手と読み手、新聞はずっと自分たちが常に書き手、発信する側 のドン、頭領と思いこんでいるのではないか、という疑問です。ネットの登場 と活用の多様性で、メディアの環境に劇的変化が起きている。それは、従来の 書き手、読み手が交錯し融合しつつあるからです。若者が読む側から、携帯 メールやSNSなどで、俄かに伝える側に進化しているのではないか。
新聞を46、読む日−「を」を「が」に置き換える、そういう風に少し目先 を変えてみる努力も必要かもしれません。
新聞記事が文章のお手本とされるのは間違いのようにおもいます。新聞はあ くまでニュース主体ですから、ニュースは文章の参考になりません。参考にな るのは、「天声人語」、「編集手帳」など各紙の看板コラムや文化欄のエッセ イ、書評、それに著名な人のコラムなどは大いに役に立ちます。
もう少し続けましょう。その「天声人語」から。
「初めて新聞に載った記事や写真は忘れがたいものだ。筆者の場合は『ソフ
トクリーム』だった。入社研修の春、初夏を思わせる百貨店の屋上で、冷菓を
ほおばる子供を撮らせてもらった。売店と気象台に話を聞いて、季節物の短信
にした」
これが最初の文節です。お気づきでしょうか、入社研修の春って、いつのこ とか伏せています。が、それが、やはり次の段落で明らかにすることで、より 効果的な時間軸の設定に成功しています。
「翌朝の地域版を見て、自分の文章に羽が生えた気分になった。パソコンも ネットもない28年前である。手書きが活字になり、読者のもとに飛んでいく感 覚は格別だ。この思いにプロもアマもない。自分史や随筆を、知らぬ人に読ん でもらいたい気持ちはわかる」
と、続けて、これは自費出版で急成長した新風舎の経営問題に話をつなげて いくのですが、これら2つの文節はいわばこのコラムの導入部、イントロ、枕 にあたります。上手いですね。新米記者が書いた最初の原稿、それが新聞に掲 載された時の感激を初々しく描いています。
ほんと、それは実感ですね、格別なものです。僕の場合、東京本社社会部に 転勤になったその夜の取材が、西麻布交差点で深夜行列ができるソフトクリー ム店「HOBSONS」でした。黒塗りのハイヤーで行くんです。カメラは、同行の 写真部の記者が撮るという。それらが全部、驚きでした。新聞が刷り上がるま で眠られませんでしたね、だから記者は3日やったら辞められない、という。 がそんなもん、もう昔のことで、近年は、すぐに辞めちゃうというのだからや りきれません。
例えば、もうひとつ、愛読のコラムは、毎週火曜日に朝日新聞の文化欄に掲 載されるノンフィクション作家の沢木耕太郎さんの映画を題材にしたショート ストーリー「銀の街から」で、これは単なる映画評でないところが魅力なので すが、昨日8日のコラムは、久しぶりに心が躍りました。
取り上げられた映画の題名が「今夜、列車は走る」。12日から、東京・渋谷 のユーロ−スペースで封切りになり、大阪など各地で順次公開される、という。
沢木さんは、こう締めくくっていました。
〜この「今夜、列車は走る」という邦題は、原題の「次の出口」より、はる
かに詩的で美しい。実際、最後に「列車」が走り出した瞬間、私も登場人物た
ちと同じように虚を突かれて茫然とし、次の瞬間、心を激しく揺り動かされた
ものだった。たとえ、それが一夜かぎりのことだとわかっていても。」と。
時間は流れる。その流れにそって書く、ということに挑戦してみてはいかが でしょう。夜行列車に乗りました。数時間後、目的地に着きます。この一連の 時間軸をどのようにプロデュースするか、その列車の窓外を眺めているような 感覚に読み手を引きずり込めれば、大成功です。文章ひとつで、エキサイティ ングな時間を共有することができる、つまり文章は時間を超えられるのかもし れません。どうぞ、挑戦してみてください。
ところで、春の嵐で、あのサクラはどうなったのか。車窓から望むと、隅田 公園一帯のサクラは、それぞれ花は随分と散っていましたが、丸坊主ではなく、 ただうっすら淡い紅紫色に霞んで見えました。気になって、今朝浅草は吾妻橋 付近の隅田公園に立ち寄って"現場検証"してきました。
なんと、嵐で花が散ったというより、小枝から数本の茎ごと吹き飛ばされて いました。花は、枝先にはほとんど散ってなくなっていましたが、その紅紫に 見えたのは、サクラが散って残ったのがガクと赤茶色の十数本に及ぶオシベだ ったのです。それでもしがみつくように花を保っていたのは、幹に近い内側の サクラでした。寄らば大樹の陰は、サクラの世界にも見えました。散った夥し い数のサクラの花びらは、植え込みや石畳に重なるように身を寄せ合っていま した。